水泳の授業は始まらない
おはよー! わたしの名前は小松優子。華の小学五年生。
自分で言っておいて何だけど、いったい小学五年生のどこに華があるのか全く分かっていない。でも、近所のバンダナ巻いたお兄さん曰く「需要があるよ」とのこと。わたしが首を傾げて「ジュヨウ?」と聞き返すと、お兄さんは「必要って意味だよ」って真剣な顔で言ってくる。少し息が荒かったりもする。
キモッ。
とりあえず笑顔で「ふーん」だか「へー」だか惚けた返事をしとくんだけど、本当は知ってるんだよねぇ。『小五』という字と『ロリ』という字を合わせると『悟り』って言葉になるんでしょ? だから哲学者になりたい大きな僕達は朝から晩までお人形ごっこをしてるんだよね?
マジキショ。
だからといって、バンダナ兄さんに「チョー気持ち悪いんですけどー」とか言おうものなら、キレられて何をされるか分かったもんじゃない。
そこでとりあえず、「ふーん」、「へー」、加えてエンジェルスマイル。そうすると小遣いを貰えたりもする。だけど先日貰えたのはウリキュアシール。
あのさぁ、小五にもなってウリキュアなんて興味ないっつーの。そんなものでわたしのことを口説くつもり? めでたいねぇ、めでたい脳。
それに引き換え、わたしの現在の状況はちっともめでたくない。
なぜなら、遅刻しそうだから。
朝の会開始が八時三十分。あと二分。もう無理でしょ。ちょっとどころか、かなり諦めモード。あーあ、またカバ山に怒られるよ。
カバ山というのはわたし達の担任。本当は中山って名前だけど、カバみたいな顔をしたオッサンだから陰ではみんなカバ山って呼んでいる。
わたしが参加しているLIMEのグループでは『カバ』でも通じる。っていうか最近ではもっと酷くて、たった一文字『カ』でもあり。
Y:カバがうざい
A:あー、マジでカバうざいよねー
C:カバってさぁ、ロリでしょ?
Y:それ分かる
Y:(スタンプ)
C:あいつ、すぐに体を触ってくるよね
A:ゆうちゃん、胸揉まれたでしょ?
Y:揉まれてないし!
A:でも狙われてるよ
C:カ、やべぇぇぇwww
A:カwww
Y:カwwwwww
草、生えまくり。『カ』、『カ』、『カ』、それだけのやり取りで長時間笑える。
そうそう、そういえば思い出した。みんながあまりにも『カ』って文字を送ってくるから、この間、少しだけイタズラをしたんだよね。ほら、わたしは華の小五でしょ? イタズラしたい年頃なのだ。
そうはいっても大したことではなくて、『カ』というメッセージに対して、『ちから』と入力して漢字の『力』を送り返しただけなんだけど。
そうしたら親友のCちゃんが、「ゆうちゃん、それ『ちから』でしょ?」って速攻ツッコミを入れてきた。
なぜバレた!? Cちゃん、あんたフォント検定一級でしょ? どんだけフォント好きなんだよ。このフォントマニア! 略して、フォンマニ!
あ、「フォンマニ」って言うと、「ホンマに?」みたいで、少し関西人になった気分がするよね。フォンマニ! ホンマに? フォンマニ! ホンマに? フォンドボー! ボンジュール!
大きな声でご挨拶。
「ボンジュール!」
同時に教室のドアをガラガラと開ける。
ところが一切返事がない。
帰国子女でもないのにフランス語で挨拶をしたから無視された、という訳ではない。なんとなんと、教室には誰もいなかった。
黒板を見ると、『1・2時間目プール』と書かれていた。
しまった。今日は水泳の授業があったんだった! みんな既にプールに行ったに違いない。水着を持ってきてないし、どうしよう、と、しばし考えてみたりするわたしは小学五年生。
急いで取りに帰ろうかなぁ。でも、メンドイしなぁ。「あの日です」とでも言って休んじゃおうかなぁ。でも、そんなことカバ山に言いたくないし、連絡ノートに親のサインがないと信じて貰えないかも。
ん? 信じて貰えなかった時はどうなるんだ? 嘘かホントか確かめるためにパンツを脱がされる? 誰に? カバ山に? ありえなーい。てか、想像しただけでゲロいんですけど。
よし! 意地でも水着を取りに帰ろう。
片道五分、往復十分、三歩進んで二歩退がるという移動方法の場合、その五倍の時間がかかるので五十分。ただしもちろん、そんな移動の仕方はしない。なぜなら賢い小五だから。授業開始は八時四十五分。どうせみんなモジモジ着替えてるだろうし、全力で走れば間に合う、はず! オーケー、燃えてきた。
ランドセルを自分の席に投げて家まで猛ダッシュ。
ああ、こんな時間に走っていたらイケメン転校生と激突しちゃうかも。そう思いながら道の角を曲がると、いた。いたよ、バンダナ兄さんが。
「あれ? ゆうちゃん、こんな時間にどうしたの? ブヒッ」
ブヒッ? 今、ブヒッって言った? 聞き間違い? ううん、確かにブヒッって言っていた。なんなの? マジウザイ。
なーんて様子は一切おもてに出さず、「水着忘れちゃったんですぅー」と、語尾を伸ばして愛想笑いニコニコ。
「ブヒッ。スク水!?」
チッ。さっさと星へ帰れよ、豚!
