プロローグ1 天使
低い天井の下で食べる焼き菓子は美味しい。
夢中になって頬張っていると手は砂糖でべたべたになって、床だって菓子の欠片で汚れてしまう。けれど私は気にしない。こいつは幼いころからの習慣。身についた癖というのはそう簡単に抜けはしないものだ。
かつての居場所は梯子の上、物置を片付けて作った私の部屋は狭くて天井がとても近かった。ベッドを一つ置くだけで精一杯だったから、毎日部屋の隅っこに座り込んで絵本を眺めていた。
機械技師である父が作ってくれた鉄屑のベッド。四隅についた天使の装飾が幼い私のお気に入りだった。
小さな部屋の中、私の頭上をペガサスが飛び交い、美しい女神が笑顔で手を振っていた。目を閉じれば、いつだって古の英雄が恐ろしい魔物たちと戦っていた。
絵本の頁を捲り、母に焼いてもらった菓子を口に運ぶ毎日。何度も何度も、ずっと同じことの繰り返し。私の頭の中には小さなトカゲがいて、飽きることもなく鉄屑の車輪の中を走り続けていた。
大好きな昔物語を眺めている間だけは、外の世界の嫌なことを全て忘れることができる。
耳をすませば機械の音が喧しく、家を一歩出れば濁った現実がこれでもかという程に広がっていたけれど、あの場所だけは神々が暮らす楽園と同じ――古の時代の風が流れていたのだ。
「昔と今、世界はどうしてこうも変わってしまったのだろう?」
かつての国々は崩壊し王も妃も今はいない。唯一の都を除けば、各地に町が点々としているだけで、過去の栄光は消えそうな蝋燭の火ように瞬いているだけだ。
人は神々への敬いを忘れ、古の秘術の大半は失われてしまった。今では機械が幅を利かせているが、それだって不完全な偽物にすぎない。
四方を囲む山々は壁のように切り立ち、もはや私たちにそれを越える術はない。昔物語に登場する多くの土地は遥か彼方、世界は随分と狭くなってしまっていた。
「素晴らしかった世界はどこへ行ってしまったのか?」
それが解ければ何かが変わるような気がしたけれど、考えれば考えるほどに分からなくなっていって、結局最後には頭が痛くなるだけだった。
時間を戻せれば良いと思ったが、勿論私にそんなことは出来なかった。
お腹が満たされて、本を読むのにも疲れたら天井を眺める。ランタンの火が揺れる薄暗い屋根裏。私の前にはいつだって鉄屑の天使がいた。物語の内容を彼女に教えてやることが私の密かな楽しみになっていた。
何も答えてくれなくったって構わなかった。天使に語りかけて、幸せな気持ちになって目を閉じる。それだけで十分だったのだ。
ずっとそんな日々が続くと思っていた。けれど、誰にだって子供時代の終わりがやってくる。私の場合はそう、鉄屑ではない本物の天使との邂逅。夢の中に現れた少女は私と似た背格好をしていて、背中に真っ白な翼を生やしていた――。
焼き菓子を食べ終えてフードを外す。広がってくるのは外界の景色だ。
細かく編み込まれた鉄柱に透き通るガラス窓。見ていると頭が痛くなりそうな、無意味に複雑な床の模様。展望台の客たちが騒めいている。可憐な私の素顔に息をのんでいた。
手がべたべたでも気にならないのは菓子を食べている間だけのこと。外に出て水道の水で手を洗おう。そう思っていると鐘の音が響いてくる。鐘は五つ。いつの間にか夕方になっていた。
「私としたことが焼き菓子に夢中になっていました」
シュガーバターにチョコレート。気づけばこうやって平らげてしまうのだ。分かっていても、ついつい熱中してしまう。探求心というやつが恐ろしかった。
「次はオレンジフレーバーに挑戦してみましょうか」
クッキーシリーズの新たな展望に胸を躍らせる。
ポケットに手を入れて、試しに作ってみると出来上がったのは妙に黒い明らかな失敗作だった。
「加減を間違えましたかね。まあいいです。私も早く下りないと……」
ボロボロに砕けて消えていく。
黒ずんだ菓子の消滅を見届けて立ち上がる。
拡声パイプを通して「帰れ」という女の声が聞こえてきた。
展望台が閉まる時間だから、遅れると受付の娘に目を付けられてしまうのだ。ぞろぞろと昇降機へ向かっていく人の群れ。私も彼らの列に加わることにした。
おさげを揺らせば漂ってくるのはチョコレートの香り。足を踏み出せば砂糖がキラキラと床へ落ちていく。昇降機に乗り込んで、小柄な私は押されるように前へ。鏡には素敵な天使の姿が映っていた。
