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Style Coodinater ②  作者:
1/1

人間嫌いの販売員

〔5〕


 長い二週間を終え、吉秋が店に戻ると、桐原は早々と彼を呼び付けて、喫煙所へと誘い、ミーティングをやると言いだした。

 店を北野と花岡に任せている為、約一時間はゆっくり話ができる状況である。

 彼がこの二週間の体験談を桐原に報告している間、彼はずっと愛用のマルボロを吹かせていた。吉秋は煙草を吸わないので、彼の吐き出した副流煙に聊かイライラしながらの報告であった。

 何もこんな場所でミーティングをしなくても。

 そんな彼の心中とは裏腹に、桐原の他に喫煙所を利用している従業員達も容赦なく煙を吐いていた。

「――んで、貴方はこれからどんな販売をしていくつもりだ? 四月からは客数も増える。取り溢したら、店の売上大幅減だ」

 言いながら、桐原は徐にポケットから財布を取り出し、福沢諭吉が印刷された札を十枚吉秋に手渡した。

「うわっ、現生ですか?」

「振込は面倒だ。ちゃんと二週間分の給料払ってるんだから、店に貢献してもらわないとな」

 桐原はそう言って、口元に不気味な弧を描いた。

 吉秋は寒気を感じたが、決して顔には出さなかった。

「すぐには売れないかもしれませんが、なんとかやってみます」

「貴方は四月から店の二番手だ。期待している――ところで……」

 桐原は何やらクリアファイルからA4サイズの用紙を取り出した。どうやら何かの資料のようだ。彼はテーブルの上で、それらの資料を吉秋に提示する。吉秋は怪訝に眉を潜めた。

「何ですか? これ?」

「見て分かるだろ。他店の担当者別売上日報だ」

「え……」

「これは三年前の四月度「Metamorphose」梅田店での売上日報――かつての俺はここの店長だったが、あるアルバイト店員にその座を乗っ取られて、ここに来た。あんなに悔しい想いを味わったのは久し振りの事でな……」

 桐原は何かを思い出しながら訥々と語り始めた。

「何があったんです?」

「資料を分からないか?」

 吉秋はテーブルの上の資料に目をやる。


(Metamorphose梅田店 担当者別売上日報)


     担当者  売上数量 売上金額

961××1 桐原 司  565 ¥4,656,584

471××9 南野 涼  906 ¥10,008,952

471××8 小谷 勇人 53  ¥239,865

470××4 小林 準  40  ¥226,508

460××6 森村 将  235 ¥1,655,527  



「こ、これは……」

 吉秋は震撼した。

「入社してまだ半年のバイトだぞ」


――には上がいるんだよ。――たとえば、み……

 あの時、桐原が言おうとしたみ――はこの記録を作ったという男の事なのだろう。

「信じられない……桐原店長が、こんなに差をつけられるなんて」

「涼は半年で梅田店の店長に上り詰めた。異例のスピード出世をした男だ。それを機に俺は居場所を失い、ここに異動してきた。上には上がいるというのは、こういう事だ。月に一千万だぞ、信じられるか」

 桐原はどこか悔しそうにしていた。

 よく見ると彼が銜えている煙草は微かに震えていたのだった。

 桐原に倍以上の差を付けた圧倒的な売上――

 吉秋は自分の手が震えていることに気づいた。

「売上こそが全て……」

「――そういう事だ。月に一千万売った涼は、会社でも伝説の記録を作った男として称賛され、一役有名人になった。それが、異例のスピード出世に繋がったんだ。奴にはファンが多くてな、暇な二月であろうとも、毎日ファンの接客に勤しんでいたよ」

 吉秋は言葉を失う。

「言ったはずだ。俺なんて小さな目標追ってないで、もっと上を見ろとな。これが販売だ。数字こそが販売の全てだ。バイトであろうが、社員であろうが、客からしたらそんなの関係ないんだよ。売ったもんが偉い。売った人間が称賛され、負けた人間はまた別の店舗で店長として一から顧客作りに励んでいく。ただその繰り返しだ。上の勝手な考えで全国のあちこちに飛ばされている人間は俺だけでなく何人もいる」

「数字だけが真実ということですか……」

「そうだ。接客が上手いとか、下手どかそんなのどうだって良い。数字さえ取れてたらそれでいいんだ。そこにどんな奇麗事も美学も、感情も要らない。吉秋、貴方は売れない原因を自分の接客が下手だとか、アプローチタイミングが下手で客と上手くコミュニケーションが取れないからとか、色んな何癖をつけようとしている。だが、その考え方そのものを改めて欲しい」

「改めるって?」

「貴方にこの二週間休みを与え、街に出て貰い、接客を受けさせた事には意味がある。一つ訊くが、この二週間で貴方の心に何か変化はあったか? この人の接客を盗みたい。こういうセールストークを取り入れようだとか、色んな感情を抱いたに違いはない。だが、結局貴方が最終的に思ったのは――こんなセールス、自分には出来ない――では無かったか?」

 正解だった。

 吉秋が抱いたのは桐原が言った感情に違いない。

 自分にはボビーの様な斬新な接客も出来なければ、北野の様に楽しげに客をもてなす事も出来ない。学生の花岡の様に生き生きとしたテンションの高い接客も出来なければ、織原のように男性客の心を惹きつける事もできやしない。

 結局、吉秋は二週間もの間、色んな販売員達から接客を受けたが、得られたものはほとんど皆無に等しかった。

 明るく楽しそうに、煌びやかな笑顔をしている店員達の姿を見て、吉秋は自信を失うばかりだったのだ。

 根暗で無愛想で人嫌いな自分には絶対無理だと。

「桐原店長の言うとおりです。正直、僕には彼らの接客をマネすることは出来ないと思いました」

 吉秋は落胆した。

「そうか――だが、それでいい。貴方にはその事に気付いて欲しかっただけだった」

 ここで吉秋は へ ? と間抜けな声を出した。

「貴方が抱いた感情は正解だって言ってるんだ。――貴方は誰の接客もマネしなくていいんだよ。言っている意味分かるか?」

 分からないです――

 吉秋は即答した。

「どういう意味かはっきり言ってください」

「じゃあ、一つ訊ねるが、貴方の名前は何?」

「へ――み、御影吉秋です」

「そう、それが真実だ」

「はぁ?」

 桐原は、煙草の煙を吉秋の顔面に吹きかけて、

 わかんねぇ奴だな――と苛立たしげに声を上げた。

「貴方はこの世界に一人しかいないっていう意味だ。貴方は誰の接客も真似できないんだよ。よく考えてみろ。ここの従業員達の事を。北野、花岡、そして織原、御影吉秋――確かに働いている職場は同じかもしれない。しかし、それぞれ幼い頃から育った環境は全く違う。故にそれぞれ考え方や、人との接し方が違ってて当たり前なんだよ。だから人が他人の真似なんて出来るわけがないんだ。だが、貴方は、それをやろうとしてた。それに気づかせる為に、俺は貴方に二週間の休みをやった。――ただそれだけだ」

「ただ、それだけって……」

 桐原の意見は的を得ているような気がした。

 子は親を選べない。

 生まれ育った環境だって選べない。

 全ての人間は神様に運命づけられている。

 吉秋も好きでこんな性格になったわけでもない。

「貴方には貴方にしか出来ないスタイルがあると思っている。無論、こんな事、あの二人には言ってなかったがな……。分かってると思ってたんだ。ずっと、ずっとな」

 あの二人とは、織原と祥子の事だろう。

「貴方は、自分の強みを忍耐力だと言った。しかし、そんなものは必要ないと俺は考えている。忍耐力って、要するに忍びながら耐えるって意味だろ。そんなの、俺には出来そうもない。嫌なものは嫌。好きな事は好き。やりたいから、やる。やりたくないからやらない。貴方だって、周りがどんな反応を示そうとも、小説を書きたいから書いてきたんじゃないのか?」

「そうです。僕は書きたかったから書いていました」

「その心だけでいいんだ。吉秋、貴方はこれから先、どうしたいんだ? 南野の数字を見てどう思った?」

 吉秋は再び資料に目をやる。

 桐原の提示した信じられない数字。

 吉秋は自らの手を見つめる。

 震えていた。

「ぼ、僕もこんな風に売ってみたいです――」

 吉秋の震えは、怯えでもなければ恐怖でもない。 

 武者震いというものを吉秋はこのときはじめて本当に存在するものと知った。

 桐原は鼻で笑った。

「貴方には世界に一つしかない接客販売を目指して欲しい。ナンバーワンではなくオンリーワン。北野や花岡の真似なんかしてる暇があったら、もっと客に自分の存在を売りこんでみろ。貴方が売るのは服ではなく、自分。自分自身を売り込むのも、販売業にとっては大事なことだ」 

 自分の存在など正当化したことなど無かった。

 自らの夢を追いかけるばかりに集中しすぎて、いつの間にか社会に置いていかれ、友人達に差を付けられていた。

 学生時代の友人達は今頃、定職にも就いて楽しくやっているだろうに。それだというのに、彼は駆け出しの販売員を今から始めようとしている。

 だが、友人達が社会で、必死になって仕事に励んでいる間、彼自身もかけがえのないものを磨き続けてきた。 

 それは個性。

 人間性。

「客にいいツラして商品売って、それで貴方は満足か? 楽しいのか? 違うだろ。接客は結局人と人との駆け引きなんだよ。格好つける必要もない。上手くなる必要だってない。ただ貴方自身を受け入れてくれる、信頼してくれる、顧客を作っていくんだ。それだけで、売上はドンっと伸びてるから」

「自分らしく……ですね」

「そうだ。よし、これでミーティングは終わり。戻るぞ」

 桐原は立ち上がり、喫煙所を出る。

 吉秋はその後を追いかける。


 店に戻ると、北野と花岡が、吉秋の姿を見て、急ぎ足で駆け行った。

「吉秋さん! どこ行ってたんですか?! もう吉秋さんまで辞めちゃったと思いましたよ」

 花岡は心配そうに訊ねた。

「ヨシさん。どこか旅行にも行ってたんすか?」 

「いやまぁ、ちょっと色々あってね……」

 吉秋は事情を説明すると、二人は、声を揃えて、

「給料貰ってるのに、遊びに行くなんてせこい!」  と憤った。

 二人の活火山を緩和する術はないのか。面倒になった吉秋が溜息を零した後、辺りをキョロキョロと見渡していると、店内に見覚えがある客の姿があった。

「あっ! ゲンさんだ! ちょっと僕接客行ってくるよ」

「へ?」 北野と花岡は再び声を揃えた。

 吉秋は二人を素気なく相手すると、急ぎ足でゲンさんに話しかけ、素早く彼のニーズを確認した。

「久し振りだね」

 ゲンさんは柔和に表情を綻ばせ、挨拶した。

 吉秋は、なんだか――

 売れる気がした。


(5月度 個人売上日報)


