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第6章 密告

 基王もといおうの死後、藤原武智麻呂ふじわらのむちまろは未練がましくアスカに再び皇子みこを産んでもらおうと動いていたが、橘三千代たちばなのみちよは事実上もう無理だろうと考えていた。

 アスカはもはや三十歳近いし、例の薬は体が慣れて効かなくなったし、仮に妊娠できたとしても産まれてくる子供は基王と同じ未熟児かもしれないし、女子かもしれない・・・そう考えると、藤原一族の血を引く者を次の天皇にするという望みが叶う確率は限りなく低く思える・・・それよりも、もっと現実的に、安積親王あさかしんのうをこちらの思い通りに操る方に考えを移行すべきだ・・・しかし、その場合、藤原一族の前に立ち塞がるのは、長屋王ながやおうである。間違いなく長屋王である・・・それに、もし安積親王に何かあった場合、長屋王の息子に天皇の地位を奪われる公算が高い。そうなったら藤原家はおしまいだ。藤原家は政界の底辺に沈み、二度と浮かび上がって来れなくなるだろう・・・我ら藤原にとって最大の脅威は長屋王、これを何としても排除しなければならない・・・問題はウチの藤原四兄弟、すなわち武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろでは、長屋王に勝てないという点だ。あのボンクラどもでは、とても太刀打ちできそうにない・・・やはりわたしが出ていかねば・・・

 数年前から三千代はおのれの肉体の異変を感じ取っていた。

 おそらくわたしの命は長くない・・・どうせ早晩朽ち果てる命なら、最後に藤原家の為にひと働きしよう。大恩ある藤原家に恩返しをして死のう。頼りない四兄弟に代わって、わたしが汚れ仕事を引き受けよう・・・ 

 三千代は以前より配下の郎党に長屋王の周辺を探らせ、「弱点はないか? 付け入る隙はないか?」と目を光らせていた。そんな中、一つの報告が三千代の目に留まった。基王が生死の境を彷徨っていた時期、長屋王は珍しい経典を写経していたらしい。

(珍しい経典を写経? 使えそうね、このネタは) 

 長屋王派の重鎮である大伴旅人おおとものたびと大宰帥だざいのそちに任命して九州へ追いやった上で、神亀じんき六年(729年)二月十日、三千代は漆部造石足ぬりべのみやっこいわたり宮処連東人みやこのむらじあずまひとという二人のヤクザ者に金を渡し、

「長屋王が密かに左道さどうを学び、国家を傾けようとしている」

 そう密告させた。左道とは非合法の邪な呪術の総称である。

 まったく身に覚えが無い長屋王は「バカバカしい」と言ったきり相手にしなかったし、武智麻呂から報告を受けた聖武天皇もまた「左大臣はそんな真似をする人ではない」と端から信じようとしなかった。

「しかし、疑惑があるのは事実なのですから、形だけでも調査いたしませんと、他の者に示しがつきません」

「疑惑なんか始めから無いよ。君たちが勝手にそう言い張ってるだけじゃないか」

「そうではありません」三千代にたっぷり入れ知恵されている武智麻呂は自信たっぷりな様子でそう述べた。「実際、左大臣は基王さまが身罷る直前、写経をなさっておられたのです」

「基王の快癒を仏に祈ってくれていたのであろう? アスカも写経していたし、あの時は皆が基王の無事を仏に祈ってくれていたぞ」

「私も最初は単純にそう思っておりました。しかし、左大臣が写経していた経典が何であるかを知って、考えが変わったのです」

「左大臣は何を写経していたのだ?」

神亀経じんぎきょうです」

「神亀経?」聖武天皇は少し驚いた顔をした。「変わった経典を写経していたんだなぁ、左大臣は」

「仏教に精通なされている陛下ならご存じでしょうけど、神亀経は本来の仏教とはかけ離れた異端の経典であります」

「確かに・・・山伏たちが唱えることの多い呪術的・道教的色彩の強い経典だよな」

「そのような類いの経典を、基王さまのお命が危ないという大変な時期に、なぜわざわざ左大臣は写経なさっていたのでしょう?」

「さぁ、なぜだろうね・・・私にはわからないが・・・」と、聖武天皇は困惑した表情で言葉を詰まらせた。

「ズバリ基王さまへの呪詛です。それしか考えられません」

「まさか。そんな真似をして左大臣に何の得があるというのだ?」

「将来、自分の息子を天皇にする為の布石でしょう」

「しかし、基王が死んでも、私にはまだ安積親王がいるんだぞ」

「安積親王さまも、いずれ殺される運命なのでしょうな、左大臣が権力者として君臨している限りは」

「そんな話はとても信じられない」聖武天皇は頭を抱えた。「左大臣は私の教育係なのだぞ。私を立派な天皇に育てようと努力してくれているのだぞ」

「陛下の左大臣を信じるお気持ちはよーっく理解できます」と、武智麻呂は深く頷いた。「しかし、疑惑を残したままでは、陛下も安心して気分よく公務を遂行できませんでしょう? そこで私を窮問の使者として左大臣邸に派遣してください。事の真偽をはっきりさせてまいりますから」

