名実7 {13・14合併}(30~31・32~33 西田・吉村岩手で聞き込み 天井老人への聴取)
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「なるほど、桑野の旧制中学時代の知り合いに写真を見せて、もしその中に桑野が居ると証言してもらえれば、旧制高校時代の桑野が『実像』として確認出来るわけですね!」
吉村は、西田の説明を聞くと、それを理解して無邪気に喜んだ。しかしすぐに、
「でもそれって、よく考えたら意味ないんじゃ? だって天井って人が、『桑野が今の大島海路になったとは思えない』って証言してると、高垣さんが聞いてたんでしょ?」
と突然暗い表情になった。
「それは確かにそうなんだが、おそらく高垣さんは、『おまえら警察の科学力で最終的に判断しろ』ということなんじゃないだろうか。勿論、桑野が当時の写真に写り込んでいたらの話だが……」
それに対する西田も、歯切れの悪い回答しか出来なかった。
実際問題として、20歳前の人間が老人になった時の顔など、具体的に想像出来る人間はそうはいない。骨格や目鼻立ちの位置などを科学的に検証することが、同一人物かの確定には、はるかに重要になってくる。そう考えれば、可能性は決して高くはないが、科学的捜査にチャレンジする意味はあるだろう。
ただ、そうなってくると、大島海路と桑野欣也が、指紋の照合前に考えていたことと同様に、同一人物と確定した場合、今度は、西田が唱えた「別人による、桑野を殺害したことによる成り済まし」説は完全に否定されることになってしまう。当然、桑野と大島が同一人物である方が、綺麗に筋が通るのだから、望ましいことは間違いないが……。
「そうか……。科学的な検証につながる可能性はあるんですね……。なるほど。じゃあ今のところ希望は持つことは悪くはなさそうだ」
吉村はそう言うと、自分の席へと着いた。西田はこの時、どうせ岩手に行くなら、桑野とその父の出身地である田老町と共に、三陸町・綾里地区も訪れてみたいと漠然と考え始めていた。綾里地区は、桑野の母の故郷だ。そちらも、きちんと自分の目と足で調べておきたいと言う気持ちが、何となくだが湧きつつあったからだ。
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5月23日木曜日早朝。西田と吉村は、新千歳空港から花巻空港へと向かう機上の人となっていた。二高OB会から資料が郵送されてきたのが5月18日。天井はいつでも良いということだったが、北見署管轄で車両強奪事件が発生したため、その直後の所轄への捜査協力が必要だったこともあり、やや出発が遅れたのだった。事件はすぐに解決したため、それほど遅れることもなかったが、若干予定に狂いが生じていた。
機内では、朝売店で買った「北海道新報」を読んでいた。月曜から始まった、竹下が書いていた「湧別機雷事故」関連の記事を読みたかったからだ。竹下からは、連載開始についての連絡は一切なかったが、それについて以前取材していたことは、北見で会って聞いていたので、たまたま見ていた記事の署名に気がついて、以後特に注意して読んでいたのだった。
さすがに、なかなか読ませる記事だと西田は感心していたが、本日の記事も興味深かった。月曜から火曜までが、機雷発見後からの、当時の遠軽署の爆破処理決定の背景に至るまでの記事。前日の水曜から本日までが、事件後に残された遺族達の60年を描いていた。そこには、当時の働き手を失った世帯や地域の苦境が描かれていた。
花巻空港に無事到着すると、すぐにタクシーを拾い花巻駅へと向かった。そこで駅弁を購入し、釜石行きの急行「陸中」の指定席に乗車した。やっと朝食にありつけた2人は、石北本線の遠軽近辺を思わせるような山中の景色を見ながら過ごした。暇を持て余した車掌との会話では、この年の11月のダイヤ改正を以って、急行から快速へ格下げされるらしい。そう聞くと、鉄道マニアでもない癖に、何となく感慨の湧く乗車であった。そして11時前に釜石駅のホームへと降り立った。
ここからは、日本初の第三セクター形式(国や地方公共団体と民間の共同出資による運営形態)の鉄道会社である、三陸鉄道の南リアス線に乗り換える。以前三陸地方を縦貫する予定だったものの、国鉄の赤字路線廃止、計画見直しに伴い、ほとんどの工事を終えたまま廃線になりかねなかった、現・大船渡市三陸町吉浜駅からJR釜石駅の約15キロの区間と、廃止された旧国鉄・盛線(大船渡市・盛駅~吉浜駅間)を統合した総称が、南リアス線である。西田達は、丁度、急行・陸中に接続する、釜石発の三陸鉄道のJR線乗り入れの普通列車で綾里駅へと向かった。
2人は直前まで知らなかったが、前年の2001年11月に、三陸町は大船渡市に吸収合併されており、三陸町役場の綾里地区の出張所(旧綾里村役場)は、大船渡市の綾里地域振興出張所(つまり市役所の分所)となっていた。
釜石駅から40分ほど乗車し、昼前には綾里駅に着いた。駅舎は田舎にしてはモダンな建物で、さすがに地方の集落らしく、駅前にさまざまな施設が集中していた。曇天ではあったが、気温は丁度心地よいぐらいで、時間的に先に昼食を済ませるため、駅前の食堂へと入った。2人は地元の食材を使った海鮮丼を注文した。
「それにしても、三陸鉄道と言いながら、ほとんど山の中とトンネルばかりで、味気ない景色でしたね。これじゃ地元の石北本線の北見から上川までと似たような風景で、ちょっと海岸の景色を期待したのと違いました。海沿いの路線とは思えなかったなあ」
そう感想を言われても、西田としてはどうしようもなかったが、率直な感想であることは確かだった。
「海岸線だと津波の被害を受ける可能性があるから、こういう路線設計にしたんじゃないか?」
「なるほど! 確かに津波のメッカですから、その可能性は高いですね!」
無邪気な吉村の賛同に、隣に居た地元の人らしき中年男性も、
「いやいやその通りだ」
