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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

できそこないの兄と、できのよい妹

作者: 六角 橙


 皿に盛られた魚を見て『彼』は悲しげ顔をしていた。

 この7年間、1度たりとも変わらなかった光景を目にしながら、私はただただ口へ食事を運ぶ。


 私は、ジェーン・ストレーリ。ストレーリ子爵家の長女だ。

 今年で17歳になる。


 そして。私と両親から離れた場所に座る、薄汚れた服の彼は、私にとって『兄』にあたるらしい。


 夕食時……。

 いつでも思い出すのは、10歳の時に『彼』の存在を自覚したときの記憶。



「どうしたのジェーン、好き嫌いはよくないわよ」

「だって。お肉よりおさかなが良いわ」

「流石ジェーンは、海神ラーヴェイの国に生まれた子だな。ほら、パパの魚を分けてあげよう」



 10歳の私の皿の上に、白身魚のフライが盛られる。彼はじっと皿を見つめたまま、微動だにしない。私は花瓶の花が1本だけ萎れていたのを見つけたような、そんな複雑な気持ちになって、パパがくれたフライをぱくついた。



「ジェーンは本当におりこうね」



 ママが自慢げに言う。



(……本当に、本当に私の『兄』なら、どうして私の目を見てちゃんとお話ししてくれないの?)



 物心ついたころから、両親は『彼』をいない者として扱ってきた。

 私も、ずっとそうだった。

 でも最近になって、王都にある学園へ通うための勉強をし始めて、急に不思議に思うようになった。


 なぜ、お兄様はいない者として扱われているの?

 どうして、私はお兄様の名前を知らないままなの?


 10歳の私でさえ不思議に思うのに、パパもママも、不思議には思っていないのかしら。


 夕食を終えるころに、お兄様の皿に野菜が盛られた。ううん。野菜の、クズだ。メイドのハンナが、ニンジンの尻尾やカブのへたを乗せていく。野菜のクズが肥料やスープのもとになることは、私も家庭教師から学んだの。

 魚が苦手なら、私の食べているお肉を差し上げるわ。そう思って声に出したこともあるの。

 そうすると、私は怒られたの。



「いない者の話をしてはいけないよ」



 って、パパにも、ママにも。怖くて、その時は黙ってしまった。

 でもお兄様はそこにいるわ。間違いないの。幽霊じゃない。



(……なんて聞けば、いいのかしら?)



 家庭教師に尋ねたときも、難しい問題だ、と言われてしまった。パパもママも、それが当たり前という顔をしている。私もつい最近まで、同じように考えていた。

 でも、領地にある孤児院へ行った時に、気が付いたの。

 ストレーリ子爵家が支援する孤児院の子供たちだって、パパやママがいる私のようにちゃんと温かい食事を囲むの。野菜くずは肥料やスープのもとになっていたわ。


 じゃあ、どうしてお兄様は野菜くずを食べさせられているの?


 食事を終えて、お風呂に入って、ベッドの中で私は考える。お兄様はお風呂に入るのかしら、ベッドの中にいるのかしら。あの汚れた服はどうして綺麗にならないの。私のお兄様なら、メイドたちはなぜ、お兄様の面倒は見ようとしないの。


 私の中は、そんな疑問でいっぱいになっていく。

 でも。

 解決しようとしても、パパもママも、決してお兄様の存在を認めようとはしなかった。



 あの日から7年が過ぎた。

 状況は、何も変えられていない。


 パパ……いいえ。お父様もお母様も、やはり、お兄様のことを認められない。メイドたちも、私のいうことは聞きすぎるほどよく聞いてくれるけれど、お兄様のことについては何も聞いてくれないの。



 食事の席にいるお兄様は、10歳の時の私が見たように、ガリガリに痩せていて、じっとうつむいていらっしゃる。食事は、野菜くずや肉がほんの少し残った骨。魚を食べないお兄様には、それしか与えられない。



(……お兄様)



