瓶詰地獄を出られない
山小屋の夜は暗い。灯りを消してしまえば自分の手も見えないほどまっくらだ。
こんな晩には、さっさと寝てしまうに限る。季吉はごろりと床に横になった。扉にはいつも携帯している護符をすでに張ってある。心配はないはずだ。にもかかわらず、季吉はどこからか視線を感じていた。
(…見られている。くそ、今日ここに来たばっかりだっていうのに)
そう、季吉はずっと逃げ続けていた。自分のきょうだいから――
◇◇◇
「季吉、お前の妹を献上する時が来た。」
おのれの頭を上げると、この黒々とした奥座敷に鎮座した父と視線がぶつかる。父の背後の屏風には、炎が渦巻く地獄絵図が描かれている。行灯の光が揺らめき、絵に過ぎないその光景を、まるで本当に炎が燃えているかのように不気味に照らしていた。屏風の真中では、鬼が幼子を別の鬼に差し出して、今しも食わんとしている様が描かれている。まさにこの屋敷にふさわしい絵だ。
(この家は――まるで蟲毒の瓶の中だ)
季吉の母はすでに亡い。兄たちは、厳しい修行や任務で塗炭の苦しみにまみれながら命を落としていった。今や父のもとに残った嫡男は季吉だけだった。
その父と子が、お互いを騙して裏をかこうと腹を探りあっている。
「と、おっしゃいますと」
季吉は目を伏せて父に聞いた。
「上様は重い病気だ。今晩にも。わかっておろうな?」
季吉に投げかけられる、脅しとも確認ともつかない父の声。
「仰せの通りに」
季吉がそういうと、父はふうと息を吐いた。息子を疑っているのだ。
――命令に従わず、妹の命を助けるのではないかと。
父の前から辞した季吉は一人、隠し扉の階段から地下へと向かった。
「みる、どこだ」
暗いじめじめした地下の座敷の畳は、足の裏にべたりとに張り付くように湿っている心地がする。そのとき、後ろにはずむような息遣いを感じて、行灯の火をかざしていた季吉は呆れのため息をついた。
「後ろにいるのはわかっている」
何をたくらんでいたのか季吉の後ろからひっそり近づいていた妹は、観念して兄の前へ出てきた。少し頬がふくれている。
「いつも、兄さまを驚かす事ができない…」
「お前ごときの気配がわからんようでは、俺は今頃死んでいる」
にべもなく応える季吉に、妹はきゅっと唇をすぼめた。この暗い空間でさえ、その頬と髪は白く輝いて見えた。季吉を見上げる目の色は、翡翠と琥珀と瑠璃を混ぜたような不思議な色だった。雨上がりに空にかかる虹のような、儚く貴重な色。天が彼女のために特別にこしらえた、この世のものとは思えぬ一対の玉のような目だった。
この異様な容貌の末娘を、父は人魚の娘だと信じ込んでいた。
だが季吉にとっては、天にも地にもただ一人残った妹だった。その妹は、兄の着物のたもとをそっとつかんだ。
「それでも…一度くらいは、兄さまを驚かしてみとうございました」
その手はかすかに震えている。季吉は妹の胸中を悟った。
「お前、父上の命を知ってるのか」
「はい。みるは、今夜にもここを出なければならないのでしょう」
みるは季吉を見上げて笑った。
「だからもう一度上から降りてきてください。私が後ろから抱き着くので兄さまはわあっ!とおどろいてください。そしたらみるは、もう思い残す事はありません」
その笑顔は無邪気そのものだった。ここを出れば自分がどんな運命をたどるのかわかっているにもかかわらず、だ。季吉は顔をしかめた。
「俺はお前を上様に喰わせはしない」
妹の虹色の瞳が瞬いた。睫毛まで日の光の色だ。
「え…なんで」
「お前はただの人間だからだ。お前を喰って不老不死になれるはずもない。無意味だ」
「でも父様は、そんな事言ったって…」
「父上が納得しようとすまいと、それが事実だ。いくら見た目が変わっていようとお前は人間だろう、みる」
季吉がそう問うと、みるは満面の笑みになり言った。
「はい、兄さま」
