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第1章 血統

 壬申じんしんの乱に勝利した大海人皇子おおあまのみこは即位して天武天皇てんむてんのうとなった。天武天皇には十人の息子がいたが、その中から天智天皇てんじてんのうの娘である皇后・鸕野讚良うののさららが産んだ草壁皇子くさかべのみこを後継者に指名した。ところが、草壁皇子は即位する前に病死してしまう。

「そんなバカな」

 最愛の息子を失った鸕野讚良は慟哭した。しかし、いつまでも泣いているわけにはいかない。油断していると他の皇子みこたちに皇位を奪われるおそれがあった。

「そんならわたしがやってやるわ」

 何が何でも自分の子孫に皇位を継がせたいという我欲に燃える鸕野讚良は、草壁皇子の遺児・軽皇子かるのみこが即位できる年齢に達するまで自分が天皇になり、皇位を他人に奪われないようにした。持統天皇じとうてんのうである。

 軽皇子は、文武天皇元(697)年、持統天皇のゴリ押しにより十五歳という異例の若さで即位し、文武天皇もんむてんのうとなった。文武天皇は持統上皇じとうじょうこうの後見を受けながら政務をこなしていたが、この血統は病弱な体質らしく、彼もまた二十五歳の若さで死んでしまう。文武天皇には、持統天皇が重用したことにより政界の実力者に躍り出た藤原不比等ふじわらのふひとの娘・宮子みやことの間に首皇子おびとのみこという一人息子がいたが、まだ七歳と幼かった。

「今度はわたしが守る」

 草壁皇子の妻で文武天皇の生母である阿陪皇太妃あへのこうたいひは、大宝二(702)年に崩御した持統天皇がそうしたように皇統を死守する為に即位し、元明天皇げんめいてんのうとなった。この元明天皇の在位中に都が藤原京から平城京に遷都され、奈良時代が始まることになる。和銅三(710)年、首皇子が十歳の時であった。

 首皇子を産んだ直後、宮子は強度のうつ病になった。正気を失った宮子は宮中の一室に幽閉され、首皇子は母方の実家である藤原不比等邸で育てられた。このため首皇子は一度も母の姿を見ずに成長することになる。

 不比等邸は平城宮の東に隣接した大邸宅である。不比等には後妻の橘三千代たちばなのみちよとの間にアスカ(安宿媛あすかべひめ)という首皇子と同じ年に生まれた娘がいた。アスカは人々から光明子こうみょうしと呼ばれたほど光り輝く美少女であったが、性格的にはとても利発で気の強いお転婆娘だった。おとなしい首皇子はアスカにいじめられ、泣かされる事がたびたびあったものの、それでも二人は幼馴染みとして仲良く成長した。やがてアスカは腹違いの姉の子・首皇子のきさきとなる。後の光明皇后こうみょうこうごうである。不比等邸には武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろという不比等の息子たちも住んでいて、彼らは首皇子を弟のように可愛がった。 

 元明天皇の宿願は首皇子の即位、ただその一点であったが、高齢になり先行きに不安を覚えた為、十四歳になった首皇子を皇太子にした上で、娘の氷高内親王ひだかないしんのう(彼女は亡くなった文武天皇の姉である)に後事を託して譲位した。元正天皇げんしょうてんのうとなった氷高内親王は

「これでわたしの女としての人生は終わった・・・」

 と暗澹たる気持ちになったが、国のため、親のため、ご先祖さまのために、自分を犠牲にしてやるしかなかった。

 天皇に相応しい高い教養を身につけてもらう為、東宮傳とうぐうふに就任した不比等の長男・武智麻呂が一流の学者や文化人を集め、首皇太子の教育にあたらせた。首皇太子の教育係として招集された者の中には、有名な万葉歌人・山上憶良やまのうえのおくらが含まれていた。元明上皇と元正天皇もたびたび内裏に首皇太子を呼んでは、天皇になる心得をちょくせつ指導した。

 そんな首皇太子であるが、父・文武天皇と祖父・草壁皇子の血を受け継いだせいか、やはり生まれつき病弱な体質であった。

(このままで大丈夫かしら?」

 草壁皇子の血統が途絶えるのを恐れた元明上皇と元正天皇は、危機管理の一環として、首皇太子が若くて元気なうちに複数の妻を娶らせ、跡継ぎになる男子をたくさん作らせておこうと考えた。十六歳の時、首皇太子はアスカと結婚したが、元明上皇と元正天皇は

「それだけじゃ足りない。他にも女を連れてこい。じゃんじゃん子供を産ませろ」

 と不比等にしつこく催促した。

(そんな無茶を言われてもなぁ・・・ウチのアスカ以外の女が産んだ子供に即位されたら、今までの苦労が水の泡にじゃねえか・・・)

 弱った不比等夫妻は、三千代の実家である県犬養あがたいぬかい一族の娘・広刀自ひろとじを首皇太子に娶わせた。赤の他人とくっつけるよりは、この方が藤原家にとって害が少ないと考えたからである。

