最後のベルで離縁された私。再婚を申し込んだ婚約者は、夫になった夜、最初のベルで飛んできました
「二度目を鳴らす前に来い」
ちりん。
その音がするたび、イレーネは手を止めて廊下を走った。
七年目、最後のベルで渡されたのは、離縁状だった。
――二度目の婚礼を終えた夜。
新しい夫、レオンハルト・ヴァルデック伯爵が居間の銀の呼び鈴を指したとき、イレーネの指先が、かすかに震えた。
「今夜、私と夕食を取りたいと思ったら、そのベルを鳴らしてください」
寝室と居間からなるイレーネの私室。その隣に、レオンハルトの私室がある。
「使用人は、暖炉脇の呼び綱で呼べます。そのベルは、私に来てほしいときだけのものです」
「朝と夜の食事は?」
「毎日ご一緒させてください。それ以外は、そのベルに委ねます」
「今夜も、ですか」
「今夜だけは、食事もベルに委ねます。鳴らす練習だと思ってください」
レオンハルトは銀のベルへ目を戻した。
「壁越しに聞こえます。鳴らなければ、一人で過ごしたいのだと受け取ります。勝手に入ることはしません」
「わたくしがお決めしてよろしいのですか」
「そのために尋ねています」
彼は眉一つ動かさず、真面目に答えた。
「では、隣におります」
イレーネの手にもベルにも触れず、レオンハルトは扉の向こうへ消えた。
呼び鈴は、もともとこの部屋に置かれていたものだ。
小ぶりな銀のベルで、持ち手には蔦の模様が彫られている。
何の変哲もない道具のはずだった。
それでも、イレーネはすぐには目をそらせなかった。
夫を呼ぶためにベルを鳴らすのは、これが初めてだった。
鳴らされる音なら、嫌というほど知っている。
酒を持ってこい。
書類を探せ。
上着を脱がせろ。
あの音の先で、自分を待っている人などいなかった。
離縁から一年が過ぎても、身体はまだ、走る支度をしてしまう。
この縁談へ返事をするまで、レオンハルトは一週間待ってくれた。
急がなくてよい。断るなら、それもあなたが選んだ答えとして受け取る。
見合いの席でそう言った彼なら、命令から始まる結婚にはしないだろうと思った。
だから、再婚を決めた。
それでも、ベルだけは別だった。
婚礼衣装を脱ぎ、侍女が下がったあとも、イレーネは銀のベルを見つめていた。
小卓には、二人分の夕食が用意されている。
鳴らなければ自室へ運ばせると言ったのに、レオンハルトの料理まで先にこの部屋へ運ばせてあったらしい。
律儀なのか、不器用なのか、分からない人だった。
銀の蓋の下から立っていた湯気は、もう見えなくなっている。
ベルを鳴らせば、夫が来る。
だがそれは、前夫が自分にしていたことと同じではないのか。
用件のために、人を呼びつける。
違うと、頭では分かっている。
それでも指は動かなかった。
隣の部屋からは、物音一つ聞こえない。
イレーネが呼ばないことを、彼はもう、一人でいたいという返事として受け取ったのかもしれない。
それでよいはずだった。
けれど二度目の結婚を、閉じた扉と冷めた二人分の食事から始めたくはなかった。
夫婦が夕食を共にするのは、身勝手な要求ではない。
何度もそう言い聞かせるうちに、置時計の長針はひと回りしていた。
イレーネは銀の持ち手をつかんだ。
手首を小さく動かす。
ちりん。
澄んだ音が居間に響いた。
直後、隣室で何かが倒れる大きな音がした。
慌ただしい足音が近づく。
間を置かず、扉が強く叩かれた。
「イレーネ。入ってもよろしいですか」
「は、はい。どうぞ」
扉を開けたレオンハルトは、血相を変えていた。
式服の上着を脱ぎかけていたらしく、左腕だけが袖に残っている。ネクタイは緩み、呼吸までわずかに乱れていた。
それでも彼は、許しを得るまで敷居を越えなかった。
「お呼びですか」
「はい。夕食をご一緒していただきたくて」
レオンハルトは一度目を閉じ、長く息を吐いた。