真白の綾絹の衣に、薄更紗を垂らした市女笠をまとったみるは、まるでこれから嫁ぐ姫のようだった。しかしこれは死装束。上様に献上するために飾り立てられたみるを背負い、季吉はその夜屋敷から抜け出した。
すぐに追っ手がかかるだろうと踏んで季吉は警戒を怠らなかったが、どれだけ走っても誰も追いかけてこなかった。
とうとう予定通り鳰の海(琵琶湖)にたどり着いた季吉は、注意深くあたりを見回した。
「兄さま、よかった…あそこに隠した舟があるのでしょう?」
みるは嬉し気に、水草の生い茂るふちに近寄った。当初の策では、あらかじめこれに乗って鳰の海を渡って反対側の近江まで逃げ延びるはずだった。だが。
(おかしい…上手くいきすぎだ。)
誰も追ってこないはずがない。むしろこちらの手が全て読まれていて、泳がされているように感じた。季吉は直感的に妹を止めた。
「みる、舟から離れろ!」
が、言うが早いが、舟から縄のうなる鋭い音がし、みるの身体を捉えた。そのまま舟がすっと動き出しす。白装束がひるがえり、みるは力のままに海へと引っ張られた。すかさず動こうとした季吉だったが、その時足元で煙玉がさく裂し、背後から飛び出てきた忍びたちに押さえつけられた。
(くっ…やはり罠か!)
船の上にすっと立ったのは、案の定父だった。
「聞け季吉。こやつは人間ではない。お前と共に生きながらえても禍の元となるだけ。今夜上様に献上するのが一番良い方法なのだ。」
そういって、縄をぐいとひっぱった。みるは抵抗も空しく、海へと落ちた。花びらのように広がるその衣を無情にたぐりよせ、父はみるの頭が浮き上がらぬよう水の中で押さえつけた。
「なまじ妹などと言った儂も悪かった。いいか、水に沈めてもこやつは死なぬ。まだ妹と思うのならばとくと見るがよい」
万力で押さえつけてくる忍びの身体の下から、季吉は叫んだ。
「おやめください父上!みるは、我が母から産まれた妹ではありませぬか!!」
「そうじゃ。しかし、儂の子ではない。それは確かじゃ」
あの優しかった母が不義理をしたとでもいうのか。息子が次々死んでいくのを見て、心を病んでしまった母。入水自殺を繰り返し、最後はほとんど言葉もしゃべれず、屋敷に軟禁状態だったというのに。
季吉は怒りを感じると同時に父の正気を疑った。みるが必死にもがき、水面を叩く音が聞こえる。
「何を、うつけた事を…!ついに耄碌されたか父上」
みるを助けなければ。季吉は足の指の間に隠していた煙玉を爆発させようとしたが、察した忍びに足を押さえつけられた。
「若、もう抵抗はおやめになるのです。無体に聞こえるでしょうが、あれは若の手にはあまるものです」
忍びの意識が季吉の足に向かった一瞬の隙をついて、季吉は手首に隠していた飛苦無を相手に突き立てた。
「っ…!」
相手が痛みに怯んだのがわかったので、季吉はすばやく彼の下から這い出て煙玉を爆発させた。
「若…!く、待たれよ!」
苦無には樒の痺れ毒が塗り込んである。相手はしばらく動けないはずだ―…季吉は走り出したが、前方から飛んできた鋭い針が耳をかすめた。
「とまれ季吉。次は額だ」
しかし季吉は止まらなかった。止まれば父のよい的だ。動いている方が当たる確率は低くなる。海のふちへたどりついた季吉はためらわず飛び込んで潜った。冷たい水が季吉の体を打ち、まとわりつく。しかし季吉はそれをふりきって水中を進んだ。水面下からみるを助け出せばいい。
夜の鳰の海の中は、真っ暗闇も同然だった。だけれどみるが出しているであろう、空気を吐き出す音がする。ついに季吉は水中にたゆたうみるの衣をつかんだ。水面下で彼女の身体を抱きとめ、船体を蹴って一気に舟から離れる。
(このまま水遁で父をやりすごせば…)
しかしみるはもう限界だろう。いったん水面に顔を出させなければ。季吉はみるだけを水面におしあげた。その時。突風が海の上を走り、水面が大きく揺れた。季吉はおおきなうねりにのまれ、深い場所へと沈みそうになった。
(っ、まずい…!)
