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不解レイジネス

作者: 庵途

 清く、正しく、誠実に。

 それが僕に残された母との唯一の絆だった。

 母は由緒正しき名家に生まれた長女だったらしい。母はそんな家の跡取りになるべく、日々研鑽を積んでいた。しかし、母は生まれつき体が弱かったこと、そして性別などが理由で跡取りになることができず、勘当されてしまったという。

 自分を見捨てた家族に対して恨み言の一つでもいえば少しは楽になるだろうに、母は決して文句を言わずに、最後の最後まで誠実な人間であり続けた。

 母が病に伏し、その命を落としてからもう5年、僕は母のような強く、誠実な人になりたいと誓い、そうあり続けていた。

 だからこれは、そうあり続けた僕が少しだけ怠惰になるまでの物語だ。


「待て! 四宮!」

 蓬丘高校の廊下に、僕の鋭い怒声が響き渡る。

 近くの教室や廊下にいた生徒たちが何かあったのかと、僕と廊下を走る女子生徒に視線を向ける。

 僕はその痛々しい視線にたじろぎ、早歩きで彼女を追いかけるが、彼女はその歩みを止めることなく、廊下を走り続けていた。


「やだよ! 委員長!」

 彼女は一瞬、立ち止まって振り返ると、あざとく舌を出して僕を挑発する。

 可愛らしい顔から繰り出された言葉に、周囲の生徒が見惚れて彼女を見つめるが、その顔を何度も見ている僕には怒りしか湧き上がってこず、僕は廊下を走らないギリギリの速度で彼女との距離を縮める。

 しかし、彼女と僕の距離が短くなった瞬間、彼女は再び一直線に走り出した。


「四宮、いい加減進路希望調査書を出せ! クラスで出してないのはお前だけだぞ!」

「え~。委員長が適当に考えておいてよ~」

「自分の進路くらい、自分で決めろ!」

 慣れない大声で彼女に叫ぶ。それを聞いた彼女はとても楽しそうにケラケラと腹を抱えて笑っていた。

 彼女の笑い声が災いとして、周囲の視線は痛々しいものから生暖かいものに変わっていく。それらの視線は先ほどよりも気味悪く僕に纏わりつき、僕は今すぐにでも周囲の視線から解放されたいと切に願う。


「お前が出さないとクラスの全員が困るんだぞ」

「え~。とはいっても一人が出さないと他のみんなが困るっていうシステム自体おかしくない? それに、そもそも進路希望調査書っていう大事な物を、学級委員長とはいえ一生徒が集めるっていうのにも問題があるでしょ」

 ごもっともなことを言う彼女に、僕は苦し紛れに彼女に問う。


「なら、僕じゃなくって先生が来たら出すのか?」

「は? 出すわけがないじゃん。バカじゃないの?」

 彼女は目を見開いて、僕の顔を嘲るように見る。その顔と言葉を感じ取った瞬間、僕の脳から体にかけて彼女に対する怒りが満たされる。そして、それは次第に彼女を追いかける早歩きのスピードへと変換される。

 しかし、それを見た彼女は比例するように走るスピードを速めていき、僕との距離を一定に保ち続ける。

「だったら、どうしたら君は出してくれるんだッ!?」

 全身の力を使って彼女に叫ぶ。

 少しの静寂の後、彼女は立ち止まって僕の方を見る。


「……やだよ。未来のことなんて考えたくもない」


「え?」

 その口から零れ落ちた言葉はどこか寂し気で、僕は見たこともない彼女の様子に思わず、足を止めてしまった。

 僕が何も言えずに四宮を見ていると、彼女は不敵に口角を上げる。

「なんてねっ! 何かあると思った?」

 その顔はいつも見てきた悪戯が成功した子供の笑みであり、僕は怒りの代わりになぜだか安堵の気持ちで満たされる。

「お前、ふざけるのも」

 僕は彼女に一言、文句を言おうと一歩近づく。


 キーン、コーン、カーン、コーン!


