エゴマッチョ
心の健康を維持するには、まず肉体の健康を維持しなければならない、と、どこかの誰かが言っていた。いや、言っていないかも知れない。いずれにしても、私にとってそれは真実であり、肉体の維持こそ至上命題である。
では何をもって肉体が維持されたことになるのであろう。人によっては細いシルエットや透き通る肌を連想する。だがそれは、ルッキズムに侵されたいわば不健康な思想と言える。実利を求めるならば機能性こそが最も尊重されるべきである。
噛み砕いて言うと、筋肉は全てを解決する!
目が覚めたらまず腹筋だ。ベッドから上半身を起こし、そのまま立ち上がるのかと思いきや、再び寝そべる。そして再び身体を起こす。十回を一セットとして三セット。インターバルはセットとセットの合間に約二十秒。そうすることで交感神経が刺激されて爽快な朝を演出できる。
おっと、ここで注意点だ。筋肉トレーニング、略して筋トレを行う際には、どの筋肉を使っているのかを意識しなければならない。例えば、いわゆる腹筋運動、フルシットアップの場合、腹の中央にある腹直筋(ふくちょくきん)、股関節を支える腸腰筋(ちょうようきん)の動きを意識する。
ちなみに意識する上で効果的なのが、筋肉に話し掛けるというものだ。健康に興味のない人にとっては馴染みがないかも知れないが、筋肉との語らいは、一流の筋トラーにとって当たり前の嗜みだ。
「腹直筋、今朝も頑張ってくれたな。腸腰筋、お前のサポートは最高だったぞ」
朝食はシリアルとツナとスクランブルエッグ。多くの人が勘違いしているが、食事とは本来腹を満たすのが目的ではなく、必要な栄養素を摂取するためのものだ。
「タンパク質が沁み渡るぜ。筋肉たちよ。どうだ、旨いか?」
出勤の際は、大腿四頭筋(だいたいしとうきん)、大殿筋(だいでんきん)、ハムストリングを駆使してウォーキング。電車に乗っている間も踵を浮かせて、下腿三頭筋(かたいさんとうきん)に負荷を与える。
更に、勤務中も絶好の筋トレタイムだ。椅子なんて軟弱な物は使用せず、エアチェアーで一日を過ごす。
「おい、脚の筋肉たち。震えているぞ。どうした、まだまだやれるだろ?」
帰宅をしたら本格的な筋トレを開始。全身をバランス良く鍛えられるよう考案された日替わりメニューをこなす。もちろんその間も絶えず筋肉たちに話し掛ける。私の一日の話し相手のシェア率は、一割が会社の同僚、残りの九割は筋肉。当たり前だ。
だが残念なことに、身体の筋肉たちは返事をしてくれない。まるで一方的に求愛ダンスを踊る極楽鳥になった気分だ。とはいえ、着実に肉体は成長している。この成長こそが捧げた愛への見返りなのだと、私は、無理矢理に自身を納得させるのであった。
ところがある晩、状況は一変した。
いつものように十五キロのダンベルを使った上腕二頭筋(じょうわんにとうきん)の運動、アームカールを行なっていると、こんなことが起こったのだ。
「良いぞ、上腕二頭筋。お前、こんもりと膨らんでいるな」
『サンキュ。俺のチャームポイントは膨らみだ。それを褒めて貰えて嬉しいよ』
そう、上腕二頭筋が返事をしたのである。
愛が通じたことを喜ばしく思い、私はすぐさま上腕二頭筋への賛辞を並べ立てた。すると、今度はこんな言葉が聞こえてきた。
『おいおい、俺のことを忘れていないかい?』
「お、お前は、三頭筋」
そう、上腕三頭筋(じょうわんさんとうきん)が話に割り込んできたのである。
「上腕三頭筋、すまない。引き締まったお前も魅力的だ」
『そうさ。腕を下ろした時に目立つのは、俺だろ』
『ちょっと待て、力を誇示する際には俺が活躍するだろ』
「二人とも聞いてくれ。私にとっては、どちらも大事な相棒だ」
二の腕の表と裏を担う二つの筋肉。その両方を均等に愛するため、アームカールを終えると、ダンベルを頭上に持ち上げる運動、フレンチプレスを行なった。これで上腕三頭筋も鍛えられる。
しかし、事はそれだけでは済まなかった。腕の運動を終えようとした頃には、全身のあらゆる筋肉たちが好き勝手に喋り始めていたのである。
『次は俺を鍛えて欲しい』
『いいや、俺のほうが先だ』
『動的運動を俺に!』