     担当者   売上数量 売上金額

961××1 桐原 司  560 ¥5,657,658

472××5 花岡 智樹 126 ¥1,025,868

473××4 御影 吉秋 95  ¥689,568

474××8 北野 忠助 134 ¥1,092,941  


X    X

 

 梅雨も明けて、季節は本格的な夏を迎えた。夜になると、辺りに蛙の鳴き声が響きわたっていた。ショッピングモールの周りに田圃が多いからだろうか。横風は時折、緑や土の香りを運び、涼しくそしてどこか優しかった。

 七月二十四日。

 仕事が終わった吉秋はこの日もいつものように、従業員駐車場へと歩いてた。

 今日の売上は、なかなかのもので、一日で七万円販売するといった高記録である。それでも、北野や花岡には勝てなかったのだが。

 毎日が、販売の繰り返しだった。 

 いつものように仕事して、車で家に帰って、寝て、その繰り返しだった。

 

 しかし、この日だけはいつもと違った。

「あれ、靴紐が……」

 タイガーロープで仕切られた駐車場。軽自動車に乗ろうとしていた彼は、自分の履いているシューズの靴紐が切れていることに気がついた。

「家に帰って、交換しなきゃな」

 独り言を漏らして車に乗り込むと、彼はいつもの通勤路に車を走らせた。

 

 いつも通りの毎日。


 いつもとなんら変わらぬ日常。


 いつも通りのとある交差点。


 彼はいつも通り、右の指示器を出して、交差点に入った。

 

 そして、右にハンドルを切った時、


 彼は右前方から、直進してくる自動車に気づかなかった。


 左から眩しい光が視界に入った瞬間――


 凄まじい衝撃音が交差点に響いた。






























終わらせない。絶対に――




















神様っているのか。

いないのなら、今僕が話しているのは誰だ?

真っ黒な世界で、僕は誰かに話しかけれている。


《生きたいか?》


――死にたくない。


《何故だ。世の中には人間が腐るほどいる。一人ぐらい死んでも何の問題もない》


――そんなの嫌だ。


《それはエゴだな。よく考えてみろ。生き還ったところで、お前がやる事なんて何もないだろう》


――ある。


《何だ? 言ってみろ》


――まだ僕は何もしてないから、誰の役にも立ったことがないから、生きたいんだ。


《笑わせてくれる。役に立たない人間など、死ねばいいではないか。その方が世の中の為だ》


――いやだ。


《お前が死ぬか、生きるかを決めるのはお前ではなく、私だ。お前に生きる価値があるかどうかは私が決める。お前に何が出来る?》


――僕には、幸せにしたい人がいる。彼女との未来がある。自分の夢ばっかりを優先して家族にも迷惑を掛けてばっかりで……僕は、まだ何もしてないから、皆に恩返しをしたいんだ。しっかりとした職に就いて、皆を――皆を幸せにしたいんだ。


《そう考えているのはお前だけではない。皆、様々な未練を残したまま、死んでいくんだ。そんな理由で生き還れると思うのか?》


――じゃあ、僕はこれから人のためになることをする。今までは自分の事ばかり優先してきたけど、これからは違う……販売員として、多くの人の役に立つ。多くの人の役に立って、皆を幸せにしてやる。それでどうだ?


《ほう、面白い事をいう》


――もし、生き還って、僕が社会の何の役にも立っていなかったとしたら、死神でも何でも連れて来て、もう一度僕を殺すといい。それでどうだ?


《契約か》


――約束だ。


《……》


――おい。何か言ったらどうだ?


《……》


――おい、おいってば!


《……》





















〔6〕


「――あき、よ……あき。よしあき!」


 咲奈の声がした。ゆっくりと目を開けると、吉秋は見覚えのない部屋の中にいた。おもむろに辺りを見渡す。なんだか視界がぼやけていてはっきりとは確認できないが、その場所は個室病棟らしく、咲奈の他は誰もいない。

 部屋の中にはテレビが一台。ベッド。それに冷蔵庫が一つ。

 吉秋はベッドから起き上がろうとした。

「まだ、起きあがっちゃ駄目。凄い怪我なんだよ」

 咲奈は吉秋の胸元を抑えてゆっくり彼をベッドへ寝かせた。

 酸素チューブ。尿管、点滴に繋がれ、吉秋は思うように身動きが取れない。現状をを把握できない彼に咲奈は訥々と話しを始めた。

「お父さんとお母さんはさっき帰ったみたい。それで私が残ることになったの。二人とも気を使ってくれたみたい」

 吉秋は虚ろな視線を漂わせ、咲奈の顔を眺めていた。

「僕はもしかして事故ったのか? 車を運転してたとこまでしか覚えてない」

「カレンダーを見てみて」

 吉秋が部屋の窓脇に置かれた日めくりカレンダーに目をやると、七月二十八日になっていた。

「どのくらい眠ってた?」

「四日ぐらい」

 咲奈の話によると、吉秋は七月二十四日の仕事帰りの夜、右折しようとして交差点に入った彼の車に、信号無視の直進車が衝突したのだった。

 衝突の衝撃で彼の車は吹き飛ばされ、そして大怪我を負ったという。

 吉秋は、苦渋に顔を歪め、自分の置かれている状況を確認しようとした。

 あばらの骨が痛い。

 右足のひざからも微かに痛みを感じる。

 あとは――

「鏡見てみる?」

 咲奈は鞄の中から手鏡を取り出して彼に渡した。

 吉秋は鏡の中に映る自分を見て、言葉を喪失する。

 目の前にいたのは、左目に眼帯をして、左頬骨辺りの皮膚に深い傷跡が残っている見た事も無い自分だった。赤色の傷痕は十文字になっていて、裂傷跡として痛々しく残っていた。

 吉秋が恐る恐る眼帯を取る。

 彼の心臓は大きく高鳴った。

 紅く腫れあがった眼球。ヴァンパイアの様に真紅色に染まっている。瞳孔は焦点が定まっていないのかおかしな方向に向いて居て、なんだか薄気味悪い。眼尻にはうっすらと手術痕だろうか、切り傷のようなものが残っていて、夥しい量の眼やにが生じていた。

「なんで……? どうして……」

 吉秋は誰にでもなく訊ねた。 

 自分じゃない誰かが鏡の中に存在したのだ。

「吉秋、泣いていいよ。私はもう十分泣いたから」

 咲奈は小さく呟くと、彼の手をしっかりと握った。

 左眼窩底骨折。

 左頬骨骨折。右肋骨骨折。及び裂傷。右ひざ裂傷。

 それが彼の負った傷だった。

「助かっただけ奇跡だって、主治医の先生が言ってた。運びこまれた時には血液の三分の一を失った状態で本当に危なかったって」

「そんな……僕がまさか……」

「輸血した後、吉秋はそのまましばらくICUにいて、家族以外の面会は拒絶だった。ほんとに、どれだけ心配したか」

 そう言って彼女は彼の握っている手に力を込めた。

「僕の顔――ひどいね」

 咲奈は首を横に振る。

「生きてただけでも良かった……吉秋の車、無茶苦茶だったよ。相手の人は、大型の車に乗ってたみたいだから、大した怪我は無かったみたいだけど」

「そうなのか……」

「眼、見える?」

 吉秋は横たわったまま、自分の少しだけ痩せた手の甲を部屋の照明にかざした。

「手の甲が二つに見える」

「先生が言ってたけど、手術後、二週間前後はしばらく複視っていうモノが二重に見える症状が続くみたい。手術の際に眼の筋肉を操作したから、すぐには元に戻らないって。でも大丈夫きっとよくなるから」

 吉秋は思った。

 咲奈は嘘が下手くそだと。

 吉秋の視界には咲奈の顔が二つある。

 はっきりとは見えないが、咲奈の目は赤くなっていて、泣いているような気がした。

「顔の傷は治るのかな」

「それは……」

「はっきり言ってくれよ。その方が気が楽だ」

 咲奈は重い口を開いた。

「あの、うん、先生がね、半年もすれば薄くはなるだろうって言ってた。眼尻を切った傷だって時間が経つに連れて目立たなくなるって」

「そうか……」

「きっと、大丈夫だよ。大した事ないって。ここは大学病院だし、最高の医者が揃ってるから手術も上手くいっているよ。心配ないよ」

「あっ、店は……?」

「吉秋のお母さんが連絡してくれてるから大丈夫だって。店の皆、すごい心配してたよ」

「咲奈……あのさ、五分だけ一人にしてくれないか?」

 吉秋は虚空を見据えながら小さな声で訊ねた。咲奈は悄然とした顔で頷き、病室を出た後、待ち合い席のソファーに腰を下ろす。彼女は五分の間、ただ無言で腕時計の針を見つめていた。


X    X

 

 七日後。

「咲奈。僕さ、これを機に店を辞めようって思ってるんだ」

 吉秋は抗生物質が入った点滴の滴っている情景をじっと見ながら何気なく呟いた。毎日が退屈で、朝は六時半に起きて何をするでもなく、ぼーっとして、朝食が運ばれてきて、何もすることがないので、親が家から持ってきた文庫本を開いたはいいが、複視のせいで活字が全く読めない。そうこうしているうちに昼食が運ばれてくる。テレビをぼんやりと見ている時間が長くなるにつれて、彼は現実世界から遠のいていく感覚に見舞われていったのだった。全く身体が疲れていない環境に置かれているにも関わらず、夜ご飯を食べて、何もしないまま眠る。規則正しい生活ではあるが、彼にとっては非常な生活だった。