ベージュを基調としたローブが可愛らしい。その上丈夫で縫い目も完璧。肩を出している所がこだわりで、内側のワンピースと合わせて実に少女的な雰囲気を生み出している。唯一、背中に翼がないことだけが残念に思えた。
ガシャンと音がして昇降機が停止する。動き出す人の群れ。降臨した天使の姿を見て受付の娘が目を逸らした。
彼女は私の友人だが恥ずかしがり屋だから声もかけてこない。こちらから挨拶しに行こうかと思ったが他の客が向かっていったので止めておく。代わりに小さく微笑んで片目をつむった。
「今度また時間がある時に来ますね」
機械式の扉がくるりと回転する。
展望台の外に出て水道で手を洗おう。遠くのルルべから流れてくる水はいつだって清らかだ。
入り口のアーチから外を見れば街道の両側に広がる麦畑。夕焼けの空の下、灰色の影が手を振っていた。
「やあ、ミステル。遅かったじゃないか」
私の名を呼んで駆け寄ってくる。中性的な声音、頭の中に直接響いてくるかのようだった。
ボロを纏った姿は汚らしいが、覗く顔はこの世界の誰よりも整っている。風でフードが捲られて緩やかに流れる金色の長髪。目立つ容姿をしているが、誰も彼女を見ようとはしない。
「時間を忘れていました。待ち惚けを食らっていたなら入ってこれば良かったのに」
行きかう男たちの間を器用にすり抜けて私の前へ。見ることのできない姿、触れることのできない身体。彼女は曖昧な存在、背中に翼は生えていないが正真正銘の天使なのだ。
「エル・リール様、畑の方はどうだったんです?」
「どこもおかしな所はない、普通の麦畑だったよ」
「私も上から見ていましたけど怪しい人は一人もいませんでした」
「今日も成果はなしということだ。疲れたね、帰って昼寝でもしよう」
陽が暮れてから昼寝とは面白いことを言う。とにかく宿へ戻ろう。エル・リールと並んで歩いていく。手はポケットの中へ、こんな時でも私は魔法の修練を怠らない。
「だけど、分からないです。原因は何なんですかね?」
最近この町を騒がしている「麦畑問題」についての話である。私とエル・リールはその調査のために連日町の郊外へと足を運んでいた。
「誰かが毒でも撒いたんじゃないかな。そっちの方は私も詳しくないから、気になるなら学者にでも調べてもらえば良い」
「簡単に言いますけど、私に学者の知り合いなんていないですよ」
勿論、エル・リールにだっていないだろう。屋根裏のベッドについていた天使の像、どういう訳か彼女の魂はそこで眠っていたらしい。目を覚ましてから十年近い月日が流れたが、その間に関係を持った人間は私一人だけだった。
「学者の知り合いがいないなんて人間失格だよ。君は今まで何をやっていたんだい?」
「十年は遊び周っていましたね。エル・リール様と一緒に」
何と言ってもエル・リールは私にとって初めての友人だ。
彼女と出会って私は変わった。大嫌いだった学舎にも顔を出すようになり、一通りの教えを受けてからは毎日のように二人で夜の都を闊歩していた。
人気の機械仕掛けの遊具にのめり込み、豪勢な菓子だって腹一杯食べた。好奇心旺盛な彼女と一緒に近くの森を探検して古の時代の遺跡を発見したこともある。好き勝手しているうちに時間は流れ、気づけば私ももう立派な大人である。
「ああ、そうだった。あれは馬鹿なことをしたね。君の短い寿命を大分無駄にした」
「そんな言い方は止めてくださいよ。遊んでいたのは本当ですけど、こうしてちゃんと目標だって持つことが出来たんですから」
エル・リールと世界を回りながら、各地で見聞きしたことを絵本にするのが私の夢だ。大好きな昔物語のように、心躍る楽しい絵本を作りたい。そう思って日記帳にエピソードを書き溜めているのである。
都を飛び出して、このロンベルンが私の新天地。もうしばらく滞在する予定だが、今の関心事と言えばやはり例の「麦畑問題」についてだった。
「今回の問題、私はやっぱり魔物が原因だと思うんですけどね」
エル・リールの調査では連中の気配を感じ取ることが出来ないらしい。魔物が絡んでいないのなら原因は自然現象か人間の犯人がいるということになるのだろうが、それでは絵本の題材にするには面白みに欠けると思った。
「エル・リール様はやっぱり人間を疑っているんですか?」
「魔物がやったと考えるよりは可能性があるんじゃないかな」
「もうしそうなら、どうして犯人に天罰が下らないんです?」
「またその話か、神はもういないんだよ。そうじゃなかったら皆で昼寝でもしているんだろう」
過去と現在、どうして世界は変わってしまったのか?
