おっさんと幼女のおいかけっこ
緊張の一瞬を超えて仕事の完了を確認した。
消音機をつけてなお消せぬ音が静寂を打ち破るも、入念に下調べを重ねたこの場所に様子をうかがいに訪れるものなどいはしない。
それでも隠れているものや近づくものがいないかとあたりの気配を探ってしまうのはすでに習い性となっているからだ。男はそうやってこの世界で中堅と呼ばれるまで生き延びてきたのだ。ベテランと言わないのは「俺はまだまだ若い」と無駄な足掻きをしているからにすぎず、腕前という意味においては実質的にじゅうぶんベテランの域に達していたが。
人の気配がないことを確認した男は静かに息を吐き出す。
今男が着ている迷彩服のように存在を目立ちにくくするためなのか、少し長めの黒髪をまだらに栗色に染めた髪が向かい風に遊ばれて前髪の奥に隠れていた漆黒の瞳を一瞬あらわにした。
その瞳はいまだ鋭さを失ってはいない。
メインとなる仕事は完了したものの、まだ後片づけが残っている。この作業も重要な仕事の一部。どこにどんな目や耳があるかわからないので細心の注意を払う必要がある。
速やかに手荷物をまとめた男は忘れ物がないことを再度確認してから静かにその場を去っていった。
かそけし声が聞こえたのはそれから数十分経過したころだった。
「なんだ?」
耳を澄ませば赤ん坊の泣き声みたいな声がかすれかすれ聞こえてきた。
男は一瞬足を止めるもすぐにその場を離れようとした。動物の赤ん坊が鳴いているのだと判断したからだ。下手にかかわって親と出くわすと厄介なことになる。早々に立ち去らないと血迷った親に攻撃されかねない。だが次に聞こえてきた一言に釣られたようにそちらへと爪先を向けた。
「まま……」
そこにはすでにこと切れて横たわっている獣人の女性にすがりつく幼い少女の姿があった。
泣き叫ぶ気力もないのか。声はかすれているうえにかなり細い。倒れた母親にすがる幼女の体も弱っているようで揺さぶる力さえかそけしく、このままいけば母親のあとを追うのも時間の問題と思われた。
男は困ったように髪を掻きむしった。
「見ちまったもんはしゃあねえな」
放置するわけにはいかないといって男は幼女へと近づいた。
少し距離を置いたところで足を止めた男はおもむろに膝をつく。
驚かせないようにそっと左手を伸ばせば、かすかに肩を震わせた幼女が緩慢な動きで男へと顔を向けた。
「おまえのママはもう動かない。俺が村へ連れて行ってやるからこっちへ来い」
言葉が通じるかどうかはわからなかったが、男はゆっくりと話しかけた。
ぱっちりくりくりとした瞳が涙の幕の向こうでかすかに揺れる。
男はせかすこともそれ以上近づくこともせずに辛抱強く待った。
母親の姿と幼女の姿からして、目の前の獣人はネコ科だろうと男は推測した。であれば不用意に近づくと敵愾心をあおる結果にもなってしまう。そうなれば時間の無駄。もう一度今のように近づけるようになるまでかなりの時間を要するようになってしまう。
急がば回れ。それは男にとって座右の銘のようなものだった。
根気強く待つこと数十分。幼女がおずおずと男の手に顔を近づけてきた。けれどここで調子に乗っては元の木阿弥。
男は猫を飼ったことなどないが、仕事上多少の習性は学んでいた。
彼らは敵かどうかをまずにおいで判断するのだ。
案の定、幼女が男の手のにおいをかいでいる。
何度かクンクンとにおいをかいではそっと男の顔を見上げる。それを数回繰り返してから、幼女は男の掌に頬ずりした。男はそっと指を動かして応える。徐々に触れ合う範囲を広げて慣らしていきながら距離も縮めていった。
ようやく幼女を抱き上げるところまでこぎつけた男は、母親の状況へも目をやることができた。
盗賊に襲われでもしたのかと思っていたのだが、どうやら事故のようだ。この上の崖から足を滑らせたかなにかしたのだろう。子供を庇うことが精いっぱいで受け身をとれずに……といったところのようだ。