 15歳の時。孤児院を訪問した私は領民たちの噂話を耳にした。ストレーリ子爵家の極潰し、ストレーリ子爵家の恥晒し、ストレーリ子爵家のできそこない……。

 思いつく限りの罵詈雑言と共に、お兄様は大変悪く語られていた。


 お兄様は、極度の人見知り。

 そして、よく知らない人と会うだけで体調を崩す。

 お兄様がいうには、外にいるだけで知らない人の声が聞こえるらしい。


 そんなの当然のことなのに、と、語られていた。


 ……ストレーリ子爵令息であるにも関わらず、お兄様は継承権を持っていない。私が次代の子爵としてストレーリの名を受け継ぐことを認められており、入り婿を取る予定になっていた。

 屋敷の中にずっといるから、お兄様は真っ白な肌をして、とても痩せていらっしゃる。太ってはいないけど、この国の人にしてはなよなよしてて、モヤシみたいだ。周りを全部海に囲まれた島国だから、男性というと漁師や商船の乗組員がメジャーな職業。そのせいで、日に焼けた、元気の良い人が多い。


 私とおいくつ離れているかは分からないけれど、お兄様はとても男の人には思えない。

 だってとても小柄で、とても痩せていて……。


 白くて美味しい魚のポワレが、急に苦くなった。そんな気がした。





===





 翌日。

 私は朝から、神殿へ礼拝へ向かう支度に忙しくしている。


 今日は海神ラーヴェイの元へ礼拝をおこなう、特別な日。領地の東部で森林火災が起きたため、両親は急遽、視察へ出かけることになった。そのため私が、代理として礼拝を行うことになった。


 この国を含め、周りの国には『守護神』が1つの国に1柱ずつおられる。


 守護神は数百年に1度、神子様を選び、国へ恵みをもたらすのだ伝えられていた。


 現に火神モルスヴェンの神子様をえられた隣国では、酷い乾季の代わりに適度な雨がもたらされているという。


 守護神は神子様だけを愛する。

 神子様を愛する守護神にとって、神子様をはぐくんだ世界も愛すべきもの。


 海神ラーヴェイは、海をつかさどり、命を生み出し、やがて人が生涯の終わりを迎える。そんな海を守る、とても位の高い神様だという。

 だから私を含め、この国では礼拝の儀式は大変に重要な事柄だった。


 メイドのメアリーを含め護衛を伴い、私は馬車へ向かうべく廊下を歩いていた。と、その時。



「ジェーン、お願いがあるんだ」



 本当に小さな声だったけど、突然。それに、私は名前を呼ばれた。隣に立つメアリーも、驚いて目を見開いている。

 ぱっと振り返ると……そこには、お兄様が立っていた。



「えっ……?」

「海神ラーヴェイの神殿に行きたい。連れてって……お願い」



 足が、ガクガクと震えた。ドレスで隠れていなければ、みっともなかっただろう。頭のてっぺんが、かーっと熱くなるのが分かる。


 今、初めて私は、お兄様の声を聞いた。

 なぜ、どうして? 

 どうして今、話しかけてこられたの? 

 それも、海神ラーヴェイの神殿へ行きたいって、どういうこと?


 混乱する私の横から、



「お嬢様は貴方と違って忙しいのですよ」



 と、メアリーが厳しい声で言い放った。



「……なら、1人で行く」



 孤児院のいじっぱりな男の子みたいに、お兄様は言った。メアリーがサッと顔色を変える。



「ヴァン、様!」



 突然。メアリーがそう言った。ヴァン? もしかして、私のお兄様は『ヴァン』というの?