「辞める?」

「うん、こんな傷痕が残った顔じゃ、接客販売なんてできないよ。お客さん恐がっちゃうだろ?」

 それは吉秋が一人の時間に考えた結論だった。

 毎日のように鏡の中の自分と相談した結果なのだ。

 左頬に残った痛々しい傷を見て、普通の顔と言う人など皆無に等しいだろう。

「でも、まだどうなるか分からないじゃない。先生の言う通り、本当に薄くなっていくかもしれないし、目立たなくなるよ。きっと……」

 きっと――彼女の言葉には自信が感じられなかった。

 彼女の思いやりなのだろうか。

 吉秋は窓に目をやる。

 窓の外には綺麗な町並みやらが建ち並んでいるのだろうが、彼の視界にはなんだかぼやっとした霧がかかっていて、町並みが二重に重なって見える。

 ベッドの上のテーブルには缶コーヒーが二本置いてある。

「あれ、何で二本もあるんだ。看護婦さん間違えたのかな? 咲奈、コーヒー一本あげるよ」

 吉秋が言うと、咲奈はぐっと言葉を押し込み、しばらく重い空気が流れた。

「吉秋、コーヒーは一本しかないよ……」

「えっ?」

 吉秋は大きく目を見開いた。

 あぁ、そうか。 

 複視だった。

 これも二重に見えただけか。

「あっ、そっか。そうだよな。そうか、そうか」

「うん、そうだよ」

 吉秋は、ゆっくりと缶コーヒーを握り、フタの場所をきちんと確認しながら開けた。何もかもが二重に見えるので、缶コーヒー一つを開けるのにも苦労した。

 ずっとこのままなのだろうか。

 いや、そんなことはない。

 二つの相反する意見が彼の中で虚しく衝突する。

「しばらくはお店の事なんて考えなくていいと思うよ。今は体治す事の方が大事なんだしさ」

 彼女の言うとおりだった。

 吉秋はコーヒーを一口啜った後、虚ろな目をテレビに向ける。テレビの中ではタモリさんが、テレフォンショッキングで知らない芸能人と話をしているのだろうが、なんだか視界がはっきりしなかった。

「――ずっと夢を見てたんだ」

「夢?」

「うん、何か夢の中で誰かと話してた」

「不思議な体験したね。もしかして臨死体験とかかな。死の渕に立たされた人がよく体験するあれ――吉秋、一時は本当に危ない状態だったから」

 どうなのだろうか。

「そうなのかな……でもさ、誰かに言われたんだ。《生きたいのか?》って」

「何て答えたの?」

「勿論、死にたくないって答えた。人間ってさ、本当に矛盾してるよね。生きてていざ辛い現状に挫折すると死にたいって考えるのに、いざ死にかけて見ると、生きたいって願うんだ。本当に勝手だよ」

「そうね。でもそれが人間の本質かも」

 咲奈はおもむろに立ち上がり、窓際に立った。

「本質――か」

「うん、ねぇ、吉秋が話した誰かって神様かもしれないね?」

「神様?」 吉秋はオウム返しした。

「吉秋はきっと神様に試されたのよ。貴方が生きる価値のある人なのか。きっと、きっとね」

 何を言い出すのだ。吉秋は唐突に不思議なことを言う彼女を訝った。

「神様なんているはずないだろ。いたら人類皆平等。家族同然だ」

 今思えば、ボビーは神様っていうのを信じていたのだろうか? だから彼はあれほど人になれなれしく出来たのかもしれない。

「じゃあ、貴方が意識が無い状態で話をしていたのは誰? しかも貴方はそれをはっきりと覚えている」

「そ、それは」

 言われてみればそうだ。意識が無かった状態で見たあの夢。夢の中で誰かと対話していたことを吉秋ははっきりと覚えていた。

「吉秋――人はね、皆繋がっているんだと思うよ。人の縁っていうのは、神様が作っている。神のお手配によって、人と人は出逢うべき場所で出逢うの、私と貴方のように――なんて言ってみたりして」

 咲奈は、少し照れくさそうに頬を紅葉色に染めた。

 確かに吉秋と咲奈は本来全くの異業種。偶然か必然かは分からぬが、どうしたものか、二人は出会っていた。

「繋がっているか……そうかもな」

「そうだよ。それに、私、祈ったもん。吉秋が死なないようにって。だって、まだやりたい事たくさんあるんじゃないの? 二十代なんだし、死んじゃったら勿体ないよ」

「やりたいことか、あるといえば、あるが……」

「神様はね、私利私欲の為に生きている人の味方には絶対にならないと思うの。自分の事しか考えなくて、悪い事ばっかりしている人には天罰が降りる。神様は現世にそういう人間を残したくないのよ。きっとね」

「僕は生きてる……」

「そう、だから貴方はまだ殺しちゃいけないって、神様が考えたのよ。この人を殺しては勿体ないって考えたのかもね。生かしておいてまだ役に立つんじゃないかって、神目線で言うのもなんだけどね――でもその方がなんだか嬉しいじゃない」

「そんな馬鹿な話があるか」

「あるわよ。現に吉秋はこうして生きている。あんな大事故だったのにも関わらず」

 咲奈は言ってにっこりとほほ笑んでいる。吉秋の視界には二人の咲奈が居たので、なんだか妙に説得力があった。

「咲奈――僕さ、幸せにしたい人達がいるって、神様に言ったんだ」

「うん? それって誰?」

「お客さんかな」

「お客さんだけ?」

「あとは秘密」

「ケチ」

 咲奈は不機嫌になった。


X    X

 

 あっという間に時が過ぎ、吉秋が入院してから、一カ月が過ぎようとしていた。

「あっ、しっかり手すり掴んでて。転んじゃうから!」

 看護婦の付き添いで吉秋は歩行訓練に励んでいた。傷が少しずつひいて、尿管や点滴が外れたので、吉秋を担当している看護婦の申し出で、彼はこの日歩行訓練をする事になったが、病室から少し離れたトイレに行くのや、シャワーに行くのもひと苦労なので、トイレに行く時はいつもナースコールで看護婦を呼ぶ事になっている。

 吉秋の足は、一カ月の間全く可動していなかったので、正しく棒の様に言う事をきかなかった。

「歩くのって、こんなに難しいんだね」

「そうなんですよ。ここで入院している患者さんは皆そう言います」

 二十代ぐらいの看護婦はそう言って、吉秋が転ばないように肩を貸した。少しでもバランスを崩すと転びそうになるのだ。

 吉秋は廊下の手すりをしっかりと握った。

 吉秋は個室に入院しているので、話し相手と言えば、たまに来る主治医の先生と、看護婦ぐらいなもので、彼はこうやって、訓練の間に少しだけ彼女と話すのが日課になっていた。

「ほら、もうちょっとですよ」

 後五メートルほどでトイレに着く。

 吉秋はまるで高齢者のような足取りで、残りの五メートルを歩ききった。

 トイレを済ますと、看護婦を再び呼んで、彼女のサポートを頼りに病室に戻る。吉秋は時折こんな自分を情けなく思う。まだ二十代だというのに、自分で歩くのもままならないなんて。

「どうしたんですか? なんか元気ないですね」

 看護婦が訊ねた。

「え、あ、あぁ――ちょっと店の事考えてて。今頃皆どうしてるかなって?」

「店? 何の店ですか?」

「僕、服屋の店員なんですよ」

「そうなんですね。なんて言う店なんです? こう見えて私も前に服屋の店員してたんですよ」

「奇遇だね。因みに働いている店は『Metamorphose』 って言うんだ」

 その瞬間、看護婦は吉秋を支えている手を放した。

 急に腕を掴まれている感覚が無くなったので、彼が後ろを振り向くと、看護婦はその場で立ち尽くしたまま、驚いたように目を大きく開いていた。

「あ、あの? どうかした?」 

「あ、い、いえ……何でも」

 再び看護婦は吉秋の腕を掴み、病室への廊下を歩き始める。一体どうしたのだろうか。吉秋はなんだか怪訝に思い、おもむろに彼女の様子を観察する。

 真っ直ぐに伸びた黒い髪。くっきりとした二重瞼。茶褐色の瞳孔。頬にはうっすらとニキビ跡が残っている。華奢な体躯に整った腰元のライン。彼女はどちらかというと美人というジャンルに入るのだろうか。そして彼が彼女の手頸に目をやった瞬間――

 彼の心臓は大きく高鳴った。

 彼女の手頸にはうっすらと赤い傷跡が残っていた。

 それは紛れもなくリストカットの痕跡である。

 彼女の胸元に掛けられたタグには、名前がはっきりと記されていた。

――研修生――斉藤 祥子――

「祥ちゃん……?」

「え?」

 時間が止まった。

 看護婦は自らの手頸と、吉秋の顔を交互に見据えて、何かを考えるかのように沈黙している。

「あ、いや、あの」

「もしかして、綾ちゃんに――何か聞きました?」

 吉秋が挙動不審な態度を取ると、看護婦は確信したように言った。

「いや、あの――」

「いいですよ、もう過去の事ですから。この前、綾ちゃんと連絡取って、彼女も――店辞めるって言ってましたから、きっとまた何かあったんだと気付いてました。でも驚きました。「Metamorphose」の従業員とこんなところで会うなんて」

「はは、ほんとそうだね」 

 彼女の心の傷はもう癒えているのだろうか。

 何も知らない吉秋は彼女と何を話すべきが戸惑った。桐原の事。リストカットの事。自分自身を嫌いになり、鬱寸前まで自分を追い詰め、店を辞めた彼女に何を――吉秋の困惑を見透かすかのように祥子は口を開いた。

「私、一時期ほんとにやばかったんです。桐原店長に結構色んな事言われて、精神的に崩壊寸前で、それでも接客業を辞めたくなくて、モチベーションが上がってないのに、お客さんに声掛けてフラれまくって、ますます自分の事嫌いになって、しまいにはこれ」

 祥子は手頸の傷痕を彼に見せる。

「リストカット」

「それも聞いてたんですよね。それで私の事――『祥ちゃん』って――そんな呼び方するの、綾ちゃんや忠助くんだけだったから」

 しかし、どうして彼女がここにいるのだろう。

 吉秋にはそれが不可解だった。

「あの、何でここに?」

「私、リストカットが辞められなくて、精神科に通ってたんです。そこで心のリハビリを受けて、その時に看護婦さん達と仲良くなって、色んな話をしていくうちに私の心は癒えていった――それで私もその人達みたく、人を救う仕事がしたくて、看護学校に通い始めたんです。――今はその研修中なんですよ」

「そうだったんだ」

 合点がいった。

「あの、吉秋さん――綾ちゃん、もしかして桐原店長と何かトラブルがあって辞めたんですか?」

「あっ、うん、そうみたい。何か前々から仲が悪かったみたいで。でも大丈夫、精神科通うほど追い詰められては無かったみたいだから。でも、接客が嫌だとは言ってたかな」 

「――やっぱりそうだったんですね。かつての私のように、桐原店長が彼女に色々言ったんだって思ってました。本当に酷い」

 酷い――

 やはり、祥子は桐原を軽蔑している。

 しかし、桐原は織原と祥子を良い販売員にしたかったという無念にも思える事を以前話していたか。三人がもっと意志が通じあっていたならば、二人は未だに販売員を続けていたのかもしれない。