片腕に座らせるようにして抱き上げていた幼女を肩車に替えた男は幼女の背中を軽くたたいた。
「しっかりつかまっていろよ」
男が持っていた水や携帯食を食べたからか幼女もだいぶ元気を取り戻しており、この言葉に男の頭にしがみつく腕の力は頭を振ったくらいでは振り落すことは無かろうと思えるほどにはしっかりしたものだった。
その場で軽く跳ねて幼女が落ちないことを確認した男は、母親の亡骸を横抱きにすると近くの獣人の村へと歩いていった。
村のそばではいつまでたっても帰ってこない母娘を心配した村の住人たちが探しに出てきていた。
周辺地域の地図情報を思い出しながらここだろうとあたりをつけて来たのだが、やはりこの村であっていたようだ。
「崖から落ちたようなのだが……」
そういって男は母親の亡骸を視線で示した。
身内の不幸を嘆くのは人間も獣人も同じ。
泣き崩れるものがあちらこちらであらわれ、村は一気に騒然となった。
まずは亡骸を母娘の住居へと運ぶこととなり、案内役を買って出た獣人に従って男は村の中を進む。
幼女はといえば、村の女たちが男の肩から降ろそうとしたのだが一向に手を放そうとしない幼女に焦れた村人たちと、そろそろ腕がだるいのだという男の訴えでとりあえずは肩車をしたまま移動している状態だ。
時折眠そうに男の頭にもたれかかってくるくせに、そこから放されようとすると全身で拒絶する幼女。
えらい懐かれようだと苦笑する村人たちに対して、男はただため息しか出てこなかった。
子供に好かれることなどいまだかつてなかった男だ。妻すらいない独り身に子供などますます縁のない存在だ。
危険な仕事をしているからこそ余計に家族を持つ気にはなれなかった。
そうこうしているうちに徐々に上下の毛に白髪が見え始めるような年になってしまった。あれを見つけてしまった時の絶望感たるや、通りすがりの子供に「おじちゃん」と呼ばれた時の比ではない。
たとえ今も子供からは「おじちゃん」と呼ばれ、若者からは「おじさん」と呼ばれていたとしても、自分はまだ「お兄さん」だと思っている。
(認めてしまったらおしまいだからな)
白髪は抜いたり染めたりして対処している。
体は仕事柄鍛えているのでその辺の若者には負けない自信がある。
だが男は気づいていなかった。
自ら相手を「若者」を称している時点ですでに負けを認めているのだということを。
もう中年でしかないということを。
そんなことを時折考えながら、男は周囲をちらりちらりと見ていた。
獣人の村などという場所は普通は人間が入れるようなところではない。自然興味が湧いてきて観察してしまうのも無理からぬこと。
とはいえネコ科の獣人がここまで「おじちゃんおじちゃん」と言いながら群がってくるとは思わなかった。
男の認識では人見知りするものだと思っていたのだ。
これはやはり、と腕の中の女性にちらりと視線を向けた。
(恩人という認識なんだろうか……)
それにしては、と男は考える。
獣人は鼻が利く。
男の体にはまだ火薬や場合によっては雷汞のにおいすら残っているはず。それがどういうものなのか、獣人が知らないはずはない。
もっとも男の仕事の相手は人間のみで、依頼を受けたとしても獣人を相手にすることはないだろう。博愛精神などといったいかれたきれいごとからではない。獣人の生態はいまだ謎な部分が多い。そんなものを相手にするほど男は命知らずでも物好きでもなかった。ただそれだけのこと。
いざという時の退路だけは確保するべく周囲に目をやりながら歩いていた男は、ふと獣人の一人と視線が合った。
かすかに口角を上げる獣人の男性。がっしりとした体格からして村の用心棒的存在かもしれない。そしてあの笑み。
それは男が村を観察しているように、獣人側も人間の男を観察しているという意思表示なのだろう。
もともと長居するつもりはなかった男だったが、この一件でその気持ちが高まった。
(面倒事に巻き込まれる前にとんずらしねぇとな)
