新宿アカズキン
ビルの合間より轟いた獣の叫声は、夜の闇に溶けた。振り返る者はない。ここ新宿においては日常的なノイズだ。狩りは今夜も行なわれている。
獣、人に化けた狼は、脚を引きずっていた。道には赤い軌跡が描かれている。
その軌跡を辿る人影が一つ。獣は後ろを向き、膝をついて懇願した。
「見逃してくれ。生きるために人を喰っただけだ」
人影が歩み出る。月明りによって露わになった面差しは齢十七八の少女。少女は容姿にそぐわぬ厳ついハンドガンを突き出し、銃口を獣の口に押し込んだ。
グリップを握る腕は細い。ただし筋肉が影を落とすほど隆起しており、一目で鍛え抜かれたものだと分かる。
「お前らは鉛弾でも喰ってろよ」
少女が嘲りの言葉を口にした直後、タンッ、と乾いた音が響いた。
獣の身体は仰向けに倒れ、砕けた頭部は地面に褐色の花を咲かせた――
二千年代初頭より進められてきた人工胚の研究は、XS細胞の誕生をもって結実した。分化能力に優れたその細胞は、遺伝子を取り込むことにより、どんな生体組織をも速やかに修復する。かつては諦めざるを得なかった四肢や感覚器官の欠損でさえも、わずか数週間での再生を可能としたのだった。
当然ながら医療は急速に発展した。のみならず生態系の保全活動にも変化がもたらされた。当時のエコロジスト団体がある計画を立ち上げたのだ。それは、XS細胞に絶滅動物の遺伝子を組み込み、復活させるというものだった。
結論を言えば計画自体は成功し、近世以降に滅んだ動物たちが野を駆け回ることとなった。日本においては、何十頭ものニホンオオカミが山に放たれた。
ところが数十年後、事態が急変する。
東京都の中心部、新宿区において、人が人を喰い殺すという事件が多発。うち何件かについては現場で犯人が射殺された。その遺体を解析したところ、獣の存在が明らかとなった。犯人は、人と狼とのキメラだったのだ。
その後、公安警察は、かつての計画が原因であると断定。その上で、XS細胞のみで構成された個体の特異性を公にした。
獣は、人間を喰らうことで、その遺伝子を取り込む。
手遅れだった。人の姿と知能を手にした狼たちは、すでに都市部で繁殖を繰り返していた。現在、行き交う人々の中には獰猛な肉食獣が潜んでいる。
新宿は、コンクリートの樹海と化したのだった。
始末し終えたばかりの獣の亡骸は、さっそく形を歪め始めた。心停止および多量出血によって細胞が自壊しているのだろう。
少女は、泥のように崩れゆく獣だったモノを、感慨深く眺め続けた。
しばらくすると、男の声がした。
「嘆かわしいね……」
咄嗟に銃を構える。男は両手を掲げ、澄ました顔で、言葉を継いだ。
「そいつは本能に従って食事をしただけだ」
少女は狙いを定めたまま目を細めて言い返した。
「生存権を脅かす存在は始末する。それも本能によるものだと思うけど」
「ああ、その通り。大いに同意するよ」
「ところで、あんた何者? 返答次第では……」
トリガーに指をかける。男はゆっくりと片腕を下ろし、襟元のバッジを操作した。バッジから淡い光が放たれて眼前に十インチほどのホログラムが浮かぶ。それは公安警察であることを示す識別章だった。
「公安さんが、わたしに何の用?」
「そこの泥になっちまった獣は俺のターゲットだったんだ」
「獲物を横取りされたとでも言いたいわけ?」
「いいや、俺は君たちのようなフリーのハンターとは違って狩っても狩らなくても収入を得られる。むしろ仕事を減らして貰えて助かったよ」
危害を加えられる恐れはないと判断し、銃をホルダーに収める。
その様子を認めた男は両腕を広げて相好を崩した。
「どうだろう。狩ってくれたお礼にご馳走させて貰えないかな。獣の死体は処理班に任せて、いまから、情報交換も兼ねてさ」
車を停めてあるという場所まで男と共に歩く。歌舞伎町の通りをこのまま進めばホテルが立ち並ぶエリアだ。下心があるのか否か真意は分からないが、少女はとりあえず男についていくことにした。いざとなれば撃てば良いし、何より、聞きたいことがあったからだ。
しかし、先に会話の口火を切ったのは男のほうだった。
「若い女性のハンターなんて珍しいね。何か事情でもあるのか?」
おあつらえ向きの質問だ。少女は慎重に話を始めた。
「復讐のために狩りをしてるの。数年前に祖母が獣に殺されたから」
「……そうか」
「幼い頃に両親を亡くして祖母はたった一人の肉親だった。そんな大切な人を獣はわたしの目の前で殺した」
「よく君は無事だったな」
「護身用の銃を祖母から預かってたからね。応戦したら獣は逃げていった。お陰で祖母も喰われずに済んだけど……祖母の亡骸の前で、長い時間泣き続けたことを、いまでも鮮明に覚えてる。その時、必ず復讐すると誓った。でも未だに祖母を殺した奴は見つかっていない」
男は気まずそうに視線を逸らした。そんな彼に問い詰めるように尋ねる。
「あんたに聞きたいんだけど、公安の振りをした獣を知らない?」