 私は初めて。まじまじと、お兄様の顔を見た。やせこけた頬、真っ白な肌。私とは似ていないけれど、目は同じ淡い黄色の混じった緑色だ。


 ヴァン。

 彼は、ヴァン。私のお兄様の名前……。


 急に、私は『お兄様』と呼んでいただけだった彼を、強烈に意識した。孤児院では、小さな子どもたちが『お兄ちゃん』と呼んで、年上の男の子を慕っている。

 でも、あの男の子に比べても、お兄様の姿は大変にみすぼらしい。



「……メアリー。支度をして差し上げましょう」

「ジェーン様、まさか」



 ぎょっとした顔をするメアリーに、できるだけツンと澄ました顔をして答える。



「このまま外に出ていかれたら、ストレーリ子爵家の恥だわ。まずは髪も整えて、体はローブで誤魔化しましょう? 大丈夫よ、私の連れって言えば神官様もそれほど追及しないはず」

「しかし」

「いいわね?」



 念を押すと、メアリーはしばらく黙っていたが、やがてその通りに動き出した。連れ去られるようにメイドたちが浴室へ引っ張りこんでいったお兄様は、やがて白いローブを深くかぶったまま戻ってきた。



「では、行きましょう」

「ありがとう。ジェーン」



 お兄様の声は小さく、そして、とても震えていた。何故だろう。私の胸は、ギシギシと、うなりをあげる船底のように軋む。

 周りに『下手に事を荒立てないように』と言い含め、同じ馬車に乗り込んだ。お兄様は馬車の窓から周囲を見回しては、すごい、と小さく呟いている。

 ストレーリ子爵家の領地には、大きな港がある。

 様々な国から、多くの積み荷を乗せて、船がひっきりなしに到着する港だ。周囲をぐるっと海に囲まれたこの国では、とても大切な港の1つなのだと、私はいつも誇りに思って育ってきた。


 でもお兄様は、そのことを知らなかったのだろう。



「あれが、船……」



 かすかに唇が動いたのを見て、顔を伏せそうになった。

 この島国の、それも港があるストレーリ領に生まれて……船を知らない?


 私の胸の中は、ぐちゃぐちゃになっていた……。



===



 きらびやかな灯の下、お兄様がそっと両手を組んだ。

 白いローブを深くかぶったお兄様の外見は、外からは全く分からない。なのに、お兄様の眼は周囲を不安そうに見回しているのが分かる。

 お兄様はふと視線を私へ向け、私の顔にホッとした様子で目じりを緩めた。



「と、とても、久しぶりに、き、来たよ。えっと。1年ぶりくらい?」

「ええ、そのくらいかもね」



 どもりながら言うお兄様に、私は頷く。

 お兄様の外出は、私が覚えている限り『初めて』だ。


 白い石で作られた神殿の中には、お香と潮の香りが立ち込めている。青い石からは絶え間なく水があふれ、その流れが海へ向かって続いている。

 海神・ラーヴェイ様の神殿は、今日も美しく、そしてきらびやかだった。

 あちこちをきょろきょろ見回しているお兄様を止めるため、ローブの袖を引く。過剰なほど肩を跳ねさせて反応したお兄様が、頷いて動きを止めた。

 これから、拝礼の列に並ぶのだもの。少しだけ落ち着いて欲しくて、私はお兄様のローブの袖を、握ったままにした。

 ラーヴェイ様は、四方を海に囲まれた、我が国の守護神。多くの人が日々礼拝に訪れ、私たちのような貴族も平民も分け隔てなく、順番を守らなくてはならない。


 ほどなく、お兄様と私の祈りの番が訪れた。



「海をつかさどり、命を尊ぶ、誉れ高きラーヴェイ様。良き風が、良き流れが、我らの周りにありますよう。……我が妹に良き流れが常にあり続けますように」



 静かに祈りの言葉を告げるお兄様の後ろで、私は何とも言えない気持ちになっていた。

 ラーヴェイ様に私の幸せを祈るお兄様の顔は、とても真剣だ。やがて祈り終えたお兄様の横で、気もそぞろに手だけ組んだ私をお兄様が振り返る。



「……ありがとう、ジェーン。私を連れてきてくれて、本当にありがとう」

「よして……。ほら、行きましょう」



 口元を隠すための扇をそっと広げ、付いてきたメイドのメアリーへ合図を送る。流石にそろそろお兄様は、馬車に戻った方がよさそうだ。このままでは、倒れてしまうかもしれない。



