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第3章 藤原邸

 元正上皇げんしょうじょうこうと左大臣・長屋王ながやおうは、聖武天皇しょうむてんのうに後継者となる男子が生まれない事にヤキモキしていたが、それは政敵である藤原氏側も同じだった。母親に会いにアスカが藤原邸にやって来ると、待ってましたとばかりに武智麻呂むちまろが現れ、現状報告を求めた。

「どうなってんだ、次の子は?」

(またか)

 アスカの顔がうんざりした表情に変わった。このとき武智麻呂は四十五歳。幼い頃から妹というより娘のように可愛がってくれた、この二十一歳年上の異母兄のことをアスカは大好きだったけど、「子供はまだか?」の話には些か辟易していた。

「がんばっている最中ですから、今しばらくお待ちください」

「そんなこと言うけど、もう何年も待たされているじゃないか」

 武智麻呂にそう責められるとアスカは感情的になり、声を荒げた。

「跡継ぎになる男の子が欲しいのは、兄上以上にわたしの方なんですよ」

「それなら、なぜだ? なぜ子供が出来ん? 陛下はちゃんと夜の営みをおこなっておるのか?」

「あまり熱心でないのは確かですけど」

「アスカ、おまえがそういう消極的な態度でどうする? もっと強引に、積極的に、無理やりにでも陛下をその気にさせなくてはならんぞ」

「わたしも色々と努力しているわよ。でも、現実はなかなか難しくて・・・」

「このままでは藤原の血を引く天皇でなくなってしまうのだぞ。それがわかっているのか?」

「わかってますって」

「わかっているのなら何とかせい」

「何とかせいと言われても・・・陛下は小さい頃からこの屋敷に一緒に住んでいたのだから、兄上だってわかっているでしょう? あいつが変わり者だということを」

 アスカにそう言われた武智麻呂は言葉に詰まった。

「・・・まぁ、確かにちょっと変わった、掴みどころの無い子供ではあったけどな・・・」

「変人よ、あの男は。若いくせに毎日お経ばかり読んでさ。そう、若者らしさが足りないのよ、あいつは。なにしろ、女よりお経の方が好きらしいんだから。天皇よりも坊主になりたかったなんて平気で言うんだから」

「そこを上手く誘導して、こちらの思い通りに操るのが、おまえの役目だろうが」

「あの男はね、何でもわたしの言う通りにするわよ。わたしが無理を言っても口答えの一つもしないし、いつだってハイハイとおとなしく従うわよ、表向きはね。でも、わたしにはわかっている、小さい頃から気づいていた、あいつの心の中には固い殻に守られた部分があって、そこへは何人たりとも、たとえ妻のわたしであっても、決して立ち入るのを許さないということを」

「多かれ少なかれ人間ってのはそういうものだろう?」

「あいつのそれは桁違いにでかくて頑丈なのよ。か弱いふりをしているけど、本当はものすごく強くてしぶとい頑固者よ、ウチの亭主は。強靭な意志を隠し持っていて、固い殻に守られた部分の事柄に関しては、絶対に自分の信念を貫き通すと思うわ。妥協しない。諦めない。執着する。そういう不気味さがあるのよ、わが夫には」

「頭の中で何を考えていようと、この際どうでもいいから、とにかく陛下の下半身が子作りに向かうよう誘惑してくれよ」

「心の中が複雑怪奇で、迷路みたいで、隠し扉がたくさんあるような、そんな相手をさかりの状態に持っていくのは至難の業だということが、兄上にはわからないの?」

 武智麻呂とアスカがこんな会話をしていたところ、

「そこで何を言い争いしているの?」

 と、橘三千代たちばなのみちよが侍女を従えて入室してきた。

 藤原不比等ふじわらのふひとの正室で、アスカの実母である三千代は、県犬養あがたいぬかい一族の出身であり、最初は敏達天皇びだつてんのうの後裔である美努王みぬおうと結婚し、葛城王かつらぎおう(後の橘諸兄たちばなのもろえ)を産んだ。宮中に出仕すると、その美貌、頭の回転の速さ、実務能力の高さ、人間関係構築の巧みさが評価され、元明天皇げんめいてんのうから特別にたちばなの姓を賜った程だった。やがて不比等に見初められた三千代は美努王と離別し、正室を亡くした不比等の後妻になり、アスカを産む。その後、並外れた政治手腕を発揮した三千代は、不比等と共に国の舵取りをおこなった。

