第8章 天然痘
「左大臣が藤原に殺された?」聖武天皇は考え込んだ。「・・・それは証拠があるのでしょうか?」
「証拠を残さないのが、いつもの奴らの手でしょう?」
元正上皇がそう言い放つと、聖武天皇はおずおずとこう言った。
「しかし、左大臣を暗殺するなんて、そんな大それた真似が、中納言にできますでしょうか?」
「武智麻呂にはできないわね」
「そうですよ。私は藤原邸で育ちましたので中納言のことはよく知っておりますけど、そこまで腹をくくれるというか、肝っ玉の据わった男ではないと思います」
「首謀者は他にいるのよ」
「一体それは誰ですか?」
聖武天皇がそう尋ねると、元正上皇は即答した。
「橘三千代よ。奴が絵図を描いたのよ」
「え、橘・・・」
言葉を詰まらせた聖武天皇は義母の顔を思い浮かべた。
「藤原の中で、このような大胆不敵な犯行を立案し、実行できるのは、あの女しかいない。間違いないわ」
「確かに」
「皇親勢力を弱体化させ、自分たち藤原一族が再び朝廷内での力を取り戻す為、左大臣を暗殺したのよ、あの三千代は」
「充分あり得ますね」
「そんな薄汚い陰謀の犠牲になり、妹が死んでしまった・・・わたしの大切な妹が・・・可哀想に・・・たった一人の妹が・・・」
と、元正上皇は袖で涙を拭った。
「あの・・・吉備内親王さまの件ですが、こちらに関しては間違いなく自殺ですから。これだけはハッキリしております」
聖武天皇がそう説明するや、元正上皇は激高して「そんな事わかってるわよ!」と大声を上げた。委縮した聖武天皇は「す、すいません」と頭を下げた。
「だけど、殺されたのと同じじゃないの、あの状況では」
「そうかもしれません」
「そうかもしれませんじゃないわよ。そうなのよ。妹は殺されたも同然なのよ」元正上皇は目を血走らせながらそう言った。「藤原め、絶対に許さないから。呪ってやる。滅ぼしてやる。この代償を払わせてやる」
長屋王がいなくなった朝廷では、さっそく三月に武智麻呂が大納言に昇進し、八月にはアスカが念願の皇后になった。光明皇后である。これ以降は彼女をそう表記させて頂く。心に後ろめたいものがあるのか、光明皇后は施薬院と悲田院を設けて福祉事業に力を入れた。
藤原家の他の兄弟・・・房前、宇合、麻呂も順調に昇進していった。三千代の思惑通り、藤原一族が再び朝廷内を席巻するようになったのである。その三千代は、四年後の天平五(733)年正月、藤原一族の躍進を見届け、この世を去った。享年六十八歳。悔いの無い人生であったと思われる。
タカノは十代になり、同世代の女友達と一緒に学んだり遊んだりして楽しい時間を過ごしていた。異性に対する関心も芽生えてきて、当時二十代前半だった武智麻呂の長男・仲麻呂を宮中で見かけると、顔が真っ赤になり心臓がドキドキすることがあった。タカノの初恋であったのかもしれない。ただし、社会は決して平穏だったわけではなかった。天平四(732)年の夏は干ばつとなり、翌年は大規模な飢饉が発生した。天平七(735)年には平城京を大地震が襲っている。このあと天然痘が大流行することになるのだが、このように日本は災害続きだった。
そんな中、タカノが気がかりなのは、あれだけ可愛がってくれていた元正上皇が、まったく会ってくれなくなったことである。長屋王が亡くなった後、元正上皇は中宮西院に閉じこもり、タカノだけでなく誰とも会おうとしなくなった。噂では何やら怪しげな祈祷をおこなっているという話だった。
十四、五歳になると女友達は次々と結婚していったが、タカノには縁談はおろか、結婚させようという気配も無かった。乳母の石井が心配して光明皇后にそれとなく訴えたが、皇后は言葉を濁して、この話題を避けた。
大地震のあった天平七(735)年、遣唐使留学生として唐に渡っていた下道真備(後の吉備真備である)と僧・玄昉が十八年ぶりに帰国した。二人と共に唐へ渡った阿倍仲麻呂も、このとき一緒に帰国の途に就いたが、残念ながら仲麻呂の乗った船は途中で難破して日本へ帰れず、唐に逆戻りした。
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
の和歌で有名な仲麻呂は、唐でその生涯を終えた。