「ありがとう、ジェーン」



 お兄様の言葉に私が振り返った、その時だった。

 海の方から、突然風が吹いてきた。お兄様の纏う白いローブが吹き飛ぶほど強い風。でもお兄様は、ローブを吹き飛ばされてもしっかり両足で立っていた。その姿に私は思わず目を丸くし、スカートを抑えるのも忘れてお兄様へ手を伸ばす。



「お兄様!」



 思わず私が叫ぶと、周りがどよめいた。『あれがストレーリ領のできそこない?』『ジェーン様のお兄様?』などと、声が聞こえる。

 お兄様はゆっくりと、私の方を振り返った。泣きそうな、怒っているような、喜んでいるような顔。眉はハの字なのに、口は笑っている。



「ばいばい、ジェーン。どうか幸せになって」



 その瞬間。

 お兄様の外見が、大きく変わりだした。黒かった髪は海を思わせるエメラルドグリーンになり、目は深いブルーへ変わる。肌は砂浜みたいな白さへ、爪が金に輝いて、その体が幾重にも重なる薄布で抱き留められた。布は真珠のように煌めいて、紅珊瑚のように上品に赤く染まっている。

 とっさに、返事もできなかった。


 お兄様の体はふわりと宙に浮き、そして。

 巨大な水の球に包まれて、あっ、という間に海の中へと消えてしまったのだった。





===




 お兄様が海中へ消えてから……私と、領地の東部より大急ぎで戻った両親は、海神ラーヴェイの神官よりお話を頂いた。

 お兄様がどこへ行ったのか、そして何が起きたのか、それを教えていただいた。



「神子様……? お兄様は……神子様だったのですか!?」



 私は愕然として、叫んだ。

 神子様は守護神の愛する存在。伝説では、遠い遠い昔、神様も人間も分け隔てなく生きていた頃、守護神と恋仲にあった存在の生まれ変わりと言われている。

 しかし……通常は、神殿へどんな幼子でも連れて行かれるから、そこで分かるのだという。

 スラム街にいても、孤児でも、必ずだ。


 お兄様はなんと、記録上では私の2つ上。19歳だそうだ。

 それほど長く神子様として見つからなかったのは、異例中の異例だという。



「……こんなにも長く見つからなかったことに、何か心当たりはありませんか?」



 両親が顔を見合わせ、恐る恐る話し出した。

 お兄様は『姿は見えないのに声が聞こえる』とか、『外に出ると余計にひどい』とか、そうしたことを言っていたそうだ。道を歩けば誰もいないところを避ける。それに、この国では穀物より安い魚を全く食べられない。


 神子様であったということは、全て意味があったとしか思えない。



「……息子は以前から、環境の変化にとても弱くて、少しでも知らない人に会うと体調を崩すほどでした。……ですからお祈りにも、なかなか行けずじまいで……」



 父がそう言うと、神官様は深く頷かれた。



「なるほど。神子様としての力が覚醒するのが、早すぎたのでしょう。神子様は神の御心を受け取り、他者の痛みを和らげる。その力の制御ができていないと、周りの声やその存在に、大変に影響を受けてしまわれますから……」

「……では息子は」

「幼いころから、無意識のうちに他人の痛みを受け取り、周りの人間の心の声を聞いておられたのでしょう。自分へ向けられた悪意でなくとも、恐ろしい想いをどこかでされたのです」



 父が顔を伏せる。



「お聞き及んだ限りでは、神子様や神殿のことを知る前にお心を深く傷つけられてしまった……さぞ、ご苦労されたことでしょう」



 神官様はそうおっしゃられたけど。父や母は青ざめたままだ。

 当然だろう。私も今、恐怖を抱いている。いや、覚悟を決めようとしている。

 でも一方で……こうも思うのだ。


 海神ラーヴェイは、私たちにどのように罰を下されるのだろう。

 この19年、何もしなかった私たちに。


 答えは、出なかった。




===





 ストレーリ子爵令息が、海神ラーヴェイの神子様だった。


 その話は広く出回った。お兄様がずっと家に閉じこもっていたことは、神殿からも『神子様としての覚醒があまりに早く、御心を深く傷つけられたため』と発表され、そういうことになっている。


