消火活動の一日
爪に火が灯った。右手人差指の先端がメラメラと燃えている。
噂には聞いていたが想像以上に景気の良い燃え方だ。それに比べて俺の懐具合といったら、風前の灯火。爪に火を灯す生活、すなわち倹しい生活を、余儀なくされているのだから当然だ。
「参ったなぁ……」
かつて貧困による爪甲発火は一般的な現象だったそうだ。ところが昨今ではほぼ都市伝説と化している。体験者が少ないのはもちろん、見たことのある人さえ滅多にいないだろう。
そう、世間は豊かになったのだ。反面、貧乏人を蔑視する風潮が生まれた。噛み砕いて言うと。
「爪、燃える、ヤバイ……」
灯したままでは貧乏だと自己紹介をしているようなものだ。
この火を消す方法は単純。金持ちになれば良い。しかし金持ちになれなかった結果が今なのだから簡単なことではない。
財布の中を覗く。残金四万円。これが俺の全財産。つい先日、高級ブランドの限定コートを奮発して買ってしまったのだった。
不思議なことに金って使うとなくなっちゃうんだよな。
一週間後の給料日までこの金で生き抜かなければならない。一見すると楽に思えるが、本日中に隣室に住む大家さんに家賃を払う予定だ。その額、四万円。もはや詰んでいる。
もしかすれば数え間違いかもしれない。そんなことを思い、万札を机上に広げる。ひい、ふう、みい、と指差し確認。
その時だ。四枚目の札から煙が上がった。指先の火が引火したようだ。
「え、嘘、ちょっと待って!」
火の手が待ってくれる訳がない。咄嗟に座布団で叩いて消火したものの、一枚は完全に灰になってしまった。
これで残金三万円。指先の火が、勢いを増した気がした。
午後、俺は芝の上を歩いていた。
天気が良い日に自然と触れ合うのは心地良い。すぐそこには馬も走っている、すごい速さで。
「よう兄ちゃん、競馬は初めてか?」
「あ、はい……」
金を増やさなければならない。実は過去に何度も家賃を滞納したことがあり、今日の支払いが遅れたら退去させられてしまう。そこで人差指をアルミホイルで包み、慎重にコートを羽織って、この競馬場までやって来たのだった。
突然話しかけてきた中年男性が口の端で笑う。
「初心者の兄ちゃんに特別に教えてやるよ」
「え? 何をですか?」
「次のレースは四番の馬が勝つぜ」
四番は単勝万馬券。普通に考えて勝つ見込みは低い。何を根拠に勝利を確信しているというのだろう。
そんな俺の疑問を払拭するように男性はすぐ言葉を継いだ。
「長年の経験で分かるのさ。ほら、耳を澄ましてみろ」
指示に従う。ピロピロとアラームのような音が聞こえてくる。
「聞こえたか? 俺の腕が鳴ってるんだ」
「そ、それって……」
伝説の腕鳴り現象だ。優れた技術と経験を有した者のみに生じると言われる、力を発揮したい際の音。そうに違いない。
「どうだ、信じる気になったか?」
「は、はい!」
俺は勢いよく頷いた。
万馬券。オッズは百倍。一万賭けるだけで百万円。百万もあれば数ヶ月分の家賃を払ってもお釣りがくる。当然ながら爪の火も消えるだろう。
さっそく券売機に一万円を突っ込む。迷わず四番一点買い。
そして中年男性と共にレースの行方を見守ることにした。
競馬場からの帰り道、男性はおどけた調子で述べた。
「いやぁ、悪いね。今日は調子が悪かったみたいだ」
「あ、いえ、気にしてないです……」
そう返事をしたものの、心中は穏やかではなかった。
更に一万減ってしまったのだ。
指に巻いたアルミホイルからチリチリと音が聞こえてくる。気のせいではない。どうやら追い込まれ具合によって、火の強さに変化が生じるようだ。このまま金を失い続ければ凄まじい火勢になるに違いない。考えるだけで恐ろしい。
憂鬱な気持ちを体現するように踵を引きずって歩く。
すると男性が俺の肩に手を置いた。その手は不相応に美しい。
「兄ちゃん、お詫びに良い仕事を紹介してやるよ」
「仕事、ですか?」
「金が欲しいんだろ?」
「いや、まあ、その……」
「隠してたって分かるぜ。爪が灯ってんだろ? 俺はそういう奴を何人も見てきた。そんな兄ちゃんに打ってつけの仕事だ……」
その仕事とは手袋の販売だった。男性は鞄から何枚もの薄手の手袋を取り出し、こう言ってきたのだ。
