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第4章 旅人

 夜、長屋王ながやおうの屋敷に大伴旅人おおとものたびとが呼ばれてやって来た。旅人は数々の反乱を鎮圧した軍人公卿であるが、その一方で歌人としても著名であり、男女家柄を問わずたくさんの人々に和歌を教えてきた。二十歳ほど年下の長屋王も若いころ旅人から和歌の指導を受けた一人である。いわば子弟の関係である二人は楽しく酒盛りを始めた。

「先生、私は今日、太上天皇だいじょうてんのうさまのところへ行ってきたのですが」長屋王は、官位は上になったものの、私的な場所では昔のように旅人を《先生》と呼んだ。「やはり陛下のお世継ぎ問題の話になりました」

「もう何年もお子さまがお出来になりませぬものなぁ・・・」

 腕を組み、遠くを見るような目で、旅人はそう言った。

「七年ですよ。異常事態です」

「陛下はお世継ぎを作らないおつもりなのでしょう?」

「まさか」

「しかし、わしには何がしらの陛下の意志が感じられるのですが」

「何がしらの陛下の意志とは?」

「たとえば藤原一族への反発とか」

「それだったら広刀自ひろとじさまの方にお子さまが産まれてもおかしくないはずです」

「確かに」

「早くお世継ぎを作っていただかないと、朝廷内で権力争いが勃発し、結果的にそれが社会の平穏を害し、多くの人民を苦しめ、悲しませることになります」

「もし、このまま陛下に世継ぎの男子ができなかったら・・・」旅人はそう言って長屋王の顔をじっと見つめた。「皇統はどこへ移るのでしょうな?」

「さぁ、それはどうなりますことやら・・・」

 長屋王は曖昧な表情を浮かべた。

「左大臣殿のところへ移るのではありませんか?」

「私はそんなこと望んでおりませんよ」

「別に悪い話ではないじゃありませんか。むしろ喜ばしいと言える」

「喜ばしい?」

「はい」と、旅人は頷いた。「左大臣殿は皇族の代表として、わしは古くから天皇家を守る役目を担う一族の代表として、藤原一族の横暴を阻止し、できることなら奴らを朝廷から追い払いたいと考えている。違いますか?」

「その通りです。先生と私はその目的を共有する同志です」

「藤原一族を一掃する為には、左大臣殿のご子息に即位してもらうのが最も好都合だし、それこそが藤原側の最も嫌がる筋立てではありませんか?」

「それは確かにそうかもしれませんが・・・」

 困った顔をする長屋王を、旅人が不審げに眺める。

「どうなさいました? 左大臣殿はご自分のお子様を天皇にしたくないのですか?」

「したくないわけではありませんが・・・」

「なら何なのですか?」

「私は義母である先の太上天皇さまにたいへん良くしてもらい、受けた御恩を忘れずにおります」先の太上天皇というのは元明上皇げんめいじょうこうのことである。「その太上天皇さまがお亡くなりになる間際、私を枕元に呼んで、くれぐれも今の陛下を頼むと懇願なさいました。私はその時の太上天皇さまの必死なお顔が忘れられません。太上天皇さまを裏切る真似は、私にはできません」

「いえいえ」と、旅人は大きく手を横に振った。「わしはあくまでも陛下に皇子がお生まれにならなかった場合の話をしているだけで、いますぐ皇位を簒奪しろと申しているわけではありませんよ」

「それはわかるのですが、仮定の話をするだけで、私は亡き太上天皇さまを裏切った気持ちになるのです」

「母の話をなさっているのですか?」

 と、ここで長屋王の正室である吉備内親王きびないしんのうが、新しい酒と料理を運んできた侍女たちに続いて現れた。実の妹だけに、元正上皇を一回り若くしたような、小柄でおしとやかな感じの美女である。吉備内親王もまた子供のころ和歌の手ほどきを受けていたので旅人とは子弟の間柄であり、長屋王と同じく普段は旅人を《先生》と呼んでいた。

「ええ、左大臣殿と亡き母上さまの思い出を語り合っていたところなのですよ」

 旅人がそう答えると、吉備内親王は笑顔を見せた。

「先生に忘れられずにいると知って、きっと今ごろ天上で母が喜んでいますわ」

「まこと素晴らしいお方でしたからな、元明太上天皇さまは」

「ありがとうございます。ところで先生、母が在位していた頃に柿本人麻呂かきのもとのひとまろ先生や山上憶良やまのうえのおくら先生らと共に始められた、古今東西この国の優れた和歌を総て収録するぞと意気込んでいらした、あの和歌集はどうなりました?」

