龍仁くん
「うー、疲れた。」
龍仁は仕事を終えてハンカチで顔を拭う。作業着のまま農協の敷地を出て、最寄りの大衆食堂へ向かう。
「下江じーちゃん、パジョン 2 枚。」
龍仁も気さくな口調のブルーカラーになった。龍仁は、最近まで君主になることを期待されていた身分である。遠い昔の例を挙げれば、天竺の覚者の如く。
「龍ちゃん、油っこいのが好きだねえ。昨日はもつ煮だったっけ。」
「いやさ、東京で皇太子させられてた頃はさ、お上品な料理しか食べさせられてもらえなかったからさ、野暮ったい味に憧れてたの。」
「ふーん。俺もお上品な料理は余り好きじゃないんだ、カイセキ料理とか。あれ、漢字によって、種類が違うんだっけ?」
下江が葱を刻み終え、麦粉に混ぜて捏ねる。
「そう。茶会で食べるのと、酒宴で食べるのと。いやー、君主ってのも面倒だが、甲斐の総統や役人も面倒だろな。」
「東京共和国とやらも今は国家主席が仕切ってるんだっけ?結構威張ってるらしいけど。先週、東京から観光に来たおばさんが言ってたぞ、お前が政治やった方が清潔感があるって。」
「いやだー。勤皇家ってやつかね、そのおばちゃん。」
フライパンの上でパジョンがピチピチと音を立てる。
「ここ三十年くらいかな?東京でもヒダリが巻き返してくれた。俺も天皇なんてレッテル、寧ろ重荷にしか思えなかったから、捨てた。三千年の伝統を自ら断ち切ったのこそ、俺の自慢だ。アハハ。」
「俺が餓鬼の頃は王女様とかお姫様にやたら憧れてた女子がいたがな……」
「やめとけ、やめとけ、俺の好きだった服は、白衣だ。」
「はい、これ一枚目。」
下江がカリッカリに焼けたパジョンを賽の目に切って供す。龍仁がそれを頬張る。
「ところでそういうお前は自然科学はできるのか?水兵リーベって知ってるか?」
「ん?結局オガネゾンから先はいまだにできてないんだっけ。」
「えーとな、理研だっけ?元素なんか合成する余裕はねえらしいよ。人口減で人もいねえ、銭もねえ、ドレッシング作るだけで精一杯だと。」
「まあそうだろうな。日本も、世界もバラバラになったもんだ。」
「俺も本来なら或る意味、大和を治めてるべきだったのかな。奈良盆地。」
「大和帝国!あすこにはいまだに天皇がいるぞ!お前の親父が死んだ、今更崩御っていってもしかたないか、その時、我こそ神なり、と称した輩がワンサカワンサカ……」
「そりゃ今は、日本全国、天皇、皇帝、王、国家主席、総統、大統領だらけじゃねーか。」
龍仁が辛みの残る舌を水で濯ぐ。
「いや、昔はインターネットってのがあったらしいけど、今の世の中はほんと、分かんねえ。俺みたく皇太子やってた人間ですら。」
「ほれ、パジョン二枚目。山梨日日新聞は読んでるか?」
「ありがと。俺自身はちっとも二枚目じゃないけどな。」
「二枚目って歌舞伎の用語だっけ?」
「そう。皇室にいた頃はさ、能や狂言はともかく、歌舞伎は庶民的だったからか知らないが、余り見せてくれなかったなー。」
「ごちそうさまです。」龍仁の隣の若い女だ。親子丼の代を払い、食卓に山梨日日新聞を置いて去る。龍仁が手に取る。
「1872 年創刊……フーン、睦仁爺さんの頃か。何々、吉備王国で暴動発生?」
「あすこは全体主義丸出しの国だろ。かつての龍ちゃんとこ以上に。サッカーの応援にまで、国民が無理矢理駆り出されるらしいぞ。応援しなきゃ非国民だって。」
「ヒェー!嫌だー!歴史が繰り返すとはそのことか!」
「そのぶん、龍ちゃんは偉い。」
「俺、偉いって云われるのすら嫌っす、もう。じーちゃん、俺仕事に戻る。」
「パジョン 2 枚、6 文ね。」
龍仁は店を出て、富士川の谷間からリニア中央新幹線を仰ぐ。嘗ての超特急の面影は無く、人と農作物を載せた列車がすーっと駆けていく。