「無理やり罪をでっち上げるつもりではないだろうな?」

「あの聡明な左大臣を相手に罪をでっち上げるなんて、そんな大層な真似が私に出来るとお思いですか? もし陛下がそう思っていらっしゃるのなら、逆に私の方は嬉しいのですけど」

 武智麻呂にこうまで言われると、聖武天皇としては使者を派遣せざるを得なくなる。

「わかった。行ってきてくれ。ただし、舎人親王とねりしんのう新田部親王にいたべしんのうを代表にしてな」

 舎人親王と新田部親王は共に天武天皇てんむてんのうの息子であり、皇族側の長老格という存在であった。舎人親王は『日本書紀』の編纂で有名である。

「え? あの爺さんたちをですか?」

「何かまずい事でもあるのか?」

「いいえ、ございませんけど・・・」

「何だか不満そうだね。でも、ああいう信用のある年寄りを加えた方が、窮問の信憑性、信頼性、真実性が高まるだろう?」

「はぁ・・・」

「左大臣邸ではくれぐれも失礼の無いように気を遣ってくれよ。左大臣は罪人ではないのだから。ただ真偽不明の密告があったというだけの話なのだからな」

「わかっております。穏やかに事情を聴取して参りますよ」

 翌十一日、藤原宇合ふじわらのうまかいが率いる兵に長屋王邸の周囲を厳重に包囲させたうえで、武智麻呂ら一行は邸内に入った。舎人親王と新田部親王は旧知の長屋王と愉快に談笑するばかりでさっぱり埒が明かないので、業を煮やした武智麻呂は言葉巧みに二人を別室で休憩させ、神亀経を写経した件について長屋王を問いただした。長屋王は基王に対する呪詛をきっぱりと否定した。

「それならば何の目的で神亀経を写経なされたのですか?」

 武智麻呂にそう尋ねられた長屋王は

「ちょうど今の年号が神亀なので、そういえば神亀経という経典があったなと思い出し、写経してみただけのことです」

 と澄まし顔で答えた。

「ふざけないでください、左大臣殿」

「私は何もふざけておりませんが」

「今の年号が神亀だから神亀経を写経したなどと、そんな戯言たわごとだれが信じましょうか。ちゃんと調べはついているのですぞ。本当は左大臣殿のご両親、すなわち高市皇子たけちのみこさまと御名部皇女みなべのひめみこさまを、天上の最高神と讃える為の写経なのでしょう?」

 三千代は、唐帰りの僧・道慈どうじに、長屋王が神亀経を写経した真意を分析させ、その結果を武智麻呂に伝えていた。

「確かに私は亡き両親を神として崇めておりますけど、それのどこが不都合なのでしょうか? 子として当然のおこないではありませんか?」

 開き直る長屋王に向かって武智麻呂が吠えた。

「それこそはつまり現天皇家の否定であり、自分の子孫を天皇にしようとする野望であり、その野望実現の為に邪魔な基王さまを呪詛し、死に至らしめたのであろうが」

 長屋王も人の親であるから自分の子孫が天皇になれば悪い気はしなかったであろうが、積極的にそうしようという意志は持っておらず、あくまでも自分たちの家系は天皇家を支える藩屏はんぺいであるべきだと考えていた。実際、天皇になるよりも、藤原氏のように政治の実権を握った方が、遥かに旨味があったのである。ただ、天武天皇の長男であり、壬申の乱を勝利に導いた英雄である父・高市皇子が、母親の身分が低いというだけの理由で天皇になれなかった悔しさを思うと、哀れで、悲しくて、可哀想なので、せめて天上世界では最高神になってもらえるよう神亀経を写経して祈った、というのが真相であった。

「まったく違います。私は父母の追善と今上陛下の健康を祈っただけです」

 長屋王はそう繰り返し、議論は平行線を辿るばかりだった。この間、舎人親王と新田部親王は別室で吞気にグーグー昼寝をしていた。外が暗くなったので、武智麻呂は「話の続きはまた明日に」そう言うと二人の爺さん、すなわち舎人親王と新田部親王を起こし、やっとのことで牛車に乗せ、いったん長屋王邸を去った。ただし兵による包囲は解かず、そのまま続行させた。そのため長屋王邸の周辺は、兵士たちが燃やす松明の光で一晩じゅう明るかった。

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