周、走り出す
レイのヘアカットはプロの美容師の動きに比べるとやや動きの硬いものでした。けれどもボリュームのある髪を少し切って、前髪を整えてもらうだけなのに真剣な眼差しで私の髪に向かう顔はなんだか可愛らしくもありました。
覚束無い手元に少し不安な感じもしましたが、レイの真摯な表情に私はなにもいえはしません。
「長さはこれくらいで……」
「……あ、はい……」
消え入りそうになる返答は、まるで私の声ではないようです。まるでレイの緊張が私にうつったようでもありました。その緊張と様々な言葉が頭の中を巡り廻ります。そして私はそっと静かに鏡に映るレイをみつめてしいました。
『貴方は本当はレイモンドなんでしょう?』
思わずバカなことを口走ってしまいそうになります。
レイモンドは小説の世界の話です。現実にいるはずはないのです。ただ、私の失恋からくる心の傷を優しい妄想が埋めようとしているだけなのです。それが有り得るはずもない幻想をみさせているだけなのです。その妄想を口にしてしまっては私はこの土門礼さんに、ただの怪しい女性と思われてしまうだけなのです。
「『精霊流し(しょうりょうながし)』て知ってます?」
唐突でした。
美容院でカットをしているなら、普通誰もが興味のある共通の話題をふるのが一般的なのではないでしょうか? 天気とか服とか、ニュースなどか、あるいは今切っている髪のこととか……それが、いきなり『精霊流し』の話です。これはなにかの暗号でしょうか?
いえ、また私の妄想があらぬ方向へ思考を向けてしまいます。
『炎の異世界転生令嬢』でレイモンドは謀略により自らの所領を没収され、ミュラー公爵夫人の所領に身を寄せていたところだったのではないでしょうか。つまりはレイの処遇は『所領流し』といえるものでは……いえいえ、私としたことがそんな強引な解釈をするなんて。
本当にどうかしているのかもしれません。
私は「はい。知ってますよ。お盆などに行われる川や海に小さな舟を流して先祖を慰める行事ですよね」と一般常識を応えました。
「いえ、違うんです」
思いもかけない返答がありました。
まさか私の妄想は妄想ではなかったということでしょうか。この鏡に映る彼は土門礼はやはりレイモンドなのでしょうか。
「僕の地域では『灯篭流し』と同じで、木枠と障子でできた舟の中に蝋燭を灯し……」
彼の話は続きます。私というに語るのではなく、ただ自分の幼少期の想い出を独り言のように語り始めました。
その語りは私にひとつの疑念を抱かせます。
彼はなにを私に伝えたいのでしょう。
私が精霊流しと灯篭流しの違いや彼の幼少期の話に興味を持って欲しいのかもしれません。
いえ、もしかしたらこれは本当に暗号なのかもしれません。
きっと彼は会話による意思疎通より、自らを私に知って欲しいと願っているのです。
私はそれに応えたいと思いました。
精霊流しと灯篭流し……精霊流しは舟を川や海に持って行く際、爆竹や銅鑼などを叩き、魔除けのために大きな音を出します。けれども灯篭流しは静かに灯りを照らし、火が消えないように川辺にそっと舟を浮かべます。
まるで対局にあり、けれどもやる目的は同じという精霊流しという名の灯篭流し。
つまりは名前が少し違っていて、行事の内容も同じだけれども、行動は違っている。違っているようだけれども本質は一緒ということ? そこからは『異世界』という言葉が連想されてしまいます。人々の暮らしも風景も違うけれども、そこには同じ人の営みがあるように。
そして語られる自らの体験談はひたすらに自分という人間を知って欲しいという欲求の現れなのでしょう。
私は静かに理解しました。
「これで終わりですが、どうでしょうか?」
髪をブラシで梳きながら整髪料を吹きかけられます。その清涼感のある香りに包まれながら、レイからいわれた言葉に応えます。
「ありがとうございます」
ニコリと満足そうに笑うレイの顔に私は確信しました。
私はもっと貴方を知らなくてはなりません。
「そうだ。今度また美容院をご利用の際には是非、当店にに来てください。できれば、僕を指名してくれれば嬉しいな」
そういって帰り際、にこやかに名刺を渡されました。
ああ、なんということでしょう!
運命が世界を越えてやって来た気がします。
彼は本当にあのレイモンドなのかもしれません。
そう思うと知らず知らずの内に後片付けをしている彼のおしりポケットの長財布の中から免許証を拝借してしまいました。
(もちろん、そっと拝借したので彼は気づいてはいないでしょう)
その免許証にはこの世界の住所が記されています。住所はS北沢の凹凸アパートではありませんか! 私の住んでるアパートの真向かいです。はっきりとした運命を感じます。
そして免許証には銀髪ではない黒髪のレイの顔写真まであります。その同じ容姿で髪の色が違う様子は現実世界と異世界との違いのようでなにか深い隠喩を私に問いかけているようです。
免許証の細部に目を通してみると自動車だけでなく自動二輪まで取得してあるではありませんか! まるで馬を駆けていたあの世界と同様にこの世界でもバイクで駆けているなんて、もう私の妄想は止まりません。
いえ、もう、妄想というには色々なことががっちりと合わさり過ぎているように感じます。
これは私の妄想ではなく現実に異世界の運命がやってきた証なのです。だって私の心はこんなにもときめいているのだから!
私は早足で街を抜け、迷うことなく彼の部屋へとたどり着きました。
ドアノブを回しますが、当然のように鍵がかかっています。
こんなとき、合鍵を持っていればなんの不自由もなく開けられるのに、と溜め息が漏れます。けれどもそれも今日一日だけ我慢すればいいのです。そう私は自分を慰めるとバッグの中にあった■■■をライターで加熱し、ヘアピンに塗布しました。そしてそれを鍵穴に挿し数秒待ちます。そして回すとやすやすと解錠されました。
初めての彼の部屋はやはり少し緊張するものがあります。狭い玄関にはバイクに乗るからかガソリンの携行缶、革靴やシューズ、エンジニアブーツの類があり、やはり着るものだけでなく履くものにも気を使っているのがよくわかります。その窮屈な玄関を上がるとマネキンヘッドや整髪料置かれた棚、様々な衣類が吊るされ、床には積み上げられたヘアカット資料がありました。雑多なようでいて整理された部屋になっています。
ここでレイは暮らしているなんて信じられません。
本当は彼はもっと広い場所に住むのが相応しいのに。
私はベッドにうつ伏せに横になるとレイの香りに包まれながら彼のことをもっと知りたくなりました。そしてこの世界でこんな不遇を受けている彼をどうやってあの世界に送り返してあげられるのかを考えてしまいました。
その時です。足音を感じました。
うつ伏せになっていることでベッド越しにも外の歩く音を感じることができたのです。
その足音と歩幅から察するに身長一六〇センチ前後、体重は五〇前後でかなりリラックスした状態だということが推察されます。一瞬、レイかとも思いましたが、レイにしては小さすぎ、女性のような気もしました。そしてあろうことか、その足音はこの部屋の前で止まったのです。
その足音の主はしばらくドアの前で止まりました。
おそらくは鍵のかかってないドアをみて不思議がっているのだと思います。
私はその隙に玄関からは見えない死角へと移動します。
いったい、私とレイ以外にここへ来る人間が誰なのか検討も……もしかしたらミュラー公爵夫人でしょうか? それともエリシア女王? そんな馬鹿げた私の妄想が頭の中を埋め尽くします。そしてそれは決して馬鹿げた妄想などではなかったのです。