下道真備は帰国時に四十歳。どこか飄々とした風貌をしており、その世間離れした雰囲気が、いかにも学者という感じの中年男だった。貴重な典籍を多数持ち帰った功績が認められ、帰国後は大学助に任官した。
玄昉は帰国時に三十四歳。この玄昉もまた貴重な経典や仏像を多数持ち帰ったが、真備ほど評価されなかった。腹を立てた玄昉は、俺の力と価値を朝廷の連中に思い知らせてやるとばかりに、うつ病で長いあいだ心神喪失の状態にある聖武天皇の生母・宮子を、唐で修得した孔雀王咒経の秘法で正気に戻してみせると宣言した。これは一か八かの賭けである。成功すれば立身出世が保証されるが、失敗すればどんなお咎めを受けるかわからない。下手すれば処刑されるし、最低でも都にいられなくなるだろう。しかし、玄昉は野心家であり、自信家だった。
(必ず治してみせる。俺はこの賭けに勝って立身出世するのだ)
玄昉には切り札があった。唐から持ち帰った秘薬である。おそらく麻薬の類いであろう。これを使って固く閉ざされている皇太后の心の扉をこじ開けるのだ・・・孔雀王咒経と秘薬があれば勝利は間違いなし・・・玄昉はそう信じていたが、宮子の治療はすぐには許可されなかった。
この頃、平城京で天然痘が猛威を振るい始めた。遣新羅使が半島から持ち帰ったものらしい。人がバタバタと死んでゆき、新田部親王と舎人親王が亡くなった。タカノの乳母・石井までもが犠牲になった。これだけにとどまらず、天平九(737)年に入ると、四月に藤原房前、七月に藤原武智麻呂と藤原麻呂、八月に藤原宇合と、藤原四兄弟がたて続けに亡くなった。国家の一大事である。国の機能を維持する為に、聖武天皇を始め朝廷の人間は奔走していたが、元正上皇だけは上機嫌で高笑いしていた。
「ざまあみろ、藤原め。わたしの祈祷が効いたんだ。呪いの祈祷が効いたんだ」
元正上皇は自分が藤原四兄弟を呪い殺したと信じていたようだが、世間の人々はそう思わず、誰からともなく「これは長屋王の祟りに違いない」と囁かれ始めた。長屋王が怨霊になって藤原四兄弟に復讐したのだ、と。こうなると平静でいられないのは光明皇后である。
(次はわたしの番だ)
恐怖で震え上がった光明皇后は自室に閉じこもり、外へ出て来なくなった。そんな光明皇后を心配した聖武天皇は、都の僧たちに命じて祈祷させたものの、天然痘が収束する気配は無かった。
「困ったものだ。どうすりゃいいんだ、俺は」
聖武天皇が悩んでいると、十九歳になったタカノがこう助言した。
「何か善行をおこなえば状況が改善するかもしれないわよ、父上」
「善行って恩赦か?」
「恩赦に限らず、何でもいいのよ、誰かのためになる事なら」
タカノにそう言われた聖武天皇は一つの案を思いついた。
「あ、そうだ、前々から玄昉が母上を正気に戻す治療をやらせてくれと申し出ていたんだ」
「え? お婆さまを? 玄昉が治療?」
「そうそう。だけど、玄昉に大切な母上を任せる事に抵抗があったし、奴の治療とやらもいまいち信用できなかったので、これまでずっと断ってきたのだけど、良い機会だから一度やらせてみようか? 母上を正気に戻すのも善行には違いないからね。どう思う、タカノ?」
「うん。良いと思うわ」
こうして天平九(737)年十二月、玄昉に宮子の治療をおこなう許可が下りた。さっそく宮子は皇后宮の一室に移されると、その部屋に玄昉が入り、内側から施錠した。宮子と二人きりである。玄昉は決して他の者を部屋に入れようとしなかった。それゆえ中で何がおこなわれていたかは誰にもわからない。時おり玄昉による読経の声が聞こえた。女の悲鳴も何度か。外に聞こえてくる音が、時間がたつにつれ次第に大きく、激しく、禍々しくなっていった。床や壁に何かがドスンとぶつかる音。皿が割れる音。建具が倒れる音。絶叫。泣き声。うめき声・・・部屋の外で監視していた役人たちが不安にかられ、
(このままで大丈夫か? いちど中の様子を確かめた方が良くないか?)
そう思い始めた直後、とつぜん音が消えた。部屋の中は静まり返っている。外の役人たちが固唾を飲んで見守っていると、静かに扉が開き、疲れ切った表情の玄昉が出てきた。玄昉は役人の一人をつかまえてこう言った。
「陛下にお知らせしてくれ、皇太后さまが正気に戻られた、と」