エリとノミと殺し屋と
私はこの状況下で飛べないノミの話を思い出していた。
ノミはかなりの跳躍力がありそれは体長の百倍以上はゆうに飛べるらしい。けれど瓶の中に入れ、飛べないように蓋をしてやると跳躍の際、頭をぶつける。頭をぶつけるのが嫌だからそれ以上の高さにまでしか飛ばなくなる。そして高さをまた低くしてやると、今度はその低さまでしか飛べなくなり、最後にはまるっきり飛ばないノミになるという。
これはノミに限った話ではなく、人間もまた同じだ。
故郷にいたときの爺の仕事にそういったものがあった。家族に問題があり孤独を持て余した女の子や家出少女、ネットに入り浸り今ある生活を手放したい女などを言葉巧みに集め、風俗をやらせ、金を稼がせ上前をはねる仕事だ。
女の子たちを嬢にするのにこの『飛べないノミ』状態にする。手段は簡単。暴力だ。体は商売道具となるので力による暴力はおこなわない。言葉と状況と心理的に暴力を行使する。手始めに行われるのはアパートの一室での監禁だった。恐怖により「ここから出ることは出来ない」とわからせることが重要なのだ。そうすることによって仮に玄関のドアが開いていても逃げようとすら思わなくなる。あとは言葉で誘導していく。逃げ場らしき提案にやがて嬢になるよう自ら選択していくようになるのだ。彼女らはどんなに考えても、腑に落ちなくても提案を受け入れてしまう。なぜなら逃げるという選択肢を奪われているのだから。
私は『飛べないノミ』にならなかった元被害者であり、『飛べないノミ』をつくり続けた元加害者でもあった。
だからこの状況をつくる人間の心理を誰よりも理解している。
私たちを監禁している誰かは私たちを自分の思考に沿うように管理したいのだろう。
今の私の状況は手は後ろに手錠(なんの冗談かファンシーな白いファー付き)で拘束されている。賃貸の床に容赦なくU字の金具をビス止めで固定されているところをみると一般的な常識は持ち合わせていないらしい(少し恐怖を感じる。いや、恐怖は感じては相手の思うつぼだ)。そして口にはプラスチック製の穴の開いた拘束具 (おそらくはギャグボール)をくわえさせられている。つまり声を上げることも立つこともできない。隣には同じような状況のレイがいた。
部屋は電気を消され、キッチンからの明かりで周囲が薄明るくみえるような状態だ。壁掛け時計は頭の真上なので見ることができないので時間はわからないが、外から車の走る音や生活音が遠くに聞こえることから、まだ深夜ではないだろう。
レイは物音を立てないように手錠を外せないか、と手探りで金具に擦り付けたり、テコの原理で壊せないかなと探っているようだった。薄明かりのなかでも手首に赤い筋ができているのがわかった。甲斐甲斐しいがそれでもこの大人玩具は頑丈らしい。
そして時折、私に目配せをしてくる。まるで「安心して、僕がいま助けるから」と私を気配っているようでもあった。
私は知っている。
こういう人間が絶望したとき真っ先に相手の用意した逃げ場らしき選択肢にはまることを。
私はどうしたらいいかわからなくなった。
けれどそれは一瞬だ。ほんの一瞬。できることは口車に乗らないことと逃げ出すこと。絶望に押し潰されず、駆け出すこと。全力で。私たちは飛べないノミではなく、自由意志を持った人間なのだ。
そうしないためにも私は体力を温存し、キッチンの周囲を見渡したり、逃げられる場所を探した。とにかく状況を完全に把握しなくては……。
とりあえず相手はひとりらしい。しかも後ろ姿から察するに女性だろう。なにかキッチンで料理しているらしい。動きとファッション、楽しそうに歌っている鼻歌から私と歳の頃は変わらないような気がする。ただ、これから人が来る可能性は高い。
ベランダに逃げ出したところでここは二階だ。ガラスに体当をして飛び降りるなんてハリウッド映画だけの話で私にはそんな度胸も身体能力も運も持ち合わせてはいない。
次に玄関だ。
私は夜目が効く。驚くべきことに鍵は掛かっていないようだし、ドアチェーンもドアに掛けられることなく垂れ下がっていた。
ふたつの理由が考えられる。
単純に忘れたか、すぐに人が来るか、だ。
おそらくは誰か人が来るのだろう。
人数が多くなると厄介だ。早くなにかしらのアクションを取るべきだろうか。
そのとき、キッチンで小さな破裂音がした。
料理の匂いではない。けれど嗅いだことのある匂いがこちらに流れてきた。
その匂いを嗅いだとき、ふいに爺を撃ったときの記憶が生々しく甦った。
拳銃の発砲音、背中にもたれかかる爺の生気のない身体の重さ、薬莢の落ちる音……そして、辺りに立ちこめる硝煙の匂い。その匂いがキッチンからしてきたのだ。
もしかしたら、と私はいままでの想定とはまるっきり違う可能性が頭をよぎった。
爺の部下が三年越しに私に復讐しに来たのではないか?
甘くみていた。故郷の連中は義理やメンツより金と目先の利益を考えていると思っていた。いや、デクと組んだ時点で裏世界になにかしらの情報が漏れた可能性もある。そして、故郷に私の存在が思い出されたのかもしれない。
そうだ! 爺の身内が新たなボスとなった可能性もある。身内が故郷をまとめあげたとなると情けない死に方をした爺の汚点を濯がなくては示しがつかないのかもしれない。
つまりキッチンでつくっているのは料理ではなく、なにかしらの発火物か爆発物なのかもしれない。
容赦なく気を失うまでスタンガンを人に押付け、なんの気負いもなく賃貸の床に穴を開ける。なんで大人の玩具で拘束するのか謎だったが、持ち歩いていて警察などに質問、検査されても特殊な性癖ということで押し通せるのではないか? (普段から持っていたらどんなドスケベだというのか) スタンガンだって同じだ。護身用ということで理解が得られるのかもしれない。女性ならば尚更だ。しかも時折、みえる横顔はかなり美人のようだ。妙な説得力がある。ということは彼女は殺し屋? しかもわざわざ拘束した後に復讐となると私に待っているのは――