周「イクときは一緒」
なんということでしょう! 何もかもが信じられません。
これだけあの小説のなかのことが揃っているにも関わらず、レイは私のことを覚えてはいなかったのです。
レイが私の顔をみたら、きっというべき私の名前ではなく「……あんた、誰?」といったのです。
レイの呆けた顔と言葉が私は理解できません。
いえ、きっと忘れているだけなのです。私がそうであったように彼もこの世界での長い生活により異世界のことが忘却の彼方へと消え去り、いまこの世界の生活に頭が一杯なの。
そう、私は私に言い聞かせます。
だって、気を失って倒れたレイのポケットから転がり落ちたタバコの箱にシルバーのジッポ。そのジッポには刃を下にする紋章が彫られています。
『炎の異世界転生令嬢』の舞台となるハイランドの地は遥か昔、魔王と人類との激しい戦争が絶えない土地でした。その戦争で初代・獅子心王が分裂していた人類を統率し魔王軍を打ち破り地下へと追いやったことで、平和の地となったのです。その獅子心王の紋章こそ地に刃を向ける意匠だったと書かれていました。
この世界のレイモンド・M・ライオンハートもそれを所持しているのです。シルバーアクセサリーやジッポに関して私は深い理解があるわけではありません。ですが、私の目にしたところシルバーのジッポの意匠は十字架や百合の紋章、スカルなどが多いような気もします。そのなかで敢えて短剣の紋章を選ぶなんて。やはりレイはレイなのだ、と確信を通り越して再確認の作業を繰り返しているようでした。
そして、まだレイモンド・M・ライオンハートとして覚醒していないレイを(こんなこともあろうかと日常的にバッグ忍ばせておいた玩具で)拘束します。このまま土門礼として逃げられては面倒なことにもなります。
どうやったらレイを覚醒できるのか悩みましたが、ふとテーブルの上にある整髪料や保湿、スキンケアの瓶をみると「もしかしたらハイランドが私たちを招き入れようとしているのでは?」という思いに駆られました。
だってみてください!
成分表示に尿素とあります。それにスプレーには噴出剤としてLPGやDMEなどの液化ガスが充填されています。
私はそれらを確認すると冷蔵庫を開けました。
ああ、やっぱり! 牛脂がラップに包まれていましたし、脂肪の多い豚の細切れもありました。卵だって当然のようにあります。
そして祈るような気持ちで冷凍室をあけると白いモヤのなかから冬の夕日を思わせるオレンジ色の冷凍ミカンまで用意されています。
ああ、きっと神様は私に「汝の成すべきことをせよ」と命じているのです。
これらの目に止まった材料から作り出せるものは(不純物が多いので完璧とはいきませんが)……ニトログリセリン。
ありあわせのもので爆弾をつくるなんて、まるで映画『ファイトクラブ』のタイラー・ダーデンになった気分です。動物脂に整髪料やスキンケア用品の化学物質、冷凍ミカン。テルミット反応とスプレーガスの応用、または水蒸気爆発……頭のなかに化学物質と数式とが入り交じります。
キッチンで材料を分け、加工し混合し、加熱を加えます。
試しに作った一摘みをまな板のうえに置き、火をつけると花火のように発火し、硝煙の香りが鼻をくすぐりました。
私はあと数時間で爆弾を完成させ、あの映画のラストシーンのようにふたりで手を取り合って「心配しないで。これからはすべて良くなるの」といってこの世界での最後を迎えるの。
この世界を去る際、私たちは燃え盛る炎のなか熱さと痛みに悶えて互いに息絶えるのでしょうか?
いえ、そうだとしたら、精一杯、強力なものを作らなくてはなりません。
そういえば、玄関にガソリンの携行缶もありましたし、戸棚に小麦粉もあります。ガソリンはそれだけで爆発物でありますし、小麦粉は粉塵爆発を起こすことができます。
なんということでしょう! ここにはハイランドに向かうためのなにもかもが用意されているのです!
ですが記憶のないレイはすごく不安かもしれません。
でも安心して、逝くときは一緒だから。