「でも、祥子さんは今の仕事が楽しいんでしょ。良かったね」

「はい、そうですね――ところで、吉秋さんの方はどうなんですか? 桐原店長と上手くやれてるんですか?」

「うっ……」

 言葉に詰まった。

 上手くやれてると言えばやれてるが、どうだっただろうか。そういえば、事故を起こして入院してから、すっかり桐原の事を忘れていた。

 そういえば、この間二週間の休みを貰って、街に接客を学びに行くという変わった指示を受けた事もあったか。それだけではなく、売上が取れなかった時はバックルームに呼び出され説教されるなんて事もあったが、それは上手くやれてるというのだろうか。

「吉秋さんも、酷い事されてるんですか?」

「い、いや、楽しくやってるよ。全然売れてないけど」

 嫌な事を思い出した。

 五月度と、六月度の個人売上実績が店で最下位だったことを。副店長という立場であるにも関わらず。

「え、そうなんですか。あの桐原店長と上手くやれてる……それ凄いですよ」

 何が凄いのだろうか。

 吉秋は今更ウソだとは言えなかった。

「凄いって、全然だよ。店長代行なのに、売上も悪いし、急にこんな怪我なんかして、ほんと、ダメな男だ」

「何言ってるんですか。吉秋さんは被害者ですよ。店の事は気にしなくていいんですよ。忠助くんだっているんでしょ」

「あ――そうか。忠助は元『sea sound』の代行者だったけ。――なら大丈夫か」

「そうですよ。今は体を治すのが先です」

「そうだな」

「吉秋さん、それに販売業に携わっていた人間からのアドバイスですけど、あんまり売上を気にすると、余計に売れなくなっちゃいますよ。――私みたいに、ね」

「どうして?」

「だって、私もそうだったから。副店長だからって、桐原店長に変なプレッシャー掛けられて、売上気にしてたんですけど、売らなきゃいけないって表情と気迫がお客さんに伝わったみたいで、フラれる回数が凄かったですもん。いくら売上が取れなくても、お客さんを追いかけちゃ、余計に逃げられますよ。本当に。お客さんは追い掛けるものじゃなくて、引き寄せるんです」

「引き寄せる?」

「はい、お客さんと店員が楽しそうに服を探している情景――その情景を見て他のお客さんは引き寄せられるんです。販売員が楽しそうにしているのが一番なんですよ。でも売上ばっかり気にしてちゃ、全然楽しくないですよね。――簡単に言うとそういう事なんです」

 吉秋には全然簡単では無いように思えた。

「そういうものなのかな」

「そういうものです。ほら、病室帰りましょ」

 祥子に支えられて病室に戻る。

 部屋に戻ると、テレビが点けたままだった。。

「あ、しまった」

「駄目ですよ。テレビカードは一枚千円もするんですから、部屋出る時はきちんと消しとかないと」

「気をつけるよ」

 吉秋は、テレビを消す。

「あの、吉秋さんはもしかして、上を目指してるんですか?」

 祥子が訊ねた。

「うん、一応ステップアップは考えていたよ。――けど、もう辞めようと考えてて……顔にこんな傷痕残っちゃったし、お客さんびっくりしちゃうだろ」

 祥子の顔に一瞬の翳りが帯びた。

「そ、それは……」

「なんで、こんな事になっちゃったんだろう――って毎日考えるんだ。せっかく販売業で頑張っていこうって決めたのに。それなのに、こんな事に……」

 吉秋は徐に眼帯を外す。

 眩い閃光が視界に入る。

 両眼をしっかりと見開く。

 目の前には、祥子が二人いた。

「あの――吉秋さん?」

「まだ、ダメか」

「あっ、復視……まだ駄目なんですね」

「あぁ、でも眼球の腫れは少し引いたよ」

 吉秋の左眼球からは以前の赤みはほとんど消えていた。コントロールが不可能だった瞳孔も、少しずつだが、言う事を聞くようになってきている。

「先生が言ってましたけど、脳味噌と目を操作する眼筋は直結しているから、とにかくいろんなものを見ようとすることが一番のトレーニングになるそうです。大丈夫、きっと良くなりますから。あっ、目を冷やすアイマスク後で持って来ますね」

「ありがとう」

「いえ、あの吉秋さん、私、吉秋さんが復帰してステップアップ出来ること祈ってますから。それでもしステップアップできたら、一つお願いがあるんです」

「お願い?」

「はい、桐原店長を売上で倒してください」

「はぁ――?」

 祥子は、無責任に微笑んで、病室から出ていった。

 やはり彼女は未だに桐原を恨んでいるのだろうか。

 しかし彼女の笑顔からは、恨めしいものを感じず、それというよりかはむしろ、小悪魔が見せる嘲笑に近かった。

 女は怖い――

 吉秋はそんな事を思った。


X   X


 「見える、見えるぞ」

 吉秋は文庫本を開いて呟いた。少し前までは、乱雑に文字が散って、よく読めなかった活字がついにはっきりと読めるようになったのだ。

 季節は秋を迎えていた。

 吉秋は眼帯を外して、徐に窓の外に目をやる。

 外には蒼空が広がり、ビルが建ち並んでいる。通りを歩く忙しそうな人々の群れが今でははっきりと見えた。

「見える。ちゃんと、見える……」

 すると、突然ドアが開いた。

 入ってきたのは、祥子だった。

「――なんで泣いているんですか?」

「え、あ、いや」

 吉秋は涙を見られたことを恥ずかしく思い、慌てて眼尻を拭った。目の前にいる祥子の姿も今はしっかりと一人だと確認できた。

「何か辛い事でも?」

「いや、違うんだ。つい――嬉しくて」

「嬉しい?」

「うん、見えるようになったんだ。眼――」

「良かったですね。私は信じてましたけど。きっと良くなるって」

 祥子は言って、口元に弧を描いた。

「うん、そうだったね」

「今日はお別れを伝えに来たんです。――私、今日で研修終わりだから」

「そうなんだ。寂しくなるね――」

 吉秋は窓の外に目をやる。

「あの――ありがとうございました」

 祥子の突然の感謝の言葉を疑問に思い、吉秋は見返った。彼女は複雑な笑顔で、立っている。

 何に対しての感謝なのだろうか。

「礼を言うのは僕の方だよ。君にどれだけ励まされたか」

「いえ、そんな事ありません。救われたのは私だって同じです。――私なんだか吉秋さんに勇気を貰ったんです」

「勇気?」

「はい――私、本当は自信無かったんです。私みたいな、自傷行為に走ってた人間が本当に人を救えるのか?って。全然自信無くて――でも吉秋さんを励ましているうちになんだか、少しずつ自信を取り戻して、それで、吉秋さんが元気になっていく度に――私も人を救う事ができるんだ――って、だんだんわかってきたんです」

「祥ちゃん……」

「だから、お礼を言いたかったんです」

「いや、うん……」

「あの、吉秋さん? これからどうするんですか?」

 問いかけに吉秋は即答できなかった。

 体は順調に回復の色を見せている。咲奈が見舞いに来た際には、リハビリを手伝ってもらっていたので、今では補助なしで、どこへにでも歩く事ができる。

 視界も良好。

 この分では再手術の可能性も低いだろう。

 ただ――問題は顔の傷だ。

 今朝、歯を磨きに行った際に、洗面所の鏡で自らの顔を見ると、傷痕は以前に比べるとうっすらと目立たなくはなっていたが、他人の誰の目から見ても、それは紛れもない十字傷には違いなかった。

「どうしようかな……正直迷ってる」

「そうですか――でもそりゃそうですよね。それだけ深い傷跡が残ってしまったんだから」

 左頬の十字傷を初対面の客が見たら、なんと思うのだろうか。

 きっとヤクザかどこかの組の人と間違われるかもしれない。

「やっぱり――辞めよう……」

 ――かな。と吉秋が言い掛けた時、勢いよく病室のドアが開いて、咲奈が入ってきた。

「吉秋! また逃げるの?」

 大きな声だった。

 咲奈のこれほど大きな声はかつて聞いたことはない。彼女の目は心なしか赤くなっているようにも見えるが、眉は吊りあがり怒っているようにも見える。

「咲奈?……」

 吉秋と、祥子は一斉に咲奈の方へ目線をやる。

 咲奈に向って祥子は軽く頭を下げた。 

 どうやら彼女は病室のドアの前で二人の会話を盗み聞きしていたようだ。

「逃げるわけじゃない。ただ、この顔じゃお客さんが――」

 吉秋は彼女の力強い視線から目を背けた。

「顔が何よ? 顔に傷があったら接客しちゃいけない――なんて法律あるの?」

「それは、そうだけど」

「大事なのは、貴方自身がどうしたいかなんじゃないの? 吉秋、私はね、貴方が頑張ってる男だから付き合ってあげてるの! 弱くて頼りないけど、貴方は夢を必死に追い続けていた。自分のやりたい事からは決して眼を背けなかった。だから、そんなところが好きだったの! お願いだからもう逃げないで。吉秋、貴方売りたいんでしょ? 地道に頑張って、少しずつ売上だって伸びてたんじゃないの? だったら頑張ってよ。傷が何よ。十字傷がなんだって言うのよ。その傷だって吉秋が悪くてついた傷じゃないじゃない!」

 咲奈の眼尻から涙が伝った。

「咲奈――」

「言ったじゃない。神様は貴方に生きる価値を見出したから、貴方はここにいるんだって! せっかく貰った命を、魂を――貴方はまた捨てようとしている。どうして前向きに物事を考えられないの? どうして過去を振り返ろうとするの。もういいじゃない。貴方は服を売りたい――それでいいじゃない。それをお客さんが傷を見て怯えそうだからなんて理由で、辞めちゃうなんて勿体ないよ。今までの自分が可愛そうだよ。吉秋――お願いだから、もっと自分を好きになって」


 自分を好きになって――


「吉秋さん――自分を好きになることって意外と悪くないですよ」

 祥子が徐に言った。 

 吉秋は二人の顔を交互に見つめる。

 今でははっきりと二人の顔が見える。

 二人とも真剣な顔つきだ。

「大事なのは、自分の気持ちに素直になること。貴方は確かに大怪我を負って、頬に大きな傷跡が残ってしまった。けれど――貴方の魂は、貴方の魂のままなの。それに接客は顔じゃなくて心よ――だから、きっと大丈夫」