望まれるがまま筋トレを行なう。本来であれば筋肉の成長を促すため各筋肉には休筋日を設けなければならない。だが、愛の語らいが肉体を突き動かした。当然ながら疲労を感じはしたが、それよりも、喜びが私の心を満たしていた。
そうして幾日かが過ぎた。
筋肉と語り合いながらの筋トレライフは充実していた。日々、相棒たちは乳酸を噛み締め、歓喜の声をあげている。
「筋肉たちよ。どうだ? 今日のトレーニングは」
『ああ、最高のツイストクランチだったよ。やはりアイソトニックは気分が良い』
そう答えたのは脇腹の筋肉、腹斜筋(ふくしゃきん)だ。捻りながらの腹筋運動、ツイストクランチを気に入ったようだ。ちなみにアイソトニックとは、動的運動のことを指す筋トラー用語だ。
『なあ、俺は鍛えて貰えないのかい?』
それは、太ももの裏の筋肉、ハムストリングの声。
「お前は昨日、鍛えただろ? 今日は体幹を鍛える日だ」
『乳酸が足りていないんだ。もっと熱くなりたい』
「贅沢を言うな。お前は毎日のようにエアチェアーを堪能している。違うか?」
『アイソメトリックでは物足りないんだよ』
アイソメトリックとは、つらい姿勢を維持するなど、筋肉の伸縮を伴わない静的運動のことだ。つまりハムストリングは激しく動きたいという主張をしている。
「明日まで我慢してくれ」
『我慢なんか、出来ないねえ』
直後、ほんの微かに、脚が勝手に動いた気がした。
とはいえ、プロテインを飲むと全身の筋肉たちは落ち着き、成長ホルモンが分泌する時間、いわゆる睡眠時間が穏やかに訪れた。
翌日、私はウォーキングの合間にハムストリングに声を掛けた。
「どうだ? 少しは満足したか?」
だが、返事はない。会話のないまま電車に乗り込む。
そこでようやく、ハムストリングが声をあげた。
『もっと鍛えて貰いたいねえ』
冷静に応じる。
「手すりに捉まらず、踵を浮かせている。お前にも負荷が掛かっているはずだ」
『昨夜も言ったが、アイソメトリックでは物足りないんだ』
「馬鹿を言うな。電車内で派手な運動なんて出来るわけがない」
『それは、どうかな』
ハムストリングは得意げな様子だ。嫌な予感がする。
その瞬間、視界に映る景色が上にスライドした。もちろん景色が移動する訳がない。移動したのは肉体のほうだ。見ると、脚がしゃがみ込む姿勢になっていた。慌てて立ち上がる。しかし、すぐまたしゃがみ込む。ハムストリングだ。ハムストリングが勝手に脚を動かしている。
「やめろ。落ち着け。落ち着くんだ、ハムストリング」
訴えるが、脚の動きは止まらない。それどころか、下腿三頭筋、大腿四頭筋、大殿筋、腸腰筋、あらゆる筋肉が暴れ出す。筋肉たちの反乱だ。
やがて背中の筋肉、広背筋(こうはいきん)が急激に収縮し、人混みの中でブリッジの姿勢になってしまった。もはや、このまま車内に留まるのは困難だろう。
「分かった。次の駅で一旦降りて、話し合いをしよう」
電車を降りると、筋肉たちが捲し立てた。やれ、スクワットをしろだの、やれ、腕立てをしろだの、やれ、究極の腹筋運動ドラゴンフラッグをしろだの、いずれも無茶な要求ばかりだ。
私は、諭すように口を開いた。
「常に筋トレだけをしていたら生活を維持できない。分かってくれ」
それに対して、身体の筋肉代表、ハムストリングが述べる。
『安心しろ。筋肉は全てを解決する』
「例外もある。いまが、その、例外の時だ。仕事を失えば私たちは食いっぱぐれる」
『腕力さえあれば食料はいくらでも奪える』
「馬鹿を言うな!」
『馬鹿はお前だ。筋肉にとって、バルクアップは至上命題だ』
バルクアップ、すなわち筋肥大。筋肉たちは、自身の成長のことしか考えていない。まるで頭の中まで筋肉のようだ。だが、考えてみればそれも致し方ない。なぜなら、相手は筋肉そのものなのだから。
「とにかく、私の言うことを聞くんだ」
『何を偉そうに。お前は喋っているだけで身体を動かしているのは俺たちだぞ』
「主の言うことを聞けないのか!」
『はあ?』
ハムストリングがそう言うと同時に静寂が漂った。
そして、しばらくすると、全身の筋肉たちが声を揃えてこう言った。
『お前は、ただの口を動かすだけの筋肉、口輪筋(こうりんきん)だろ!』