 しかし、僕の歩みは学校中に鳴り響いた昼休みの予鈴によって呼び止められる。

 僕は廊下の天井に吊るしてあるスピーカーを睨みつけて、諦め混じりにため息を吐いた。

「はぁ……、とりあえず、今はもういいよ……。教室に戻ろう」

「え、戻らないけど」

「は?」

 踵を返して教室を戻ろうとした僕に対して、彼女は一ミクロンたりとも動こうとはしなかった。

「い、いや今から授業が始まるんだけど?」

「うん。行ってらっしゃい。私は図書館でマンガでも読んで来るよ。あとちょっとで読みたいマンガが読み終えられるんだよね~」

 そう言いながら彼女は大股で図書館の方へ歩いていく。ここから図書館に行くには僕たちの教室とは真逆の方向を歩くことになり、彼女は僕に背中を向けることになった。


 そんな彼女の進路を阻むように、僕は彼女の横を通り抜けて彼女の前に立ちはだかる。

「どうかしたの? 別に教室まで遠くないとはいっても、急がないと遅刻するよ?」

「いや、それは四宮も同じだろ。というか授業をサボるなんて、そんなこと」

 しかし、彼女はその言葉を嘲笑うように僕の肩を何度も大きく叩く。勢いをつけているのに弱々しい力が僕の体に響き渡る。


「あのな? 優等生。いいことを教えてやるよ」

 世界の真理を解き明かした賢者のような顔で、彼女は目を開く。

 その姿に僕は思わず黙ってしまい、彼女をじっと見つめる。

「昼休み後の数学は眠いんだ! だから、私は逃げる!」

「おい、待て!」

 彼女は高らかにそう叫ぶと、僕の横を走り去ってしまう。

 急いで彼女に向けて手を伸ばすものの、捕まえることはできず、彼女との距離は見る見るうちに開いていってしまう。

「じゃあね! どうせ誠実な君は私を追いかけるわけにはいかないだろ?」

 そういう彼女は、スカートのポケットからスマホを取り出す。そのロック画面には現在の時刻が映し出されており、授業開始まで残り3分を切っていた。

「おい、スマホの持ち込みは校則違……!」

「やべっ、逃げろ~!」

 彼女は、僕が何を言いたいのか分かったのか、慌ててスマホをポケットにしまって走り去る。

 スマホの持ち込みや廊下を走ること、そして進路希望調査書を出さないこと。様々な問題行動を彼女に問い詰めたかったが、時間的に今から教室に向かわないと授業に遅刻してしまう。