なーんて様子も一切おもてに出さず、0円スマイルで会釈して、続けて我が家へレッツゴー。
家に着いたのは八時三十四分。ヤバイ。わたしの足、速過ぎ? ウサギとカメの競争では足の速いウサギは居眠りをしてしまうけれど、あいにくウサギではない小五女子であるわたしは速やかに水着を探す。
ワンピに見えるダサいセパレートスク水はすぐに見つかった。でもゴム付きのラップタオルが見つからない。もう普通のバスタオルで良いや。あとは連絡ノートに体温を記入しないといけないんだけど、計る時間はないから適当に書いちゃえ。今日の気温で良いか、なんてこと思いながら壁に掛けてある丸型温度計を見てみると、ジャスト36度。よし、36度っと……36度!? 今年の夏、暑過ぎ? どおりで全身汗まみれなはず。突然目眩クラクラ。だからといって足を止める訳にはいかない。
メロスよろしく再び学校に向けて走り出す。
「ブヒッ。また会ったね。水泳の授業、見学しに行こうかな」
「児ポ法違反で捕まっちゃえよ」
「え?」
「え?」
とりあえず、「オホホ……」と笑ったら、バンダナさんも笑ってくれた。
あっぶねぇ。暑さにやられてパッションが漏れ出しちゃった。
そんなこんなで学校に着いたのが八時四十一分。教室には立ち寄らずにプールを直接目指す。ところが! だがしかし! その時! 突然の腹痛。
走ったから脇腹が痛くなっただけかも知れないけれど、万が一、万が一のほうだったら洒落にならない。水泳の最中に抜け出すなんて困難。かといって立派な新陳代謝の様子を披露する訳にもいかない。
仕方がないので校舎に入ってトイレを目指す。
扉を開けると、そこはトイレだった。
個室が三つ。右から二つが洋式トイレ、一番左は和式トイレ。どうしてひとつだけ和式なのだろうと常々疑問に思っている。だって、この所為でトイレはいつも混んでるんだもん。和式ということは、こういうポーズで、こういうしゃがみ込んだポーズでしなければならない。俗に言うウンチングスタイル。アクセントを付けて言えば、ウッチンタイ! うーん、どんなに言い方を変えてもカッコ良くはないよね。だから誰も和式トイレを使おうとしない。もし使おうものなら翌日から不本意なあだ名で呼ばれるに決まっている。「ウンチング優子」、絶対そんな名前で呼ばれたくないね。
だけど今は誰もいない。普段使うことの出来ないものを今なら堂々と使えるなんて、あーん、魅惑的。思い立ったらイチジク。この衝動は抑え切れないわ!
という訳で、西部劇のカウボーイよろしくババーンッと個室のドアを開ける。ちょっとカッコ良くない? 今、「ババーンッ」っていう擬音文字がこの辺に見えたよ。
しかし、そこにあるのは和式トイレ。することはひとつ。しゃがみ込んで、「イエス、ウンチング優子GoGo」なんて心の中で叫びながら用を足す。
キンコロカランコロン、始業の鐘。はい。授業に間に合いませんでしたぁ。
わたしは手を洗いながら溜め息をついた。カバ山に怒られるだろうなぁ。説教自体は別に良いんだけど、カバ山ってすぐに体を触ってくるから嫌なんだよね。その時の様子が想像できる。
両肩を押さえ、必要以上に顔を近付けて、
「小松、どうしたんだ?」
息がかかりそう。唇までの距離は数センチ、というのは流石に大袈裟で、二、三十センチはあると思うけど、とにかく顔を近付けてくるのは間違いない。キスする直前かよ!
うむ。諦めては駄目だな。乙女の純潔を守るために。
再びダッシュ。
さっきよりも体が軽くなっている。どうして軽くなったかは秘密だよ。到着する直前にピョンと跳ねてプールの様子を覗いてみると、既に女子も男子もプールサイドに整列していた。けれどカバ山の姿は見えない。ひょっとしたら間に合うかも知れない。
それにしても今日は人数が多いなぁ。も一度ピョン。よくよく見てみると、そこには一組の生徒もいた。今日は隣のクラスとの合同体育の日だったか。
それにしても、それにしても、一組の女子は発育が良い。この間、着替えの最中に見てみたらババブラを装着している子がいた。わたし? スポブラ上等! あるいはノーブラチューブトップorキャミソール! 揺れるものなんてないしね。わたしのクラスの女子はみんなそんな感じ。Aちゃんなんて黄色い帽子とバッヂを着けたら一年生に間違われてもおかしくない。
まるで発育順にクラス分けされたかのよう。うちの担任カバ山は学年主任もやっているから自分好みの生徒を集めることも可能だったのでは?
なんて、まさかね。
そんなくだらないことを考えている場合ではない。まだ授業は始まっていないのだ。急いで着替えれば間に合うかも。ううん。優子、間に合わせるのよ!
プール脇の更衣室の前に立ち、勢い良く引き戸を開ける。ガラガラ。
そして一言。
「な、なにしてるんですか……」
そこには、ズボンと下着を膝までおろし、ロッカーを漁っているカバ山がいた。