無限リビング
いつの間にやら目覚まし時計を止めていたらしく、気付くと七時を過ぎていた。康介は慌ててスーツに着替え、姿見で髪型を適当に整えると、リビングへと向かった。
格子状にガラスの配された室内扉の前に立ち、ドアノブを握る。カチャリと音をたててその扉を開くと、いつもと同じ調子の、妻の声がした。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
妻はリビングに併設されているダイニングキッチンで食器を洗っていた。
「どうして起こしてくれなかったんだ」
「遅出だと思っていたのよ。すぐに朝食を準備するわね」
「いや、いらない。大事な会議があるんだ。八時半には会社に着きたいんだよ」
康介が苛立ち気味にそう言うと、妻は壁掛け時計を見ながら口を開いた。
「あら、もう一時間くらいしかないじゃないの」
その言い方は至って暢気だ。
「だから……」
そこまで言って続く言葉を飲み込む。つまらない口論で時間を無駄にはしたくない。康介は鞄を肩に掛け、急いで玄関に通ずる扉へと向かった。
「それじゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
カチャリと音をたてて扉を引き開け、敷居をまたぐ。
すると、声がした。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
そこには食器を洗う妻がいた。
「ど、どうしてそこにいるんだ?」
訝しげに尋ねる。
「どうしてって、食器を洗っているからよ」
「そうじゃない。俺は玄関に向かったはずだ」
「あなた、何を言っているの?」
「ここはリビングだ」
「そうよ」
妻は首を傾げてクスクスと笑っている。
康介は苛立ちを抑え、再び玄関に通ずる扉の前に立った。
「あなた、朝食は?」
不意に呼び止められ、首だけで振り返る。
「さっき、いらないって言っただろ」
「そんなこと初耳よ」
「とにかく、いらない。八時半には会社にいないといけないんだ」
妻が壁掛け時計を見やる。
「あら、もう一時間くらいしかないじゃないの」
「大丈夫か? お前」
「なんのことかしら?」
「まあ、いい。じゃあ、行ってくる」
カチャリと音をたてて扉を開き、敷居をまたぐ。
すると、またもや声がした。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
「おい、どうなってんだ?」
「どうしたの?」
「どうしただって? 俺は、玄関に、向かった」
「あなた、顔色悪いわよ」
その発言を無視し、康介は急いで玄関へと通ずる扉をカチャリと開けて外に出た。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
カチャリ。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
カチャリ。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
カチャリ。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
「何回おはようって言うんだ!」
「どうしたの、突然大きな声なんか出して」
肩で息をする康介に対し、妻は澄ました顔で食器を洗っている。
「おい、いつまで食器を洗っているんだ」
「いつまでって、まだ洗い始めたばかりよ。あ、すぐ中断して朝食を準備するわね」
「だから、朝食はいらない! 八時半までに会社なんだ!」
「あら、もう一時間くらいしかないじゃないの」
そこで幾分冷静さを取り戻し、康介は、妻の視線の先、壁掛け時計に目を向けた。針は七時半を示している。最初にリビングに入った時と同じ時刻だ。何が原因かは分からないが、どうやら玄関への扉をくぐると、リビングに入室した瞬間に戻ってしまうようだ。
ならば、玄関と反対側の、寝室に通ずる扉をくぐればどうなるのだろう。あわよくば玄関に出られるかも知れない。そう考え、康介は入ってきた扉の前に立った。
「それじゃあ、行ってくる」
「行ってくるって、どこに行くの?」
カチャリ。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
「うーん……」
康介はその場でしゃがみ込み、頭を抱えた。