 僕は彼女を追いつきたいという気持ちを抑えて、彼女に背を向け自分の教室に早歩きで戻るのだった。




 宣言通り、彼女は5時限目の数学の授業に姿を現さなかった。それどころか6限やそのあとのホームルームにすら姿を現さず、ついに下校時間がやってきてしまった。

 教室にいたクラスメイトたちは学生鞄を肩にかけ、下校の準備を一斉に始める。

 一方で僕は座ったまま、机の引き出しからノート2冊と筆箱を取り出した。


「あれ委員長、自主勉?」

 それを見たクラスメイトの一人が僕に声をかけてきた。

 彼は校則違反すれすれに前髪を伸ばしていて、人懐っこい笑みを浮かべていた。

 そんな彼の質問に対して、僕は忌々しく首を横に振った。


「いいや違う。四宮が午後の授業に出なかったから。ノートでも作って渡しておこうと思ったんだ」

「うへ~。さすが委員長、真面目だね~」

 彼はへらへらとした態度で真面目という言葉を簡単に使う。その態度はどこかむかつき、思わず僕はムスッとした表情をしてしまう。

 しかし、そんな僕の感情を彼は気づいてくれず、清々しい笑顔を張り付けたままだった。


「まぁ、どうでもいいけど。この後カラオケ行くけど委員長も来る?」

「いや、遠慮しておく。そもそも、下校時の寄り道は校則違反だ」

「……つれないね~。先生には秘密にしておいてよ」

 彼は言葉とは違って一ミリたりとも残念な表情を一切せず、僕に手を振って教室の外へ向かっていく。

「分かった。先生には黙っておくよ、また明日」

「うん。またあした~。あ、ガムあるけどいる?」

 そういって彼は首だけ振り返って、ポケットの中から紙に包まれた縦長のガムを差し出してくる。

 僕はそれをジト目で見ながら、彼に告げる。

「要らない。それと、お菓子の持ち込みも校則違反だ」

「本当につれないね~」

 彼はそういってガムをポケットにしまい、今度こそ教室の外へ出て行ってしまう。


 少しだけ彼と話していたからか、いつの間にか教室には僕しかおらず、僕はため息を吐いた。

 僕は倦怠感のある体に鞭を打ち、授業中に使ったノートに書かれている内容を、もう1冊のノートに書き写していく。

 今日の授業の内容は一段と難しかった。そのため、自分自身の復習もかねて、僕は丁寧にノートに書き続ける。


 それからどれくらいの時間が経っただろうか。

 ふと、教室の前方にかかっている時計を見ると、もう1時間以上の時間が過ぎていた。

 それほどまで集中して、長い時間をかけて完成させたノートを満足げに眺めながら伸びをする。

「あ、終わった?」

「んっ!?」

 そして、教室の後ろの方から聞えてきた彼女の声に僕はびっくりして変な声を出してしまう。


「四宮!?」

「よっ。こんな時間まで残っているなんて勤勉だね」

 四宮は手を振りながらゆったりとした歩幅で僕に近づいていく。

「ちょうどよかった。四宮、これやるよ」

 僕の方へ歩いてくる彼女に対し、僕は机の上に置いてある完成したばかりのノートの写本を向ける。

 それを見た彼女は驚いた顔をして、ノートを見つめる。

「え、なにこれ?」

「いや、四宮が午後の授業をサボったから、ノート作っておいたんだよ」

 僕は左手でノートを叩くと、四宮は目を丸くして、口を閉ざしてしまった。


「な、何?」

 唐突に口を閉ざした彼女が少しだけ不気味で、僕は彼女の瞳を見つめながら問いかけた。

 そして、少しの間をおいて、彼女は儚く笑って、僕からノートを受け取った。

「ありがと。でも、それだけのために残っていたの?」

「え、うん……そうだけど」

 別に隠すことでもなかったので、僕は素直に彼女の言葉を肯定した。

 それを聞いた彼女は、突如として腹を抱えて笑い出した。

「あはははは!」

「な、なんで笑うんだよ」

「い、いや。普通、サボったやつのノート取るやつがいる? 君は誠実を通り越して、ただのバカだよ! バカ!」

「はぁ!? バカって言うなよ!」

 大笑いする彼女に戸惑いつつも、僕は不思議と楽しい気持ちになっていく。

