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第5章 基王

 アスカに聖武天皇しょうむてんのう皇子みこを産ませる事が至上命題である藤原一族は、これまでもたびたび遣唐使が大陸から持ち帰った媚薬や精力剤の類いを、こっそり聖武天皇の食事に混入させていたが、期待した効果は上がっていなかった。

「どうなってんの? ぜんぜん効かないじゃないのよ、兄さんたちが持ってくる薬は」堪忍袋の緒が切れたアスカは、四人の兄を叱り飛ばした。「もっと身を入れて探しなさいよ、この役立たずどもめが」

 末の妹に罵倒された四人はしょんぼりして去っていったが、これで魂が入ったのか、次に四人が持ってきた薬を使ったところ、珍しく聖武天皇が鼻血を出した。

「お? いけるか?」

 アスカは聖武天皇の食事にその薬をごっそり入れまくった。たちまち聖武天皇は顔を赤く上気させ、体をもぞもぞ動かし始める。

「待ってました」

 寝室に聖武天皇を無理やり引っ張り込んだアスカは、有無を言わさず性交した。それから毎晩のように聖武天皇を犯し続けたアスカは、神亀じんき三(726)年、遂に妊娠した。アスカは勝利の雄叫び・・・いや、雌叫び(こんな言葉は存在しないが)を上げた。

「ぃよっしゃー、男子を産んだるぞー」

 妊娠さえすれば、もう聖武天皇は用済みなので、アスカはさっさと内裏を離れて藤原邸に入り、出産に備えた。都の内外から腕の良い医師を集めたり、昼夜の別なく僧侶に安産の祈祷をさせたりと、藤原一族が総力をあげて出産を支援したのは言うまでもない。

 アスカの妊娠を喜んだのは藤原一族だけではない。元正上皇げんしょうじょうこうも、左大臣の長屋王ながやおうも、当然ながら喜び、すぐさま聖武天皇に祝意を伝えた。他にも多くの公卿、寺社勢力、地方豪族たちが、聖武天皇に祝いの言葉を送った。

 その聖武天皇だが、アスカにさんざん精を搾り採られたせいで魚の干物みたいな情けない顔になっていたが、それでも薬の効果がまだ持続しており、体のムラムラが収まらなかったので、アスカが藤原邸に閉じ籠った後、広刀自ひろとじのところへ何度も足を運んだ。

 乳母の石井いわいから母・アスカの妊娠を知らされたタカノは、とうとう自分にも弟か妹ができるんだと思い、単純に喜んだ。その喜びを伝えたくて、さっそくタカノは聖武天皇の執務室へ駆けていった。聖武天皇は机に向かって書きものをしていたが、タカノの姿を見るとニコッと微笑んだ。

「父さま、産まれてくるのは男なの? 女なの?」

 タカノがそう尋ねると、聖武天皇は苦笑した。

「そんなの産まれてくるまで誰にもわかんないよ」

「みんなは男が産まれろって言ってるよ」

「ま、そうだろうね」

「父さまも男が良いの?」

「俺はどちらでも構わないさ」

「本当?」

 タカノが急に不安そうな顔をしたので、聖武天皇は不審に思った。

「ああ、なぜだい?」

「わたしが産まれた時、男じゃなかったから、がっかりしたのかと思って・・・」

「タカノ、そんな心配するなよ。泣けてくるじゃないか」そう言うなり聖武天皇はタカノをぎゅっと抱きしめた。「タカノが産まれた時は、俺も母さんも心の底から喜んださ。だって、こんなに可愛いんだもの、俺のタカノちゃんは」

「本当?」

「本当だってば。タカノは俺の宝物だ。いちばん大切な宝物だ。だから妙な心配をしなくて良いんだよ。わかったね、タカノちゃん?」

 聖武天皇の腕の中でタカノはこの上ない幸せを感じ、ずっとこのままでいたい、父さまの腕に抱かれていたいと思った。

 神亀四(727)年九月、用心に用心を重ねて出産の準備をしてきたアスカだったが、予定よりも早く産気づいた。そして出産した、待望の男子を。しかし、喜びは無かった。産まれてきたのは未熟児で、長生きはできないと医師に宣告されたからである。それでも藤原側としてはようやく授かった念願の皇子であるから、未熟児という事実を伏せ、一般に基王もといおうあるいは基皇子もといのみこと呼ばれるこの赤子を、皇太子にしようと動きだした。御前会議の場で中納言・藤原武智麻呂ふじわらのむちまろがこの提案をすると、すぐさま左大臣・長屋王ながやおう

「産まれて間もない赤子を皇太子にするなど前例が無い」

 と言って反対した。

「左大臣殿はようやく陛下にお出来になった皇子みこさまにケチをつけるおつもりか?」

 武智麻呂にそうなじられた長屋王は少しも怯むことなく、堂々とした態度で言い返した。

「将来、我らのあるじとなられる皇子さまにケチをつける気など、当然ながら毛頭ござらん。ただ、朝廷には昔からのしきたりや慣例があり、個人の都合で勝手に変えるわけにはまいりません。皇子さまにも、慣例に則り、然るべき手順を踏んでから、正式に皇太子になってもらいたいと申しておるだけです」