しかし、みるの手が季吉をつかんで引き上げた。
「っ…は、みる、浮け…!」
予定外に水面に顔を出してしまった季吉は、荒れる湖面でみるの手を握ったまま、体の力を抜いて波をやりすごした。
風は一瞬だったらしい。やがて波は収まり、暗い湖面に大の字で季吉とみるは浮かんでいた。この波に引き離されなかったのは奇跡だ。しかし握ったみるの手は冷たく力が抜けている。
「みる…生きているか」
おそるおそる季吉は訪ねた。みるはきゅっと季吉の手を握りしめた。細長く節の目立つ指。
「はい、兄さまがさくせん、教えてくれたおかげです」
こんな状況なのにみるは嬉し気に言う。
「この夜空に月が見えないのがざんねんです。せっかく兄さまと外へ出たのに」
季吉はその言葉をきき流しながら当たりを見回した。舟はみあたらない。先ほどの波で沈んでしまったのか?父はどうなったのだ。
「でもこれからは…きっとたくさん見れますね?」
「ああ。みる、行くぞ。」
こうなった時のために、別の場所にもう一艘小船を隠してあった。その舟に乗り込んだ季吉は、舟に用意してあった布でみるの身体をくるんだ。夏とはいえ、さすがに冷える。みるは季吉の胸中など知らず、とても嬉しそうに笑った。
「ありがとう、兄さま」
「お前はそのまま横たわって狙われないようにしろ。いいな」
「はい」
注意深く櫂を漕いでいても、船はぐんぐんと進んだ。こんな時でなければ面白いくらいに。後方からなんの邪魔もないということは、先ほどの波で父も被害を被ったのだろう。
(忍びは樒の毒をあれだけくらってしばらく動けまい。父も自分の事で必死のはずだ…)
いまのうちに、彼らの手が及ばぬほど遠くへ逃げなければ。そう算段した季吉は、全速力で櫂を動かした。湖面に再びゆるく風が吹きだした。その風にのって、何かが流れてきた。花びらだ。
(符号だ…父の)
声を出せなくなった時などに使う伝達の手段として、父は花や葉、鳥の羽などに符合を定めていた。季吉は宙を舞う白いものを手でつかんだ。
「くちなし…」
その花の意味する符合は「逃げろ」。季吉は顔をしかめた。自分らはやっと、あの場所から逃げ出したのだ。地獄からの脱出。
(なのに父上は何を言いたいんだ…?)
