1
俺は弟のことが世界で1番苦手だ。
自分のことをインキャだと笑うクラスメイトよりも、すぐに比較してため息をつく母親よりも。
俺は弟のことが世界で1番苦手だ。
目覚ましの音で目が覚める。できることなら一生眠っていたいと願ってしまう自分にとっては、これ以上ない不快な音だった。
寝起きでぼうっとした頭で一階のダイニングに降りると、弟の涼はすでにご飯を食べていた。
「兄さん、おはよう。」
弟がにこりと微笑む。俺にとってはこの笑顔が何よりも眩しく、憎たらしい。
「あんた、こんな遅くまで寝てて大丈夫なの?涼はもう身支度も整えてるっていうのに…。」
母親がキンキンとした声で俺を非難する。
「別にギリギリだけど間に合うよ。涼も俺のことなんて気にせずに先に行ってくれればいいし。」
というか、それが狙いであった。できるだけ遅くに学校に行って、弟と通学を別にしたかったのだ。
弟は本来ならば県内1番の高校に入学できたはずなのに、俺と同じ近所のそこそこの進学校に通っている。
「通いやすさが大事だから。」
弟はそう言って家族を説得した。俺は必死になって弟がいかに頭が良いのか、自分の実力に見合った高校に行った方が友達も作りやすいのか説いたが駄目であった。
そればかりか、「兄さんがいた方が安心するんだ。」なんて言われてしまったら、他の高校を進める自分は悪になってしまう。
「いいや、置いていかないよ。一緒に登校しよう。」
弟は余裕そうな笑みを浮かべた。
俺は一生懸命ダラダラと準備をしていたが、とうとう母親に叱られ、家を出た。
弟と共に電車に乗ると、いつも通り女学生たちの視線が突き刺さった。
俺が1年の頃、この車両はいつもがらんとしていて穴場だったのに、弟と一緒に乗るようになってから明らかに人が増えた。
弟は熱心に見つめてくる可愛らしい女子達になんて興味がないらしく、一度もそちらに目を向けたことはない。
俺は一度別々で登校しようと提案したことがある。
弟には同じ電車に乗る友人がいるからそちらと通学した方が楽しいだろう、と。
「友達とは学校で会えるけど、兄さんと2人きりで過ごせるのなんて通学の時くらいだよ。俺にとってこの時間は貴重だから。」
俺は弟から離れたくて離れたくて仕方がないと言うのに、弟は俺にくっついたくて仕方がないようだ。
もしかして、まだ弟の中で俺は公園でいつも自分を助けてくれる頼りがいのある兄なのだろうか。
小さい頃、弟はいつも俺の後ろをついて回った。俺は弟のことを子分のようにこき使い、手助けし、可愛がった。
弟に自転車の乗り方を教えたり、じゃんけんの姑息な勝ち方を教えたり、先生を言い負かす方法だって教えたりした。
しかし、小学6年生ごろから弟は何をやらせてもそつなくこなし、自分より才能を発揮するようになった。
俺の真似で始めたはずのサッカーは俺より上手くなり、くちゃくちゃだった字は特賞を取るほど美しくなった。
それでも弟にとって俺は尊敬できる兄であり続けているのだろうか。
校門を通り過ぎると、後ろからばんっと背中を叩かれた。友達の宗太だった。
「はよー。」
俺はだるそうに挨拶を返す。
「おはようございます、宗太先輩!」
宗太は弟の頭をクシャリと撫でた。
「相変わらず可愛いなー、涼は!いつも無愛想な兄貴とは大違いだ!」
「そんな兄貴とばかりつるんでる奴はどこのどいつですかー。」
「俺は温情でお前と仲良くしてやってんの!」
宗太は憎まれ口を叩く。しかし、彼のカラッとした陽気さが彼を憎ませなかった。
弟は1年の教室に入って消えて行った。俺はふうっとため息を漏らした。
「相変わらず弟と仲良いなー。俺なんか顔を合わせれば喧嘩だし、絶対一緒に登校なんてしない。」