「……間に合った」
「お食事に、ですか」
「……そういうことにしておいてください」
彼はようやく室内へ入った。
片腕だけでぶら下がっている上着を見て、イレーネは尋ねた。
「隣のお部屋で、大きな音がいたしましたが」
「椅子が倒れました」
「まあ。ひとりでに?」
「……私の急な立ち上がりに、巻き込まれました」
あまりに大真面目に告げるので、イレーネの口元が緩んだ。
レオンハルトの左の眉が、わずかに上がる。
「笑いましたね」
「申し訳ございません」
「謝るところではありません。見合いの席より、椅子の方があなたを笑わせるのが上手だったようです」
イレーネは今度こそ声を立てて笑った。
レオンハルトも、遅れて小さく笑った。
二人は向かい合って席に着いた。
料理はぬるくなっていたが、温め直させればさらに遅くなるからと、そのまま食べることにした。
イレーネは何か気の利いた話をしなければと考えた。
今日の式。
参列者。
領地の天候。
どれも言葉にする前に、ひどくつまらない話に思えた。
「無理に話さなくても構いません」
考えを読まれたようで、イレーネの肩がこわばった。
「わたくしとの会話は、お嫌でしょうか」
「反対です。私は空腹になると、普段以上に話が下手になります」
「空腹でないときも、お得意には見えませんでしたが」
「正確なご指摘です」
また笑いそうになり、イレーネは口元を押さえた。
「黙って同じものを食べるのも、夫婦の夕食だと思っています。あなたが話したいときには、もちろん聞きます」
「では、今日は黙っていても?」
「私が助かります」
静かな食事になった。
けれど前の夫との沈黙とは違った。
機嫌を損ねたのではないかと顔色をうかがわなくていい。
急いで皿を空にする必要もない。
暖炉の薪がはぜる音を聞きながら、同じ料理を食べる。
それだけの時間が、イレーネには不思議なほど心地よかった。
食事を終えると、レオンハルトは扉の前で足を止めた。
「では、明日の朝食から。約束です」
「はい」
「私に来てほしいときは、それとは別に、いつでも鳴らしてください。聞こえたなら来ます」
「お仕事中でも?」
「来られないときは、そう伝えます」
必ず行くとは言わなかったことに、イレーネは少し安堵した。
「おやすみなさい、イレーネ」
「おやすみなさいませ、レオンハルト様」
扉が閉じてから、彼女は銀のベルを見た。
先ほどよりも、少しだけ小さく見えた。
*
約束の朝食と夕食に、レオンハルトは欠かさず現れた。
それ以外の時間、彼がイレーネの部屋へ勝手に入ることはなかった。
三日目の午後、厨房から林檎の焼き菓子が二つ届いた。
イレーネは紅茶を用意してから、銀のベルを鳴らした。
隣で机の引き出しが勢いよく閉まる。
すぐに扉が叩かれた。
「どうぞ」
迎えるために立ち上がったイレーネを見て、入ってきたレオンハルトはまず言った。
「座っていてください」
「ですが」
「呼ばれたのは、私です」
彼は右手にペンを持ち、左の頬にインクをつけていた。
「お仕事中に、申し訳ございません」
「ちょうど休もうと思っていました」
「頬にインクがついております」
彼は右の頬をこすった。
「反対です」
今度は額をこする。
「そこでもございません」
イレーネは笑いながら、ハンカチを手に取った。
彼の頬へ伸ばしかけて、指を止める。
レオンハルトは何も言わず、少しだけ身をかがめた。
白い布でインクを拭う。
頬へ触れたのは一瞬だったが、指先が熱くなった。
「取れました」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、お呼び立てして」
「呼んでくれて、ありがとう」
イレーネは思わず彼を見た。
初めて聞く、砕けた言い方だった。
レオンハルトは目を合わせず、林檎の菓子を吟味していた。