「この手袋は特殊で、欲しがる奴は一万でも二万でも金を出す。それを安値で卸してやるよ」
「卸すってことは、一旦は俺が購入するってことですよね?」
「そうだな。一組二千円でどうだ? 今なら十組ある」
「合計二万円か……」
「高く感じるかも知れないが、それが今日中に数十万になるぞ」
怪しい。怪しすぎる。しかし背に腹は代えられない。すでに家賃分の金が足りていないのだ。ならば博打に挑むしかない。
「分かりました。十組ください」
「良い返事だ。じゃあ、売り方のレクチャーをしてやるよ」
こうして俺は全財産を中年男性に渡した。
陽が暮れた頃、俺は指定のクラブに入店した。
カウンター席に着くと同時にバーテンがドリンクの注文を聞きにくる。そこで男性から教わった通りの文言を伝える。
「カラフルを頼む」
バーテンは全てを察したように深く頷いた。
しばらくすると、一人の男が俺の隣に座った。男は俺と視線を合わさず、正面を向いたまま静かに口を開いた。
「手袋があるのか?」
中年男性の言っていた通りの展開だ。本当に高値で売れるかも知れない。俺は興奮を抑えつつ速やかに返事をした。
「は、はい。十組仕入れました」
「さっそくブツを見せてもらおうか」
薄手の手袋を黙って差し出す。
「ほう、確かに本物だな」
「幾らで買い取ってくれますか?」
「そうだな……こんなんでどうだ……」
隣の男は懐から銀色に輝く輪を取り出した。
そして、その輪を俺の両手首に嵌めた。
「え?」
「違法手袋売買の現行犯で逮捕する」
目の前に警察手帳が示される。
「違法手袋ってなんですか。俺は何も悪いことしてない!」
「とぼけんなよ。犯罪に手を染めた奴らが、その手の色を美しい色に偽装するための手袋。それをお前は売ろうとしてたじゃねえか」
「特殊な手袋としか聞かされていないです!」
「分かった分かった。話は署で聞こうじゃないか」
「絶対に分かってないでしょ!」
反抗も空しく、俺は近隣の警察署に連行されてしまった。
夜の十一時、ようやく釈放された。
さんざん疑われはしたものの、手が犯罪色に染まっていないということが決め手となり、許されたのだった。
犯罪色とは絵具や色鉛筆のセットの一番端にある色だ。今まで犯罪をイメージした色だと思っていたが、実際には犯罪をおかした際の手の色を再現したものだったようだ。余計な知見を得てしまった。
当たり前のことだが、違法手袋は押収されてしまった。もちろん支払った二万円は戻ってこない。
俺は、全ての金を失ってしまったのだった。
右手の人差指が熱い。見ると、アルミホイルが真っ赤になっていた。嫌な予感がする。今にも溶けだしそうだ。俺は冷やすものを求めて闇雲に走った。
ところが、もう遅かった。破裂音と共に指を抑えていたアルミホイルが吹き飛び、炎が躍ったのだ。灯す、なんて甘っちょろいものではない。辺りを眩く染めるほどの勢いだ。
消そうと思って手を振り回してみても、ゴーゴーと音が響くばかりで火勢に衰える気配はない。それどころか、その炎はコートの袖に引火してしまった。
買ったばかりの高級コートが燃え始める。しかし大事に至ることはなかった。
どういうわけか、火はコートの肩あたりまでを焼くと、自然と消えてしまったのだった。
「な、なんだ、これ?」
意味が分からないが、とりあえず助かった。いや、助かったと言えるのか? 今の俺はボロボロのコートを羽織った無一文だ。
泣きそうになるのをどうにか堪え、俺は、家路を急いだ。
自宅アパートに着いたのは、まもなく日付が変わろうとする頃だった。
一応、まだ今日だ。大家さんの部屋の灯りは点いている。起きているようだ。とはいえ、あと数分で金を工面することなど不可能なので、家賃は踏み倒さざるを得ない。
黙って自室に籠ってしまおうかとも考えたが、それはあまりにも失礼すぎると思い直し、俺は大家さんの部屋の扉を叩いた。
「こんばんは……」
「おう、待ってたよ」
大家さんは俺の姿を見ると、目を細めて頷いた。それから、一切説明をしていないにもかかわらず、ひどく俺に同情をし、ついでに家賃を免除してくれた。
呆然と立ち尽くす。そんな俺に大家さんは告げた。
「ない袖は振れないからね」
偶然にも、袖のなくなったコートは借金の免罪符になっていたのだった。
了