 ストレーリ子爵領では、さっそくと言っていいほど、漁の釣果が大変なことになっていた。悪いんじゃない、良すぎるぐらい。

 さらに外国からもあれよあれよと祝いの品が運ばれて、皆、忙しさに喜びの悲鳴を上げている。



「計算終わりました!」

「ありがとうセレナ! ハイデルン、次年度の予算案は!?」

「今届けに行きまーす!!」



 おかげで、ストレーリ子爵領の経営を学び始めたところだった私は、学園へ通っている暇などなくなった。海神ラーヴェイの神子様の血筋と知り合えるとあって、お見合いも大量に持ち込まれている。

 父も母も大変な騒ぎでストレーリ子爵領の状況を把握し、あちこちで足りていない人手を足したり、予算をだしたり、大忙しだ。2人とも、あの時は不安がっていた『兄の仕返し』は全く考えられなくなっているらしい。


 私も、そうだ。


 最初は、お兄様が何か仕返しを考えてもおかしくないと思っていた。

 だってそうでしょう。誰かに話しかけられることもなく、満足な食事も、清潔な服にもしてもらえず、部屋に閉じ込められ、何も教えてもらえなかった。私はお兄様の名前を、あの瞬間まで誰かに尋ねることさえ考えつかなかったの。


 仕返しをしたい。

 復讐をしたい。


 そう考えたって、何も不思議じゃないのに。



(ひょっとしたらお兄様は……何もかも、お許しになられていたのかもしれない)



 神子様は、私たちにとって、神と同じ存在。


 海神ラーヴェイの神子様は、海を操り、水を御し、大嵐さえ跳ねのけると伝わっている。その光景を私は見たことはない。しかし領民の中には、大嵐に見舞われた船を、真っ白な体に金色の爪、青い目に緑の髪の青年に助けられたと語る者もいた。

 思わず書類へ署名をする手を止めた時だ。



「お嬢様! ジーク様がいらっしゃいましたよ」

「本当!?」



 そのまま、私は部屋の外へ出た。



「ジーク!」

「やあ。こ、こんにちはジェーン。何か手伝えないかと思ってね」

「もちろん山積みよ!」

「そりゃ、腕が鳴るな」



 くすくすと笑うのは、柔らかい茶色い目と茶色い髪をした、ジークだ。少し人見知りな彼は、私のお見合い相手の1人だったラファレル伯爵の5人目のご子息。ぐいぐい来ない、ちょっと控えめな様子に、なんだかとても癒されてしまって……私はすっかり彼と共に過ごす時間が増えていた。


 彼が、5人目のご子息というのも大きい。入り婿になってもらっても、何も構わないからだ。



「ジェーン。この作業が終わったら、少し時間が取れるだろう?」

「ええ、その通りよ。どうしたの?」

「ストレーリ子爵領の西にある、ヴァッチェスの花畑が満開なんだ。少しだけ、見に行かないかい? 僕も一緒に頑張るから」

「素敵! じゃあ、一緒に行くわ」



 私には、何も起きていない。お兄様からも、何もない。

 夢だったんじゃないか、そう思えてくることもある。お兄様は神子様ではなくて、本当はどこかへ入り婿へ行ってしまったんじゃないかって……。


 ジークが来てくれたことで私はあっという間に仕事に集中し、ひとまず、半日は自由な時間を手に入れた。約束通り、私とジークは同じ馬車でヴァッチェスの花畑を目指す。優しく抱き寄せられて、私は夢見心地になる。


 夕暮れ時、あと少しで今日の宿につく。まだ日が明るいうちでよかったと、ほっとしていた。


 と、その時。ガタン、と音を立てて、馬車が止まる。身体が大きく揺れたのを、ジークが抱き留めてくれた。



「何事!?」

「お嬢様、突然申し訳ございません!」



 ここまで馬を飛ばしてきたのだろうか。馬車のドアをはね開け、執事のダニーが、叫ぶ。



「御屋敷の、御屋敷の上流で大雨が!! 大量の水が、一直線に街へ!!」

「なんですって!?」



 私は思わず、立ち上がる。ストレーリ子爵家の領地には、川が流れている。川幅も広く、その水源であるエーナ湖は風光明媚な場所として有名だ。

 ただ……万が一、エーナ湖が氾濫したら町が沈むとも言われていた。しかし、あり得ない。今は雨季でさえないのに!



