礼、奮闘
僕は音を立てず静かに手錠を壊せないか、試していた。手首が痛くなり、(暗がりでよくみえないが)血も滲むくらいのことはしている。骨も皮膚も痛いが、どうにもこのプラスチックの玩具は頑丈なようだ。
次に舌や歯、唇などを駆使して口に猿轡として使われているタオルを外せないか試していた。喉奥にまで詰め込められたタオルは次第に口内の水分を補充し、膨れて、その不快な圧迫感を増してくる。
僕は口内のタオルを押し出すことを諦め、それに重ね合わせるように口に縛ってあるタオルをなんとかできないかと後頭部にある結び目を壁に擦り合わせ、解けないか試す。
ふとエリの方をみると先程まで冷静に周りをみていた目は状況を完全に把握できたのか恐怖心に染まっていた。当たり前だ。こんな状況で冷静になれる人なんていない。僕がなんとかしなければ。
犯人の女の子は強盗かなにかに違いない。
でもお生憎様。僕は貧乏人だから金なんてない。きっと空き巣に入ったが、小銭くらいしかないから、きっと不貞腐れて料理でも食べて帰るつもりなのだろう。さっきから台所でなにやらしている。おでんならすでにできているから早く食べて帰って欲しかった。
でもすぐには逃げず、ゆっくりとしているとは脅迫してお金を奪おうとしているのかもしれない。つまり単独犯ではなく、あとから怖い兄ちゃん連中が来るのかも?
そうなる前に早くなんとかしなければ、お金をせびられても出せるものは全然ない。そうなると無駄にボコられる。むしろエリが酷い目にあう可能性が高い。暴力反対。色男、金も力もなかりけり、だ。
でもそんなことを考えていたら頭にきた。
あまりの怒りに手首に力が入り、血が指に伝うのがわかる。手錠のファーは血でべとつくのがわかる。そして後頭部の結び目がほどけかかってきたのがわかった。あと一歩だ。
エリのほうをみると目には涙が溢れ、頬を伝っていた。
許さない! とさらに力を込めるが、そのとき、台所の女の子が動いた。
いまタオルがほどけそうなことがわかったら、また結びなおされる。そして仲間を呼ばれたら終わりだ。
僕は気弱にもまた気を失ったふりをした。
彼女は薄暗い部屋を動き回る。また金銭でも探しているのだろうか、と薄目を開けてみると玄関のガソリンの携行缶を持ってきたり、風呂場からプラスチックのバケツ(水でも入っているのだろうか、重そうだった)、テーブルに小麦粉を置いたり、なにかの用意をしているようだった。
隣のエリはこちらにもわかるくらいに震えていたが、女の子の方はエリのことには無関係のようだ。
最後に台所から野球ボールくらいのキッチンペーパーに包まれたものを三つ持ってきて、僕ら二人の目の前に置いた。
それは、投げ銭のおひねりにも似た形状をしていた。
なにか間抜けなようでいて不気味な存在感がある。
「……レイ、起きて」
彼女は僕の前にしゃがむと、言葉とともに顎を指でつかみ、ディズニー映画の王子様のように僕の頬にキスをした。
僕が目をあけると満足気に立ち上がり、部屋の明かりをつけた。
「はい! 準備はできました」
手を叩いて幼い女の子のように無邪気にわらったその顔は強盗や空き巣のそれではない。まるで夢見る乙女のようだった。
この人が空き巣に入ったり、スタンガンを押し当てたり、人を拘束監禁しているなんて信じられない。
「では、はじめます。ちょっと熱くて苦しいかもしれないけど」
春日を思わせる笑顔のまま、ガソリンの携行缶の蓋を開け、僕らの頭にかけた。
ガソリンの匂いが辺りに充満する。
「でも、苦しいのは一瞬だから!」
満面の笑みで自身もバケツに入った液体をかぶった。
三人とも僕の部屋でびしょ濡れだ。
「一瞬で逝けるように爆弾も用意しました」
またしゃがんで目の前にある三つのおひねりについて説明する。専門用語が多いのでなにがどうなっているのかわからないが、どうやら即席で作った爆弾らしい。
そして、ポケットから僕のジッポを取り出して再び立ち上がると、テーブルのうえに用意された小麦粉をまるで紙吹雪を撒くようにあたりに撒いた。それはお菓子にデコレーションする粉砂糖のように舞、季節を先取りした粉雪にもみえた。
僕の思考は完全に停止する。
なにがなんなのかわからない。
彼女は慣れた手つきでジッポに火をつける。
その目に殺意はない。恋する乙女のような潤んだ瞳と溌剌とした活気があるばかりだった。
けれど、この人は僕らを殺す気だ……しかも自分も。
口のタオルを思いっきり吐き出し、大声で叫んだ。
「助けてくれ!」
その言葉も虚しく、ジッポは投げられ、彼女の手から離れ、空中で放物線を描きながら僕の目の前に火が灯ったまま空中の小麦粉と揮発したガソリンに引火した。