三浦エリ
溜息は夜風とともにビルとビルの間へと消え去っていった。
私はレイへ連絡し終わるとレイのアパートへと向かう。今からおでんが楽しみだ。昨日つくったらしいから今日は少し食べるだけにしよう。明日の朝、茶色く出汁が染み混んだ大根は絶品に違いない。
それにしてもカレーにしろ、おでんにしろ、なんでつくったその日よりも次の日の方が美味しいのだろう。いっそ明日のために作り置きして次の日に食べるのはどうなんだろう。いや、単純に手間だな。
今はそんな取り留めのないことをのんびり考える余裕があった。
先程はどうなるのかと思った。特殊詐欺集団のリーダー・デクが捕まったという連絡を受けたからだ。海外に逃亡したと見せ掛け都内に潜伏していたのを発見され逮捕されたらしい。あとは芋づる式に詐欺集団の人間が捕まるだろう。私は詐欺集団の末端だった。派遣で事務をやりながら奴らの金をビットコインなどの暗号資産に変え、足のつかないように浄化していただけだ。わずかな仕事と金銭で動いていたが、私も共犯者といえば共犯者だ。念の為、しばらく潜伏していた方がいいかもしれない。
私は彼氏のアパートにしばらく同居することに決めた。
私はお世辞にも良い人間とはいえない。
育った環境は最悪だった。しかし子供の頃から最悪の環境で育つと、その環境が日常だ。良い事だとか悪い事だとか比較して考えることはなかった。肝心なことは搾取されないように、暴力から逃れ、傷つかないように生きなければならない。そのためにどうやればいいのか絶えず思考をめぐらせ、生き、適応してきた。
いじめられっ子がいじめられないようにするには単純だ。誰かをいじめればよい。そうすればいじめられない。自分より下の存在をつくるのだ。そして上に媚り気に入られ、上へ上へとのぼればいい。それをなんの感情の起伏もなく行える。それが最悪な環境で生存する必要条件だった。
搾取されたくなければ、搾取する側にまわる。
暴力をふるわれたくなければ、暴力をふるえばいい。
犯されたくなければ、犯せる奴を差し出す側になればいい。
そんなふうに育ち、当たり前の生き方としてそういうことを身につけていった。
Y野美容専門学校に入学したのは、故郷でいざこざがあったためだ。
故郷のエロ爺を撃ってしまったのだ。拳銃で脅され、後ろから抱きすくめられた。エロい息遣いがウザかった。私が抵抗しなかったので油断したのだろう。あるいは私の身体に夢中になってしまったかもしれない。私の身体を触るのに両手の方が都合がよかったのだろう。拳銃をテーブルに置いたのだ。私はその銃をそっと掴み私の背後にキモいモノを擦り付けるエロ爺の頭を撃った。そして爺の持っていた金を奪うとすぐさま東京に来た。報復は怖くない。故郷の人は皆、権力や金の亡者だ。爺が死んで跡目争いに余念が無いだろう。だが悪戯に目立ってもいけない。潜伏場所を探していたが、私の年齢的にも金銭的にもY野美容専門学校が潜り込むには最適の場所だった。専門学校には寮があったからだ。誰にも疑われずに、故郷の者にも悟られずに(まさか私が美容師になろうなんて故郷の人間は誰も思わないだろう)生活する上で特殊技能も身につけられる。
そこで土門礼に出会った。
なにかの飲み会で会ったのだが、それがなんの飲み会だったのかよく覚えていない。ただレイは美容師について熱く語っていた。同級生でも下手な部類が熱く語っているのだ。しかもウザいくらいに熱く語り過ぎて周囲から遠巻きにされ、私くらいしか話を聞いてくれる人がいなかった。私の気のない相槌にもレイは私の手をとって瞳を輝かせながら少年のように夢を語る。そんな姿に私は「こんな純粋な人間がいるのか」と興味を持ってしまった。だってネッシーだか妖精だかカッパの類が目の前にいるのだ。私の知っている現実とは異なる存在に興味を持つな、というのが無理がある。
気づいていたらつき合っていた。
まるで川の水が海へと注ぎ込まれるのを誰も不思議と思わないくらいに自然に。川の水が海水になりその成分が変わるように私の中の性格も少しづつ変わっていくのがわかった。彼の純粋さは私の生来の毒気を少しづつ抜いてくれていたのかもしれない。
卒業し、別々の美容院へ研修生として働き出してからもそれは続き、お互いの話をしたり、色々なところに出かけたり、髪を切りあったり、意見し合ったり、喧嘩したり、身体を重ね合った。そんな私の青春のような日々はひとりの客によって終わった。
「あんた、あそこ出身だろ?」
美容院で髪を洗って「どこが痒いところがありませんか?」と訊いたらそんな言葉が返ってきた。
そしてその男は自らのことをデクと名乗り、爺のこと、故郷のことを話し出した。
結局、私は汚れたところで育った人間なのだ。
美容院を辞め、表向きは派遣社員として働きながらデクの組織で働き出した。
けれどそれも終わりつつある。
逃げ切れればの話だが……。
まぁいい、とにかく今はおでんの心配だけにしよう。
ちくわぶや餅巾着をメインに食べよう。タコはあるだろうか。とりあえず大根は食べないようにしなければ、大根は明日の朝まで育てるのだ。