子供の頃に何度も悩んだ問いの答えを今の私はもう知っている。
エル・リール曰く、もはや世界に神はいないらしい。
どこか遠い別の世界へと旅立って、彼女以外の天使もそれについていったのだという。
「昔物語の最後の方で神々が人間に贈り物をしているだろ。あれはつまりそういうことさ」
「でも、エル・リール様は昔の記憶が曖昧じゃないですか。神様がいないなんて私には信じられないです」
「じゃあ、どこかで遊びまわっているんだろう。私たちと同じだよ」
「そんなのあり得ませんよ。だいたい、話が本当ならどうしてエル・リール様だけが置いて行かれたんです?」
天使は考え込んでしまった。
何度も繰り返している話題だが、答えは聞くたびに変化している。多分、覚えていないのだ。本人はそれを認めたくないようで、いつも適当なことを言って煙に巻いていた。
「自分の意思で残ったんじゃないかな。だって、今の私は自由なんだ。何をしても神々に怒られないのがその証拠さ」
「また、いい加減な事を言っていますね。昔はもっとしっかりしていたのに」
出会ってすぐの頃はエル・リールも神々の目を気にしている様子だった。それが段々と変わっていって、今では平気で「神なんていない」と暴言を吐く始末。神をも恐れぬ、自由気ままな天使になってしまったのだ。
「きっと眠りに就く前に良いことをしたんだろう。だから、神々は私に自由を与えたのさ。もう何をしたって咎められない。翼はないけれど毎日空を飛んでいるような気分だよ」
「良く分かりました。天使がこの調子だから人間が図に乗っているんですね」
「面白いことを言うね、君だって人間の癖に」
勿論、皮肉である。
適当な造りの建物、奇妙に曲がりくねった町の大通り。煩わしい人々の喧騒と遠くに聞こえるゴロツキの怒鳴り声。
ロンベルンの街並みを眺めていると、いかに人々が神を恐れなくなったかが良く分かる。天使までもが神を蔑ろにしている時代だから、彼らがどれだけ好き勝手に振舞っても天罰を落とされることはもうないのだろう。
「金貨が二枚に、銀貨が一枚。こっちは出来損ないです」
雑踏を歩きながら、ポケットから硬貨を取り出してエル・リールに見てもらう。最初の頃は上手く作ることが出来ないかったが最近ようやくコツが掴めてきて形が崩れることも稀になっていた。
「上手いもんだ。もう、昔の私を超えているんじゃないかな?」
「これだって修行の成果です。十年間、一日だって欠かしていませんよ。遊ぶのにだって金貨が必要でしたから」
天使との出会いは魔法との出会いでもあった。
魔法――目には見えない「魔力」を根源にする超常の業。
不思議な力だが覚えて使うだけなら難しくはない。
エル・リールから「ありがたい教え」を聞くと頭の中に自然と「魔法」の使い方が流れ込んでくるのだ。仕組みを考えると頭が痛くなるが、それは馬鹿がすること。起こる事象を受け入れるのが天才のやり方という奴である。
天使の教え第六番。「世間の誘惑に負けてはいけない」
そこから生まれた魔法が硬貨を自在に生み出すキラリシリーズだった。
手のひらの中で新たな金貨を生み出していく。形は整ってきたが、美しさが足りないと思った。いずれはバレない程度にオリジナリティを加えていきたいという野望もある。手始めに文字を変えてみたら金貨は割れて濁った色に変ってしまった。
「難しいものですね。焼き菓子もそうですけど、油断するとすぐこれです」
「普通はそれだけ出来れば満足するものだと思うけれどね。硬貨なんて使えれば十分だろうに」
それで満足できるのは天使だけだろう。折角素晴らしい力を手にしたのだから、限界まで極めてみたいと思うのが普通の人間というものだ。
