〜別れ〜
静かに数日が過ぎた。外はだんだん冬の雪に包まれて行くが、その家の中だけは春の日だまりの様に暖かかった。
彼は、彼女に優しかった。普段の彼を知っている人が見たら驚く程。彼女を大事にしていた。しかし、それも残り数日ーーと思うと彼の心は痛んだ。彼女には何も知らせていない。彼女は彼の側に居るのが普通の様に過ごしている。足の骨折以外は躰はもう十分に回復していた。そのまま、他の街に流れることは出来なくても、一冬村で過ごせば、彼女はどこへでも流れることが出来るだろう。
ここで過ごしたことは夢だと思って、いつか忘れてしまえばいいーー。彼はそう思っていた。
そして、彼は彼女の存在を胸に焼き付けーーまた独りに戻る。それが一番いいと思っていた。そうすれば亡くす悲しみもない。
彼女を彼が拾ってから、一週間が経とうとしていた。明日にはリザが冬ごもりの荷物を持って家に来る。
その夜、もう彼はそれが自然なことの様に彼女と寄り添って眠ろうとしていた。ーー最後の夜だ、と告げなければならない。それまでもいくらでも彼女と話すチャンスはあったが、彼はことごとく言い逃していた。心の裏で、彼女と居たいーーそういう気持ちがまだ残っていたのだろうか。
「ーージルフィード…」
彼は布団の中で彼女を緩く抱きしめながら彼女に声をかけた。背中から彼女を抱きしめていた彼の吐息が、彼女の首筋をくすぐる。
「何?」
何も知らない顔で彼女は彼の腕の中で、彼の方を向こうとする。
「このまま、聞いて」彼は彼女が動けない様に、彼女を少しきつく抱いた。
「お前は、明日村に下りなければならないーー」
「どうして!?」
思った通りの言葉が返って来た。彼女は、もしかしたら怒っているかも知れない…泣いているかも知れない。後ろから抱きしめた腕をほどかない彼は、彼女の表情も伺い知ることは無い。知らなくていいんだ。知ってしまったら、決心が揺らぎそうだから。
「このままここにいたら、俺はお前をあのジルと間違えてしまうかも知れないーー気づかないうちに身代わりにしているかも知れない。そんなんじゃダメなんだーー」
彼は振り絞る様に言った。そうだ。彼女に心惹かれているのは、自分でも解っている。しかし、それが彼女自体になのか、ジルに似た彼女になのか彼にはまだ判別つかないでいた。そんなまま、一緒に暮らしても待っているのは破滅だ。上手く行く訳が無い。彼には時間が必要だった。一人で考える時間。
「ここに居ていいって言ったじゃない」
彼女は心細げな声で言う。
「そうだ。お前が悪い訳じゃないんだ…。俺が悪いだけなんだ…。でも、解ってくれ。考える時間が必要なんだ。今、お前をお前として見ているか、過去の彼女と重ねて見ていないか、判別する時間が。お前にも時間は必要だ。ただ、死に際を助けてもらったからというだけで、お前は俺を慕っていないか?ただの俺を、必要としているのか?それを考える時間だーー運命や、生まれ変わりなんて話は、この際なしだ」
彼は諭す様にゆっくりと言った。彼女の奇麗な金髪を撫でた。彼女が声を殺して泣いているのが解った。華奢な彼女の肩が震えている。彼女は、彼の言葉を理解し、でも理性では理解出来ていても、感情の部分で譲れないでいた。その狭間で、彼女は泣いていた。
暖かい涙が、彼の腕まで伝って来る。言うべきじゃなかったか?彼女をこのまま、何も知らせず彼女の思うまま、ここに置いておけば良かったか?彼に迷いが生じる。
彼は彼女を抱きしめていた腕をほどいて、起き上がり、彼女を見下ろした。涙を拭う。
「泣かないでくれーー。一冬だけ、待ってくれ…」
長い冬、待ったとしても、彼の出す答えがもし、彼女の望むものじゃなかったらーー?
