剥がれかけた仮面
クロフォードと別れたセインドゥールが向かったのは、舞踏会が行われている会場ではなかった。まだ舞踏会は終わっていない。それでも戻る気分にならず、無意識に足が向いたのは学生会室だ。
中に入り、しっかりと施錠をする。そうしてソファーに座ると、制服の上着を脱いでネクタイを緩め、身体を倒し仰向けの形で横になった。そのまま左腕で目元を隠すようにして乗せると目を閉じる。
「まずい、な……」
舞踏会の時も、実を言えばあまり動き回りたくはなかった。あの時はここまで酷くはなかったのだが、先ほどの騒動もあって、どうやら限界が来てしまったらしい。頭を鈍痛が襲ってきていた。理由は考えるまでもない。睡眠不足からくる不調。ここ最近二、三か月ほどはぐっすり眠れた日はなく、もはやこの痛みにさえ慣れつつあった。倒れずにいることができたのは、ただ皇太子としての意地があったからだ。他人の目がある場所で、弱さをみせてはならない。それが誰であっても。そうしてずっと過ごしてきた。
これまでもずっとそうだった。あのような戯言など聞き流せば良かっただけなのに、それができなかったのは思った以上に精神的に疲れていたからか。もしくは、クロフォードが述べた薄気味悪い言葉に衝撃を受けすぎたためか。いずれにしても、今の状態のまま会場に戻ることはできなかった。取り繕うべき皇太子の仮面が剥がれかかっている。このような姿はヴェスティンにも、ましてや学生たちにも見せることはできない。
ちらりと壁に掛けられている時計をみれば、舞踏会が終わるまでまだ時間があるのがわかる。終了までヴェスティンが戻ってくることはない。護衛を兼ねている騎士たちもセインドゥールが声を出さない限り入室してくることもない。この時間だけならば許されるだろうかと、セインドゥールは身体が欲するままに眠りの世界へ誘われていった。
それは突然だった。近づく気配を感じたセインドゥールはハッとして目を開けると共に、近づく気配を掴む。
「あ……」
掴んだそれは細い手首。そして目の前にある碧色の瞳には己の顔が映っていた。サラリと流れるストレートな金髪が眼前に落ちてくる。目の前にいるのは、ルティアナだった。そう認識して、セインドゥールは内心で安堵の息を吐く。
「ファレン、ティーノ嬢……か」
「……申し訳ありません。その、どこか体調でも悪いのではないかと思いまして」
その距離はダンスを踊っていた時よりも近い。ここまで近づいていたのに気が付かなかったのは、セインドゥールの失態だ。掴んでいた手首を放し、身体を起こす。膝をついていたルティアナもそれに合わせるようにして立ち上がった。
「許可なく勝手なことをしてしまい申し訳ありません。何度かお声がけもしましたが、お返事もありませんでしたので」
「……いや、気づかなかった私が悪かった。すまない」
気づかずに寝入ってしまったセインドゥールが悪い。ルティアナはただそれを案じただけ。目が覚めた時に見たルティアナの表情には、何の思惑も見えなかった。もし何かの意図があって近づいたというのであれば、何かしらの反応を示すものだ。
「皇太子殿下、ご気分が優れないようでしたら、学院の侍医をお呼びしましょうか?」
「必要ない。少しばかり気を抜いていただけだ」
一時的にではあっても休むことはできた。鈍痛が完全に治ったわけではないけれど、先ほどよりは楽になっている。ならば十分だ。
「舞踏会はまだ終わっていないが、ファレンティーノ嬢はなぜここに?」
改めて時計を確認すれば、終了時間まであと三十分ある。加えて今日は学生会室に来るように伝えていない。だからこそ不思議だった。ルティアナがここにいることが。
「会場にクロフォード殿下のお姿はあったのですが、皇太子殿下が戻られた様子はありませんでしたから、こちらにいらっしゃるのではないかと」
「……戻ったのか」
「はい。リリアナさんとご一緒でした」
戻るなとは告げていない。クロフォードが会場に戻っても咎める者はいないのだが、あの状況でまたリリアナと一緒にいられるその強心臓は驚嘆に値する。少しは疑念を抱くのかと思ったが、それもなさそうだ。
セインドゥールは立ち上がると緩んでいたネクタイを締め、上着を羽織った。そのまま扉の前まで歩けば、その後ろをルティアナが付いてくる。
「お戻りになるのですか?」
「皇城に帰る。ヴェスティンにはそう伝えておいてくれ」
「……承知しました」
「ファレンティーノ嬢」
「はい」
扉の前で立ち止まったセインドゥール。振り返ると、ルティアナの手を取り壁際へと追いやった。そしてその態勢のまま壁に手を突く。流石のルティアナも表情が変わった。逃げ道を塞いだ状態で、困惑顔を見せたルティアナがセインドゥールを見上げる。
「私はこれでも君のことは信頼している」
「……光栄でございます」
「ここで見たことは、誰にも言わないでもらいたい」
「皇太子殿下の体調が優れないこと、でしょうか?」
ルティアナの言葉にセインドゥールは答えなかった。それを認めるわけにはいかないから。
「ここに私といたことも、すべてだ。それだけでいい」
「わかり、ました」
ルティアナに拒否権はない。このようなやり方をすれば、頷く以外にできることはないのだ。わかっていてなお、セインドゥールはルティアナに強要をした。
「感謝する」
耳元でそう告げると、セインドゥールは壁から手を離す。このままこの場に留まれば、そう時間もかからずにヴェスティンがやってくる。今は顔を合わせたくない。セインドゥールは急ぎ足で学生会室を退出していった。