考えながら櫂を持つ手を動かす季吉に、下からみるの声が響いた。
「兄さまは、寒くないですか」
「…ああ」
まだ意味を考えていた季吉は生返事をした。するとみるは怒った。
「兄さま…兄さま!」
「なんだ、みる」
季吉はしぶしぶ目線を落としてみるをみた。みるの綺羅綺羅しい虹色の目が、舟底からじっと季吉を見上げていた。
「ごめんなさい…みるのせいで、兄さまは抜け忍になった」
そんな言葉を知っていたのかと季吉は驚いた。いつも無邪気であったみるの目に、薄い水の膜が張っている。張り詰めたその表面から今にも水滴が零れ落ちそうだ。
季吉は簡潔に自分の胸中を告げた。
「…俺が決めたことだ。お前のせいではない」
生まれてこのかたずっと閉じ込められていたお前を、外に出してやりたい。たった一人残った妹の命を、助けたい。そう思って行動したのはほかならぬ季吉だ。みるが兄に頼んだわけではない。
そのそっけない言葉から季吉の思いが伝わったのか、みるはかすかに微笑んだ。
「兄さま…大好きです」
「…知っている」
再び櫂を漕ぐことに集中しだした季吉を尻目に、みるは舟に吹き込んだ花びらを払って歌うような声でつぶやいた。
「これからは…にいさまといつも一緒…」
父はきっと諦めないだろう。追っ手を差し向けるに違いない。近江の緑濃い深山を転々として逃げ続けるか、戦つづきで危険な都へ身を隠すか。天秤にかけた結果、季吉はみるを連れて都へ逃れた。
「ではいってくるぞ、みる。何かあったらすぐ隠し穴に入れ」
都の一番端、桂川にほどちかい貧民街に季吉とみるは身を隠していた。ぬかるんだ地面に、今にも崩れそうな掘立小屋がひしめいている。しかし貴族も武者も見向きもしないこんな場所は、身を隠すのにはち
ょうど良かった。季吉は顔を隠し、荷運びや用心棒など日雇いの仕事で糊口をしのいだ。
「いってらっしゃい。気をつけて」
地面に藁を敷いただけの床に、みるは笑顔で三つ指をついた。二人で横になるのが精いっぱいの粗末な小さい小屋だったが、みるにとっては初めて手にいれた城で、朝な夕なせっせと手入れをし季吉が帰ってくるのを待っているのだった。みるの白い髪もまつげも、土ぼこりを浴びる生活ですっかりすすけて茶色くなった。じっと目を覗き込まないかぎり、以前の彼女とはわからないだろう。だけどその姿を見て、季吉の胸は軋むように痛くなった。
(…すまないみる。こんな暮らしで)
冬はもうすぐそこだった。あんな小屋で、どのくらい寒さがしのげるだろうか。街では何をするにも金がかかる。炭も火鉢も、なんとか都合をつけなくてはならない。もっと暖かいものをみるに着せてやらなければならない。金はいくらあっても足りない。忍びの技能を生かせばもっと実入りはいいだろうが、その場合郎党に見つかる可能性も高くなる―。
そんな事を考えていると、季吉の肩は自然と下がり、足取りは重くなった。ぬかるんだ地面に足裏から沈んでいきそうな心地だった。
「あっ、お帰りなさい、兄さま」
帰ると、小屋の中に座っていたみるがぱっと顔を上げた。その目はいつもよりも嬉し気に季吉を見上げていた。
「みてください兄さま。これ、貰ったんです」
みるが大事そうに抱えているのは、すすけてふちがかけた火鉢だった。
「もらったって、誰から」
「おとなりさん…拾ったからやるよって」
「…そうか」
「おとなりのおかみさんは、親切にしてくれるんです」
いつのまにそんな事があったのかと顔をしかめた季吉を見て、みるは慌てて言った。
「ちゃんと布を巻いて、髪は隠して会ってますから大丈夫ですよ」
季吉はため息をついた。
「…ならいいが」
みるは季吉の渋面をみて、少し迷ったが手のひらをさしだした。そこには銭が握られていた。季吉はその手をつかんで形相を変えた。