すでに遅しというところに来ていたのだということに男はまだ気づいていなかった。
「こちらへ寝かせてやってもらえますか」
案内役の女性に言われた場所にはすでに先回りしたものが敷いた布団があった。男は抱えてきた亡骸をそこへ横たえた。
「ありがとうございます」
寝台の横に座っていた老女が三つ指をついて礼を述べる。
「いや、たまたまこいつの泣き声が聞こえてきたんで様子を見に行っただけのことだ。すでに息を引き取ったあとだったからここに連れてくることしかできなかった。だから気にしないでくれ」
そういいながら男は肩車をしている幼女の脇に手を伸ばして持ち上げた。
今度は幼女も暴れて男の髪を引っ張りながらしがみついてくることもなくおとなしく腕に抱かれていた。
「おまえも疲れただろう。ゆっくり休め」
男が幼女の頭を撫でながらそういうと素直にうなずいた。
目を閉じて眠りにつく幼女を先ほどの老女に預けようとしたのだが、男の手が離れた瞬間幼女は目を覚まして泣きながら男へと飛びつきしっかりと首にかじりついた。
「お、おいっ」
いくら幼い子供とはいえ突然首にぶら下がられては男も前のめりになるしかない。倒れこまないように慌てて床に片手をついて体を支え、もう片方の手で幼女の体を支えた。
「おい、放せ。ここがお前の家だろう?」
「やー!」
幼女は癇癪を起こして男の言葉すら耳を貸さないようになった。
誰とはなしに落とされたため息がそこかしこに伝播する。
「面倒ばかりかけて申し訳ないんじゃが……」
老女のその一言で男はすべてわかったような気がした。
ようするに幼女が疲れて眠ってしまうまでそのままでいてやってくれという男の想像通りの展開が待っていた。
男はがっくりと肩を落とした。
泣く子と地頭には勝てぬということわざをしみじみと実感した男だった。
そんな男に鞭打つように、幼女はさらに上りゆく。体を支えてくれる手をこれ幸いというように踏み台にして男の肩に足をかけて顔へとへばりついてきた。
「こらっ、ちょ……っ、待て、うぐ……っ」
このままでは呼吸困難におちいってしまう。
しばらく幼女を顔からはがすべく奮闘していた男だが、やがて観念したように力を抜いた。掴んで引きはがそうとしていた手を放して、軽く幼女の背中をたたく。ぽん、ぽん、と優しくリズミカルに叩いていればやがて幼女の腕から力が抜けてきて男の顔を覗き込んできた。
男は小さく笑った。
「おまえは俺を窒息死させるつもりか? わかったから。今日はずっと一緒にいてやるからおとなしく寝ろ。明日おまえが起きたときにもそばにいてやるから。な?」
加減がわからないなりにもなるべく優しく幼女の頬を撫でてやる。
「んなー!」
鳴き声まで猫の子のようで。そんな声で幼女は男を責めるように小さな手でぱしぱしと叩いてくる。
「悪かったって」
いっぽうの手で幼女を支え、もういっぽうの手でゆっくりを背中を撫でながら男は辛抱強く幼女の相手をした。男がそうやって幼女の相手をしているあいだにほかの獣人たちはこれ幸いと総出で母親の葬儀の準備に取りかかっていた。
「なー」
「なんだ?」
「んな、な、なー」
「……すまん、なにいってんのかぜんぜんわかんねぇわ」
とにかく「なー」とか「んなー」とかしか男には理解できない。どうしたものかと頭を悩ませていると、この幼女よりは年嵩の少女が男のシャツの裾を引っ張った。
「ん? どうした?」
「おじさん、この子ね、行かないでって言ってるよ。どこにも行かないでって」
「……これがわかるのか?」
「うん。私まだ子供だから幼児語少しは覚えてるの」
(幼児語? これが? 獣人ってほんとわからんな)
それが男の感想だった。
だがせっかく教えてくれたのだからと少女にお礼を言うと嬉しそうに笑って幼女になにかしら話しかけていた。
しばらく会話らしきことを繰り返した少女は男に向き直った。
