第7章 長屋王の変
藤原武智麻呂らが去ると、すぐさま長屋王の部屋に、正室の吉備内親王と、息子の膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王が心配そうな様子で集まった。
「父上、大丈夫ですか?」
息子たちから口々にそう尋ねられた長屋王は、少し疲れた顔で「大事ない」と答えたが、そのあと吉備内親王の方を向き、
「しかし、けったくそ悪いのは確かだから、おい、酒を用意してくれ。今夜は酒でも飲んで気分を晴らさなきゃ眠れそうにないわ」
と言った。吉備内親王は侍女に命じて酒と料理を運ばせた。長屋王は四人の息子と酒盛りを始めた。酒が進むと息子たちの口から出る言葉は藤原一族の悪口ばかりだった。
「まったく藤原の奴ら、見え透いた嫌がらせをしやがって」
「皇室の安寧と発展を誰よりも望んでいる父上が、基王さまを呪詛するわけがなかろうが」
「しかし、こういう卑怯な真似をするという事は、藤原側がそうとう追い詰められているという証拠でしょうな」
「藤原といっても所詮は豪族の一つに過ぎないではないか。我ら皇族に歯向かうとは片腹痛いわ」
酒宴は夜中まで続いたので、吉備内親王は「ほどほどになさって、お休みになってくださいね」と言い、先に自分の部屋へ戻って寝た。
「わかったよ。もう少し飲んだら、お開きにするよ」
そう言って吉備内親王を見送った後も、長屋王は息子たちと酒宴を続けていた。ところで、藤原側では長屋王の動静を探る為、かねてより邸内に侍女をひとり忍び込ませていた。あらかじめ橘三千代の指令を受けていたその侍女は、うまく他の侍女たちを遠ざけた上で、頃合いを見計らって酒に眠り薬を混ぜた。何も知らない長屋王はどんどん酒をあおっていたが、
「あれ、今夜は藤原のせいで気が立っているものだから、なかなか酔わないなと思っていたら、急に効いてきたな」
そう呟いたかと思ったら、急にごろんとその場で寝てしまった。息子たちも「父上、どうなされました?」と言ったきり、次々と気絶するように眠り込んだ。
夜中にもかかわらず、頭巾で顔を隠した三千代が、長屋王邸の前まで来ている。
藤原方の侍女から「長屋王と息子たちが酩酊状態に陥って眠った」という報告を受けた三千代は、ただちに長屋王邸を包囲している藤原宇合に第二の指令を出した。いったんやると決めたら徹底的にやる。覚悟を決めて最後までやり通す。中途半端に終わるのがいちばん良くない。非情に徹してやり遂げる・・・こういう信念の持ち主である三千代に、ためらいは無かった。三千代の指令を受けた宇合は、前もって選抜していた数人の兵士を、密かに邸内へ送り込んだ。侵入した兵士たちは熟睡している長屋王と息子たちの首に縄をかけ、次々と手際よく天井から吊るした。長屋王と四人の息子は意識を失ったまま殺害されてしまった。極秘任務を終えた兵士たちは静かに長屋王邸から退出し、何食わぬ顔で再び包囲の役目についた。
「総て予定通りに終わりました」
宇合から報告を受けた三千代は無言のまま藤原邸に戻った。
朝方、郎党の一人が長屋王と息子四人が首をくくって死んでいるのを発見し、たちまち邸内は大騒ぎとなった。すぐに吉備内親王が駆けつけたが、そこで目にしたのは変わり果てた夫と息子たちの姿だった。吉備内親王は
「あなた、どうして?・・・」
それだけ言うと、後は言葉にならず、ただ泣くばかりだった。
騒ぎを聞きつけ、長屋王邸を包囲していた宇合が邸内に乗り込んで来た。そして長屋王と四人の息子の死を確認すると、吉備内親王に向かってこう報告した。
「我らは一晩中お屋敷の周りを厳重に包囲しておりましたが、怪しい者が侵入する姿や、逆に怪しい者が出て行く姿を目撃した兵は一人もおりませんし、そのような痕跡もございません。従いまして、左大臣さまとご子息は集団自殺なさったものと思われます」
この白々しい報告を聞いた吉備内親王は内心で、
(夫と息子たちが自殺するわけない・・・殺されたんだ・・・こいつらに殺されたんだ)
そう思って怒りがこみ上げたが、一方で今さらどうでも良いという諦めに似た気持ちも強かった。