彼女は余計に涙をあふれさせた。ここで、解ったと了承すれば彼を困らせることも無い。解ってはいても、まだ幼い彼女には感情の方が強かった。彼は、きっと困惑しているーー。
ふいに、彼女に影がさす。彼だった、彼が、彼女の上から抱きしめた。そして、頬の涙を舐めとった。
「それにーー覚悟が必要なんだ、俺にもお前にもーー」
上から彼女を抱きしめたまま彼女に言った。彼女は、この重みを感じるのは、最後なのかも知れないと、思うと、彼の首に腕を回し、更にきつく抱きつく。
「覚悟ってなに?」
「ーー人間とエルフが一緒になるための覚悟ーー」
彼は静かに言った。あの少女の時はそんなもの、考えたことも無かった。人間の寿命と、エルフの寿命の差、だなんて。少女を失った今なら解る。本当は、そこに覚悟が必要だったのだと。
「ただのままごとで、俺と一緒に居たいというなら辞めておけ。ーー人間とエルフの間の寿命の差はどうやったって、埋められない。それを承知で、お前が俺がいいと言うなら、俺も覚悟しよう。ーー愛する人を見送る覚悟をーー」
「そんな先のことーー」
彼女は言ったが、彼が人を本気で愛するということはそういうことだった。ただ、ままごとの様に何年か一緒に居て気が合わなくなったからさよなら、なんて恋はもう腐る程した。彼が求めているのは、そんなままごとじゃない。ちゃんと愛し、愛されるという関係だった。だから、彼はもし彼女を愛するのなら、彼女を見送る覚悟もするーー。もう、二度と嫌だと思っていたがーー。
真剣な彼のまなざしに、彼女は強い目で見つめ返した。
「わかったわ。覚悟する。あなたが言ったこと、ちゃんと考えてーー本当にあなたが必要なのか考えて、そして覚悟を決めて春になったらまたこの家へ戻ってくるわ」
彼女はかれの真剣な言葉に、真摯に答えた。彼は彼女の言葉にうなずいた。本当に、春になったら戻って来るかどうかなんて、今は実際のところ解らない。4ヶ月の冬の間、彼女に何が起きるか解らない。村で、彼女にふさわしい男が現れるかも知れない。そんなことは、全く解らない。
ただ、彼女の言葉だけは真剣だった。それだけは汲み取りたい。彼女の言葉を支えに、彼はこの冬を、独り考えながら過ごすだろうか。彼も、彼女のことを考えなければならない。彼女に心惹かれていたのか、それとも、昔の少女に面影を求めていただけなのか。
今はーー最後の夜はーー生まれ変わりだとか、運命だとか、そんなもの置いておいて、今の自分の感情に素直になりたかった。そんなことはもう二度と無いかも知れないのだからーー。
彼は、彼女に長いキスをした。彼女の腕はきつく、彼を捕らえたまま。彼女も、彼のことを忘れまいとするかの様に、キスに応えて行く。唇を放した時、熱い息が漏れる。彼はそのまま、彼女の首筋にキスをして行った。片手は、彼女の寝間着の前のボタンを外して行く。何をしようとしているのか、彼女も察していた。彼女の顔が赤くなる。娼婦としてしか男に抱かれたことの無かった彼女は、こんなに大事なものを扱う様に、抱かれたことはなかった。
ボタンが全て外されて、彼女の躰が露になる。彼は至る所にキスの雨を降らせた。知らず、彼女の声が漏れる。ーー大事に扱われることって、こういうことだったんだ。彼女は知り、恥ずかしさに手で顔を隠した。
「顔、隠さないで」
彼が囁く。「だってーー恥ずかしくて…。こんな大事に扱われたことってないーー」彼女は顔を隠したまま小さな声で言う。
「顔、ちゃんとあの子じゃなくてお前の顔を、覚えていたいんだ」
彼の声は甘い。彼は、あの亡くしてしまった少女と彼女は違うのだと、覚えておきたかった。彼女は、ゆっくりと顔を隠していた手をほどいた。彼は、少し笑ったようだった。彼女の頬にキスをする。彼は、片手で彼女の下着を奪ってしまって、その女性の部分をゆっくりを愛撫した。そしてーー。彼女が、小さな声を上げたーー。
「全く健康。足の怪我以外は気をつけることなし」
リザはきっぱりと賜った。
「じゃあ、この娘を村で一冬越させてやってくれないか?何か傷に触らない程度の仕事をやって」
「トーマ!!」
リザはちょっと怒った様に言う。「二人分の冬ごもりの用意、の次はこの子の面倒を見れって!?」
「…すみません…無理を承知でお願いしてます」
彼は両手を上げてリザに『降参』した。どうにも、この少女には敵わない。彼女はのそ一部始終をベッドに端に座って見届けていた。リザの勢いに圧倒されているようなのが、少しおかしかった。彼は、二人だとそんな表情を見せないから。彼女が、彼の知っている部分なんてほんの一部だと思った。彼女に彼はこんな風には接しない。ーーもっと彼の全部が知りたいーー。
「だいたい、トーマ、この子もここに置くつもりで二人分の冬ごもり、用意させたんでしょ?」
リザの言葉に彼は口ごもる。
「ーーいいの。私が村に下りたいって我がままを言ったの」
不意に言葉を挟んで来たのは彼女だった。ーー思ってもないことを。これ以上、彼を困らせたくなかった。
「なら、仕方ないけれどーー」
リザも納得して言う。彼女は彼の方を見れなかった。嘘でも、そんな言葉を言った彼女に傷ついているんじゃないだろうか。
「まあ、いいわ。じゃあ、あなた外へ出る準備して。日が暮れちゃうわ」
「はい」
リザの言葉に彼女は立ち上がる。上着が必要だった。それは、彼が持っていた。
「おいでーー」
彼は彼女に言う。彼女に大事そうに、上着を着せて行く。そして、外で馬車の準備をしているリザに隠れて、軽いキスをした。
「さよならだ」
彼は言った。表情が、暗い。
「さよならじゃないわよ。春になったら、絶対戻って来る」
彼女は決意を秘めた強い目で彼に言う。そして、今度は彼女からキスをしたーー。
雪が、彼の家を孤立させたーー。