 魂――

 自分は一体これからどうすべきなのだろうか。

 吉秋は自問する。

 素直になる――

 それは難しい事なのだろうか。

 いや、そんな事はない。 

 何よりも信頼している咲奈が言っている事なのだから。

 自分は咲奈が好きだ。

 いや、咲奈だけではない。

 今まで支えてくれた祥子だって。大切な人には変わりない。

 他にだって大切な人はいる。

 仕事のノウハウを教えてくれた織原や、北野、そして花岡だって、大切な仲間だ。この時吉秋は自分の周りに多くの人達がいるのに気づいた。たくさんの人達に囲まれているから、今の自分は生きていられるのだと。

 瞬間――

 吉秋の眼から雫が伝った。

 彼は初めて自分の正直な気持ちに気がついた。

「僕――人が好きなんだ……」

 やる事は一つだった。

 傷痕を背負ってたとしても、吉秋がやりたいことはもう決まっていたのだ。

 あの時――

 桐原に提示された南野涼の常人離れした桁違いの数字を見て、彼が抱いた感情はたった一つだった。


――自分も売りたい――


 それが答えだった。


「吉秋さん――先生が言ってましたけど、もうすぐ退院できるって。良かったですね」


  

 
























(9月度 個人売上日報)

     担当者   売上数量 売上金額

961××1 南野 涼  906  ¥7,589,658

472××5 花岡 智樹 145  ¥1,023,654

473××4 御影 吉秋  0   ¥0

474××8 北野 忠助 152  ¥1,056,584 

































〔7〕


 季節は冬に入り、十一月になった。

「あれ、無い……」

「Metamorphose」に復帰した吉秋はとある事に気がついた。北野と花岡のロッカーが無くなり、シフト表には彼が知っている名前が誰ひとりとしていなくなっていたのだ。

 彼がバックルームでアウタージャケットを脱いでいると、突然、一人の男が入ってくる。

「お前が御影吉秋やな。噂通り貧弱な面しよって」

 その男のネームタグには見覚えのある名前が書かれていた。

 南野涼――

 吉秋は絶句した。

 175センチほどの長身。すらっと伸びた足はまるでカモシカのように細い。黒髪でどこかのアーティストの様な手入れされた長髪には妙に色気がある。整った顔立ちは芸能人を彷彿とさせるものであった。身にまとっている服装にも隙はない。岡山産の上質なデニムパンツに、カジュアルなブーツ。のスカルシャツに、ロングカーディガン。攻撃的なファッションスタイルである。

「どうして……貴方が?」

「あ? 異動や、異動。お前さんが入院しとる間にな。ほんまに七めんどくさいで全く。桐原店長が店の売上落としとるからこんな面倒に巻き込まれたんや。全くみっともない店長やで」

 異動があったのか。

 しかし、桐原の個人売上を見ている限り、売れているとしか思えなかった数字だが、店全体の予算は落していたのか。吉秋は驚いたように、目をまん丸にした。

 南野涼は、店内に客が居ないことをちらっと確認すると、バックルームの椅子に「よっこらしょ」と言って腰をおろし、長い足を組んだ。

「あの、花くんと忠助は?。ロッカー無いんですけど」

「クビにしたわ。あんなんいらん。全然売れへんし。売れへん癖に桐原店長の考えに染まっとるんか知らんけど、俺に反抗してきょったからな。扱い辛うて、面倒くさかったら、九月いっぱいで辞めてもらったんや。おかげでせーせーしたわ。別に店回すぐらい、一人でも出来るからな。これから新しい従業員でも雇って、俺色のスタッフでも育てたろう思ってたところや」

 面倒臭い――というのが、この男の口癖なのか。

 吉秋は、二人を貶している南野の姿を黙って見据えていた。

「知っとるで、お前さん、大きな事故起こしたんやってな。――それで左頬の傷痕はその後遺症っちゅうわけか。――可哀そうにな」

「桐原店長はどこの店舗に行ったんです?」

「知らん。多分京都かどこかちゃうんか。この会社は全国転勤当たり前やからな。まぁ、俺ならどこの店舗行っても、予算落とさん自信あるわ。俺は桐原店長みたいな情けない店長ちゃうから。なんせエリート街道まっしぐらやし」

 ハハハ――

 南野は大きな声で笑った。

「凄い自信ですね」

「当たり前や。俺は半年で店長に上り詰めたカリスマやからな。――それにしても桐原店長もどうかしてるんとちゃうか。こんな暗くて大人しい人間を雇ってるやなんて。しかも、全然売れてへん。数か月間のお前の売上実績見とったけど、全然伸びてへんやん。花岡や、北野にすら勝たれへんお前が何で副店長なんかしてんねん?」

「そ、それは」

 言葉がない。

 南野の言うとおりだ。

「まぁ、だいたいの理由は分かっとるけどな、なんや、お前社員目指しとるらしいやん。桐原店長はお前にプレッシャー与えよう思って、代行って立場をやってんやろ。――だがな、はっきり言うたろ。お前じゃ無理や。こんな数字じゃ到底な。社員なりたきゃ、俺みたいな、他のバイトとケタ違いな数字叩き出さんと絶対に無理や」

 南野は吐き捨てるように言うと、A4サイズの用紙を一枚、吉秋に手渡した。

「何ですか? これ……」

「退職届けや。せっかく復帰してもらったところ悪いが、お前には辞めて貰う。お前みたいな売れへん販売員なんかが副店長やってたら、店は潰れてまうからな。そうなったら、俺の『伝説の男』としての肩書きに罅が入る。そうなる前に邪魔な奴は周りから消しとかんとな」

 吉秋は手渡された用紙をじっと見つめる。

――退職届――という無機質な言葉が確かに記されている。

「い、いやです。僕は辞めたくありません」

「あ、何や歯向かうっちゅうわけか。お前も所詮は連中と一緒か」

 連中とは北野と花岡の事なのだろう。

「正当な理由も無いのに、一方的にスタッフを解雇するなんて間違ってます」

 あん?――鼻から通る声を吐き出し、南野は嫌悪感を全開にした。

「正当な理由?――あるやないか。お前らが売れへんから、店の売上が悪いっちゅうな。売れとったのは桐原店長だけで、他のスタッフは全然や。そのせいで俺は上からの指示でここに来たんやろ。言っとくがな、売れへん癖して、時間給だけはしっかり貰う。そういう奴らを世間では給料泥棒って言うんや。お前らみたいなもんが居るから、この店の売上は落ちていくんや。だから俺はその根源から断とうっていう頭のええ考えしか出来んくてな。だからお前もクビや、クビ」

「せっかく戻ってきたのに、せっかくこれから前向きになって、こんな傷を背負ってまで戻ってきたのに、こんな仕打ち……」

 吉秋は震えている。

 そんな彼を見て、南野は鼻で笑った。まるで可哀そうな生き物を見下しているような嘲笑に帯びた視線で。

 きっと北野や花岡もこのようにして、南野の一方的な攻撃を受けて辞めてしまったのだろう。

「だから、さっき悪いなぁ――って謝ったやろ。さぁ――はよ書け。今日限りでお前はクビや」

 南野はボールペンを彼に渡す。

 吉秋はしばらく黙り耽ったまま、ボールペンを握りしめた。

「い、いやです――やっぱり、いやです」

 吉秋は唇をきつく噛み締めて、ボールペンを真っ二つにへし折った。へし折れたボールペンのインクが床一面に広がり、飛び散ったインキが、南野のパンツに撥ね、シミを作った。

「お前!何してくれてんねん! これ岡山産のめっちゃ高いデニムやぞ。な、なんちゅうことを」

 南野は慌てて、ティッシュをもぎ取り、デニムに飛び散ったインキを拭き取った。しかし、シミは全く取れなかった。

 南野は吉秋の胸倉を掴んだ。

「……」 吉秋は沈黙を貫いている。

「お前、もう一回病院送りにしたろか。このボケッ。しばきまわすぞ」

 南野の罵詈雑言。

 吉秋は死んだ魚の如き眼をしている。

 退職届けなど書きたくなかった。

「どうして、辞めなきゃいけないんですか?……僕売りたいのに」

 死にかけた小動物の様な小さな声。

「黙れ。お前の数字からは、売りたいっちゅう心意気が伝わって来ないって言ってるねん!」

 南野は堪らず吉秋の体を突き飛ばした。

「……」

 吉秋は漏れたインクの上に尻もちをついた。彼が履いているパンツには真っ黒な染みができた。

 その時、店の中に客が入ってくる。

 恋人同士だろうか。男女が二人。おそらく年齢は二十代前半だ。

 南野は横たわっている吉秋に、「分かったか? このボケ」と悪言を残すと、すぐさま接客に向かった。吉秋はおもむろに立ち上がり、暗い眼で、南野が接客している情景を見据える。


「まいど! 今日はデートですか?」

 南野が意気揚揚としながら、カップルに話掛けた。

「ええ、まぁ、はい、そうです」

 女の方が謙遜しながら、言った。

「ははーん、もしかして彼氏さんの服を、一緒に選ぼうって感じですか。ええですね!羨ましいですわ。僕も混ぜてくださいよ」

 陽気なテンションである。

 先ほどまでバックルームで憤っていた彼とはまるで別人だ。

「お兄さん、テンション高いな」

 男の方が柔和に表情を綻ばせ言った。

「そりゃそうですよ! 僕、ばりばり大阪出身の関西人ですもん。テンション高くないと生きていけませんねん」

 南野の芸人の様な振る舞いが、カップルの壺に嵌ったのか、二人は笑い始めた。

「じゃあ、面白いから、お兄さんに、私の彼氏をカッコ良くしてもらおうかな」

「えっ!ほんまですか! こりゃ嬉しいですわ。 今もお客さん来てくれんくて、暇で暇で、死にかけとったところですわ。感謝します」

「お兄さん、おもしろーい」

 南野はカップルを試着室前のゲストテーブルへと誘い、それから三十分もの間接客に入っていた。

「――お兄さん、ありがとう」

 女は店を出る際、丁寧にお辞儀をしている南野に向って手を振り満面の笑みを浮かべていた。南野が叩き出した売上は、総額4万5千円――

「見たか、これが販売っちゅうもんや」

 虚ろな吉秋に向って南野は勝ち誇ったかのように言った。

 確かに目の当たりにした伝説の男の接客販売。カップルを掌で転がし、瞬く間に商品を2点3点と積んでいく鮮やかな手法――見事としか言えない。

 吉秋は、言葉を失い、再び退職届けを見つめる。

「さぁ――はよ書け。俺も時間があらへんねん。五時から面接が一件入っとるから」

 時計の針は間もなく四時半になろうとしていた。 

 吉秋は握り拳をきつく握り締める。

「貴方にとって、販売業って何なんですか……?」

 吉秋は震えた声で問いかけた。

「はぁ――そんなん、決まってるやろ。如何に客を騙して、商品を買ってもらうか――ただそれだけや。例え、そのお客さんに似合ってる商品がこの店に無くても適当に選んで提案したら、買ってくれるやろ。『いやーお客さん似合ってますわー』 ってとにかく褒めまくって、相手をのせれたらこっちのもんや。販売とは営業職――駆け引きや。そこにどんな奇麗事もいらん。売った者勝ちや」

