一
親愛なる夏目先生。
あなたを愛した木曜会は、平成のこの世の中にも受け継がれております。
時代を感じさせる白壁の洋館。校内にこんな場所があるなんて知らなかった。あたしは確かに心をときめかせながら中に入ったけれど、その一室は無機質なものだった。
スチール製の棚には本やファイルが溢れていたし、職員室と同じような机の上にはハサミやら筆やらで散らかって見える。
だけどあたしはその場から立ち去ることなんてできなかった。これから素敵なことが起きる予感がしたのだ。
そこには恐ろしく顔の整った男の人と、彼の前には黒いもやがかった本があった。
*
緊急事態発生である。
「部室をよこせぇ!?」
思わず叫んだあたしに、女バレ部部長は申し訳なさそうに言った。
「ずっとじゃないのよ? 運動部の部室棟の改修工事をやるって聞いたでしょ? どの部も空き教室に振り分けられたんだけど、うちって部員多いから社会資料室じゃちょっと狭くって……。文芸部にオッケーもらえたらいいって先生に言われたのよ。国語資料室なら隣だし、それに」
部長はそこで言葉を区切って、ちらりとあたしの方を見た。
その先に続く言葉をなんとなく予想できてしまった。もう何回も言われてきた言葉だ。
「文芸部って実質二人でしょ? 部室いらなくない?」
ごねても相手は先輩だ。一年のあたしに逆らう術はない。唸って粘ったけど、最終的には頷かされてしまった。
あたしはポケットからスマホを取り出した。
「ほのこ、また既読無視して……」
もう一人の部員・吉崎ほのこはたぶん教室でキーボードを打ってる。
確かにあたしに文才はないから部の活動に関してはほのこに任せるしかないけど、この部の存続の危機にあたし一人で対処するのは難しすぎる……。
文芸部、部の存続に必要な最低人数の部員三人。うち一人は掛け持ちだから実質二人。パソコン一つあれば活動できるから、あの部室は広すぎるといってもいいけどあまりに横暴だ。
ともかくは新しい部室を探さなきゃいけない。あたしは校内を当てもなく歩いていた。
春の終わりの風は暖かくて、ずっとこの季節が続けばいいのにと思ってしまう。あとひと月もしたらにっくき梅雨が来るんだ。くせ毛には天敵のあの季節……。
あたしは肩までのくせ毛をいじった。
足元の葉っぱが飛んでく先を目で追ったのは、無意識だった。あたしそのまま視線を上げる。その先にあったのは、古い洋館だった。そこまで大きくはない。せいぜい教室二つ分かな。少しくすんだ白壁の二階建ての建物がそこにはあった。
「そういえば図書館って校舎から離れてるって聞いたような……?」
うちの高校は古くて、図書館には結構歴史的価値のある本があるって担任が言ってた気がする。
辺りに人気はない。
「……部室候補?」
あたしは早速図書館へ向かった。
ブリキのドアノブを回すとき、ちょっと勇気がいった。誰かの家みたいなのだ。だけどドアを開けた先には、天井まで届く壁一面の本棚が広がっていた。ボルドーの絨毯が敷かれていて、靴を脱ぐスペースはないようだからこのまま入っていいんだろう。壁以外にもあたしの背丈くらいの本棚がいくつかあるけど、そこに人の気配はない。左奥のカウンターにも人の姿はない。
「司書の先生とかいないのかな?」
あたしは足を踏み入れた。右奥には階段があるから、もしかしたら司書の先生は二階にいるのかもしれない。あたしは上へと向かった。
二階はギャラリーのようになっていた。壁にいくつか絵や写真が飾られていて、やっぱり資料館なんだなぁと思った。
奥に扉が一つある。扉はちょっと開いていて、そこから声が聞こえてくる。やっぱり司書の先生はいるようだ。
あたしは扉に近付いた。
「……在るべき場所へと戻りたまえ」
その部屋には一人の男の人がいた。その男の人はテーブルに向かっていて、横顔が見えるけれどあたしには気づいていないようだ。
問題はテーブルに置かれた本である。なんとその本からは黒いもやのようなものが立ち上っていたのだ。
そのもやは、男の人が手にした本へと吸い込まれていく。
あまりに幻想的な光景に、あたしは思わず一歩下がった。そのときに扉に当たってカタンと音を立ててしまう。
男の人はばっと振り返った。
「……見たか?」
すごいイケメンだった。黒髪は無造作にセットされていて、一重の目はあたしの好きな俳優に似てる。背はあたしより頭一つ高いかな。
あたしがぼんやりしていると、その人はずんずん近付いてきた。
「おい、今のを見たかと聞いてる」
目の前に端整な顔立ちが迫って焦った。イケメンの直視は心臓に悪い。
「えっと、あの……」
「ちっ、見たのかよ。めんどうだな」
ん? 今舌打ちが聞こえたような気がしたけど気のせいかな……?
「なんでここにガキがいんだよ」
「はぁ!? ここは学校です! あなたの方が部外者なんじゃないんですか!?」
イメージ訂正。性悪イケメンだ。初対面でなんでガキ呼ばわりされないといけないの!