「とりあえず明日この子が目を覚ますまではおじさんはずっとそばにいるから安心しておやすみなさいって言っておいたから。だからおじさんも約束破っちゃだめよ。獣人との約束は絶対なんだからね」
「わかったよ。明日この子が目を覚ますまではずっとそばにいる。約束だ」
そしてようやく幼女は眠りについたのだが、男の服をしっかりと握りしめることはやめなかった。
男はにが笑う。
こんな風に懐かれたのは初めてのことで戸惑いだらけ。けれど時折ぴくぴくと動く耳はどうにもかわいらしくてしようがない。暖かい温もりと柔らかい毛並み。
葬儀の邪魔にならないように隅っこで壁にもたれて座り込んでいた男は、幼女につられるように眠りへと落ちていった。
結局男は村に三日間滞在することになった。
葬儀にてんやわんやしている村では、ただ男と一緒にいるだけでご機嫌な幼女のお守りをやすやす逃がすことはなかった。
男と幼女のために別に家を空けて提供し、食事も寝床も衣服もすべて無料で与えられ、しかもそれとは別に子守料として相応の報酬まで与えられては男も無下にはできなかった。
葬儀に三日間だけという約束を村人と当の幼女と交わす。
そうして期限切れの朝、男はいつものように目を覚ました。
幼女は男の腕を枕代わりにして寝ている。この三日間ずっとそうだったようにこのときも男の衣服をしっかりと握りしめていた。
「起きろ」
小さくそれだけ言えば幼女は目を覚ます。目を開けると同時に意識もはっきりと目覚めるようだ。
ただの獣に比べれば劣るのだろうが、人間である男からすれば敏感すぎると思うほどの反応だった。
寝ているあいだにいなくならないと約束したからには守らないわけにはいかない。男にとっても信頼は大事なことだったからだ。
幼女を起こしてから男はようやく体を起こす。約束を違えてないことを示すために。
約束の大切さは幼女もすでに教え込まれているようだ。
荷物をまとめて村長のところに暇乞いの挨拶に行っても幼女は何も言わなかった。ただおとなしく男の肩に乗っているだけだった。
すべての準備を終えた男が肩から幼女を下す。
腰を落として幼女の頭を撫でた。
「じゃあな」
ただそれだけ言って男はその村を後にした。
それからの男は日常に戻っていった。
仕事の依頼が入れば出かけていってこなす。
公からの依頼か、私からの依頼か。違うのはただそれだけ。狙撃者である男にとっては、依頼された相手に向かって周りに気づかれないように引き金を引くだけの作業でしかない。
見つかれば己の死を意味する。待っているのは報復だけ。理由など関係ない。公の依頼であったとしてもそれは変わらない。
ただ公の場合は常に複数の狙撃者が用意されて最終的に誰が狙撃したのかわからないようにはしていたが。
ただここのところいつにもまして誰かにつけられているような気配を感じるようになっていた。
公の仕事を終えての帰り支度のさなかでもその気配を感じるようになった。張りつめた気を抜くことなくあたりに視線を走らせる男に、いぶかった仲間の一人が声をかけてきた。
「どうした?」
結局気配のもとをつかみきれないうちに逃げられてしまった男は、高ぶったままの気を散らすように息を吐き出すと、顔をしかめて頭を掻いた。
「どうも最近誰かにつけられている気がするんだよ。時折かすかな気配と視線を感じるんだが、かなりの手練みたいでどうやっても位置がつかめなくて、いつも逃げられてんだよなー」
「マジかよ……」
声をかけてきた仲間は男の腕をよく知っている。何度も仕事を組んだことがあったので実力はいやというほど目の当たりにしてきた。本人はかたくなに中堅だと思っているが、すでにベテランの域に達しており腕もトップクラスだということも当然わかっていた。
ついでに言えばすでにおっさんと呼ばれる年であるにもかかわらずそれを認めようとしないで、白髪を見つけては「そんなはずはない」と大げさに騒いで抜いたり、迷彩を施しているのだと苦しい言い訳をしながら髪をまだらに染めたりしている。