「お前これ、どうしたんだ、誰から?」
「おかみさんについていって、川にいったんです。魚を取りに。魚売りにそれを渡せばお金をくれるって、教えてもらって」
そう説明されて、季吉はますますやるせない気持ちになった。みるにそんな気を遣わせてしまっている事が。
「みる。気持ちはありがたいが、できるだけここを出ないでくれ。でないと危険だ」
みるはしゅんと肩を落として、その手で季吉の腕をつかんだ
「兄さまは…こんなに痩せてしまいました。これで何か食べてほしくて…」
たしかに常に空腹だった。食事は朝晩に稗粥を一杯だけ。だがそれはみるも同じだった。
「明日、お前の好きな干し柿でも買ってこよう」
「いいえ、これで兄さまのお好きな馴れ鮨を食べてください。私はさすがに、街中には行けませんから…」
そういうみるの目は必死だった。季吉はしぶしぶそれを受け取り、言った。
「わかった。だがもう、外へ行くことはしないでくれ」
「でも兄さま…」
迷うみるの目をまっすぐ見つめて、季吉は真剣に言った。
「たのむ。お前に何かあったら耐えられない」
するとみるの顔がふにゃりと緩んだ。ついで頬が赤くなり、みるはあわてたように両頬にぱっと手をあてた。
「わ、わかりました。兄さまの言う通りにします」
だが次の日の帰り道、季吉はどちらも手に入れることができなかった。そもそも寿司など、貧民の口に入るものではない。だから干し柿をと思ったが、冬にそなえて皆買い込んだりしまい込んだりで、どこにも残っていなかった。以前は簡単に口にでき、そのありがたみを感じることもなかった干し柿が、たった一つも手に入らないとは。寄る辺ない身分へ落ちてしまった事が、つくづく身に沁みた。
しかしこれ以上遅くなると心配だ。季吉は肩を落としてみるの待つ小屋へ入ろうとした。
「ねえ、ちょいと」
後ろから肩に手をかけられ、季吉はため息をついてその手を外した。辻君か何かだろう。
「悪いが急いでいる」
「つれないんだねぇ、せめてこっちを向いて断っとくれよ」
季吉が女を振り向くと、彼女はほうとため息をついた。
「あら…いい男じゃないか」
季吉は、逆に女の手に目がいった。彼女の腕の中には、丸めた茣蓙と、紐がついたままの干し柿が抱えられていたのだ。季吉は思わず銭を取り出していた。
「それを買わせてはくれまいか」
彼女は喜色満面になり、季吉の手を握った。
「うれしいねぇ、そうこなくっちゃ。こっちにおいでな」
「いや、その柿を買わせて欲しい。一つでいい」
とたんに女は不機嫌になった。
「あたしじゃなくて?柿を?」
「ああ。家の者が欲しがっていて」
その時、小屋の扉が勢いよく開かれた。
「…みる」
頭を鉢巻のようにして髪を隠したみるが、じいっと上目遣いで季吉と女をねめつけていた。見た事もないくらい、怖い顔をしている
「どうした、そんな顔をして」
みるの額によった皺が、ぐっと深くなる。
「何してるんですか、そこで」
「何って…」
柿を…という前に、女が肩をすくめた。
「なんだ、あんたかみさんいたのかい。」
季吉は銭を女に差し出した。女はため息をついてそれを受け取り、代わりに一つ柿を渡し、くるりと背を向けて去った。
そのあとのみるの不機嫌さといったらなかった。声を上げて怒りはしないが、その周りに異様な圧がただよっていた。
「何ですか、今のひと?それに…私は馴れ寿司をって言ったのに」
「そう言うな。お前は柿が好きだったろう。まぁ食べろ、ほら」
「いりません。兄さまが食べればいいんです」
みるは腕をくんでそっぽを向いた。季吉は困って頭をかいた。
「何を怒っているんだ。さっきの女からは柿を買っただけだ。もう帰ったじゃないか」