吟味するほどの数はないのを見て、照れ隠しだと私は分かった。
*
数日後、廊下で足音が止まった。
イレーネは旅行記を読んでいた。扉の下に人影が見えるのに、いつまで待ってもノックはない。
やがて足音が遠ざかり始めた。
イレーネはベルを一度鳴らした。
足音が止まり、戻ってくる。
「お呼びですか」
扉の外にいたレオンハルトは、薄い本を一冊抱えていた。
「先ほども、こちらにいらっしゃいましたか」
「通りかかっただけです」
私は、レオンハルトの手元の本が、気になった
「その本は?」
「昨日、船の旅行記を読んでいると仰っていたので。お貸ししようかと」
「それなら、なぜ扉を叩かなかったのです」
「読書中かもしれないと思いまして」
「なおさら、入ってくればよかったのに」
レオンハルトは返す言葉を探して黙った。
その沈黙に、本を選んでくれた時間の方が透けて見えた。
「せっかくですから、少しご一緒に読みませんか」
「よろしいのですか」
「そのためにお呼びしました」
本には、海峡を渡る船旅について書かれていた。
「わたくしは、いつかこの海峡を渡ってみたいのです」
イレーネは、白い崖の上に立つ灯台の挿絵を指でなぞった。
「長い船旅になりますね」
「ええ。ですから、憧れのままでもよいのです」
「……では、私は船に慣れる練習をしておきます」
イレーネは頁から顔を上げた。
レオンハルトは挿絵を見つめたまま、冗談だとは言わなかった。
庭に初雪が降った日、イレーネは窓辺からベルを鳴らした。
「雪が、降っております」
「よい報せです」
レオンハルトは窓の外を確かめ、深くうなずいた。
用件は、そこまで痩せていた。
それでも、何も持たずに鳴らすことは、まだできなかった。
一度だけ、すぐには来られない日もあった。
ベルのあと、扉の外から本人の声がした。
「申し訳ない。役人と話しています。終わり次第、伺います」
断りの言葉さえ、使いに任せなかった。
イレーネは待った。
半刻ののち、レオンハルトは言葉どおりに来た。
「お待たせしました」
「いいえ。お仕事中に、申し訳ございません」
いつもの言葉を口にすると、彼は座らずにイレーネを見た。
「なぜ、毎回謝るのですか」
*
「お忙しいところを、お呼びしておりますから」
「私は、自分の意思で来ています。来られないときは、そう伝えると約束したでしょう」
「はい」
レオンハルトは向かいの椅子へ腰を下ろした。
少しためらってから、銀のベルを見る。
「謝られるたびに考えるのです。あなたにとって、あのベルはまだ、鳴らしてはいけないものなのではないかと」
責める声ではなかった。
むしろ、踏み込むことを恐れる声だった。
「答えたくなければ、それで構いません」
この人になら、話してもよいのかもしれない。
婚礼から三週間。
そう思えるまでに、それだけの時間がかかった。
「前の夫は、落馬で脚をひどく痛めたことがございます」
イレーネは、銀のベルへ視線を落とした。
「結婚して間もない頃でした。長く寝台から動けず、枕元のベルでわたくしを呼ぶようになりました」
結婚した当初、前夫がイレーネへ関心を向けることは、ほとんどなかった。
それが看病を始めて一月ほどたった夜、薬を飲ませた彼女へ、初めて言った。
――君がいてくれてよかった。
「嬉しかったのです。呼ばれるたび、必要とされていると思いました。わたくしが役に立てば、いつか愛していただけるのではないかと」
脚が治ったあとも、前夫はベルを手放さなかった。
寝室から書斎へ移しただけだった。
屋敷には使用人がいるのに、妻を呼んだ。
少しでも遅ければ、気が利かないと責めた。
「二度鳴らされる前に着くのが、当然とされておりました。呼ばれたら走る。着いたら、立って待つ。それが七年の作法でした」
