水溜り師
いまの心境を表しているかのように外は雨で濡れていた。傘はない。けれど僕は、思い切って道に躍り出た。不採用になった会社の前で雨宿りをしていたくはないからだ。
前職を解雇されて半年、就活が上手くいっていない。今日にしても後日の通知を待たずに即決で不採用を言い渡された。それほどに僕は社会から必要とされていないのだろう。
背中を丸めて道を行く。やがて雨が上がり、瞬く間に晴れ渡った。ただの夕立だったようだ。足を止めて視線を上に向ける。そこには虹があった。七色に輝きながら綺麗な弧を描いている。その美しさが自分には不相応に思え、僕はすぐさま俯いて逃げるように再び歩き始めた。
落ち零れには、虹よりも濡れた地面がお似合いだ。
「なんだ、これ……」
下を向いたまま歩いていると、奇妙なものが目に留まった。乾き始めた道路の中央に三日月型の水溜りがあったのだ。偶然出来上がったにしては随分と整った形をしている。
腕を組んでしばし唸り声をあげる。すると今度は、奇妙な言葉が耳に届いた。
「そこの若いの。見る目があるな」
しわがれた、それでいて力強い声。
顔を上げると、水溜りの向こう側に年老いた男が立っていた。おそらく七十歳前後。小柄ではあるものの背筋が伸びていて貫禄がある。
僕は少しく怯えながら静かに尋ねた。
「見る目、ですか?」
男は深く頷いた。
「ああ、そうだ。普通の者は水溜りの形に関心を示しはしない」
「そうでしょうか。こんなに人を惹きつける三日月型なのに」
「惹きつける、か……それに気付いたならば、やはりおぬしには見る目がある。ただし一点だけ指摘をしておこう。この水溜りの正しい鑑賞位置はこっち側だ」
手招きをされる。
僕は誘われるがまま男の傍らに立ち、改めて水溜りを見下ろした。
「確かに、こちら側から見たほうが魅力が増しますね」
陽の差し込む角度、遠近法による変化、水際の微かな凹凸、それら全てが計算し尽くされているかのように絶妙な調和をもたらしている。
「瞬時に違いを見極めるとは、さすがだ。この月の形をした水溜りは、そっちから見ると右側、上弦の位置に描かれている。だが正しい位置から見ると左側、下弦にある。つまりこれは正確には三日月ではない。この水溜りは……」
そこで男は大きく息を吸い、続く言葉を語気を強めて口にした。
「この水溜りは、東雲流水溜り術奥義、『暁月』」
「シノノメリュウミズタマリジュツ? ギョウゲツ?」
確認をするように復唱すると、男は誇らしげに語り始めた。
「この水溜りは私が水溜り術を駆使して作ったものだ。ちなみに暁月とは陰暦において月末の頃に昇る細き月。暁月を過ぎれば月が替わり、新たな月が生まれる。すなわちこの水溜りは、終わりと再生を意味しているのだ」
終わりと再生。失業と再起。
自分がいま置かれている状況を水溜りが表しているように思えた。もっと言うと、励まされているような気さえした。
「ありがとうございます……」
自然と感謝の言葉が零れ落ちた。男はただ澄ました顔をしている。
「あ、あの、こんな素晴らしい水溜りを作るなんて、あなたは、いったい、何者なんですか?」
前のめりに尋ねると、男は淡々と述べた。
「私は水溜り師だ。どうだ若いの。私の弟子にならないか?」
その技術がいつ誕生したのかは誰も知らない。少なくとも明治後期には、いくつもの流派があったそうだ。ところが現在においては東雲流のみしか存在せず、水溜り師は絶滅の危機に瀕している。
数日前に出会った男、親方が、車のハンドルを握りながら言う。
「先日伝えた通り普通の者は水溜りの形に関心を示さない。しかしながら雨が降れば水溜りは必ず視界に入る。それによって深層心理、無意識の領域が、刺激されるのだ……」
ストレスの多い現代社会においても大半の者が健やかでいられるのは、水溜り師のお陰らしい。知らずしらずのうちに人々は水溜りの発するメッセージを受け取り、時には励まされ、時には慰められ、癒しを得ているのだ。
「水溜り師は誇り高き職業だ。だが無意識に働きかけるというのが水溜り術の肝であるため、その存在を広く公にすることはできない。求人などもってのほかだ。そんな中、おぬしのような才気溢れる弟子に出会えたのは奇跡としか言いようがない」
「いいえ。出会えたのは、親方の水溜りが素晴らしかったからです」
「腕に比べて口は既に達者なようだな……さて、今夜の現場に着いたぞ」
時刻は深夜。親方の言う通り水溜り師は一般の人々に存在を知られてはならない。そのため、人通りの少ない夜のうちに仕事をする。
親方は、カンナやノミやヤスリ、加えて笹の葉形のコテを取り出し、目の前に広がる舗装されたばかりの道路を睨めつけた。そして、僕にこう告げた。
「今夜は、おぬし一人で水溜りを作ってみよ」
唐突に突きつけられた提案に戸惑いはしたが、これも前進するための試練と捉え、覚悟を決める。数日とはいえ親方の仕事ぶりを熱心に観察していたので、要領ならば分かっている。