「喧嘩はしたことないな。いつだって涼は正しく怒るし、過ちはすぐ受け入れる。」
「そんな完璧な奴いるのか?家族に対してもそうだなんて凄すぎるだろ。」
「すげーんだよ、うちの弟は。」
「昨日もあの美人で有名なしおりちゃんに告られたって聞いたぜ。入学して4人目だ。涼が女子を振るのは。あいつはどれだけ理想が高いんだ?」
「知らない。あいつの考えてることはよくわからない。」
「そんなに仲良いのに?一緒に恋バナとかしたことないの?」
「一度も。俺も興味ないし。」
俺が素っ気なく言うと、宗太は話題を変えた。宗太とは中学からの付き合いだ。俺の機嫌の些細なブレもすぐ読み取ってくれる。
先生の愚痴やスマホゲームの話をしていたら、弟のことなどすっかり忘れてしまった。
「兄さん。」
いつの間にか弟が自分の机のところまで来ていた。
今日は水曜日か。水曜日は全ての部活が休みだ。弟はサッカー、俺は弓道部に所属しており、帰る時間がバラバラなことも多い。しかし、水曜日は一緒に帰ると言う暗黙の了解がある。
「兄さん、少し待ってて欲しい。すぐに終わると思うけど用事ができた。」
弟はそう告げると去って行った。
2年3組の全ての女子が弟のことを去り際までじっと見つめていた。
「弟君、また告白ー?」
隣の席の下田さんが尋ねる。
「かもね。」
「弟君って本当にすごいわよね。今、フリーなんでしょ?私に紹介してよ。」
「かすみ知らないの?涼くんって好きな人がいるらしいよ。」
いつの間にか菊田さんも話の輪に入ってきた。
「え!そうなの!ちょっとショックー!一体誰なの?」
「知らなーい。昨日、告白された時に好きな人がいるからって振られたんだって。」
「南くん何か知らないの?」
「知らないよ。弟と恋バナすることなんてないし。」
「でも仲良いじゃない。何か気づくこととかあるんじゃない?」
弟はいつだって胡散臭い笑みを浮かべ、俺の話を熱心に聞き、自分がペラペラと語ることはない。
本当によくできた弟だと思う。
「兄さん、お待たせ。」
弟が何事もなかったように現れる。
「弟君、私も一緒に帰って良い?」
下田さんが冗談半分で聞く。
「ごめんなさい。今日は兄と遊べる日なので。」
「本当に弟君ってブラコンよねー。南くんって本当幸せ者だわ。」
俺は乾いた笑みをこぼす。
椅子から立ち、弟の隣に立つと、弟の方が10センチほど背が高いのがありありと分かる。
だから俺はあまり弟の隣に立たなくないのに。
「兄さん、行こう。今日は帰りに本屋に付き合ってくれる約束だったよね。」
俺は頷いて弟について行った。
夜、自室でダラダラと過ごしているとコンコンっとノックがあり、弟が入ってきた。
「ねぇ、今ちょっといい?」
「いいけど、なに?」
「来週末の試合でいいポジションで出れることになったんだ。兄さんに見に来てほしくて。」
「日曜か…。部活もないし予定もないから行くよ。」
「本当?やったー!」
弟はくしゃりと笑う。笑って細くなった目が普段の雰囲気をガラリと変える。
「俺、フォワードに選ばれたんだ!」
「やったじゃん。涼、自主練頑張ってたもんなー。」
「え?」
「放課後とか土日とかも近所の公園で練習してただろ?」
「知ってたの?」
「知ってるよ。お前の兄貴だから。」
弟は何かを堪えるように目を潤ませた。
「好き。」
「は?」
「好きなんだ、兄さんのこと。」
弟の顔を見た。真剣な表情をしていた。
「涼は大事な弟だ。俺も涼のこと…」
「違う。」
分かった上で、言った。
「俺が言ってるのは、そういう好きじゃない。」
気づいてたよ。
「家族とも、友達とも違う好きだよ。こんな感情持っちゃダメだって分かってる。でも、もう我慢できない。」