みるは恨みのこもった目で季吉を見た。
「わたしがいなければ、兄さまはあのひとと…どこかへ行っていたのですか」
「行くわけないだろう」
みるは唇をとがらせてまだ不機嫌そうだったが、不意にぽつりと言った。
「私たち…夫婦に見えたんでしょうか」
「…そうかもな」
するとみるの頬にぱっと笑みが広がった。たちどころに機嫌を直して柿を受け取ったみるはそれを二つに裂いた。
「半分にしましょう。兄さまどうぞ」
季吉は小さいその果肉をほおばった。以前は柿があまり好きではなかったが、久々の甘味に頬の裏がくぼみ、空の胃の腑が騒いだ。もはや食べられるものならば何でもおいしかった。
「私は兄さまに…もっと栄養をつけてほしかったのに」
そういいながらもみるもぺろりと干し柿を食べた。その頬はまだ少し膨れている。
「兄さまが私のいう事を聞いてくれないのなら、私だって聞かないでまた魚を取りにいきますからね」
「…俺も干し柿が食べたかったんだ」
季吉がひねりだしたその苦しい言い訳に、やっとみるは笑った。
「もう、兄さまったら…」
季吉はほっとした。そして思った。
(少なくとも…みるは前よりも生き生きしている)
地下に閉じ込められていた時は、みるは喜怒哀楽がはっきりしなかった。いつもにこにこ笑って無邪気なばかりだった。自分が殺されるとわかった晩でさえ。
(だけど今は、泣いたり怒ったりもする…みるは間違いなく人間だ)
父の言っていたことは、今なら嘘だとはっきり言える。みるは外へ出て、人間らしい感情を持つようになったのだ。どこか夢見るような笑顔ではなく、ちゃんと嬉しくて笑うみるの顔はよりいっそう輝くように見えた。薄汚れた身なりをしていても。
それはきっといい事だ。だからこうなってよかったのだ。毎日ぎりぎりの暮らしだったが、季吉は一つ光明を見つけたような気がした。
木枯らしの季節がやってきた。食料も炭も蓄えがない貧民街にとっては、最も死に近い季節だ。夜半、風の音にまじって苦しい咳の音がいくつも聞こえる。やがて空き地や河原に死体が目立つようになった。
(疫病か…)
季吉が仕事に通う都の大路でさえ、死体が転がっている。しかし病は人をえらぶ。まっさきに命を落とすのは、いつだって貧しい人間だ。あっという間に季吉たちの住む右京の端は、死体で埋め尽くされた。
ここにこのままいては、みるも病にかかってしまう。しかしこんな寒い季節、出て行くあてもない…。そう危ぶんでいるうちに、みるではなく季吉が倒れてしまった。
一度横たわると、もう起き上がる事ができなかった。高い熱に、頭が朦朧とする。次第に体に赤い斑点が広がり、膿んで熱くなった。
「どうしよう…どうしよう。おかみさんもその家族も…みんな死んじゃった…」
みるが茫然とつぶやいているのが聞こえる。ありったけにかぶされた藁布団の中から、季吉はとぎれとぎれにつぶやいた。
「みる…逃げろ…銭をもって、ここを出てくんだ…」
そういうと、みるはがばりと伏せる兄にしがみついた。
「いや…いやです!みるは兄さまと、ずっとずっと一緒なんですから」
「お前まで病にかかったらどうする」
「私はいいんです…でも、でも兄さまが」
みるは泣きそうに唇をぎゅっとゆがめた。震える声がそこから漏れる。
「ごめんなさい、兄さま…」
「お前のせいじゃ…ない」
「父さまも、家も、捨てて…兄さまは、私をえらんでくれた…」
みるはじっと虹色の目で季吉を見た。熱のせいが、その目がなんだかとても大きく見える。頭が朦朧とし、目を閉じかけた季吉の上に、みるは突然またがった。
「な…にを」
閉じかけた目を開けて、季吉は驚いた。みるの目が、何かおかしい。虹を閉じ込めたようなその目が、ぐるぐる回って暗い色になっている。その深い色は何かに似ていた。