そんなギャップが男の魅力であり、一部で愛すべきおっさん像だと言われているのは本人だけが知らない事実だったりする。
とはいえ腕は一流。そこだけは間違いない。
「狩るんなら集めるぜ?」
人手が必要ならいつでも手伝うし必要なだけの人員も招集するという仲間の頼もしい言葉に、男は肩をすくめて小さく笑った。
「そうだな。その時は頼むよ」
話すことで少しは気が晴れた男は、仲間に礼を言ってこの場を後にした。
独り身なうえに仕事柄世界中を移動しているため、定住せずにホテル暮らしをしている男はどこで食事をして帰ろうかと考えながら歩いていると、またしても追ってくる気配を感じた。
気づいていないふりをしながら考える。
このままでは落ち着いて休めない。やはり仲間が言うように早々に狩ってしまった方がいいのでないか、と。
瞬時に答えを出した男は、即座に反転してダッシュした。
慌てたような気配がとっさに向かって右に逃げるのを把握した男は逆に左へと進む。
やや遅れて追ってくる気配。慌てているからなのかいつもより気配を感じやすくなっていた。
(この気配はどこかで……)
走りながら男はポケットを探って取り出した罠を道々に仕掛けていく。
小さな悲鳴が聞こえて、狩りが完了したことを男に知らせた。
警戒しながら罠にかかった相手のところまで戻ると、案の定いつかの獣人の幼女がいた。
「動くなよ」
低めた声でやや脅すように命じる。幼女はへにゃりと耳を垂らして瞳に涙を浮かべていた。
けがをするような罠ではないが、多少の痛みを覚えてしまうのは仕方がない。
罠から幼女を放して念のためけががないかを調べる。罠自体はさほど危険ではないが、罠にかかった反動で転んで膝をすりむくといったことがないわけではない。ざっと見てみたがどうやら罠にかかったことにショックを受けて泣いているだけでけがをしたわけではないようだ。
「痛いところは?」
男のこの問いにも幼女はふるふると首を横に振っただけだったので大丈夫だろう。
「どうして俺を追ってたんだ?」
「だー」
「……は?」
「だー。なぁー」
まったく会話になっていない。幼女は「だー」と「なー」しか言えないようだ。少なくとも男にはそうとしか聞き取れない。
困惑したように頭を抱える男と、時折視線を胸元へと向ける幼女。
これはもしかしてと思った男がもう動いていいというと、幼女はほっとしたように相好を崩してワンピースの上に羽織っていたボレロの内ポケットから一通の手紙を取り出した。それを男へ差し出す。
いやな予感がしつつも受け取らないわけにはいかない。
開けてみれば獣人の村の村長からの手紙だった。
そこには『この子がどうしてもあなたと一緒にいたいというのでよろしくお願いします』と書かれていた。
「俺と一緒に?」
幼女はにぱっと笑うと男に飛びついてきた。
「おいっ」
「だー」
「だからその『だー』ってのはどういう意味だ。そもそも俺はまだいいとは言ってないぞ」
幼女の服を掴んでなんとか引きはがした男は、そのまま幼女の体を持ち上げた。
「なぁうー……」
しゅんとした感じで手足だけでなく耳も尻尾もだらんとたらして幼女がなく。
ほかに手がかりがないかと封筒を覗けば、さらにもう一枚入っていた。
書かれていたのは追伸。
『ちなみに「だー」というのは「ダティ」のことです。父親を早くに亡くしたこの子にはあなたが父親に見えるのでしょう』
また幼女の父親は猟師で男と同じようなにおいをまとっていたことも書かれていた。
男は大きく息を吐き出しながら片手で手紙をたたむと、封筒に戻した。それを幼女が取り出した内ポケットにおさめなおす。
「だー?」
小首を傾げる幼女に向かって、男は首を横に振る。
「ダメだ。おまえとは一緒に暮らせない。俺のそばにいると危険だ。とっととおまえの村へと帰れ」
そう言って男は幼女の体をポーンと放り投げる。獣人はこの程度でどうこうならないとわかっているからこそできる所業だ。