こんな若い人が司書なわけない。不審者なら先生に知らせないと……。
「おや、この時間に生徒が来るのは珍しいねぇ」
後ろから聞こえた声に、あたしは振り返った。そこには白髪混じりのおじいさんがいた。深いグリーンのセーターにベージュのパンツ、手にしているのは図書カード。もしかして。
「初めて利用する生徒さんかな? 席を外していてすまなかったね」
そう言って図書カードを差し出してくる。やっぱり司書の先生だ。
あたしは「どうも」と言ってバーコードの付いたカードを受け取った。
「じゃなくて! 不審者!」
性悪イケメンを指差してあたしは叫んだ。司書の先生はぱちぱちと目を瞬かせている。と思うと声を出して笑い始めた。
「おい、誰が不審者だ」
「確かに黙っていればかっこいいのに口を開くと残念だからね。ナツメ君は」
その言葉にあたしはさっと顔色を変えた。
「あなた……ナツメっていうの……?」
「そうだけど、年下のくせに人のこと呼び捨てすんなよ」
あたしはもう一度びしっと指差した。
「夏目先生と同じ名前だなんて許せない!」
また室内にしんとした空気が流れた。
「は?」
「まさか夏目漱石先生を知らない!?」
「いやそれは知ってるけど」
「あなたみたいな人が夏目先生と同じ名前を名乗るだなんて、おこがましいと思います!」
「いや知らんがな」
夏目先生はあたしの最愛の人。小学生のときに夏目先生に出会って以来、あたしは夏目先生のとりこなのだ。それをこんな人が同じ名前かと思うと腹が立ってきた。
「それなら『先生』と呼ぶのはどうだい?」
司書の先生はそういった。
「ナツメ君は本の修復士なんだ。いわば本のお医者さん。『先生』なら夏目漱石と関わりがないわけじゃないし、夏目漱石そのままでもない。先生と呼ぶのはどうかな?」
その提案になるほどと思う。たしかにそれならあたしもそこまで抵抗はない。
「でも、司書の先生はなんと呼んだらいいですか?」
「僕は司書じゃないよ。校舎の方に図書室ができたから、ここは資料館になったんだ。よく来る人やナツメ君なんかは館長って呼ぶよ」
「じゃあ、館長さんで」
あたしがそう言うと、館長さんはにっこり笑った。
「それで、先生はここでなにをしてたんですか?」
やっと本題に入れる。ここに来たそもそもの目的は違うけど、あたしはさっき見たものの正体が気になっていた。あれを知るまでは帰るに帰れない。
館長さんと先生は顔を見合わせた。
「話しちゃっていいんじゃないかい? 桜原さんはこれからよくここに来るようになるよ?」
先生が深いため息を吐く。あれ、あたし名前言ったっけ?
「言葉には魂が宿るって聞いたことがあるか? 言霊。あれは実在する。強すぎる想いには力が宿る。それが文字に移っちまったとき、言霊が生まれるんだ。言霊には良いもの悪いものがある。俺はそうした悪い言霊を封じているんだ」
先生は滔々と語る。一気に説明されて、私は混乱した。
「言霊って、声に宿るものだと思ってました」
「一般的にはそう言うな。まぁ俺が扱うのが文字に宿る言霊っつーだけだ」
つまりさっき見えた黒いもやみたいなやつが言霊なんだろう。ようやく腑に落ちた。
「でも良い悪いってどうやったら分かるんですか? あのもやじゃあ悪さはできなさそうですけど」
そう言った瞬間、先生がすごい目であたしを見てきた。え、なに? あたしなにか変なこと言った?
「お前、あれが見えたのか?」
「は?」
変なことを聞く。いま言霊の説明をしたのは先生じゃないか。
「桜原さん、言霊は普通の人には見えないものなんだよ。霊感と似たようなもので、現に僕はナツメ君がなにをやってるかよく分かっていない」
「そうなんですか? じゃあ、なんであたしには見えるんですか?」
あたしはドキドキしながら聞いてみた。だってこんなの、まるで小説のようだ。
「恐らく言霊使いとしての素質があるんだろうねぇ」
やっぱり! 霊感とかがあるなんて今まで思ったことないけど、まさかそんな才能があったなんて!
「お前、毎週木曜にここに来い」
唐突に先生が言った。
「最近この学校の本に言霊が憑くことが増えている。お前はそれを調べて報告しろ」
おぉ! なんだか妖怪退治モノっぽくなってきた!
「でもなんで木曜日なんですか?」
「それは俺が木曜にしか来れないからだ」
「ふーん。なら木曜会ですね!」
先生は一瞬ぽかんとする。あれ、伝わらなかったかな……?
すると先生は笑い出した。
「お前ほんと夏目漱石バカなんだな。木曜会知ってるやつなんて初めて見たぞ」
漱石関連の文献を漁って、結構な頻度で出てきた木曜会。それは夏目漱石を愛した弟子達による集まりだった。木曜日に集まったから木曜会。あたし達にぴったりだと思ったんだ。
でもあたしはそんなことより先生の顔に釘付けだった。先生、そんな顔もできるんじゃん。
なんて見惚れたわけじゃない! なにせナツメという名前なんだ。いじわるなことも言われた。
だけど言霊使いと本の修復士ってところは評価してもいい。決して笑顔が素敵だったとかじゃないから!
「あぁそうだ。別に木曜以外は来ちゃ駄目だということじゃないからね、文芸部員さん」
思い出したかのように言う館長さんに、あたしは目を丸くした。
「なんで知ってるんですか!?」
「顧問の先生に頼まれたんだよ。部室が使えなくなったから面倒を見てやってほしいって」
なるほど、それで館長さんはあたしの名前を知ってたんだ。それにしても先生もそうならそうと教えてくれればいいのに……。
「ならこれからよろしくお願いします!」
素敵な洋館に、天井まで届く本棚。それから言霊使い。
これから始まるであろう日々に、あたしの胸は踊った。