「私はたまたま、他の使用人の穴を埋めるために、旦那様のご命令で屋敷の外に……! 屋敷にはまだ、旦那様と奥様、それから使用人たちが……!」



 頭の中から、ぴきぴきっ、と音がした。血の気が引くとこんな音がするのだ、そう思いながら、ダニーへ言う。



「今すぐ戻るのは危険すぎるわ……夜盗がでるかもしれない」

「しかし!」

「朝を待ちましょう!! その間に、支援物資を急いで集めて頂戴。夜でも道を行けるだけの技量がある者を集めて。危険だからとにかく費用は弾んで、私からの指示を飛ばすから!」



 冷や汗が止まらない。どうか助けて、海神ラーヴェイ様。

 思わず祈りそうになって、私はぐっとこらえた。



(祈る……? いいえ、祈る顔なんて持ち合わせていない……!)



 お兄様への罪悪感と、ストレーリ子爵家の跡目として育った矜持が、私の中で祈るという選択肢を忘れさせた。今、ここで、私が潰れるわけにはいかない。腹の奥に力を入れて、立ち上がる。



「お父様とお母様のことよ、何とか生き延びるはず。荒れた川辺のことは町の人も良く知っている。すぐに救助できるように、できる限り体制を整えるの!」

「……お嬢様っ」



 ダニーは、涙ぐんでいる。ジークが私の手を、強く握る。



「やろう、ジェーン」

「ええ!」



 私は力強く、頷き返した。


 ……それからのことは、まさしく。氾濫した川のように、怒涛そのものだった。


 翌朝になり町へ向かうと、そこには何故か、王都にいるはずの国直属の騎士団がいて、私たちが引き連れた救援隊が活動しやすいように助けてくれた。それだけじゃない、領民には被害が出ていなかった。船も無事で、いくつかの家が川が起こした波に飲まれていった程度……。

 そう、私やダニー、ジークが予想していたのよりも、大幅に少ない被害だった。

 ほどなく、国の騎士団が来ていた理由も、意味も分かった。



「神子様が騎士団を連れていらしたのです! そしてあっという間に水を操られてっ……! でも、あと一歩のところで、ストレーリの、お屋敷は……」



 現場を見ていたという、メイドのメアリーはそう語った。


 なんでも両親は、最後の領民が逃げるまではと、屋敷に留まっていたという。そこに運悪く水が押し寄せて、屋敷ごと海へ流されたそうだ。

 何もない屋敷跡を前に、誰もが、仕方がなかったと語った。それほどまでに、国の騎士団と神子……お兄様の到着は、ギリギリのところだったそうだ。

 神子様は、流された屋敷を見て、悲鳴を上げたという。何とか屋敷の中から人を救い出したが……その体はもう、人の形を保っていなかった。それでも最後の一人まで救い出してくれたから、亡骸は全て墓地へ葬ることができた。


 もし……兄。いいえ。

 神子様がいらっしゃらなかったら、何もかも私は失っていただろう。



「……私が全てを受け継ぎます、お父様、お母様」



 墓前に花を供えながら、私は誓う。

 ジークとは正式に結婚が決まり、日取りも決定されている。いつか、私も、両親のように海に流される日が来るのかもしれない。あまりにもうまくいきすぎている。誰も口には出さなかったけど、そういうことだろう。


 両親は、海神ラーヴェイ様の怒りを受けたのだ。


 そうだとしても。

 私は生きていこう。この国で、この港で。

 ストレーリ子爵家の、名と共に。



===



 ストレーリ子爵の悲劇から、幾年も過ぎた、ある日のことだった。

 砂漠地方へ向け、1人の老人が船を乗り継ぐ。


 名をダニー。かつて、ストレーリ子爵家の執事を務めていた老人だった。


 ジェーンはストレーリ子爵家の家督を正式に継ぎ、やがて2人の男の子をもうけた。うち1人は、ヴァンのように人見知りだったが、ジェーンもジークも根気よく接した。おかげで今では王都の学園で優秀な成績を治め、次代の担い手の1人になっている。