僕はさっそく作業に取りかかった。
カンナで表面を整え、ノミで細工を施す。最後にヤスリとコテで微調整をする。彫刻を掘るのに似ているが、水溜り術は水溜りを美しく見せる技であり、水流を意識しなければならない。その上、晴れた日に姿を晒さないよう、ごく僅かだけ削るのが基本。制作風景を傍から見れば、ただ地面を撫でているようにしか見えないことだろう。
作業を終えた僕はホースで水を撒いた。大小様々な円い水溜りがいくつも現れる。親方はそれを見下ろすと、腕を組んで頷いた。
「なるほど、奥義『飛び石』か。初めてにしては上出来だ。わびさびが体現されている」
「ありがとうございます」
「だが職人の腕を誇示しようとする作為が仄かに見て取れる。もっと地面の声と周辺の気配を尊重したほうが良いだろう。どれ、私が少しばかり手直しをしてやろう」
そう言って親方はヤスリで地面を撫でた。たちまち水溜りの円と円とが繋がり、先程とは違った表情を見せる。
短い作業を終えた親方は声を張った。
「奥義、『瓢箪』。古くから縁起物として扱われてきた末広がりの型だ。ここら一帯には証券会社が多く、こういった縁起の良い水溜りが効果を示し易い」
「そこまで考えて水溜りを作っているとは……勉強になりました」
自身の未熟さを痛感し、僕は、深く頭を下げた。
そして、月日が流れる。
休むことなく修行に励んできた僕は相応の技術を身に着け、仕事を任されるようになった。とはいえ最終確認についてはいまだ親方に依存をしている。
今夜も、出来上がったばかりの水溜りを見てもらう時がきた。
「いかがですか?」
神妙に尋ねると、いつものように親方は険しい顔をした。ただしその口からは、いままで聞いたことのない感嘆の言葉が紡ぎ出された。
「これは……水溜りの文様のみで荒ぶる熊をも退散させたと言われる東雲流開祖が最も得意とした奥義、『昇龍』。それを再現するとは、見事だ」
今夜の現場は数十メートルにおよぶ通学路。そこに僕は巨大な龍を作ったのだった。天を睨む瞳から鱗の一枚一枚に至るまで、精密に、道路を削って。
「親方のご指導のお陰です」
「いや、おぬしの才能によるものだ。近くに進学校があることを考慮し、立身出世を表す昇龍を題材にした点も評価できる。よくぞここまで成長したものだ……」
親方は感慨深げに溜め息を漏らし、それから真剣な眼差しをこちらに向けた。
「まだ時間と場所がある。いまから私と勝負をしないか? もし私よりも優れた水溜りを作ることができたならば、その時点をもって免許皆伝だ」
本音を言えば、恐れ多い。しかし昇龍のように天を目指すのであれば、親方は、いつか越えなければならない壁。僕はコテを握り締めて深く頷いた。
「親方、胸をお借りします」
「望むところだ」
基礎技術に不安はない。コンクリートを平らにするのも凹ますのも自由自在だ。けれど親方との間には埋めることのできない経験の差がある。ならば、全身全霊をもって情熱を注ぐのみ。
陽が昇る頃、最初に仕上げを終えたのは僕だった。
ホースで水を撒く。しかしその水は全て排水溝へと流れ、道路の上には一つの水溜りも残らなかった。その様子を見て親方が言う。
「見たことのない型だな。これは、『新月』か?」
「はい。暁月は終わりと再生を意味します。ならばその意味をより先鋭化し、まさに始まりの瞬間である、光のない月、新月を表しました」
「なるほど、なかなか考えたな……講評は後にしよう。ちょうど私も作業が完了したところだ。まずはそれを見てもらおうではないか」
指し示された道路に視線を向ける。まだ水は撒かれていない。一見、僕の作った新月と同じように凹凸のない平面に思えるが、まさか、親方も。
そこまで考えが至った時、ホースから水が放たれた。それは一切排水溝に流れることなく、道路の上に留まり、薄く広がっていった。そして、やがて目の前には、巨大な鏡が出来上がったのだった。しかもその鏡には虹が映り込んでいる。
「こ、これは、東雲流開祖が晩年に考案したと言われる究極奥義、『明鏡止水・虹ノ盃』」
「ほう、良く知っていたな。で、勝敗は?」
「僕の負けです。取って付けた創作で伝統を倒そうとするとは、自惚れていました」
「分かっているならばそれで十分だ。いいか? おぬしの最大の敗因はな、水溜り師にもかかわらず、水溜りを作らなかったことだ」
「盲点でした……」
そんな会話をしていると、早朝練習にでも参加するのだろうか、数人の高校生がこちらに向かって歩いてきた。その高校生たちは親方の作った水溜りに足を踏み入れると、必要以上に大きな声で、愚痴を零し始めた。
「最悪。なんでこんな大きな水溜りがあんだよ」
「この道路、水はけ悪すぎじゃね?」
「あっちは水溜りがないし、あっち行こうぜ」
親方は何も言わない。沈黙が漂う。
僕は七色の光を見上げ、目を細めて呟いた。
「やっぱり空の虹は美しいな……」
その後、僕は左官屋に就職した。
了




