礼、目覚める
無邪気ともいえる実直さで僕は夢に向かって生きてきた。夢のなかで生き、生きるためにまた夢をみる。一心不乱で一直線にどこまでも。精一杯、夢に生きて、歳をとったらゆったりとした時間のなかで幼い子供らたちの髪を切るのも悪くない。あの故郷にいた美容室のおじさんみたいに髪を切るだけでほんの少し世界が変わることを子供らにそっと教えてあげられたらいい。
そういうシンプルな人生を歩むため、シンプルとは言い難い複雑な技術や繊細な感覚を毎日血を滲むような……いや、血は滲んでないけど……少なくとも脂汗や冷や汗をかきながら身につけてきた。
それがいまはどうだ?
なんで目を覚ますと手は後ろに手錠をはめられ、口には猿轡を噛まされているのだろう。しかもこの猿轡、なにか口の中に布を喉奥にまで押し込まれ気持ち悪い。水分が布に吸い込まれ舌で押し返そうとしても口にタオルが巻かれて縛られているせいで押し返せず、嘔吐き、目から涙が出た。そして手錠はチェーンを床にある金属製のU字フックに繋ぎ止められている。
(ここは賃貸なのに! なんの躊躇もなくビス止めするか、普通!)
身動きしようにも手は後ろに固定されているので立つことすらできない。
大声で助けを呼ぼうにもこの猿轡だ。
隣にはエリが僕と同じように手錠で手を後ろに固定されて、しかもSMプレイで使われる口に入れるプラスチックの変な器具をされて気を失っていた。
そういえば手錠も白いファーなんてつけてあるファンシーなものだ。あの子の趣味だろうか? 手錠をはめるのが好きなのか、手錠をはめさせるのが好きなのか……いやいやいや、いまはそんなことを考えている場合じゃない。
とにかく逃げなくては、と思うが立つことすらできない。まずは状況を整理して、逃げる機会をみつけなくては。
いま、あの子はなぜかキッチンでなにかをしている。ガスコンロに火がついているようだし、なにか鍋に入れているところをみると料理かもしれないが、この格好の僕ら二人に料理を振舞ってくれるとは考えられない。
それにしてもあの子は何者なのだろう?
彼女が歩いているところに僕がカットモデルを頼むため声をかけただけだ。
まるっきりの初対面のはずだ。
よほど僕のカットが気に入らなかったのだろうか。それとも空き巣だろうか。いや、玄関での会話を思い出すと僕を誰かと勘違いしているような気がする。それに自分の名前を訊いてきたから、人違いじゃないだろうか。きっと僕と誰かを間違っているんだ。僕に対して初対面にしては親しげな口調で話してきたし……同じ名前の別人、しかも僕と同じような顔の元彼とか? 散々遊ばれて復讐のためにこうしているとか?
誤解がとければなんとかなるかもしれないが、問答無用で人が気を失うまでスタンガンを押しつけ、逃げられないように拘束する子だ。きっとマトモじゃないかもしれない。
……なるほど。元彼をストーカーしてて警察沙汰になったのかもしれない。それで僕を元彼と勘違いしているのかも。スマホでSNSとかメールとか連絡ツールをみせれば、あるいは運転免許証とかみせれば他人とわかるに違いない!
ああ、でも運転免許証はどこにしまったのかわからないんだった。
僕は手に力を込めて手錠を外せないか試してみた。こんなファンシーな大人のオモチャ、壊せるかもしれない。
力一杯捻るとガチャガチャと音がした。
「あっ、目が覚めました?」
彼女がキッチンから振り返り僕をみた。
僕は思わずまだ気を失っているふりをした。寝言のような苦悶の呻き声をだしてみたりする。
「……まだかな?」
彼女は鼻歌まじりにキッチンでおこなっている調理を再開した。
なんだかほっとした。僕の目が覚めたらなにをする気なのだろう。なにか危険な感じがした。
とにかく僕一人ではどうしようもない。一人より二人だ。
僕は膝でそっと隣にいるエリの膝を叩いた。
「……うん……」
エリはうっすらと目を開けた。