 先に子供を産んだのは広刀自の方である。養老元(717)年、広刀自は井上女王いがみじょうおうを出産した。翌年、負けじとアスカが産んだのが、本作の主人公・阿倍女王あへじょうおう、後の孝謙天皇こうけんてんのう重祚ちょうそして称徳天皇しょうとくてんのうである。本名はわからないが、高野天皇と呼ばれることがあったので、本作ではタカノと名付けることにする。

 二人続けて女子が生まれたので、首皇太子も、元明上皇と元正天皇も、それに不比等も些か落胆したが、それでも可愛い二人の女の子は皆から愛された。井上女王が五歳で斎王として伊勢神宮へ行ってしまうとタカノが愛情を独占し、殊に未婚で子供のいない元正天皇は自分の娘か孫のように可愛がってくれた。タカノの方も「天の(ゆる)せる寛仁、沈静婉戀ちんせいえんれい」すなわち「天から寛容で憐れみ深い性質を授かり、もの静かで美しい」と称賛されたこの美貌の女帝が大好きで、よくなついていた。

 タカノが二歳のとき『日本書紀』が完成し、藤原不比等が亡くなり、三歳のとき元明上皇が崩御したのだが、もちろんタカノの記憶には一切残っていない。首皇太子が即位したのはタカノが六歳の時だが、これに関しては厳かな儀式の様子を薄っすら憶えていた。

「トトさまはどうなったの?」

 見慣れぬ装束に身を包んだ父親を見て戸惑ったタカノがそう尋ねると、乳母の石井いわいがにっこり微笑んでこう答えた。

「この国でいちばん偉いお方になられたのですよ」

 ちなみに、即位前のタカノが阿倍女王とか阿倍内親王と呼ばれた理由は、乳母の石井が阿倍あへ一族の女であったからである。

 神亀じんき元(724)年二月四日、二十四歳の首皇子は即位して聖武天皇しょうむてんのうとなった。これに伴いタカノと井上の称号は女王から内親王ないしんのうに変わる。

 聖武天皇への譲位により、元正天皇はようやく自分に課せられた使命を果たすことができた。このように聖武天皇は、病気がちで弱々しい草壁皇子の血統を頑なに守り抜いてきた、しっかり者の女たちが共有する強固な使命感の賜物たまものと呼ぶにふさわしい人物だった。それは聖武天皇本人が重々承知していて、即位するやすぐに実母の宮子を「大夫人だいぶにん」と称すると宣言した。この宣言は不比等亡きあと政界の頂点に立った左大臣・長屋王ながやおう

「律令の規定では天皇の生母は皇太夫人こうたいぶにんと表記されることになっております」

 とやんわり諭されたので撤回されたが、聖武天皇の正直な気持ちとしては、生れてから一度も会ったことの無い宮子よりも、自分の即位の為に苦労してくれた元明上皇と元正上皇を実の母だと思い、彼女たちこそを皇太夫人と呼びたかったのである。二人に対する感謝の念は聖武天皇の生涯を通じて消えることが無かった。

 タカノの話に戻る。

(この国でいちばん偉いお方?)

 石井にそう言われてもタカノにはピンとこなかった。タカノにとって聖武天皇は、優しくて愛情深い、大好きな父親に違いなかったが、それでも痩せっぽちで、猫背で、病気がちで、弱々しくて、いつも憂鬱そうな青白い顔をしている聖武天皇が、この国の最高権力者であると言われても、俄かには信じられなかったのである。もっと勇ましくて、豪快で、頼り甲斐があって、いかにも国を率いる指導者という感じの人が他にいるだろう・・・子供心にもタカノにはそう思えて仕方なかった。

 こんな事を考えているとタカノが必ず思いだす夢があった。いつ見たのかわからないが、消えずにずっと頭の中に残っている夢である。寒々とした広い荒地。草も木も生えていない地面には大小の石がゴロゴロ転がっている。そこへ聖武天皇が歩いてくる、何者かに先導されて、そのすぐ後ろを、背中を丸めてトボトボと。先導者の姿はよく見えない。まるで影のようだ。影の後ろをついて歩く聖武天皇は夢遊病者のようにボーッとした顔をして、瞼は開いているものの何も見えていないらしい。

「トトちゃま、どこへ行くの?」

 心配したタカノが問いかけても、その声は聖武天皇に届かない。

「トトちゃまをどこへ連れていくつもりなの?」

 影は何も答えない。

「トトちゃま、行っちゃダメ」

 タカノはひどく不安になる。

「トトちゃま、戻ってきて!」

 用心していないと消えて無くなってしまいそうなくらい儚く、脆く、頼りなく、か弱い存在に父親が思えた。

「わたしがトトちゃまを守ってやらなくちゃ」

 そう思ったところでタカノは夢から醒めた。

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