レオンハルトの視線が、一瞬、イレーネの椅子へ落ちた。
いつも立って迎える理由を、悟ったらしかった。
「一度だけ、使用人へ頼んでほしいと申しました。すると、妻のおまえが一番よく分かっているのだから、何が不満なのかと」
呼ばれているうちは、まだ必要とされている。
最初にもらった言葉をもう一度聞きたくて、イレーネは音がするたびに立ち上がり続けた。
「最後に鳴らされたのは、離縁の日です」
書斎へ行くと、署名済みの離縁状が置かれていた。
前夫は、愛する女性と結婚したいと言った。
イレーネがこれまで尽くしてきたことを口にすると、不思議そうに首を傾げた。
――世話をしてくれたことには感謝している。だが、感謝と愛情は別だろう。
「どれほど役に立っても、あの人が愛していたのは、わたくしではなかったのです」
紅茶の表面が揺れていた。
自分の手が震えているのだと気づき、イレーネはカップを受け皿へ戻した。
「ですから、自分がベルを鳴らすと、前夫と同じことをしているように思えるのです。あなたを、自分の都合で呼びつけているようで」
レオンハルトは、すぐには何も言わなかった。
慰めの言葉を探すのではなく、何かを決めかねるように、右手でカップの縁をなぞっている。
「ベルを片づけますか」
ようやく出てきたのは、ひどく実際的な提案だった。
イレーネは少し考え、首を横に振った。
「いいえ。いつか、用がなくても鳴らしてみたいのです」
「今は?」
「……まだ、できませんけれど」
声が小さくなった。
「それでも、あなたが来てくださるのを、わたくしは嬉しいと思っております」
レオンハルトの指が止まった。
「私も、呼ばれるのが嬉しい」
彼の答えは、いつもより低かった。
イレーネは、最初の夜から気になっていたことを尋ねた。
「では、なぜいつも、あれほど急いでいらっしゃるのですか」
「大事なあなたを待たせるわけにはいけませんから」
「でも初夜には、慌てて椅子を倒しました」
「椅子の位置が悪かったのです」
「レオンハルト様」
名前を呼ぶと、彼は逃げられないと悟ったように目を伏せた。
「結婚していたあいだ、前妻がベルを鳴らしたのは、一夜だけです」
今度はレオンハルトが、過去を話す番だった。
最初の結婚は、二十四歳のとき。
父を亡くして爵位を継いだ直後で、仕事さえ果たせば、よい夫でもあるのだと思っていた。
夕食に誘われても、話があると言われても、返す言葉はいつも、あとでだった。
「彼女の居間は、当時の書斎の隣にありました。ある夜、この先も夫婦としてやっていけるのか、今日こそ話したいと言われました。用意ができたら、ベルを鳴らすからと」
「ベルが、鳴ったのですね」
「聞こえていました」
レオンハルトは苦く笑った。
「あと一枚だけ書類を片づけるつもりで、使用人に、あとで行くと伝えさせました。一枚を終えると、別の一枚が気になった」
最初のベルから二時間あまりが過ぎた頃、ようやく彼は立ち上がった。
けれど隣の居間は暗く、翌朝、前妻は実家へ戻っていった。
「もちろん、あの一夜だけで離縁されたのではありません。それまで何度も、彼女より仕事を選んでいた。あのベルは、彼女が最後にくれた機会でした」
離縁の話し合いで、前妻は言った。
――私は伯爵を呼んだのではありません。夫に来てほしかったのです。
「私は、言われて初めて、彼女がずっと待っていたことに気づきました」
イレーネは、二度目が鳴ることを恐れていた。
レオンハルトは、二度目が鳴らないことを恐れていた。
同じベルを見ていながら、二人が思い出していた音は正反対だった。
「それ以来、あの音を聞くと、今度は使いを立てず、自分で行かなければと思うのです」
役人と話していた時も、断りさえ本人が扉の外まで告げに来た理由を、イレーネはようやく知った。
「婚礼の夜も、私がベルを鳴らさなかったらどうなさっていたんですか?」