「兄さんのことが好きだ。」
「…起きて。起きて、兄さん。」
「う、うわぁぁぁあ!」
「あはは、驚きすぎだよ。」
俺はぎこちない笑みで返す。
「下で待ってるよ。」
弟は俺が起きたことを確認すると部屋から出て行った。
昨日あれからどうやって話が終わったのかも、眠ったのかも覚えてないまま朝が来た。
回らない頭でゆっくりと階段を降りる。
「あんた!今日もまた寝坊?今日は朝ごはん食べる時間もないからね!」
「あー、ごめんごめん。」
弟がおにぎりを二つ差し出す。
「通学中に食べられたらと思っておにぎり握っておいたから。」
「え、まじ?」
「もー、涼は祐介のこと甘やかしすぎ!」
弟はこちらを見てにっこりと微笑んだ。
昨日のことは夢じゃないよ、と言うように。
おにぎりを貪りながら駅まで歩く。なんとなく、このおにぎりを早く食べてしまいたかった。
しかし、予想に反して弟はずっといつも通りだった。
俺ばかりが弟が近づく度にオーバーリアクションをしてくすくすと笑わせてしまっている。
いつも通り途中で宗太と合流し、弟は一年の教室に消えていく。
俺はまた大きなため息をついた。
「お前、今日変だぞ。なんか変なもんでも食った?」
俺は宗太の目をまじまじと見つめ返す。
こいつに相談したってどうしようもない。
俺はまた大きなため息をついた。
次の日も次の日も、いつも通りだった。
しかし、熱っぽい瞳が、自分に向ける笑顔が、好きだと伝えてくる。
もうどうすればいいのか分からない。
普通の兄弟に戻れないのは確かだった。
カタカタと電車は小さく揺れる。
俺と弟と宗太は同じ電車で帰路に着いていた。
最近、特に練習を詰めていた弟は帰りの電車で眠ってしまったようだ。俺の肩に頭を預けている。
部活の終わりが被って、俺と一緒に帰れる時はいつも眠る事なくにこにこと話をするのに、相当疲れているようだ。
「お前さー。」
宗太が口を開いた。
「弟のこと嫌いになんないの?」
「え?」
「だってさ、お前のことを見下してるとかそういうわけじゃないけどさ、涼ってお前より何でもかんでも出来るじゃんか。」
俺は確かにね、と小さな笑みをこぼす。
「いつも比べられてさ、弟のこと嫌にならないの?」
「ならないよ。」
俺ははっきりと言った。
「涼が誰よりも努力してるのを知ってるし、そんな涼を誇らしく思ってるんだ。」
俺は眠る弟のおでこをさらりと撫でた。
「そりゃあ、ムカつくところもあるよ。自分より背が高いところとか、比べられるところとか。でも、それは全部涼にはどうしようもないことだ。比べてくる人を嫌っても、涼のことは嫌いにならない。ずっとそんなんだから、苦手だと思っちゃうのは許してほしいけどさ。」
なんだか、やはり腹が立ってきて弟の眉間に人差し指をぐりぐりとねじ込む。
弟が小さく呻き声をあげる。なのに表情は柔らかく、どこか嬉しそうなようにも感じてしまう。
「祐介ってすげーな。」
「なんでだよ。」
「良いお兄ちゃんだなって思ってさ。」
俺は恥ずかしくなって、何も答えなかった。
今日は弟の試合の日だ。観客席には高校の奴らが沢山いる。俺は出来るだけそいつらから遠い席に座った。
弟がグラウンドに入場すると、すぐに俺を見つけたらしく嬉しそうに手を振った。
俺はただ笑って、小さく頑張れと呟いた。
「本当に南くんってかっこいいよね。」
急に自分の苗字を呼ばれドキリとする。しかし、ここでの南くんは弟のことだ、と1人恥ずかしくなる。
「本当にかっこいいね。あれで頭も良くてサッカーもできるって完璧すぎない?どんな人を好きになるんだろう。」
「そりゃあ、モデルみたいな子だよ。1組の佐藤さんとか。」
俺は居た堪れなくなって、身を小さくした。