 瞬間――

吉秋の全身の血が滾った。

「……」

 無言のまま、南野の鋭い眼を見据える。

「なんや、その反抗的な目は。気にくわんな」

「間違ってる――そんなの間違ってる」

「ほう、何が間違ってるっちゅうねん?――現に俺はこの考え方で結果を出してきた。お前にはお前の理想があるかもしれんが、その理想に従ってるばかりに、カスみたいな売上しか取れへんねん。間違ってるのはお前の方や。さぁ――さっさと書け」

「じゃあ、どちらが間違ってるか、勝負しましょう……」

 吉秋は暗く、虚ろな声音で提案した。

 なんと愚かな提案なのだろうか。

 吉秋は思ったが、二人を強制解雇した、南野を許せなかった。

 彼の無謀な挑戦に、南野は嘲笑している。

「はっ? 勝負? 俺とお前が? これまた、何を言い出すと思うたら、もう一回病院行ってMRI撮って貰った方がええんとちゃうか? 脳味噌に障害残っとるで」

 

 南野がそう言って高らかに笑った。


「黙れ!」

 

 吉秋は腹筋に思い切り力を入れて、叫んだ。

 それは彼が産まれてから一度も口にしたことない、命令だった。

 怒り、哀しみ、苛立ち、憤り、様々な感情が入り乱れ、彼の心臓の叫びがつい口に出てしまったのだ。

「お前――今、俺に命令したか?」

 南野が無表情に訊ねた。

「貴方は愚かです。貴方の様な人が販売員などやっていてはいけない。人として貴方は間違っている」

「大した売上も取れん癖して、俺に異見するか。――いいやろう。勝負したろ。ただし、もし、お前が俺に負けた時は、ほんまに即辞めて貰うで。全く、桐原店長にも勝てへんだ癖に、俺に勝負挑むなんてお前、ほんまアホちゃうか」

 南野は吐き捨てるように言うと、苛立たしげに、吉秋から退職届けを奪った。

 そして、彼は鷹の様に鋭い視線で、吉秋の睨みつけて、勝負のルールを説明した。


 売上勝負は一カ月間行われる。ショッピングモールで客が賑わう十二月。世間が師走に入り、人々が忙しげに買い物をする冬の季節に、戦いを行う事になった。

 丸々一カ月間、互いに労働時間は一日八時間で残業は無し。出勤日数は二十一日と互いに平等な条件である。

 ただし、休憩時間を取るか取らないかは、自由だ。

 

 全く同じ条件での売上勝負。 

「もし僕が勝ったら、南野店長も店を辞めてください」

「はぁ――なんやと? お前正気か?」

「僕は、貴方を許せない。忠助や花くんは、僕の大事な仲間だった……それを貴方は、貴方って人は……」

「いちいちめんどくさい奴やな。ええやないか。アイツら二人が消えようと、お前が消えようと、俺には全く関係の無い事や。よっしゃええやろ。万が一にありえへんけど、俺がお前に負けたら、潔く、この会社に退職届でも何でも出して、俺の伝説に終止符うったるわ。それでええやろ?」

 南野の眼には一点の迷いもなかった。

 凄まじい眼力を、吉秋は懸命に受け止める。

 目を逸らしてはならない。

 吉秋は徐に左頬の十字傷を指で摩り、断言する。

「絶対に――負けない」

 吉秋の戯言を聞いて、南野は嘲る様に、笑った。


X   X

  

一二月一日。午前九時半。

 戦いの火は切って落とされた。

 北野と花岡がいないので、店はほぼ吉秋と南野の二人体制になった。二人が休みの時は他の店舗からヘルプスタッフを回してもらうことになった。吉秋が早番で、南野が遅番というシフトなので、ほぼ一人体制という事もあり、休憩はバックルームで取ることとなる。

 店を開けるのが、吉秋の役割で、店を閉めるのが南野の仕事というわけだ。

 そして互いに勤務時間八時間。

 平等なルールでの戦いに違いはなかった。

 そしてこの日が初日なので、吉秋は妙に緊張を覚えていた。

 前日に桐原から連絡があったが、妙な事を言われたので、吉秋はポスレジの開店処理をしながら、その事を考えていた。

 

――前日。

 家で彼が翌日からの作戦を考えていた時、突然スマートフォンが鳴ったので、電話を取ると、相手は久しく声を聞いてなかった桐原だった。

 桐原は吉秋に体調や、怪我の回復状態を伺うと、どこか安心しているようだった。


――吉秋。客を一人も逃がすなよ。スピーディーにアプローチ。でも決して焦るな。『売りたい』という感情を少しでも出せば、客はそれを察し、逃げてしまう。だが――吉秋、今の貴方には武器がある。それは誰かが真似しようと思っても絶対に不可能な最大の武器だ。

――武器――ですか?

――そう、最強のコミュニケーションツールを貴方は手に入れた。それは貴方の凄惨な過去を彷彿とされる左頬に残った十字傷。接客は第一印象。店に入ってきた客はまず店員の顔を見るに違いない。初めて貴方の顔を見た客はきっとその十字傷を不思議がるに決まってる。貴方はその感情を逆手にとって客に事故の過去を話してやるんだ。


 桐原の言葉が蘇る。 

「負けない――」

 吉秋がそんな独り言を漏らした頃、時計の針は、開店時間の十時を差した。


 開店してから十分もしないうちに、急ぎ足をして、一人の女が来店してきた。

 彼女は中央什器のTシャツラックの前に立ち止まると、真剣な顔で、サイズを選んでいる。

 吉秋は平常心で彼女へと近づき、声を投げた。

「いらっしゃいませ、良かったらサイズ探しましょうか?」 

 女は手をぴたりと静止させて、吉秋の顔に目やる。

 女は彼の顔を見たまま、双眼を大きく見開いた。

「貴方――その傷は……?」

 服の事など忘れているかのように、女は吉秋に訊ねる。

「少し前に交通事故を起こしてしまって、その時の後遺症です」

 吉秋は左頬をそっと摩った。

「痛くないの」

「はい、全然、傷口はすっかり繋がってますから」

 吉秋はヘラヘラと笑っていた。

 彼の頬笑みを不思議に思ったのか、女は表情を固くしている。

「辛くないの? そんなに大きな傷が残っちゃったのに? なんで笑ってるの?」

 吉秋は少し考えた。

 どうして笑っているのだろう。

 明確な答えは無かった。だが、数か月前までは、誰かのサポート無しではトイレにも行けず、歩く事も出来す、食事だって取ることができなかった。一日中、籠の中の鳥のように病室に籠りっきりで、眼だってはっきりと見えないのに、毎日テレビの音声だけを楽しんで、本当に退屈だった。それが今はこうして、前まで働いていた店で、当たり前の様に服を畳んで、鏡を拭いて、新商品が届いたらパッキンから売り場に出して――仕事が出来ているのが、彼にとって、何よりの喜びだった。

「辛くなんて無いですよ。こうやって眼だってはっきり見える。――お客様の顔だってちゃんと見えますから。――美人ですね」

 そう言うと、女は少しだけ恥ずかしそうに頬を赤くした。

「眼が見える?」

「眼の手術の後遺症で、しばらく複視になって、何もかもが二重に見えてたんです。それが、今ではこうしてはっきり見えてる。そして、当たり前のように仕事が出来るのが嬉しいんです。――傷の御蔭で、こうやってお客さんと話だってできるから――きっと僕はそれが嬉しくて、笑ったんだと思います」

「そうだったんだ。凄い事故だったのね」

 凄い事故だった。

 それだけは間違いない。

 彼の人生そのものに左右するような事故――あの時彼は夢の中で何者かと話をした。何者かと約束をした。

 どんな接客内容であれ、客を楽しませる為に自分を生かしてほしい。

 その願いが、吉秋の中ではっきりと蘇った。

「お客様。今日はどなたかへのプレゼントを探しているんですか?」

「ええ――そうなの。主人と息子にプレゼントをあげようかと思って、二人とも服に全く興味がなくて、いつも私が買ってあげてるの。どうせなら、コーディネートで贈りたいと思ってるだけど、どんなのが似合うのかさっぱり分からなくて、サイズは聞いてきたんだけど」

 旦那の方がLサイズで、息子の方がMサイズだと言った。

 素早くニーズを聞いた吉秋はさっそく店の中を駆け巡り、コーディネートを作った。

 ダウンジャケット、セーター、カットソー、パンツ、ベルト、シューズ――各アイテムを集め、コーディネートが出来上がっていく。吉秋は完成したコーディネートをガラステーブルに拡げて、彼女に見せた。彼女の反応を気にしながら、商品の説明をしていく。

「ペアルックの様なコーディネートを作ってみました。各アイテムは二つとも全く一緒ですが、それぞれ色は別なんです。でもこうして並べてみると全く別のコーディネートに見える――これだったら、旦那様も息子様も恥ずかしがらずに着てくれると思いますよ」

「あら、なかなか素敵ね」

「きっと喜んでくれると思いますよ」

「気に入ったわ。これ全部お願い」

 女は口元を綻ばせて、購入を決意した。クロージングに成功した吉秋は思わず心の中でガッツポーズを決めたくなったが、慌てず平常心を貫いた。

 総額――五万八千円。 

 女はプレゼントの予算にこれだけの金を用意してくるとは一体どんな仕事をしているのだろうか。吉秋はレジを打ちながら、疑問に思ったので、素直に彼女に訊ねる。

「プレゼントにこんなにお金使うなんて、随分と太っ腹ですね。どんな仕事をされてるんですか?」

「太っ腹なんかじゃないわ。ただボーナスがもうすぐ入るから、偶にはプレゼントでも買ってあげようかなって、そんな心境に至っただけよ。――仕事だって、大した稼ぎもない、介護士だし」

「そうだったんですか」

 彼はさり気無く彼女の顧客情報を探りながら商品を大きな紙袋に詰める。

「ありがとう、おかげで素敵なプレゼントが選べたわ」 

「とんでもないです。あっ、これ」

 吉秋は思い出したように、女に名刺を渡す。会話が弾んだ客には絶対に渡すように桐原に昔教わった事があったか。事故を起こす前は、それほど話が弾んだ客もいなかったので、渡す機会はほとんど無かったが、いま、この瞬間、この女性客にだけは、名前を覚えて欲しいと思った。