「あなたが鳴らさなくても、その選択を受け入れるつもりでした。ですが、時間がたつほど、また扉の向こうから人がいなくなる気がした。だから鳴った瞬間、椅子を倒しました」
「では、あのときの間に合ったは、夕食のことではなかったのですね」
「はい」
イレーネの胸に、冷たい疑問が生まれた。
「あの夜、あなたは誰を待っていたのでしょう」
「イレーネ?」
「わたくしですか。それとも、前妻に応えられなかった夜をやり直す機会ですか」
すぐに否定してほしかった。
だがレオンハルトは、間を惜しんで取り繕おうとはしなかった。
長い沈黙のあと、彼は答えた。
「待っていたのは、あなたです」
静かな声だった。
「ただ、椅子を倒すほど私を急がせたものには、過去への恐れも混じっていました。それは否定しません」
イレーネは、続きを待った。
「雪が降った、とあなたが私を呼んだ日、とても嬉しかった。雪そのものではありません。あなたが見つけたものを、私にも見せたいと思ってくれたことが」
声が、少しだけ和らいだ。
「あなたに呼ばれる理由は、どんなに小さくても、私には幸せでした」
今のことは、分かった。
けれど、始まりはどうだったのだろう。
「では――この結婚そのものは、やり直しのためではないと言えますか」
レオンハルトは、まっすぐにイレーネを見た。
「最初は確かにやり直しのための縁談でした。それは否定できません。でも、こうして月日を重ねて分かったことがあります。私は、あなただから申し込んだのです」
嘘のない答えだと、分かった。
彼の中では、過去と今が分けられている。
分けられていないのは、自分の方だった。
会いたくて鳴らしているのか。
鳴らせば来てくれることで、自分の価値を確かめたいのか。
「身勝手で申し訳ないのですが、今夜は一人で考えさせてください」
レオンハルトの顔から表情が消えた。
「分かりました」
「あなたを責めているのではありません。ただ、自分が何を望んで鳴らしているのか、確かめたいのです」
「はい」
彼は静かに部屋を出ていった。
銀のベルだけが、二人の間に残った。
*
翌日、イレーネはベルを鳴らさなかった。
その次の日も、鳴らさなかった。
一晩だけ考えるつもりだった。
けれど持ち手へ伸ばすたび、同じ問いが戻ってくる。
答えの出ないまま、指は毎晩、銀の蔦に触れる手前で止まった。
約束の朝食と夕食で、二人は変わらず顔を合わせた。
天候や領地の仕事について、必要な会話もする。
けれど食事が終わると、レオンハルトはおやすみなさいと自分の部屋へ戻っていった。
鳴らないベルの前で、彼もまた、呼ばれていない扉を叩こうとはしなかった。
二日目の夜、扉の外で足音が止まった。
影が、扉の下の細い光を遮る。
レオンハルトだと思った。
彼はしばらく立っていたが、扉を叩かずに去った。
イレーネも呼び止めなかった。
自分から来てほしいと思っていた。
ベルが鳴らなくても会いたいと、彼の方から示してほしかった。
だが、それを一言も伝えていない。
去っていく足音と、呼び止めなかった自分。
どちらも、相手に尋ねることから逃げていた。
三日目の夕食は、レオンハルトが仕事のため遅くなると知らされた。
イレーネは一人で食べた。
食器が下げられ、紅茶も飲み終えた。
見せたい本も、分けたい菓子もない。
夫を呼ぶ用件は、何一つ残っていなかった。
隣室からは、紙をめくる音が聞こえる。
彼はそこにいる。
イレーネは銀のベルを手に取った。
このベルは命令ではない。
来てほしいと尋ねるためのものだ。
断られるかもしれない。
それでも、今、望んでいることは一つだけだった。
ちりん。
隣室で、椅子が倒れる大きな音がした。
イレーネは思わず笑った。
急いだ足音が廊下を渡る。
強いノックのあと、レオンハルトの声がした。