 2人しかいない教室は、彼女の笑い声と僕の声がよく響いた。


「そういえば、なんで四宮はこんな時間まで残っていたんだ?」

「え? あぁ、そうそう」

 僕の質問に対して、四宮は自身の鞄の中から一枚のプリントを取り出す。

「はい。進路希望調査書。さっき君が何度もしつこく言うから書いて来たんだよ~」

 彼女は進路希望調査書をひらひらとさせて、彼女は笑っている。

「か、書いてきてくれたのか!?」

「……もちろんだよ」

 少しだけ声を低くし、彼女は目を逸らしながら僕の言葉を肯定する。

 しかし、彼女が進路希望調査書をようやく出してくれたということに歓喜していた僕は、そんな彼女の様子に一切気が付かず、彼女から進路希望調査書を受け取った。

「いや~。どうなるか不安だったよ。本当によかった」

 僕は安堵から声を上げて、進路希望調査書に目を移す。


 そして、それに書かれている内容を見て僕は表情を強張らせた。

「……四宮」

「ん? どうかした?」

 天使のような笑みを浮かべ、彼女は首を傾げる。

 僕はその笑みに相反して苦い顔を浮かべながら、彼女に向けて進路希望調査書を突きつける。

「これは……なんだ?」

 彼女から渡された進路希望調査書にはこう書かれていた。


 第一希望:たいだなせいかつ

 第二希望:なし

 第三希望:なし


「あ~。私の進路希望だよ。いや~、人間誰しもが楽な生活を求めているものでしょ?」

 彼女はさも当然のことのように、胸を張ってそう話す。

 そんな彼女の態度に腹が立ち、僕は進路希望調査書を近くの机の上に叩きつけて、彼女を睨みつける。

「もっと自分の進路のことをしっかり考えたらどうなんだっ!?」

 僕の叫びを聞いて、彼女は口を閉ざして目を伏せる。その顔からは先ほどまでの笑顔が嘘のように消えていた。

 言い過ぎた。

 彼女の顔を見てそう思った。しかし、それに気づいた時にはもう遅かった。


「……君は真面目だね」

 その声がいつも元気な彼女のものだと気づくのに、少しばかりの時間を有した。

 妖艶といえばいいのだろうか。退廃的といえばいいのだろうか。彼女の表情は触れたら壊れてしまいそうなほど、美しく見えた。

「……ぁ」

 僕の話は今、関係ないだろ。

 そう言葉にしようとしたはずなのに、喉がつっかえて言葉が出てこなかった。彼女の表情が僕に発言をすることすら許さなかった。

 彼女は一歩前に出て、机の上に置いた進路希望調査書を愛おしく、手に取る。

「君は誠実だ」

 そして、それを持ち上げて彼女は、丁寧に折りたたんでそれを学生鞄の中にしまい込んでしまう。

「君は正しいよ」

 彼女は僕に向けて手を伸ばし、僕の頬に触れる。

 彼女の冷たい体温が頬を通して全身に伝わってくる。


「で、それで君は満足なのかい?」


 夕焼けによって照らされる教室に悪魔の声が響き渡る。

 否定的でありながら、どこか甘ったるい言葉が、母に誓った僕のすべてを壊してしまう。

 そんな予感がした僕はふと、母の顔を思い出した。


「……れとこれとは話が違うだろ」

 母との絆が壊されかけて、ようやく言葉を出すことができた僕は、頬を未だに触り続ける彼女の腕を振り払い、彼女の言葉を否定した。

 彼女は振り払われた手を悲しそうに眺め、僕に視線を合わせようとはしなかった。

「満足が行くか行かないかの話じゃない。僕は自分の進路についてしっかり考えろって言ってるんだ」

「だから、そう考えることこそがつまらないって言ってるんだよ」

 彼女はそう言いながら鞄を机の上に置いて、教室を優雅に歩き始めた。そんな彼女に対し、僕は立ち止まって彼女を見つめ続ける。


「大学に行くのが正解か、それとも働きに出るのが正解か。君はどう思う?」

 彼女の問いかけに僕は考える。

 僕は大学に進学することを希望している。学びたい学問があるわけではないが、いい仕事に就くために。だからといって、高校を卒業してすぐに働くことを考えなかったわけではない。