改めて思い起こしてみれば幼女の母親が崖から足を踏み外したくらいで死んでしまうのはおかしなことではあったが、じっくり調べるわけにはいかなかったのだからどうしようもない。すでに済んだことは忘れようと頭を切り替えて、男は幼女から逃げるように反対方向へ走り出した。
すぐに追ってくる気配がする。
それを適度に罠を張って足止めしようと画策するも、けがをさせないように注意を払いながらおこなうというのは初めてのことでどうにも勝手がつかめず徐々に距離が詰められていった。
「……っつ!」
それは確実に男のミスであった。
追ってくるのは幼女だけではないということを忘れていたのだ。
気づけばいつのまにか罠にはめられていたのは男のほうだった。ただし罠を張ったのは幼女ではなく、別の誰かだったが。
とにかく今はここから抜け出すことが先だ。
幸いにも幼女は捕まっていない。うまく敵の死角に隠れているようだ。男にすらその気配をはっきりとはつかませないところはさすが獣人といったところか。
となれば遠慮は無用。男はジャケットを払うようにして素早く背中に右手を回すと、ボトムに挿したベレッタM84を取り出した。護身用の自動拳銃だ。
その銃で罠の仕掛けを撃ち抜いて脱出する。
周囲を取り囲まれる前にどうにか退路を確保することができた。
この先にはごみごみとした貧民街がある。
ざっとこの辺一帯の地図を脳内で展開した男はその貧民街へ紛れ込むのが一番だと判断した。
ちょうど幼女もそちらに隠れているようだ。
ただバカ正直にまっすぐに道を進んではこちらの意図がばれてしまう。
男はすぐ隣の窓に己がかかった罠を腹いせのように投げつけて割るとそこから建物の中へと侵入した。
すでに廃ビルだったのが幸いした。
いったん中へ入り込んだ男に並走するように幼女も狭い通路を駆ける。
扉が朽ち落ちてぽっかりと開いた出入り口から外に出て男は幼女と合流した。
迷い混んだと見せかけるためにまずは左へ左へと進んでいく。
合間合間に罠を仕掛けて男と幼女は走る。
途中で二手に分かれていた敵の一方が待ち伏せていたが、そこはちゃっかり銃弾をお見舞いしてやった。
「あ……っ」
ところが銃を撃った後で男は幼女を連れていたことを思い出した。
たしか獣人は耳もよかったはず。そう思って幼女をちらりと見れば、耳はちゃっかりと伏せており、その上から手で押さえるという念の入れようだった。そのくせ目はきちんと開いて男を見返しているので怖がっているわけではなさそうだった。
男は目を丸くした後に、軽く吹きだした。
「慣れてやがる」
父親が猟師ということは、猟に連れて行かれたことがあったのだろう。
「行くぞ」
いつもの癖でつい声に出さずに口の動きだけで伝えたのだが、幼女はしっかりと読み取っていた。男の動きにピッタリついてくる。
(獣人ってのはこんなことまでできるのか)
ろくにしゃべれもしないちまっとした幼女が軽やかに跳ねたり走ったり。
「来い!」
軽く肩を指し示しながら囁くように呼ぶだけで、幼女はとんっと飛ぶようにして男の肩に乗ってきた。
「たいしたもんだ」
男の心からの賞賛に幼女は嬉しそうに微笑んだ。
建物の陰に隠れた男は左手でブーツに仕込んだ銃を取り出した。S&WM317エアライト。掌サイズの銃だ。22口径とはいえ至近距離で撃てばそれなりに殺傷力はある。敵への威嚇としてもじゅうぶん威力を発揮するだろう。
「落ちるなよ」
本来であればしっかりつかまっていろというべきだろうが、幼女は耳を押さえる必要があるので足やバランス感覚を駆使するしかない。
それでも男はこの幼い少女を信頼していた。万が一落ちてしまえば拾えばいい。むしろ落ちる前にどこかへ飛び移って避難するくらいの芸を軽くこなしてしまいそうだ。
他人の命を預かっている状態で己の命を狙われているというのに、逃げながらも湧き上がる笑いを押さえることに男は苦心していた。