 旅人は後に『万葉集』となって結実する日本初の和歌集の編纂に取り組んでいた。

「なかなか思うように捗っておりません」

 旅人がそう言って面目無さそうな顔をすると、長屋王が

「先生は軍人としての職務、中納言としての職務がお忙しく、和歌の事ばかりに関わってはいられないのだよ」

 と注意した。

「お忙しいのはわかるのですけど、わたしはずっと楽しみに待っておりますのよ、先生の作られた和歌集が読める日を」

「恐縮です」

「わたしだけでなく、姉上も楽しみに待っておりますわ」

 姉上というのは元正上皇のことである。

「そう言われましても・・・人麻呂が死に、憶良も老齢となり、このわしも早や六十歳ですわ」と、旅人は自嘲した。「わしの代での完成は難しいと思いますから、息子の家持やかもちにあとを引き継いでもらって、息子の代に完成させられれば・・・と今は考えております」

「では、まだ待たなければならないのですね」

 吉備内親王がそう言って溜息をつくと、旅人は「申し訳ございません」と頭を下げた。それを見て長屋王が

「おいおい、あまり先生をいじめてはいかんぞ」

 そう窘めたので、吉備内親王が

「ひどい。わたしは先生をいじめてなんかおりませんよ」

 と頬を膨らませた。夫婦喧嘩になりそうな予感がした長屋王は、それを避けるべくサッと話題を変えた。

「ところで、先生、ご子息はいくつになられました?」

 長屋王にそう尋ねられた旅人は「七歳になったばかりです」と答えた。

「あ、タカノ内親王さまと同じでしたか」

「そうです。家持は年をとってからできた息子ですので」

「という事は」旅人の返事を聞いた吉備内親王が言った。「息子さんが先生のお仕事を引き継ぐのは、まだまだ先の話になりますわね」

「はい。ずいぶん先の話です」

「息子さんが一人前になるまで、やはり先生には引き続き第一線で活躍してもらわなければなりませんね」

「この身の続く限り、わしは天皇家の為に尽くす所存です」

「先生だけが頼りですわ」

「ありがとうございます。しかしながら、先程の和歌集の件もそうですけど、たとえわしや憶良が死んだとしても、わしらの息子たちが立派にあとを引き継いでくれるものと信じております」

「つまり息子たちに引き継ぐまでは、当分の間、私や先生がしっかりと天皇家を守っていかなければならないという事ですね」

 長屋王がそう言って笑うと、旅人も微笑んだ。

「ええ、話を戻しますけど、藤原一族からね」

「そうそう藤原一族の話だ。先生とその話をしていたのだった。おまえが余計な口を挟むから話が飛んだではないか」

 長屋王が吉備内親王に向かってそう不満を言うや、「わたしばかりを悪者にして」とまたもや吉備内親王が頬を膨らませたので、

「冗談だよ。ホントおまえは冗談が通じない女だな」

 苦笑しながら長屋王が頬を軽く撫でてやると、吉備内親王は「んもぉ」と顔を赤らめた。

 吉備内親王の機嫌が直ったのを見届けた長屋王は「まったくあいつらときたら」と再び藤原一族の横暴に思いを馳せ、表情を硬くした。

「アスカ夫人を皇后にしようなどと画策しおって」

「え、アスカ夫人を皇后に? 本当ですか?」

 驚いた旅人がそう尋ねると、長屋王は頷いた。

「本当です。どこまで図々しいのでしょうね、あいつらは」

「皇后になれるのは皇族の女性のみと決まっておりますのにね」

「そうですよ。だから不比等ふひとの娘であるアスカ夫人は、皇后になれっこないのです。これは昔からのしきたりです」

「しかし、藤原一族はそこをゴリ押ししようとするわけですね?」

「私が左大臣でいる限り、そのような横暴は断じて許しませんよ」長屋王は力強く宣言した。「今や私は天皇家を藤原一族の侵略から守る生きた万里の長城みたいなものですからね。絶対に藤原一族を跳ね返してみせます」

 吉備内親王は信頼しきった笑顔で夫を見つめた。

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