両方の道を考えた僕だからこそ、すぐに答えは出てきた。

「それは……両方とも正しいというしかないんじゃないか?」

 僕の答えを聞いて、彼女は満足そうに頷いた。


「それはなんで?」

 一般的にはどちらの進路を進んだとしても、正しいとされるが、言語化しろと言われると難しいものがあった。

 だけど、考えれば考えるほど、僕はこの答えしかないと思い、口を開く。

「どちらであれ、自分で選んだことには変わらないから」

「ははは。やっぱり、君は誠実すぎる」

 僕の言葉に満足がいかなかったのか、それとも想定通りだったのか、どちらにせよ彼女は僕をあざ笑う。

 しかし、そんな彼女に対して怒りは一切生まれず、僕は彼女が何を考えているのかを早く知りたかった。


「じゃあ、君の言う通り私はたいだなせいかつを自分の意志で選んだんだ。だから、君は私を否定する資格はないんじゃないの?」

 息が肺に溜まるのを感じた。

 僕は口をあんぐりと開けて、彼女を見つめる。

 彼女はしてやったりという顔をしながらも、その表情はどこか寂し気であった。

「ま、待ってくれ……! 例え君がたいだなせいかつを望んでいたとしても、進路希望調査書には具体的なことを書くべきだ。進学するなら進学先を、就職するなら就職先を」

「じゃあ、書かなくてもいいじゃん。私はどこにも進学しないし、どこにも就職する気がないから」

 彼女は凛とした声でそう宣言する。

 その言葉には重みがあった。決して未来を考えることを放棄して、逃避的に出した答えではない。事情は知らないが、彼女は心の底からたいだなせいかつを望んでいることが伝わってくる。

 分からない。分からない。分からない。

 彼女は今、一体何を考えているのか。彼女は今、一体何を感じているのか。

 クラスメイトとして近くにいて、それなりに友好的に接してきたのに。なぜか目の前に立っている彼女は、見た目だけ同じで中身が別物の存在だと感じてしまうほど、僕の知っている四宮とはかけ離れた存在だった。


「……僕は四宮が憧れだったんだ」

 そんな彼女に対し、僕は何を言えばいいのかが分からなかった。ただ、気が付いたらいつか彼女に言おうと思っていた言葉が自然と口から零れ落ちていた。

「……それはきっと勘違いだよ」

「勘違いなんかじゃない」

 彼女は僕の言葉を否定する。その声はどこか弱々しくって、いとも簡単に否定することができた。

「1年の時、僕じゃなくって四宮が学級委員長だったよな」

「あ~。そう……だったけ?」

 彼女は1年前の自分自身に悪態を突く。その表情には嫌悪感が満ちていて、どこかやるせなさを感じさせた。

「あの時の四宮はさ、すごく誠実だっただろ? 勉強も運動も得意で、今日みたいに授業をサボることも、提出物を遅れることもなかった」

 当時の彼女のことを今でもよく覚えている。

 1年前の彼女は今のような間延びしたような喋り方はせず、はきはきとした口調だった。彼女は勉強も運動も僕なんかよりもずっと得意で、人当たりの良い性格だった。誠実が服を着て歩いているような人物。そういっても過言ではないほどであり、そんな彼女は僕にとってクラスメイトでありながら、憧れてしまう存在だった。