「よし、反撃だ」
目指した場所へとたどり着いた男はそう言うと、ジャケットの袖についているマジックテープをはがした。出てきたのは複数の小さなボタンがついた指二本分くらいの大きさのリモコンのような謎の物体だった。
興味深げな視線が上から降ってくる。
「押してみるか?」
男がその中の黄色いボタンを指し示しながら幼女の前へと差しだすと、幼女は嬉しそうに小さな指を伸ばしてチョンと押した。
とたんにあちらこちらで上がる野太い悲鳴。
つんつんと髪を引かれた男がどうしたのかと問えば、幼女の指は今度はそちらを指し示した。
「ああ、罠にかかっただけだ。このボタンを押すと仕掛けた捕獲用の網が飛び出す。その網にかかっただけで死にはしないから安心しろ」
そうして今度は男自身が赤いボタンを押した。
すると最初に襲われた場所と最後に罠を仕掛けた場所から信号弾が撃ちあがった。
「これで専門家があいつらを回収に来てくれるだろう」
あとは幼女にしっかりつかまっているように言って、男はこの貧民街から脱出するべく駆けていった。
ようやく宿泊予定のホテルのそばまで戻ってきた男は幼女を肩から降ろした。
「さて、腹が減っただろう? メシにしようか」
その前にと言いながら男は幼女の前に膝をついてできるだけ視線が近くなるように体をかがめた。
「俺はおまえの父親じゃない。それはわかっているか?」
幼女は耳を伏せて眉をひそめると小さくうなずいた。
「それでも俺と一緒にいたいか?」
今度ははっきりとうなずく幼女。
男はそうかと言って幼女の頭を撫でた。
「だったら、おまえは俺の相棒になるか?」
今度の返事はすぐには返ってこなかった。
幼女はいっぱいに目を見開いて男の目を見返す。時間がたつにつれて瞳が潤み始め、そうして破顔したかと思ったら突然男へと飛びついてきた。
またしても首にかじりついてきた幼女を男はしっかりと支えた。
「相棒になるか?」
改めて男が問えば、幼女は顎で男の肩を叩こうとするかのように激しく首を縦に振った。
「そっか。じゃあこれからよろしくな。あー……」
そういえばお互いまだ名前を知らないことに今更ながら気づいた男は、幼女の脇に手をやって持ち上げるようにして首からはがすと左腕に座らせるようにして抱き上げた。
これでちゃんと会話ができるだろう。たとえ幼女がまだ言葉をしゃべれなくても自分の名前くらいは言えるだろうし。
「俺の名前はタスクだ。おまえは?」
「ロリ」
「……ロリ?」
「ロリ」
「あーじゃあロリ、これからよろしくな」
「ぅなぁー」
中年の男と幼女とくればただでさえロリータコンプレックスを疑われる可能性が高いというのによりにもよって名前がロリ。
男は心の中で涙を流しつつもすでにあきらめの境地だ。言ってしまったものは仕方がない。相手は相棒なのだと胸中で何度も繰り返して自分を納得させた。
「そういえばおまえの村に挨拶に行かないといけないな。心配してるだろう」
男がそう言うと、幼女は懐から別の手紙を取り出して男に渡した。
そして手前のホテルを指差す。
それだけで男は理解できた。考えればわかったことだ。いくらなんでもこんな幼い少女を独りで村から出すわけがなかったのだ。
一応手紙を見てみると、目の前のホテルの名前と部屋番号が書かれていた。
「メシより挨拶が先だな」
苦笑した男はホテルへと足を運ぶ。
そんな男の腕に腰かけるように抱かれた幼女は嬉しそうに笑っていた。
カーテンの隙間から差し込んできた朝の陽射しによって男は目覚めた。
目の前には男の腕を枕にするようにして寝ている幼女。
柔らかな毛並みが朝陽を受けて煌めく。
男は幼女の頭をそっと撫でた。
ぴくぴくと動く耳。
もう一度その感触を味わうように撫でてから男は幼女に声をかける。
「起きろ」
これはこれから先ずっとおこなわれる朝の儀式となる。
ぱちりと開いた瞳は男を映して嬉しそうに細められた。