 自分の過去に興味を持ってくれた大切な客として扱いたかった。

 また来てほしいと素直に思った。

 名刺を受け取った女はクスッと上品な笑い声を零した。

「こんなのいらないのに」

「え、どういう意味ですか?」

「だって、頬に十字傷がある店員さんなんて、この店にしかいないもの。ありがとう、御影吉秋くん。仕事頑張ってね」

 

 女は大きな紙袋を携えて店を去って行った。

 コンコースの人の群れに紛れて、女の後姿がどんどんと遠のいていく。吉秋は女の後姿が消えるその時まで深く頭を下げていた。 


 ありがとう。


 客に面と向ってその言葉を言われたのは初めての事だ。少し前までは、レジで無言の客に、ただ自分は無機質に『ありがとうございます』と言っているだけだった。

 今の客は、きっと自分の接客を気に入ってくれたのだろう。

 吉秋にはそう思えてならなかった。

 彼は徐に自らの十字傷を撫でる。

「これで――いいんだろう?」 

 吉秋は、独り事をぽつりと呟いた。


 午後二時になると南野が出勤してきた。彼は出勤してくると同時に現時点での吉秋の売上を確認していた。

 まだオープンして四時間しか経っていないのに、吉秋の個人売上実績は、八万円を突破している。これに驚いた南野は絶句して、商品整理している吉秋に声を投げた。

「お、お前――」

「おはようございます」

 吉秋は柔和に微笑んで挨拶をした。その笑顔は翳りや曇りなど全く感じさせない、澄み渡った青空の様な笑顔だった。

 それは彼が今までに見せた事が無いような少年の様な笑顔だった。

「なんや、やるやないか。すでに八万も売っとるなんて――なかなか運がええなぁ――どうせ、最初から買う気まんまんの客に当たっただけなんやろ」

「はい、運が良かっただけです。偶々ですよ。偶々」

「そやろ! やっぱりそやと思ってん。お前が四時間で八万も売るなんてありえへん思うたわ」

 ハハハ――と南野は大きな声で笑った。

 


《中間報告》

 十二月十五日地点での個人売上実績


     担当者     売上数量 売上金額

961××1 南野 涼    906  ¥7,589,658

471××5 ヘルプスタッフ 21   ¥146,521

473××4 御影 吉秋   479  ¥3,658,452

474××7 ヘルプスタッフ 15   ¥112,351 

470××5 ヘルプスタッフ 11   ¥56,844




 〔8〕

 

 十二月十六日。

「ありえへん、この俺があんな暗いド素人に大した差を付けられへんやと? 一体何が起こってるんや」

 ポスレジ横のパソコン。十二月中間個人売り上げ実績表を睨みつけて、南野が呟いた。南野が数字を気にしていると、吉秋が商品をレジに山積みし始めたので、南野は堪らず、イライラした様子で吉秋に問いかける。

「お、お前、それ全部買い上げか?」

「はい、とりあえず、確定らしいです。まだお客さん選びたいって言ってたので、とりあえず置きにきました」

「なんやと?」

 レジカウンターの上には、ブルゾン、ジャケット、セーター、ロンTが数枚、パンツが三本積まれている。この時点ですでに五万は軽く超えているだろう。

 吉秋は商品を置いた後、そそくさと対応している客の方へと足早に戻った。吉秋が接客しているのは、五人組の家族である。どうやら、男家族皆の分の服を探しているようだ。

「アイツ……どんな接客してんねん……一体、アイツに何があってん……」

 南野はレジで、吉秋がどんな話をしているのか、盗み聞きする。

 だが、声が小さくてよく聞こえない。

「あかん、人の売上なんか気にしてる場合やない」

 南野は急ぎ足で、店頭に出た。彼は大きな声でコンコースを歩く人々の群れに呼びかけを

している。

 明るい声音だ。

 活気に誘われた客が次々と店に入ってくる。

 吉秋はさきほど接客していた客の会計を済ますと、再び、店内を見渡し、接客に入れそうな人を探す。

 吉秋は焦燥していたのだった。

 もう残り二週間しか無いというのに、南野に百万以上の差を付けられているという事実が彼の心の中に焦りを覚えさせていたのだ。

 もし負ければ、店を辞めるしかない。

 

 百万という術を覆すには少しでも多くの客を拾うしか方法は無かった。

 

 吉秋が賑わう店内を見渡していると、そこに知れた男が居た。

 ゲンさんだった。

 久しく会っていなかった、なつかしい顔と出会った吉秋はなんだか、ひどく嬉しい気分になり、店内をゆっくりと歩くゲンさんの歩調に合わせるように、少しずつ近づいた。

「お久しぶりです」

 吉秋は丁寧に彼に頭を下げた。

「おや、しばらく見ないと思ってたら、まだここに居たんだね。安心したよ。君まで辞めたと思っていたから」

 ゲンさんはどうやら、花岡や北野が辞めた事を知っているらしい。

「みんな辞めて、寂しかったよ。――一体何があったんだい? 急にみんな消えちゃったから――おや?」

 ゲンさんは、彼の顔を見て、動作をぴたりと止めた。

「あ――この傷、ですか?」

 吉秋はゲンさんにこれまでの一部始終を話した。

「そんな事があったのかい……君は辛い事を経験したね……」

「いえ、今はもう立ち直りましたから。大丈夫です」

「その傷はもう消えないのかい?」

「先生は薄くはなるって言ってましたけど、今のところどうなるかは全く――」

「そうか――それにしても売上を取れないというだけで、花岡くんや北野くんを解雇するなんてなんと愚かな……」

 ゲンさんは、眉間に深く皺を寄せた。

 その顔は、いつもの柔らかいゲンさんの表情でなく、まるで自分の子を失ったかの様などこか悲哀に満ちたものだった。

 そんな哀しげなゲンさんの顔を見て、吉秋もなんだか居た堪れない心境だった。

「この仕事は売上だって大事ですけど、それ以上に大事なことってあると思うんです」

「君にとって販売って何だい?」

 ゲンさんの咄嗟の質問に、吉秋は戸惑った。それはかつての彼が、桐原や南野に投げかけた質問だった。まさか今度は自分がこの質問をされる立場になるとは思ってもみなかったので、彼はしばらく答えを出すのに時間が掛った。

「駄目です。ゲンさん――」

 吉秋はそう言って溜息を零した。

「うん? 何が駄目なんだい?」

「接客販売に答えなんて無いと僕は考えています。お客様がただ満足してくれたらそれでいい。だから僕はお客様に喜んでもらえるコーディネートを必死で考える。皆にうちの服を、気に入って貰えれば――それでいいんですよ」

 ゲンさんは、吉秋の左頬をじっと見つめる。

「それが、君の答えなのかい?」

「僕はスタイルコーディネーターですから」

「面白い店員さんだよ」

 ゲンさんは大きな口を開けて笑った。少しだけ酒焼けしたような枯れた笑い声。こんなに愉快にしているゲンさんを見るのは初めてだ。

「君なら信頼できそうだよ。少し手伝ってくれないか?」

「手伝う?」

 何の事かさっぱり理解できない吉秋は、黙ってゲンさんの話を聞いた。ゲンさんの提案は、吉秋を震撼させるものだった。

「実は十二月二十五日にわしがプロディースしている二組のロックバンドのライブがあってね――そこで使うメンバー達の衣装がどうしても必要なんだ。時間もあまりないから、一式、買いそろえようとして今日ここに来た」

「衣装ですって?」

「そうだ。五人組バンドだから、計十人分の衣装が必要になる。但し勿論予算はあるよ。小さな会社だから、百万ほどしか出なかったが」

 百万――という金額に吉秋はたじろいだ。

「そ、そんな、予算百万だなんて……」

「わしは、例え君がバイトスタッフだったとしてもだ、あの店長からは買いたいとは思わない。君を信頼しているからこそ、この仕事を頼みたいんだよ。――できるかい?」

 総額百万円のトータルコーディネートを考えるなど前代未聞の出来事である。

 だが、無理だとは言いたくなかった。

「やってみます」

「頼んだよ。メンバーそれぞれの顔写真と、サイズはわしのアイパッドの中に入っているから、それを見ながらコーディネートを作って欲しい」

 ゲンさんはアイパッドの画面を流麗になぞり、データを呼び出した。

 吉秋はそれを受け取り、画面に目をやると、男前達の顔写真と身長、体重、好きな服装などが書かれた簡単なプロフィールデータが確かにある。

 なるほど。これならば、顔もしっかりと映っているので、それぞれに見合ったコーディネートが探せそうだ。

 いける――

 吉秋は確信した。

「任せてください」

「わしは少しの間一階のカフェに行ってるから、出来たら、この前渡した名刺に書かれた携帯電話まで連絡を頼むよ」

 ゲンさんは吉秋に仕事を依頼した後、そそくさを店を出ていった。

 一時間もしないうちに吉秋は計十人分のコーディネートを完成させ、それぞれをひとまとめにして、ガラステーブルに並べた。店の外線電話でゲンさんを呼び出すと、彼はものの五分もしないうちに店に戻ってきた。カフェは一階にあるのだが、ここは三階――ゲンさんの歩くスピードは思いの他早いのかもしれないと彼は思った。


「おぉ――これは見事だ」

 ゲンさんは、十人分のコーディネートを見て、眼を丸くした。

「――総額、\998,568 のトータルコーディネートになります。間違いなくバンドメンバーの皆に似合う衣装になってますよ。一人当たり約十万を目安に考えてみました」

 山積みになった服の束。

 ゲンさんは柔和に微笑んでいる。

「ありがとう、じゃあこれを事務所まで宅配してもらえるかな?」

「かしこまりました」

 所属事務所の住所を聞き、クレジットカードで会計を済ませたゲンさんは恰も満足そうに店を後にした。

 配達料込めると、百万を軽く超えている。

 客単価が百万超えなどと言う数字は、この店始って以来の快挙だった。

 会計を終えた吉秋は、酷く疲れていたので、バックルームに戻り椅子に座る。

「客単価、百万オーバーやと!! お前、何してん?」 

 南野が大きな怒号と共にバックルームに入ってきた。

 ここに来て南野の表情からは余裕の色が完全に消えている。

「あのお客さん、昔からの顔見知りで、ロックバンドのプロディーサーなんです。クリスマスライブに使うバンドメンバーの衣装を探してたみたいです」

「な、なんやと……そ、そんなアホなことがあるかい。な、なにが起こってるんや――これは現実か。この俺でも叩き出したことが無い数字を、こんな素人が……」

 素人――

 吉秋は椅子から立ちあがって、南野を射抜くように見据えた。

「桐原店長が言ってました。――この業界は売り上げこそ全てだと。そこに店長やバイトという肩書きなど全く必要が無いと。結果こそが全てだと」

「くっ……」

 南野が苦虫をかみつぶしたかように表情を歪めた。

「ゲンさんは僕にありがとうって言ってくれました。それが結果です。南野店長――貴方には負けない――絶対、絶対に……」

「舐めた事言いよって! 客単価百万やからって何やねん! なら俺は単価一万の客を百人拾ったるわ! よう見とけよ!」

 南野は踵を返し、売り場に戻った。













(十二月一日~十二月十六日 個人売上実績)