硬貨はさり気無く道に捨ててしまう。こうしておけば耳の良い浮浪者がすぐに来て片付けてくれるはずだった。私は余計なお金を持たない。最早必要のないものだからだ。
「菓子の方はどうなんだい。随分と熱心にやっていたようだけれど?」
「そっちも楽しみにしていて下さい。新しいフレーバーを研究中ですから」
天使の教え第三番。「お腹が減っても諦めない」
生まれた魔法は焼き菓子を作るクッキーシリーズだ。
「良く飽きないと感心するよ。君の母親じゃないが、他の物も食べないと背が伸びなくなるよ」
「子供の頃ならともかく、もう私も大人ですから。背丈が低いことについては諦めています」
厳しいことは言わない母親だったが偏食癖には良く注意をしてくれていた。渋い顔をしながら、それでも私のために毎日菓子を焼いてくれた彼女。頑なに屋根裏から動こうとしなかったが、今にして思うと少し悪いことをしていたかもしれない。
父親は困った頑固者で良く衝突して喧嘩になっていた。実家を出たあの日もそうだ。彼は私の頭を殴り、二度と帰ってくるなと大声で怒鳴っていた。後でエル・リールから聞いた話だが本当は私のことを心配してくれていたらしい。
「両親の事を話すと顔が変わるね。やっぱり少しは後悔しているのかい?」
「否定はしません。でも、これは私が決めた事ですから」
エル・リールの事を話しても全く理解されず、最後は見苦しい醜態を晒しての喧嘩別れになってしまった。私も結構な罵倒を吐いたが、決して本意ではなかったのだ。
「あの日の君は見苦しかった。もっと上手いやり方もあっただろうに、荒唐無稽な夢に天使だ魔法だって……。あれじゃ理解してくれる訳がないよ」
「私も子供でしたからね。まあ、今でも変わらないかもしれません。あの二人に対しては出来れば嘘を吐きたくないですから」
「そういう真っすぐな所は好感が持てるな。いつも捻くれているから猶更だ」
「別に捻くれてないですよ。私くらい清くて正しい人間はそうはいません」
何が面白いのかエル・リールが腹を抱えて笑っている。
天使に選ばれたという事はきっとそういうことだ。最近は怪しい気もするが、少なくとも幼い日の私はそう信じていた。
「私は嬉しかったよ。君は私のために無理をしてくれた。『頭のおかしい娘扱い』されながら必死で訴えてくれたんだ」
機械の都ラッカ。
故郷を思うとノスタルジックな気分になるが、それでもこの旅を止める訳にはいかないのだろう。私は特別で、きっと私にしか出来ないことがある。だからこそ、広い世界へと飛び出す決心をしたのだ。
「とにかく、今は麦畑問題ですよ。私は絶対魔物が原因だと思うんですけどね」
「それは願望だろう。でも、君が拘るのも分からなくはないよ。さっきは気配を感じなかったけど、消えてしまった後という可能性もある。そうじゃなくても奇妙な話だよ。麦の成長が突然止まるだなんて普通じゃない」
「不思議ですよね。それにあの麦は町の住人にとって必要不可欠ですから、駄目になったら大打撃なんてもんじゃないですよ」
今でこそ多少落ち着いてきたが、異変が発覚した当初の騒ぎは酷いものだった。未来の絵本作家としても、そして天使に選ばれた者としてもこの問題を放っておくことは出来ないと思った。
「それにしても、やる気じゃないか。最初は酷い町だって愚痴を吐いていたのに」
ロンベルンは酒飲みの町。
街道の西端に位置する、酔っ払いとゴロツキの集まる最悪の町だ。
「いや、それは今でも変わりませんけどね。だけど、旅の最初に選んだ町ですから」
短い期間とはいえこの土地で暮らし、今では僅かだが仕事だって手にしている。町の人間はろくでもない連中ばかりだが、新しくできた友達だっているのだ。
思い入れがあるというのは頑張る理由にはならないだろうか?