 しかし、高校2年生に進学したタイミングで彼女は何の前触れもなく、今のような不真面目な生徒へと変わってしまった。


「どうして、四宮は変わったんだ?」

 自分勝手だとは分かっているが、あの時、僕は彼女に裏切られたと思った。その雪辱を晴らすかのように、僕は彼女に恨み言を宣う。

 しかし、彼女は何も言わず、窓の方へ視線を向ける。

 彼女の瞳にはまるで世界を焼き尽くさんとする夕陽が反射しており、彼女は眩い光にゆっくりと目を瞑る。


「変わったんじゃないよ。隠すのをやめただけ」

 彼女は僕の顔を見て、ニヒルに笑う。

「だって、うざくない? 誠実になりなさいとか、正しくありなさいとか。大人たちはあなたのためっていう嘘をついて、私たちを道具のように扱おうとする」

 彼女は右手を自分の心臓に当てて、嘆きを吐露する。

 それは反抗期の少年少女にありがちの苦悩だった。

 でも、彼女の悲痛に歪んだ声を聞けば、そんなありきたりな言葉で片付けたくないと思ってしまった。


「ねぇ、委員長。この感情は間違いなのかな?」

 彼女は笑っていた。笑っているのに涙を流していた。

 その顔を見たからか、はたまた彼女の想いを否定したくなかったからか、僕は答えを出すことができなかった。

 正しいとも、間違っているとも、正しくはないとも、間違ってはいないとも。

 どんな言葉であれ、彼女の感情を表すのには相応しくないと思ってしまったのだ。


「……ごめん」

 その代わりに出てきたのは彼女に対する謝罪の言葉だった。

「何に対する謝罪なの?」

「君の悩みに気づかずに、僕は君にこうあるべきだと押し付けた。それと……」

 今の彼女に対して、僕がこういう言葉を伝えるのは、彼女を突き放すことに他ならないのではないのだろうか。そんなことを考えてしまい、僕の足と声は震えていた。

 しかし、僕は言葉にして彼女に伝えたかった。だから、僕は息を大きく吸って、心臓に酸素を回す。

 そして、緊張感とともに息を吐いて、呼吸を落ち着かせた。

「僕は君の感情の答えがわらかないけど、その感情は美しいものだと思った」

 それは自覚できるほど的外れな答えだった。それを聞いた彼女は右手で自分の涙を拭いとる。

「そっか」

 涙を拭った彼女の顔は、どこかすっきりとした顔つきをしていた。


「ねぇ、君はなんで誠実であり続けたいの?」

 今日だけで何度目かも分からない彼女の質問。しかし、この質問が最後の質問だということをなんとなく察してしまった。

 だから、僕はゆっくりと母の顔を思い出しながら言葉を口にする。


「母さんがさ、誠実な人だったんだ。生まれつき体が弱いのに心は本当にきれいで、僕はあの人のことを心から尊敬していた」

 思い出すのは朝日のような穏やかな母の笑顔。

 その顔を見て、僕もああいう風に笑える人になりたいと思い、母のように誠実になりたいと願った。

「中学生の時に母さんは持病で亡くなった。でも、その時に約束したんだ。僕は母さんのような誠実な人になるって」

 気が付いたら僕の右手の拳は握られていた。

 ゆっくり僕は右手を開くと、彼女が息を吸う音が聞こえてきた。


「四宮?」

「……ううん。なんでもない」

 彼女は首を小さく横に振る。

 そして、四宮は机の上に置いてある鞄を肩に掛けて、背筋を伸ばした。

「君は自分の意志で誠実で居続けることを選んだんだね。少しだけ羨ましいよ」

「四宮は違ったのか?」

「うん。私は大人たちにそうあるべきだって決められて、誠実な人間であるフリをし続けただけだよ」

 彼女は自身の過去を思い出しながら自嘲気味にそう笑った。

 その過去は僕には分からなかったが、それでも彼女にとっては辛いことだったということだけは伝わった。

「だから、君は自分を隠すのをやめたの?」

「うん。私は人間として、私らしく生きたいんだ」

 そう語る彼女の顔はとても晴れやかで、とても強く見えた。


「そうだ。先生に出したい書類があるから、ついでに私の進路希望調査書は出しておくよ」

「分かった」

「それじゃあ、バイバイ」

 そういって彼女は大手を振って教室から出ていく。

 僕は机の上に置かれているノートを鞄に片づけて、帰りの準備を始めた。

 僕は彼女の本心や悩みを知り、心の距離が近くなったのを感じていた。また明日以降、彼女と話がしたい。そう思っている自分がいることに気が付き、思わず笑みがこぼれる。

 しかし、この日を境に彼女は高校に来なくなった。



 1か月後。

 帰りのホームルームが終わり、僕は教科書類を鞄に入れ、帰りの準備をする。

「なぁ~、委員長。今日は勉強して帰らないの?」

 いつの日か、僕に話しかけてきたクラスメイトが再び僕に声をかけてきた。

 僕は彼に視線を向けて首を傾げる。

「別に。テスト週間じゃないから、切羽詰まって勉強するつもりはないよ」

「あぁ、そっか。前ノート書いてたのは四宮さんのためだったもんな」

 彼は退屈そうにそういい、ふと思い出したかのように瞳孔を開いた。


「最近、四宮さん見ないけど、どうかしたの?」

「いや、なんで僕に聞くの?」

 彼の視線の先にはこの1か月の間、空席になっている彼女の席があった。

 彼の視線に釣られて、僕も彼女の席を見て、1か月前のあの日のことを思い出す。

「いやさ、委員長だけだったじゃん。あの四宮さんに積極的に関わろうとしたの」

「あ~。言われてみればそうだったっけ」

 あの四宮さんという言葉に、少しだけ不快感があるものの、僕は彼の言葉の意味も分からなくはなかった。


「1年の時はいい人だったのに、2年生になったら人が変わったように近づきにくくなっちゃったからな~」

 僕たちが通う高校は、進学校というわけではないが、真面目な生徒が多い。そのため、四宮のように平気で授業をサボったり、提出物を遅れて出す不真面目な生徒は、悪い意味で珍しい存在だった。