(そうだ…鳰の海だ。あの日飛び込んだ…)
いとも簡単に季吉たちを押し流した、真っ暗闇の荒ぶる波。正気を失った母が、何度も入って引き上げられた海。熱に浮かされているはずの季吉の背筋が、すっと冷たくなった。
「お…おりろ…みる」
妹は何をするつもりなのだ。季吉は背中からこみ上げてくるような恐怖を感じていた。しかしみるは、兄をみおろしておかしな目のまま微笑んだ。
「兄さま…みるを、食べてください」
その言葉に、季吉は茫然とした。
「なにを…言ってる…お前は人間…だ…」
「私は…泳ぎを習ったわけでもないのに、あの日海で溺れなかった。それはにいさまも知っているでしょう」
「それが…どうした!」
季吉の目が見開かれた。それでもお前は人間だろう。そうであってくれ。季吉の目がそういっていた。
「川へ行くと…私のまわりにだけ、おかしいくらいに魚がくるんです。それに…」
みるは粗末な着物の裾をつかんで、そろそろとたくし上げた。見たくなどないのに、強制的にそこに目がむく。その白い太ももの上部を見て、季吉の顔に戦慄が走った。
「お前…お前、妹では…なかったのか…!」
そこには、女の身体にはないはずのものがあった。驚愕する季吉を見て、みるは唇のはしを吊り上げた。紅いその唇から、小さな笑い声が漏れる。
「兄さま…見てほしいのはそこじゃないんです」
みるは足を開いた。その太ももの内側は、濡れて鈍色に光っていた。鱗だ。
…ついに決定的な証拠を目にしてしまった季吉は、唇を噛みしめて目を閉じた。
「何で…言わな、かったんだ…」
悲しみが滲んだその声に、みるは泣きそうに言った。
「兄さまが…みるは人間だといってくれて、妹として接してくれて、うれしかった…でもこわかった。もし本当のみるを知ったら兄さまは…」
そこでみるがぐっと泣き声をこらえたのがわかった。季吉は絆されて目をあけた。わなわなと震えるみるの唇は、太ももと同じようにてらてらと光っていた。その奥にずらりと並んだ歯は、一つ一つが鋭く光っているよう―…。慣れ親しんだみるの顔が、体が、急に知らない恐ろしい生き物のように見えた。季吉は思わず聞いていた。
「お前は…何なんだ…俺の妹ではなかったのか。どこから、来たんだ…」
「それは…私もわかりません。でも父は言っていました。お前は儂の子ではない、生きていては、わざわいをもたらすばかりだと…」
「父は…ぜんぶ知っていたのか」
「はい。人魚”姫”の方が価値があるからと、女の衣を着せられ、座敷牢に閉じ込められました。男だと言ってはならぬ、喰われる時には、切り落とせばいいと…」
「…人でなしが…」
するとみるは悲し気に微笑んだ。
「みるがですか?」
「いいや、父がだ」
「兄さま…」
みるはその唇から、絞り出すように言った。
「愛しています。私を食べて下さい」
季吉は即座に首を振った。するとみるは季吉の小刀を取り出して、鱗の部分にあてて動かした。
「兄さまには、いくら感謝してもしたりません。みるのためにすべて捨ててくれた…兄さまに、死んでほしくありません」
みるのふとももに血が滲んで、ぱらぱらと鱗が剥がれ季吉の胸に落ちた。
「ほらみてください…兄さまの好きなお刺身です…」
鱗のはがれた太ももは、透き通った薄桃色だった。見てはいけないものだ。季吉はとっさに目をそらしたが、みるは口元に太ももを近づけた。
「おねがいです兄さま…一口でいいから」
「いやだ…人を、喰うなど…!」
しかし、その傷口からは懐かしい匂いがした。脂の乗った、甘い匂い。いちばんの好物であった、氷魚の寿司に似ている。昔日のその味を思い出して、口の中に唾が沸く。病んで痩せさらばえた体が、それを求めている。
(いかん…!)