     担当者     売上数量 売上金額

961××1 南野 涼    594 ¥4,703,568

471××5 ヘルプスタッフ 21  ¥146,521

473××4 御影 吉秋   589 ¥4,698,451

474××7 ヘルプスタッフ 15  ¥112,351 

470××5 ヘルプスタッフ 11  ¥56,844


X   X


一二月二十四日。

 クリスマスイヴなので、館内には恋人達の群れがたくさん居た。世間のにぎわいとは裏腹に「Metamorphose」 では戦いが続いていた。

 今のところ、二人の売上に大差はなかった。

 この日、吉秋が店をオープンさせて、すぐにまたなつかしい面々が顔をそろえたのだった。

「いらっしゃいませ――あっ!」

 開店して間もないのに、すぐに店に二人の客が入ってきたので、吉秋はこのチャンスを逃がしてはならぬと、声をかけに行くが、そこに居たのは、織原と祥子の二人だった。

「久し振りやね、御影さん。頑張っとるみたいで良かったわ。――祥ちゃんから聞いたで、事故したんやってな――でも生きとって良かったわ」

「今日来たのは、吉秋さんへの売上貢献――っていうのは嘘で、お互いの彼氏へのプレゼントを吉秋さんに考えて貰おうと思って来たんです、お願いしてもいいですか?」

「勿論、いいよ」

 風は風を呼び、それはいつの間にか嵐へと変貌していく。吉秋が懐かしい面々と話をしながら、コーディネートを提案している情景を何気なく見ていたコンコースを歩く人々が、見えない何者かに引き寄せられるように次々と店内に入ってきた。

 吉秋は他の客を意識はしているものの、織原と祥子の相手をすることだけを考えた。

「祥ちゃん、前にさ、お客さんは追い掛けるものじゃなくて、引き寄せるものって教えてくれたよね?」

「はい、伝授しましたね」

「その意味がようやく分かったよ」

 吉秋が二人の相手をしている間に、幾人かの店内の客達が勝手に楽しそうに服を選んでいる。今はまだ南野が出勤していないので、これらの客達の購入金額は全て吉秋の売上数値に加算されるのだ。

「ほら、御影さん、他のお客さんが、レジ並んでるで! はよ行ったりや」

「は、はい」

「だから敬語はええっちゅうねん」

 相変わらず、織原には歯向かえない吉秋であった。

 知らぬ間に、吉秋の売上数値が跳ねあがっていく。

 賑わう店内。

 賑わう客達。

「ねぇ、祥ちゃん。こんな服良くない?」

「わぁ、格好いい! 綾ちゃんの彼氏さんに似合いそうだね」

 吉秋が忙しそうにレジ打ちしている間、二人は楽しそうに談笑しながら、コーディネートを考えている。そんな温かい情景がまた客を引き寄せる。

「皆さん聞いて下さい! あのお兄さんのコーディネートめっちゃセンスいいですよ! 是非接客してもらってください!」

 織原が、吉秋の背中を押すように、店内の客達に威勢のいい声を投げる。

 一斉に客達がレジ打ちしている吉秋を見つめた。

 そこここで吉秋を呼ぶ客達の声が聴こえる。だが、吉秋はレジ打ちで手いっぱいだ。忙しいが、吉秋はそこに生きている事の実感を覚えた。

「織原さん、酷いよ。僕、体一つしかないのに」

「何言ってるねん。せっかく助け舟出してあげたのに」

「そうですよ。吉秋さん。おかげで吉秋さんの売上はウナギ登りじゃないですか。綾ちゃんに感謝しないと」

――ねぇ?

 二人は顔を見合わせてそう言った。

「それは、そうだけど」

 二人の協力により、セルフで服を選んでいる客は、次々と購入に至っていった。その甲斐もあったのか、既に吉秋の売上は軽く二十万を超えている。

「吉秋さん、無事復帰できてよかったですね。傷の経過はどうですか」

「あぁ、全然、変わらないな。――でもこの傷のおかげで色々と助かってるよ」

「助かってる?」

「うん、初対面のお客さんが僕の傷痕を見たら、不思議そうにするんだ。理由を説明してあげると、僕に心開いてくれるみたいでさ、コミュニケーションが取りやすくなった」

「吉秋さん、貴方の周りには大勢の仲間がいる。それに気づいた時、きっと貴方の世界は変わるんだと思います――ほら」

 吉秋は、あっ――と短く声を上げた。

 視線の先に、北野と花岡がいた。

「ヨシさん。南野涼に勝って下さいっす。桐原店長から話聞いたっすよ。今、勝負してるんすよね。どっちが店辞めるかを賭けて」

 北野の言葉で織原と祥子が驚いた様に声を上げた。

「ちょっと、御影さん辞めるってどういう事なん?」

「そうですよ。吉秋さん、そんな辞めるって」

 吉秋が口ごもってると、花岡が代弁するかのように、二人に事情を説明する。

「吉秋さんは、南野さんに喧嘩売ったんですよ。それで桐原店長、吉秋さんの事、心配して、俺達に連絡してきたんです」

 二人は悄然と吉秋の顔を見つめた。

「大丈夫だよ。絶対に勝つからさ」

「吉秋さん、俺達、売上貢献します。俺大学の友達たくさん連れてきたから、きっとものすごい売上が出ると思いますよ、なぁ? 皆!」

 花岡が振り返ると、そこには二十代前半の男たちの群れがあった。皆、おお――と威勢の良い声を花岡に返す。店内が一気に活気立った。

「ヨシさん! 俺も協力するっすよ。今からlineでいっぱい暇してる友達呼ぶんで、なんか買わせます! それ全部ヨシさんの売上にしちゃって下さいっす。皆で南野さんを倒しましょう!」

「皆……」

「そやそういう事なら、私らも、友達呼んで、なんか買うてもらおう」

「そうですね」

 織原と祥子は二人同時にスマートフォンを取り出し、連絡を取り合っているらしかった。

「後一週間しかないっすけど、ヨシさん、勝機はあるんすか?」

 北野が心配そうに訊ねた。

 もう間もなく年が終わる。

 勝負は十二月三十一日締めの売上実績にて決まる。後七日。南野もそろそろ勝負に出てくる頃だろう。

「大丈夫だよ。きっと――だって僕には仲間がいるから」

「ヨシさん――」

 

 レジに再び行列が出来ていた。主な客層は花岡や、北野、織原、祥子達の友人ばかりである。ざっと見ても二十人が並んでいる。

 その行列を見て、他の客が磁石の様に引き寄せられる。

 止まらない正の連鎖。

 吉秋が一人ではレジ処理に対応出来きないのを悟った元従業員達はチームワークを取り、客の商品を畳んだり、袋に入れたり、ラッピングしたり、それぞれ役割分担して対応し始める。

「ちゃんと給料、貰うから」

 織原が楽しそうにレジ打ちする吉秋に言った。

「忠助君! それ、そのお客さんのじゃないよ!」 祥子が言った。

「え、マジっすか? すみません!」

 レジに山積みになった商品が、どの客のものなのか、もはや分らなくなった北野はすっかり混乱しているようだ。

「す、すごい、これ全部、吉秋さんの売上になる……。吉秋さん、きっと勝てますよ」

 花岡が言った。

「アホ、これで勝てへんだら、私らがここに来た意味ないやろ。私らは御影さんを勝たせる為に手伝ってんねん。人間だれしも助け合いが一番や、一番――」

 元従業員達の協力で行列の人だかりが少しずつ減っていく。

 午後十二時半には全ての客の処理が完了し、その全ての売上が吉秋のものになった。

「ヨシさん、すごいっすよ。今日、この時点でのヨシさんの個人売上実績、五十万を超えてるっす!こんな数字、俺見たことないっすよ。ヨシさんは、桐原店長をついに超えたんすよ!」

「さぁ――仕事もしたし、私らはそろそろ撤退しよか。南野さんが来たら何言われるか分からんしな。影のサポートはこれでお終い」

「――ですね。皆さん、帰りましょう」

 祥子が締めの言葉を言うと、皆、一斉に店を飛び出した。

 風の様に去っていく、元従業員達。

 吉秋は彼らの姿が消える瞬間――

 そこに立っている一人の男の存在に気付いた。

 その男は、あの日、アメリカ村で絡んだ黒人だった。

「――ボビー!」

 吉秋が叫んだ。

 ボビーは大きな体躯をせかせかと蠢かしながら彼に向い、そして――

「マイブラザー!」

 決め文句を放ち吉秋に抱きついた。


(十二月二十四日 個人売上実績)


      担当者    売上数量 売上金額

961××1 南野 涼    854  ¥6,857,586

471××5 ヘルプスタッフ 32   ¥185,762

473××4 御影 吉秋   975  ¥7,586,868

474××7 ヘルプスタッフ 21   ¥168,452 

470××5 ヘルプスタッフ 16   ¥98,541










 


X   X


 十二月二十四日午後十時半。

 誰も居ない閉店後の薄暗い店の中、南野はパソコンの前で険しい顔をしていた。

「俺が負けるやと? あかん、そんな事絶対あったらあかんねん――」

 南野は吉秋の数字を見て、独り事を漏らした。

「一年もおらん新人に、しかもあんな顔に傷がある奴にこの俺が負ける? ありえへん、ありえへん、なんやコイツのこの数字は?――桐原店長……言うてる事違うやんけ? アイツ店で一番売れへん男ちゃうんかい」

 南野は苛立たしげに頭髪をひっかき、立ち上がる。

 南野は凄まじい剣幕で、マネキンの顔面に向って拳を振り下した。

 衝撃で、マネキンの顔面に罅が入る。

「くそっ、こうなったら、あの手しかあらへん」

 南野は口元に弧を描き、不適な笑い声を漏らした。



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