「しかし、これは陛下のご希望なのですぞ」

「いくら陛下といえども勝手な真似は許されません」

「左大臣殿はそうやってすぐ慣例だの昔からのしきたりだのと言って陛下の希望を潰しにかかる。陛下が実母の宮子みやこさまを大夫人だいぶにんと称するとおっしゃった時も、律令の規定がどうのこうのと言って反対した」

「たとえ陛下といえども法に従って頂かなくてはなりませんからな」

「陛下がアスカ夫人を皇后にしようとなさった時も反対した」

「皇后になれるのは昔から皇族の姫のみと決まっておりますので」

「左大臣殿は、陛下ご本人よりも、しきたりや慣例の方が大切だとおっしゃるのですか?」

「とんでもない。最も大切なのは、あくまで陛下ご本人です。私は陛下の臣下ですから」

「臣下なら臣下らしく振る舞ったらどうですか。あなたは臣下の分際で陛下を軽んじている」

「私が陛下を軽んじているだと?」そう言って長屋王は武智麻呂をギロリと睨みつけた。「畏れながら私は、先の太上天皇だいじょうてんのうさまからの直接のご指名により、陛下の教育係を仰せつかっておる。私には陛下を立派な君主に育てる義務がある」

 先の太上天皇だいじょうてんのうというのは元明上皇げんめいじょうこうのことである。

「そのため陛下に厳しい意見を申す場合もあるが、総て陛下の為を思ってのおこないであって、決して私利私欲の為ではない。陛下に甘言を弄し、いいように操った上で、自分たちの私欲を満たそうとする、どこぞの汚らわしい一族と同じにしてもらいたくないわ」

「どこぞの汚らわしい一族とは誰のことだ? 我ら藤原一族のことを申しておられるのか?」

 と、武智麻呂がいきり立ったが、長屋王はそっぽを向いて知らん顔をしている。会議室内が緊迫した空気に包まれた。その時、御簾の奥から聖武天皇が「左大臣」と声を掛けた。長屋王は「はっ」と頭を下げた。

「そなたの申す事はいちいち尤もである。だが、今回だけは私の願いを聞き入れてくれないか? 皆には内緒にしていたが、実は皇子の命は長くないのだ。未熟児で産まれた為、いつまで生きていられるかわからないのだ。それゆえ、せめてもの親心として、生きているうちに皇太子にしてあげたい。そうしてあげたい。だから、どうか私のこの願いを許してくれ。頼む、左大臣」

 御簾の奥で聖武天皇が頭を下げるのがわかった。こうまでされると、長屋王としても、これ以上の拒否はできかねた。

 神亀四(727)年十一月、基王は皇太子となった。同じ時期に広刀自ひろとじの妊娠が発覚したので、聖武天皇は複雑な心境であった。

 万が一の奇蹟を信じて藤原家では基王を厳重に看護し、何とか長生きしてもらおうと努力したが、当時の医学では如何ともし難かった。タカノは弟の顔を見たがったが、藤原家では医師と母親のアスカ以外には面会を許さなかった。

「なぜわたしが弟に会えないの?」

 タカノが不満を漏らすと、乳母の石井いわいが優しく諭した。

「弟君は体がたいへんお弱いので、外部からの黴菌に触れたりすると、命の危険があるのだそうです」

「わたしの体には黴菌なんかいないわよ」

「それはわかっております。普通の人にとっては何でもないものであっても、今の弟君には致命傷になりかねないのです」

「変なの」

「姫さまにはさぞ奇妙な話に思われるでしょうけど、弟君がもう少し大きくなって、悪いものを跳ね除ける力が体につくまで、対面は控えて欲しいそうです」

 そう言われてもタカノは納得がいかない様子だった。

 神亀五(728)年七月、広刀自が皇子を産んだ。こちらの皇子は健康そのもので何の心配も無かったので、タカノはあっさりすんなり面会が許された。安積親王あさかしんのうと名付けられた異母弟と対面したタカノは、小さな手や足にそっと触れては、「わぁ、ちっちゃい、可愛い」と大はしゃぎしていた。

 しかし、二カ月後の九月、藤原一族による懸命の看護にもかかわらず、基王は夭折してしまう。アスカが号泣し、藤原家の者たちが皆ガックリと肩を落とす中、タカノは聖武天皇がぼそっと

「俺の血筋は呪われているからなぁ・・・」

 と呟くのを聞いたが、何の事やら見当がつかなかった。

 聖武天皇は、げんざい東大寺法華堂が建っている辺りに金鐘寺きんしょうじを建立し、基王の菩提を手厚く弔った。聖武天皇が幼くして身罷った息子にしてやれる精一杯の供養だった。

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