「あ、お母さま」

 すぐさまアスカは甘えた声を出して三千代に駆け寄った。

「どうしたの、アスカちゃん? 武智麻呂殿とケンカでもしたの?」

「はい、兄上さまはわたしが陛下の皇子みこを産まないと言っていじめるんですよ」

「わたしはいじめてなんかおりませんよ」慌てて武智麻呂が否定した。実の母親ではないものの、亡き父・不比等の正室であり、不比等と二人三脚で国政を取り仕切った実績を持つ女傑・三千代は、政界の大物に成長した武智麻呂にとっても、依然として畏怖すべき存在だったのである。「ただ次の子供はまだなのかいと優しく、穏やかに、紳士的に尋ねていただけです」

「お兄ちゃんの嘘つき。わたしを厳しく責め立てていじめたくせに」

「だから俺はいじめてないって」

「何ですか、あなた方は」アスカと武智麻呂殿のやりとりを聞いていた三千代は笑い出した。「いい大人が子供みたいに言い争って」

 しかし、すぐに三千代は真顔に戻り、アスカにこう言い聞かせた。

「いずれにせよ、あなたには陛下の皇子を産んでもらわないと困ります。それが藤原家に産まれた女に課せられた使命です。どんな手段を講じてでも目的を完遂するのです。わかりましたね?」

「はい、お母さま」

 アスカはこっくりと頷いた。

「武智麻呂殿は」と、次に三千代は武智麻呂の方を向いた。「早く長屋王を追い払って、再び朝廷を藤原の手に取り戻してもらわないと困りますよ」

「あ、はい・・・」

 武智麻呂は身を縮めてかしこまっている。

「何をグズグズしているのですか?」

「皇族たちの結束が思いのほか強うございまして・・・」

「あなたは些か要領が悪いのよ。わたしと旦那さまの時代は、素早く、的確に、創造的に多方面から工作して、邪魔な政敵を葬り去ったものよ」

「申し訳ございません」

「謝らなくて良いから、ちゃんと仕事をしてくださいね、今のあなたは藤原家の家長なのですから。家長として重い責任を背負っているのですから」

「承知いたしました」

 三千代がその場から立ち去ると、武智麻呂は額の汗を拭いながら安堵の溜息を漏らした。その情けない顔を見て、アスカがさも愉快そうに笑った。

「ざまぁないわね、お兄さま」

 元正上皇げんしょうじょうこうのいる中宮西院ちゅうぐうさいいんから内裏へ戻ったタカノは、聖武天皇しょうむてんのうが一人で廊下に佇んでいるのを見つけた。

「トトさま、ただいま」

 タカノがそう言って横に座ると、聖武天皇が静かに微笑んだ。

「お帰り。太上天皇だいじょうてんのうさまのところは楽しかったかい?」

「うん」

「それは良かった」

「カカさまは?」

「まだ戻っていないようだ。藤原邸で武智麻呂たちと何やら話し込んでいるのだろう」

「トトさまは何をしてたの?」

「俺か? 俺は中庭を眺めていたのさ、こんなふうに」

 そう言って聖武天皇は顔を中庭へ向けた。

「ずっと?」

「ずっと」

「退屈しないの?」

「俺はぼんやりしてるのが好きだから退屈しないさ」

「ぼんやりって?」

「何も考えないでボーッとしてることさ」

「それが楽しいの?」

「楽しいよ。タカノはボーッとしてると楽しくないかい?」

「わかんない」

「子供にはわかんないよな。子供は見るもの聞くもの総てが新鮮で珍しいから、ボーッとしてるヒマなんか無いもんな」

「ボーッとしてたら良い事があるの?」

「頭の中に自然と色んなものが集まってきて、繋がって、絡み合って、やがてそれが何かを産み出してくれるのさ」

「何かって?」

「良い考えとか新しい考えとか」

「ボーッとしてないと産み出せないの?」

「うん。ボーッとしてる時間が大切なのさ。これがないと何も産まれない」

「赤ちゃんも?」

「赤ちゃんは関係ないよ。そっちの産まれるとは種類が違う」

「でも今日、太上天皇さまと左大臣さまが、トトさまにわたしの弟を早く産んで欲しいって言ってたわよ」

「ああ、なるほど、その話ね。実際に産むのは俺じゃないけどね」

 聖武天皇はそう言ってうつむいた。

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