「イレーネ。入ってもよろしいですか」
「どうぞ」
立ち上がりかけて、イレーネは座り直した。
入ってきたレオンハルトは、やはり血相を変えていた。
今夜は、両腕とも上着の袖に収まっている。
「何かありましたか」
「いいえ」
「具合が悪いのですか」
「元気です」
「では、何をすれば?」
「何も」
レオンハルトが目を瞬いた。
イレーネは、何も載っていない卓上を示した。
「お食事は終わりました。本も読み終えておりません。お見せするものも、お願いしたいこともございません」
「それでは、なぜベルを?」
「あなたに会いたかったからです」
口にした途端、胸の奥にあったものがほどけた。
「何かをしていただくためではありません。前妻に間に合わなかったあなたを慰めるためでもない。ただ、わたくしが今、あなたに会いたかった」
レオンハルトは、立ち尽くしていた。
「来てくださって、嬉しいです」
彼の肩から、ゆっくりと力が抜けた。
「今夜ベルが鳴ったとき、最初に思ったのは、前妻のことではありません」
「では、何を?」
「あなたが、また私を呼んでくれたと」
レオンハルトは、イレーネへ近づいた。
「最初の夜、私を走らせたのは過去です。ですが、林檎の菓子に誘ってくれた日も、雪を一緒に見た日も、私が来たかったから来ました。あなたのところへ行く理由ができるたび、嬉しかった」
「それなら、なぜベルが鳴らないといらっしゃらないのですか」
「怖かったのです」
レオンハルトは苦笑した。
「前妻には、自分から会いに行かなかった。今度こそ自分からと思う一方で、呼ばれてもいない扉を叩いて、拒まれるのが怖かった。あなたの意思を尊重するためだと言い聞かせていましたが、結局は臆病だっただけです」
「昨夜も、扉の前にいらっしゃいましたね」
「気づいていましたか」
「はい」
「三度、叩こうとしました」
「一度も音はいたしませんでした」
「心の中では三度です」
真顔で言うので、イレーネは笑った。
レオンハルトも小さく笑う。
「次からは、実際に叩いてください」
「呼ばれていなくても?」
「はい。ただし、入ってほしくないときは、そう申し上げます」
「それは、少し怖いですね」
「わたくしも、ベルを鳴らして断られるのは怖いです」
「では、お互いに怖がりながら尋ねましょう」
「それがよいと思います」
レオンハルトが、そっと右手を差し出した。
イレーネはその手を取った。
彼の指が、イレーネの指を包む。
「結婚を申し込んだのは、失敗をやり直す相手が欲しかったからではありません。あなたと暮らしたかったからです。今は、あのときよりもずっと、あなたが好きです」
私はレオンハルトをみつめた
「あなたと結婚してよかったと思っております。わたくしも、あなたが好きです」
レオンハルトの顔が近づいた。
けれど触れる直前で、彼は止まる。
「口づけを、許していただけますか」
「はい」
唇が重なる。
初めは確かめるように短く、離れたあと、今度はイレーネの方から少しだけ距離を縮めた。
レオンハルトの腕が、ためらいながら背へ回る。
その夜はもう、ベルを鳴らす必要がなかった。
*
翌朝、イレーネがベルへ手を伸ばす前に、扉が叩かれた。
「イレーネ。入ってもよろしいですか」
開けると、レオンハルトが立っていた。
今朝は上着のボタンも袖も整い、呼吸も乱れていない。
扉が叩かれる前に、椅子の倒れる音も聞こえなかった。
「まだ、ベルを鳴らしておりません」
「知っています。今日は私が、あなたに会いたくて来ました」
イレーネは笑って、扉を大きく開けた。
「どうぞ」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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