出たはずの扉から気付くと入ってきている。出る際には扉を引いて開けたはずなのに、気付くと扉を押し開けている。どうなっているのか、さっぱり分からない。
「あなた、大丈夫? 具合でも悪いの?」
「だ、大丈夫だ。食器を洗い始めたばかりだろ? 気にせず作業を続けてくれ」
「すぐに朝食……」
「いらない」
気を取り直し、立ち上がって玄関への扉に向かう。そして康介は、そっと扉の隙間から向こう側を覗き見た。そこには、紛れもない玄関ホールが広がっている。
「あなた、本当に大丈夫?」
「大丈夫だ。出勤時間まで一時間しかないがな」
「あら、じゃあ、急がないといけないわね」
「ああ、それじゃあ、行ってくる」
慎重に、ゆっくりと、敷居をまたぐ。まだ玄関は見えている。まだ見えている。まだ見えている。まだ。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
「なぜだぁぁぁ!」
それから寝室への扉でも同じことを何度か試してみたが、結果はやはり同じだった。
そうこうしているうちに腹が鳴る。時間は一向に進んでいないが、康介の体感としては優に三十分以上が経過しているので、腹が減っても仕方がない。そこで康介は何度目かの「おはよう」を聞いた後、あえてテーブルの席に着いた。どれだけ時間が経とうと、扉をくぐれば七時半に舞い戻ってしまうのだ。問題はない。いや、ひょっとすれば、食事をしている間に怪奇現象から解放されるかも知れない。
「すぐに朝食を準備するわね」
その言葉から数分後、目の前にトーストと目玉焼きが出された。
「良かったな、やっと朝食を出すことができて」
「あなた、何を言っているの?」
時間を気にせず、いや、むしろ時間をかけて咀嚼する。
すると、食器を洗い終えた妻が声を掛けてきた。
「今日は随分とゆっくり食べるのね。時間は平気なの?」
「ああ、八時半には出社しないといけない」
「え! もう間に合わないじゃないの!」
「大丈夫だよ。落ち着きなさい」
「どうして、そんな、菩薩みたいな顔をしているの?」
康介は最後の一口を飲み込むと、ゆっくりと玄関へと向かった。
カチャリ。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
「ふぅー……」
再び食事をとる。
しかし、それは三回が限度だった。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
「ああ、食べ過ぎてしまってね。お腹が苦しくて、すばやく動けないんだ」
「あなた、寝惚けてるの?」
その後、妻の挨拶も聞き飽きて、康介はリビングを無言で通り過ぎ、扉から扉へと向かうという行動を繰り返した。けれども、当然のように状況は変わらない。それどころか康介は、ひっ迫した事態に追い込まれていった。
「おはよう。あなた、今日は……」
「腹が! 腹が痛い。漏れそうだ」
朝食をたらふく食べた直後にウォーキングをすれば、そうなるのは必然。康介はダイニングの隣にあるトイレへと走って扉を引き開けた。カチャリ。
「おはよう。あなた、今日は遅いのね」
「トイレの扉、お前もか! もう漏れる!」
康介はその場に崩れた。万事休す。最悪、シンクで用を足すしかなさそうだ。そう思った時、妻が駆け寄ってきて肩を差し出した。
「大丈夫? トイレまで歩ける?」
「それだ!」
妻と一緒ならば、リビングの外に出ることが出来るかも知れない。
康介は勢いよく立ち上がり、妻の手を引いてトイレに向かった。
「いいか、一緒に敷居をまたぐんだ!」
「あ、あなた、ど、どうしたのよ」
「いいから、言う通りにしてくれ!」
妻は曖昧に頷いた。
「せーの!」
この一歩は小さいが、康介にとっては偉大な一歩である。
康介は、思惑通りにトイレに入ることが出来た。
「ありがとう! 愛しているよ!」
「あ、はい……わたしもよ。あなた」
「じゃあ、用を足すから出て行ってくれ!」
無事に済ますことが出来た。康介は胸を撫で下ろし、出勤するまでの計画を頭の中で組み立てた。まず、もう一度だけ七時半に戻る。その後、妻と一緒に外出すれば、遅刻をすることもなく会社に行くことが出来るだろう。
全ての苦悩を洗い流すかのような心持ちで、康介は、トイレの水を流した。
そして、扉を押し開け、外に躍り出た。
するとそこには、便器が鎮座していた。
※ショートショート大賞最終審査作品
ショートショート大賞
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