「どういう意味だよ」
「祖母を殺した獣は公安の振りをしてたの。さっきのあんたみたいに識別章を提示して家に入ってきた。そういう手口を使う獣の情報を教えて欲しいの」
「あいにくそういう獣は知らない。というより、考え難い手口だな。識別章の偽造は不可能。バッジには生体認証機能があるので本人以外は使えない」
「わたしの勘違いとでも言いたいの?」
「いや、一つだけ可能性はある。君は獣が捕食する瞬間を見たことはあるか?」
「いいえ、一度も。獣の所在地は情報屋から仕入れてるだけだし」
「分かった。じゃあ簡単に説明しよう。獣の捕食方法は二通りある。殺してから喰うか、喰って殺すかだ。どちらも似たようなものと思えるが、後者には大きな問題があるんだ。獣は、生きたままの人間を喰うことで、遺伝子の上書きをすることができる。つまり、例えば俺が殺されてから喰われたとしても獣に変化は生じない。だが喰い殺された場合は、数週間後に俺の姿をした獣が街をうろつくことになる。さらに厄介なことにそいつは生体認証をパスする。とはいえ、ハンターを喰うのは困難だ。そんなことをする奴はそうそういないだろうな」
少女は探るように男の顔を覗き込んだ。
「人か獣か見破る手段はないの?」
「殺してみればすぐ分かるさ。なんてな」
そう言って男は楽しげに笑った。
「何が面白いのか分かんない」
「悪い悪い。つまらないジョークだったな」
そういった会話をしているうちに辺りはホテル街になっていた。男に歩みを止める気配はない。迷いもなく人気のない方向へと進んでいる。
少女は引き続き男と行動を共にすることにした。
やがて、男が真剣な面持ちで口を開いた。
「君の過去を教えて貰ったから、俺も、とある昔話をしようかな」
黙ったまま耳を傾けると、男は話を続けた。
「五年前に公安による狩りが行なわれた。今日のように月の綺麗な夜だった。俺たちの狩りは安全を期して複数人で行なわれる。その日のメンバーは五人。それに対してターゲットは一匹。簡単に仕事は終わると思えた。ところが……」
「ところが?」
「返り討ちにあった。五人のうち四人が殺されたよ。ターゲットは少女を飼っていた。俺の同僚たちはその少女に殺されたんだ。獣以上の化け物だよ。ライフルを持つ狙撃手たちを普通のハンドガンで遠方から撃ち抜いたんだからな……」
少女は唾を飲み込んだ。男は前を向いたまま遠い目をしている。
「生き残った男は一か八か単身で乗り込み、ターゲットを仕留めることには成功した。しかし少女を捕らえることはできなかった……」
通りを抜けると、細かな砂利の敷かれた広場に出た。古びた重機や看板などが無造作に打ち捨てられている。男はそこにある一台の車の前で足を止め、少女のほうに向き直った。そして、酷く冷たい目をした。
「君が、あのときの小娘だろ?」
記憶がフラッシュバックする。この冷たい目を見たことがある。
こいつが。こいつこそが。
「わたしの祖母を殺した獣は、あんただったんだね」
そう言い放つが、男に動じる様子はない。
「勘違いするな。君は騙されていたんだ。あの狡猾な老婆は、君のことを、非常食兼ボディガードとして育てていただけだ」
「黙れ。いますぐ泥にしてやろうか」
ホルダーに手をかける。
「落ち着けよ。ゆっくり話をしないか? ああ、そうだ。ご馳走すると約束をしたから、まずはディナーにしよう」
言い切ると同時に男は右手を懐に差し込んだ。少女は素早く銃を抜いて引き金を絞った。破裂音が響き、車の窓ガラスが砕け散る。男は横に跳んでいた。すぐさま追撃しようと銃を構え直す。しかし、あいにく弾が切れていた。
マガジンを差し換える。静寂が漂う。わずかな隙を突いて男はどこかの物陰に隠れたようだ。少女も身を屈めて車の後方へと回る。それから注意深く広場を覗き見る。やはり男の姿は見えない。ただし、月明かりによって生じた影が、その居場所を教えてくれていた。
男は、大型トラックの向こう側にいる。
ここからでは完全に死角だ。それでも、少女は狙いを定め、祈るように再び引き金を引いた。放たれた一撃が突き刺さり、トラックのタイヤがバーストを起こす。その際に生じた爆風によって男の身体が物陰から転げ出る。
少女は砂煙の中を駆け抜けた。そして、いつも通り獲物に銃弾を浴びせた。
煙が晴れると、男は腹を押さえて呻いていた。
銃を構えたまま慎重に歩み寄り、男のことを見下ろす。
「お、おい、ま、待ってくれ……」
その言葉を聞き流し、少女は微笑みながら静かに告げた。
「最高のディナーを、ありがと」
テンポ良く筒音が刻まれる。残った銃弾は全て男の身体に吸い込まれた。
男は、動かなくなった。死んだようだ。その瞳は雲に陰りつつある月を見つめていた。脱力した右手は車のキーを握っていた。
感慨深く男を眺め続ける。ところが、一向にその身体は形を歪めない。
少女はそんな死体を見るのは初めてだった。
なぜなら、祖母の亡骸でさえ、泥のように崩れたのだから。
了