このままでは己の欲望に屈してしまう。そう思った季吉は、とっさにみるのもつ小刀を奪って自分の手に突き立てた。
「っ…!」
みるは慌てて小刀をその手から取り去って、布で強く抑えた。
「兄さま…なんてことを…!」
季吉を見るその目は、またしても暗い波のように荒ぶっていた。みるはじいっとその目で季吉を見下ろした。
「抵抗はやめて…ほら、見てください私の目を」
暗い波が深緑のしぶきをあげている。しかし次の瞬間、その目はまぶしい翠色に輝いた。
「何も心配することなんてないんです…みるはただ、兄さまに栄養をつけてほしいだけ」
目が翠色からとろりとした琥珀色に変わる。その色に魅入られて、季吉の頭はぼんやりとした。抗う気持ちが弱っていく。みるのその声は、大きな力で季吉を包み込むように、頭からつま先までに響いた。
「ほら…一口…いくらでも食べてもいいんですよ」
口元に、桃色の肉があたる。ぷるりとしたそれは、まさに刺身の感触だった。夢うつつの中、季吉は口を開けた。
「ああぁ!」
悲鳴とも悦びともつかない声が、みるの口から漏れる。その肉は、えもいわれぬ甘味がした。ひとかけらほどのそれを飲み下すとともに、季吉は後悔に強く目を閉じた。空の胃の腑に、その肉が溶けていくのが感じられた。
(ああ…俺は…血のつながった妹…いや弟を喰ってしまったのか…)
しかしどこまでつながっているのか?みるは母から産まれたのは間違いない。なら…。そう考える季吉の胃の腑から、ぼこぼこと何かが沸くような心地がした。その音と同時に、脳裏に暗く深い淡水の海が広がる。その海の中に落ちていく母の先に、黒い大きな影が見える。鋼のような鱗をもち、鋭い歯を持つ何か――。頭の中でそれを見た季吉は、みるの出自を察した。
(人間ではない弟と、その弟を喰らった兄…)
季吉はその事実におののいた。こうなってしまえば、どちらも同じに罪深い。
―やっと蟲毒の地獄から逃れたと思ったのに。逃げた先もまた、新たな地獄だったのか。
「兄さま、大丈夫、ですか」
「お前は…痛く…ないのか」
「ちっとも。うれしいです。これで本当にずっと―ずっとずっと、にいさまと一緒です」
太ももをかじられて法悦の笑みを浮かべる弟を見て、季吉の背筋に冷たい震えが走った。父が流したくちなしの花が脳裏によぎった。
その瞬間、恐怖が季吉の身体を動かした。季吉は狭い小屋から転がるように走り出し、二度と振り返らなかった。
◇◇◇
あれから長い時が経った。忍びも侍も時のかなたに消えるほどの時が。山小屋の床の上に横になったままの季吉は、眠る事もできずただじっとしていた。
(あの時から、俺は…逃げて、逃げて、逃げ続けてきた)
忍びとして育てられた季吉は、逃げる事、身を隠す事には長けていた。時には技を使い、時には魔除けの護符を使い、あれと再び相まみえる事なく生きながらえてきた。
(だが、こんな人生に意味などあるのか?俺は…あれを助けるために、最初逃げ始めたというのに)
守るものを失ってしまった季吉に、もう生きる意味などなかった。しかしこの体は、死ぬこともできない。この絶望感を一時でも忘れるため、季吉はもはや惰性で逃げ続けていた。
(人の理をはずれ―なんと罪深いことだ)
しかし、逃げたことは正解だ。季吉は自分にそう言い聞かせた。
みるから差し出される、盲目的な愛。自分を喰わせる事すらいとわない度を超えた献身。その向こうに透けてみえる弟の欲望。あのまま一緒に居ればきっと―自分はみると、さらに深い罪を重ねていたに違いない。
(弟を喰い、契るなど―畜生道に堕ちてもまだ足りぬ、外道の所業だ)
しかし、抑え込もうとしても時々ふと考える。みるの誘惑に屈していたら、今頃自分はどう過ごしていたのかと。それを想像すると―季吉の体には恐怖とも恍惚ともつかぬ震えが走るのだった。
(やめろ、そんな事を考えるなど)
しかしそんな事を考えている時こそ、声がする。それはいつも同じ呼び声。
『にいさま…にいさま』
みるが生きているのかさえ、もうわからない。なのにその声は永遠にやむことがない。壁の外から聞こえているのか、自分の頭の中に響いている声なのか、どちらなのかも最早わからない。季吉は淀んだ目を開いた。いつまで―この声に、抗う事ができるだろうか。
「ずっとずっと、一緒です」
どこかから、また声が響いた。