礼、帰路をゆく
僕はおしゃべりは大好きだ。
だがなにか作業をしながら話すのは得意では無い。
僕が黙って黙々と作業するのはお客様もつまらないだろう。だからひとつ策があった。僕が一方的に話せばいいのだ。
あるいはもう少し腕が上がればヘアカットしながらでも話すことはできるのだろうが、今のところはこれで乗り切るしかない。
お得意の話は故郷の話だった。
小さい時なんて誰もが小さな世界で生きている。世間も交友関係も小さい。その小さな世界は誰もが経験するはずだし、誰もが少しは共感できる内容なのではないだろうか。
受け入れられないなら別の話をしようと女性の顔をみたが、その鏡に映る顔はむしろ僕の話を聞きたいような興味深そうな顔をしていた。
これで自分という人間に少しでも興味を持って貰えば、もしかしたら次に来店した下さった際に指名して貰えるかもしれない。そうしたら少し嬉しいな。
それからはあまり考えず話は口に任せて手を動かし、ヘアカットに集中した。
それにしてカットモデルを頼んだ女性はいい髪質だし、初めて見たときはどんよりした顔だったが、いまは明るい顔となり、なんだか華のある女性に思えた。その化粧っ気のあまりない顔はなんとなくネット記事で読んだ『エマ・ワトソンはファンデーションとリップだけ』というナチュラルメイクに関しての記事を僕に思い起こさせた。
そのせいか少し緊張してきた。僕が彼女の魅力を台無しにしないようにしなければ。
ヘアカットに関しては阿部さんにお墨付きをいただいたばかりだが細心の注意をする。ただ髪のボリュームを落とし、前髪を切るだけだが、細部に神は宿るのだ! いや、以前、阿部さんに「細かいとこにこだわり過ぎる」といわれた気がする。でもいまの僕にはどこで手を抜けばいいのかわからない。いやいや、悩む前にいまの自分にできることを全力でやるまでだ!
思ったよりも時間がかかってしまった。
でも満足そうに笑い帰っていった彼女をみてなんだかほっとした。
またヘアカットモデルを探す前に僕は誰もいない店内の椅子に座り、ポケットの中からマルボロと短剣の紋章の入ったクロムハーツのジッポを取り出し火をつけた。
なんだかいつも以上に疲れた。
阿部さんにテストされたせいだろうか。いつもなら間髪入れず路上に繰り出し、もう二、三人にカットモデルを頼むのだが、さっきの女性のカットだけで疲れ果ててしまった。
僕はジッポの短剣の彫刻を指で弄びながら「今日はもう止めようっと! 失敗しても仕方ないからな」と独り言をいって立ち上がり、清掃を始めた。
店を閉めて路駐していたバイク(車種は赤色のモンキーだ)のところへ行き、チェーンロックを解錠していたら、パトカーが走り抜けていった。
この辺で事故でもあったのかも知れない。僕はなんとなく嫌な予感がして、財布のなかにある免許証を確認した。以前、部屋のテーブルの上に置きっぱなしにしたままバイクに乗ってしまい後で気づいて冷や汗をかいたからだ。
それに僕は財布のなかを定期的に整理しないと訳の分からない会員証やポイントカードでびっしりになってしまう。買い物に出かけ、会計の際に店員に「ポイントカードはありませんか?」といわれるとあったほうがお得のような気がして、つい会員証やポイントカードを作ってしまう癖のようなものがあるからだ。
思い返せば昨日、財布のなかを整理したばかりだった。
案の定、免許証がみつからない。
おそらくは会員証やポイントカードと一緒にカードケースに入ってしまったのだろう。
せっかくプロ美容師のお墨付きをいただいたばかりなのに無免許で捕まってはお話にもならない。幸い、僕の住んでるアパートまではそんなに距離があるわけじゃないので僕はバイクを引きながら歩き始めた。
思い返せばこのバイクを買うときには彼女……三浦エリにお世話になった。
バイクなんて東京でひとり暮らしには過ぎたものかもしれないが、どうしても赤色のモンキーが欲しかったのだ。
田舎者の僕には東京暮しが憧れで、その賑やかな通りをモンキーみたいなレジャーバイクで走ってみたいと思っていた。Y野美容専門学校に寮があり、そこで学びながら生活できた。空いた時間にバイトをして(本当は学校に禁止されていた)お金を稼ぎ、ようやく買えるだけの金額を得た。
だが僕は少し浪費家なのかもしれない。
卒業後の飲み会で散々食べたり飲んだりして散財してしまい、三万円ほど足りなくなっていたのだ。ましてや卒業後はひとり暮らしなので贅沢はできない。三万円といえども僕にとっては大金だった。
それでつき合い始めたばかりの三浦エリを拝み倒して借りたのだ。
我ながらかっこ悪いったらありゃしない。
そして、あのときの三浦エリの顔は忘れられない。
「三万円貸して」と懇願する僕の顔を酷く醜い生き物を見るかのように見た後、悲しいような、いまにも怒鳴り散らしそうな顔をしていた。そしてなにも話すことができなくなった僕に「出世払いでいいから」とわずかに瞳をにじませながら貸してくれた。
エリは昔のことを話したがらなかった。
同じ県出身だが、あまり話が合わない。僕の想像だが、おそらくはあまり家庭環境が良くなかったのではないだろうか。だからお金の貸し借りとなると嫌なことを思い出したのではないだろうか。僕は彼女の繊細な部分に触れてしまったのかもしれない。
でももうすぐプロの美容師だ。
薄給だが借りたお金を数倍にして返してあげよう。
まずは今日、会心作のおでんを食べさせてあげるのだ。