 その様子を見届け、ダニーは暇をもらった。



(私が生き残った意味は……もうないのだ……)



 ダニーが思い返すのは……ヴァンが生まれ落ちた日のことだった。


 ヴァンは、ストレーリ子爵の子ではない。ストレーリ子爵家に仕えていた、とあるメイドが、命と引き換えに産み落とした子供だ。

 父親の名は不明、メイド自身も身寄りがないとあり、最初は孤児院へ預けることになっていた。ところが……ストレーリ子爵夫妻には、結婚してから5年も子どもができていなかった。


 国では基本、長男へ家督を引き継がせる。

 しかし娘さえいない状況では、家の存続も危ぶまれていた。


 そこでストレーリ子爵夫妻は、この身寄りのない子供を自分たちの息子として育てることを決めた。

 最初は何も問題がなかった。母親だったメイドに皆、同情していたし、ヴァンは偶然にもストレーリ子爵家に特徴的な、黄色と緑色が入り混じった目をしていた。ストレーリ子爵夫妻はともに子作りに励むための食事法を実践するなど仲睦まじく、お互いに浮気など少しも考えなかったようだ。


 しかし2年もしないうちに、ストレーリ子爵夫人はジェーンを身ごもった。生まれてしまえば、我が子がかわいくて仕方がない。しかし娘へ家督を継がせるには、すでに長男として発表したヴァンの存在が邪魔だ。


 そこでダニーが、提案した。

 ヴァンを『できそこないの息子』に仕立てるという、残虐な計画だ。


 たった2歳のヴァンはいないものとして扱われ、粗末な服と食事。それから悪意をもった噂と、ジェーンが知らないところで行われていた数々の暴力により、どんどん自信も自己も失っていった。


 ジェーンは知らなかっただろう。

 二つ向こうの部屋の中で、メイドたちに取り囲まれて。いったいヴァンが、どんな振る舞いを受けていたのか……。


 発案者のダニーにとって、ストレーリ子爵家は何よりも大切だった。浮浪児だった自分を拾い、名前さえ与えて育ててくれた、大切な恩人だったのだ。

 雨の影響を受けて死んだ使用人たちは全員、ヴァンへのふるまいを承知していた者だけだ。

 その中で、どういうわけか、発案者のダニーだけが生き残った。



「……海神ラーヴェイ様。貴方様は、ジェーン様を試されたのですね」



 ジェーンは両親の影響を受けたが、やはり。才媛と呼ばれ、皆から慕われるだけはあった。家庭教師からの教えや、周囲の様子を注意深く観察し、やがて『兄であるヴァンへの皆のふるまいはおかしい』と気が付いた。

 そのおかしいふるまいをする人々の中で、ずっと成長してきたにもかかわらず。


 彼女は、いつかヴァンが仕返しをしてくることを、受け入れているそぶりがあった。



「ジェーン様は、怖がられたが、変わることができた。……改心なされたのだ」



 100人が真摯に祈るより、たった1人の過ちを犯した者が心を入れ替えること。その方が、海神ラーヴェイの心を癒したのだろう。

 ダニーはそう、考えていた。

 ヴァンが神子とは知らなくても、ダニーの案は神子を隠すことに繋がった。ゆえに、海神ラーヴェイは、その結果をダニーへ見届けさせられたのだろう。


 結局ダニーは、恩人の命を救うことは、何一つできなかった。



「そうだとしても……私は、海へ死にはしない」



 砂漠の中へ、ダニーは歩いていく。やがてどこかの砂丘の片隅で、命を落とした老人の亡骸が転がるだろう。砂に埋もれれてしまえば、海へ還ることもない。



「私は、旦那様と奥様のために死ぬ」



 すべてを喉の内へ押し込めて、ダニーは静かに目を伏せるのだった。





おわり

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