どうせ証拠は見つからないだろうし、たとえ犯人を挙げたところで夫と子供が生き返るわけではない・・・虚しい・・・虚しすぎる・・・夫と子供がいなくなった世界で生きてゆく意味があるのだろうか?・・・わたしには無い・・・考えられない・・・わたしも夫と子供がいる世界へ行きたい・・・そちらの世界へ移りたい・・・早く・・・
吉備内親王は侍女たちの目を盗んでひとり自分の部屋へ閉じこもると、首に縄をかけ、長屋王と同じように天井からぶら下がった。
その朝、聖武天皇は目覚めるなり、緊急の用件で参内した武智麻呂から「長屋王とその家族が自殺した」という衝撃の事実を告げられ、仰天した。
「さ、左大臣が? まことか?」
「はい、事実です」
「家族も一緒に?」
「ええ、四人の息子と一緒に。正室の吉備内親王さまは、左大臣の死を知って後追い自殺をなさいました」
「何と惨たらしい・・・」聖武天皇は両手で顔を覆った。「なぜこんな事になったんだ?」
「さぁ・・・」と、武智麻呂は考えるフリをした。「おそらくは昨日の窮問がこたえたものと思われます」
「しかし、左大臣は身の潔白を主張したのであろう?」
「ええ、確かにそうなのですけど、わたくしどもが屋敷を出た後、これ以上は罪を隠しきれないと観念し、衝動的に息子らと共に自殺を図ったのでしょう」
「そんなに追い詰められていたのか、左大臣は?」
「最初のうちはのらりくらりと追及をかわしていたのですけど、最後の方はだんだん余裕が無くなっていった印象でした」
「信じられない・・・あの左大臣が・・・」
そう呟くと聖武天皇は立ち上がり、爪を噛んで考え事をしながらその場をウロウロ周回し始めたので、武智麻呂が声をかけた。
「陛下、自殺した事により左大臣の罪は明白になりました。この上は速やかに左大臣を断罪する勅を発してください」
「左大臣を断罪する勅?」
「はい。それがないと朝廷の威信が保てません」
「私には何も思いつかないよ」
「それなら私が文案を作成いたしましょうか?」
「任せるから、うまくやっておいてくれ。私はいま物事を考えられる状態ではないのだ」
「かしこまりました」
このような経緯で武智麻呂が執筆し、聖武天皇の名前で十五日に出された勅には、こう書かれていた。
「左大臣正二位長屋王は残忍で道理に暗く、その凶暴な性格を露わにして悪の限りを尽くしたので、もともと緩やかにしてあった法の網にさえも引っかかってしまったのである」
長屋王の自殺により宮中がてんやわんやの大騒ぎになる中、聖武天皇は元正上皇に呼び出されたので、すぐさま中宮西院へ出向いた。聖武天皇の姿を見るなり、顔を紅潮させ憤怒の表情をした元正上皇は、
「おまえが左大臣を殺せと命じたの?」
普段と違う乱暴な言葉使いでそう怒鳴りつけた。
「滅相もございません」自分に対する思いもよらぬ怒りと言いがかりに面喰った聖武天皇だが、気を取り直して弁明した。「私はそんな真似はいたしておりません」
「では、どうしてこうなったのか説明してみなさいよ」
「はい。最初は左大臣が左道を使って国を転覆しようと図っているという密告があったのです」
「バカバカしい」
「私もバカバカしいと思って最初は無視していたのですが、基王が呪詛された可能性があるので、いちおう調査だけはしておくべきだと中納言が申すものですから」
「中納言って藤原武智麻呂のこと?」
「そうです。それで中納言を窮問の使者にして左大臣邸へ派遣したのです」
「なんで武智麻呂なんかに任せたのよ?」
「いいえ、任せたわけではありません」と、聖武天皇は慌てて訂正した。「罪をでっち上げられてはいけないと思い、信頼できる舎人親王と新田部親王を正使に任命いたしました。中納言は副使にすぎません」
「それで左大臣は罪を認めたの?」
「認めておりません」
「当然だわ」
「ところが、その夜、左大臣と息子四人がとつぜん自殺したものですから、私を含めた皆がビックリして、朝から大騒ぎをしていたところなのです」
「自殺じゃないわよ」と、元正上皇は断言した。「左大臣は殺されたのよ、藤原に」