「それで、四宮さんはどうしているのか知っているの?」

「あぁ、四宮なら学校をやめたらしいよ」

「は?」

 僕の答えに対して、彼は素っ頓狂な声を上げる。

 その姿が少しだけ面白くって、僕は彼を見つめる。

「え、は、どういうこと?」

 困惑する彼は言葉の意味を理解できていないようで、目を丸くしている。

「言葉通りの意味。1か月前に四宮、自主退学したみたいでさ」

「……え、え~」

 僕は当時のことを思い出しながら、呆れ交じりに溜め息を吐いた。

 1か月前のあの日、帰りにみんなから集めた進路希望調査書を先生に提出するため、職員室に向かった。そして、担任の先生から先ほど四宮から退学届が提出されたことを聞かされたのだった。

 僕は慌てて四宮を探したが、どこにも見当たらず、連絡先を知らない僕は四宮に連絡する手段もなく、彼女とは1か月くらい連絡も会話もない生活が続いていた。


「なんか、委員長落ち着ているね」

「え、そう?」

「だってクラスメイトが退学したら普通動揺とかしない?」

 彼に言われて僕は少し考える。

 そして、考えた結果、僕は口を開いた。

「別に……それが彼女が考えた結果ならいいかなって」

「なんか冷たいな。委員長」

「そうか?」

 自分で言うのもなんだが、冷たいとは少し違うと思う。

 いうなればただの理解。彼女がそういう選択をしたのだから、それに関わる権利のない僕は黙って受け入れるものだ。それをきっと彼女も望んでいることだから。


「まぁ、いいや。そうだ、ガムいる?」

 そういって彼はポケットの中から紙に包まれたガムを取り出して僕に差し出してくる。

「……そうだね。1枚貰ってもいい?」

「……委員長、熱でもあるの?」

「どういうこと?」

 自分で提案したのに、それを受け入れると思っていなかった彼は、冷ややかな目でこちらを見てくる。

 その姿に僕は少しだけ苛立ちながらも、笑顔で彼を見つめる。


「いや、なんでもない。ほい、ガム」

「ありがとう」

 僕は紙に包まれたガムを1枚貰い受け、それを口の中に放り込んだ。

 やけに甘ったるい人工的なグレープ味が、口の中を侵食していく。

「……ちなみになんだけど、カラオケには」

「あ、校則違反だから」

「ですよね~」

 僕は左手の手のひらを見せて彼の誘いを断ると、なぜだか彼は落ち着いた顔をしていた。

「まぁ、いいや。それじゃあまた明日」

「うん。また明日」

 彼は僕にそれだけ言い残して帰路に着く。


 周囲を見回すと教室には僕しか残っておらず、1か月前のあの日のことを思い出す。

 僕は今でも彼女が何を求めていたのか、答えを見出せていない。

 彼女は自由を選びたかったのか、それとも誠実から解放されたかったのか。

 彼女は間違えたかったのか、それとも正しくありたくなかったのか。

 1か月間、考え続けてもその答えは分からなかった。

 口の中で姿を変えていくガムの味と共に彼女の言葉を思い出していく。

 彼女のたいだなせいかつを求める言葉は、どこまでいっても僕の求める誠実さとは真逆なものなのに、確実に僕が大事にしてきた誓いにズレを生み出していた。

 そして、それを認め、僕は口を開いた。

「僕も四宮のことが少しだけ羨ましいよ」

 夕陽のように泣いて笑った美しい彼女のことを思い出ながら、僕はガムを飲み込むのだった。

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