俺は、完璧な弟の唯一の欠点かもしれない。
ぼうっとそんなことを考えているといつの間にか試合が始まっていた。
相手チームはガタイのいい人が多く、フィジカルでは圧倒的に負けていた。
それに怯んでいたことを見抜かれたのか、初めの点はあちらが取っていってしまった。
ますます、応援の声が大きくなる。
弟はこんなに大きな声援の下で冷静に動けるやつなのか。
そう思うと自然と頭が上がらなくなって、なんだか遠い存在のように感じてきてしまう。
味方のミッドフィルターがボールを受け取り、シュートを繰り出す。
ボールは無事ネットを揺らし、同点に落ち着いた。
そこからしばらくは膠着状態が続いた。
お互いパスを回すだけでなかなか点が決められない。
とうとう後半アディショナルタイムに突入してしまった。
弟にパスが回る。弟はドリブルで敵を2人抜いたかと思うと、すかさずダイレクトシュートを打った。
敵も味方もぼうっと弟の方を見ている。
キーパーだけが思い出したかのようにボールを止めに飛び出す。
しかし、間に合うこともなく、ボールは綺麗にゴールインした。
今日1番の歓声が上がる。
試合終了のブザーが鳴る。
弟はこちらをまっすぐ見た。
俺はまるでアイドルと目が合ったように、夢見心地で反応も出来ない。
にかっと太陽のような笑顔でこちらにピースサインを送る。
俺ははっと我に返って、サムズアップを返す。
そのまま、弟はたくさんの仲間たちに抱きしめられ、揉みくちゃにされた。
俺はそれを応援席からぼうっと眺めていた。
試合が終わって出てくる弟を待っていると、同じように待っている女子が何人かいることに気がついた。
選手たちが現れて、その後ろの方に弟がいた。
涼!と呼ぼうとした時、たくさんの弟を呼ぶ声に掻き消されてしまった。
俺は可愛い子たちに囲まれている弟を見て、諦めて去ろうとした。
なぜか胸がズキズキと痛んだ。
涼に嫉妬したんじゃない。涼に可愛く話しかけられるあの女の子達に嫉妬したのだ。
それに気づくと戸惑って、動揺して、どうしようもなかった。
「兄さん!」
振り向くと、涼が立っていた。みんなの視線が涼から自分に切り替わる。そして、落胆に変わる。興味を失ったように、別の方向へ視線が移る。
「兄さん、本当に来てくれてありがとう。」
「すげぇ大活躍だったじゃんか。」
「兄さんのおかげ。兄さんが応援してくれたから、俺も絶対負けたくないって思えた。」
弟は真っ直ぐこちらを見た。瞳には自分が映っている。
「俺は関係ねぇよ。お前の実力だろ。」
「兄さんの前でカッコつけたいって頑張れた。」
「動機が不純だな。」
俺は口を大きく開けて笑った。
弟はそんな俺を見てキョトンとした後、つられて笑った。
「兄さん。いつだって兄さんは俺の支えになってる。辛い時も楽しい時も、ずっと兄さんがそばにいてくれるから頑張れるんだよ。」
告白みたいだ、と思った。
もう告白されたんだ、と思いだした。
俺はくすりと笑った。
お前みたいな凄い弟が、俺のことを兄さんってキラキラした眼差しでいつも見てくれるから、俺もここまで頑張れてるんだよ。
お前と比べられて嫌になることも多いけど、でもそれ以上に俺にとってもお前が支えになってるんだよ。
「なあ、話したいことがある。」
弟の目が揺らぐ。
「この前の話の続き、しよう。」
もう不安な事は何もないから。
もうお前に真っ直ぐ向き合う覚悟はついたから。
もうどう比べられようと苦手じゃないから。
俺は不安そうに見つめる弟に優越感を持って、にこにこと微笑んだ。
初投稿で不慣れで拙い文章ですが、最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。