と反応していた。更に、2人が北海道は北見からやって来たと聞くと、驚いてビールをごちそうしてくれた。以前道東を旅行したことがあったらしい。知床や摩周湖、屈斜路湖は強く印象に残っていると2人に告げた。まあ一杯ぐらいならとありがたく頂戴することにした。
さすがに勤務地の地元だと誰が見ているかわからないが、ここではその心配は無用だった。「旅の恥はかき捨て」とは言うが、良くも悪くもそれに近いものがあった。
海鮮丼を堪能した後、2人は出張所へ寄る前に、約束の1時半まで時間があったので、腹ごなしを兼ねて海岸へと徒歩で出てみた。地元の人に聞いたところ、海水浴場のある綾里白浜地区が風光明媚だということで、やや距離はあったものの、そこまで足を伸ばしてみた。
「建物が崖の上にしかないですけど、津波を想定してるんですかねえ……」
吉村がボソっと呟いたこともあり、西田は近くにいた老婆にそれを確認すると、東北訛の誤魔化せない標準語で、「ああそうです」とだけ言って頷いた。
30m以上高いところに、昭和三陸津波の後集落ごと移転したらしい。明治三陸津波では38mの高さまで津波が駆け上がったというから驚きだ。
「北見方面本部の屋上でも余裕で飲み込まれますね、そんなのが来たら……」
ブルっと震えるような仕草をしながらおどける吉村だが、地元の人達からすれば、冗談で済まされるようなことではなかろう。これだけの景色が地獄絵図と化す場面を西田は想像だに出来なかったが、現実の集落移転がそれを物語っていた。
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311で綾里白浜地区の綾里湾を襲った津波(特に何かが流されるなどの悲惨な映像ではありません)の驚異的映像
http://www.dailymotion.com/video/xhwyhg_%E7%B6%BE%E9%87%8C%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%98%A0%E5%83%8F-%E6%B4%A5%E6%B3%A2%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BD%8D%E8%B6%85%E3%81%8B_news
311で被害を食い止めた集団移転
http://memory.ever.jp/tsunami/tsunami-taio_303.html
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しばらく穏やかな海岸の風景を楽しんだ後、2人は出張所を訪れた。応対に出てくれた職員は、先日調査訪問を電話で伝えた「新沼」と言う職員だった。確か歌手の新沼謙治も大船渡の出身のはずで、この地方に多い苗字なのだろう。
「遠い所からお疲れ様です」
にこやかに挨拶してくれた新沼だったが、互いに紹介し終わると余計な世間話もせずに仕事の話になった。
7年前、竹下達が田老を桑野欣也の戸籍捜査のため訪れた際に、時間の関係上、こちらまでは捜査しきれなかった。そのため、桑野欣也の母親「桑野トキコ」の出身地である、当時の三陸町・綾里地区での、トキコが婚姻により離脱した小野寺家の「戸籍」を、西田は竹下達が東京から戻った後、三陸町役場に直接電話で依頼して探していた。しかし、昭和三陸津波の影響で、当時の村役場ごと流されたこともあり、それが見つかっていなかった。
前回の95年は、病院銃撃事件捜査で時間もなく、また察庁並びに道警本部からの目に見えない圧力等もあって、それ以上の捜査が出来ていなかったが、今回はせっかく岩手に行くということもあり、何か当時の小野寺家について知っている人が生存していないか、自分達で調べに行こうということになっていた。その下調べを、事前に綾里地区の大船渡市・綾里地域振興出張所に直接依頼しておいたわけだ。
但し、仮に小野寺家について知っている人が事前に見つからなくても、綾里地区がどういう場所だったかをこの目で見ておきたいという、物見遊山的な意図もあり、結果如何に関係なく訪問することにしていたのだ。ということで、事前の調査結果についての連絡は不要と伝えてあった。
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「小野寺家という網元がこの地に居たことは、ここに来る人の中にも、何名かよく知っている方が居ました。ただ、旧姓の小野寺トキコ という女性自体を知っていた人は居ませんでしたね、残念ながら……。いずれにせよ、まだ小さい子供時代の記憶の人が大半で、小野寺家の具体的なこととなると……。詳しく色んな方に聞けば、80以上のもっと高齢の人とかで、そういう記憶がある方もいるかもしれんのですが、ちょっと時間的に厳しかったです」
新沼は口ごもったが、要は、「来る直前に、調査を依頼されても困る」と言うことだろう。それはこちらとしても否定出来ない。
「ご迷惑おかけして申し訳ない」
西田はそういうのが精一杯だった。
「でもですね、ちょっと面白いものが見つかりまして……」
新沼はそう言うと、2人の前に紙を取り出して置いた。どうも除籍(戸籍に記載されている全員が死んでいれば必然的に除籍)謄本のようだった。
「調査依頼された時の住所と、1つ番地のズレたところの住所に、小野寺マチコという女性を筆頭にした戸籍、正確には除籍が見つかりまして……。住所から見ても、おそらく小野寺家の女性で、調査依頼を受けた小野寺トキコと名前、年齢から見ても、姉妹の類ではないでしょうか? 確か、前回依頼されたのは、こちらの出張所ではなく、当時の三陸町の『本体』の役場の方だったんでしょ?」
「確かそうだったと思います」
新沼に確認された西田がそう答えると、
「間に『別の部署』が関わると、どうしても意思疎通が上手くいかないですからね。依頼の目的までこちらに伝わらず、三陸の本庁舎から確認された住所そのものだけで、こちらからは該当戸籍がないと判断したんじゃないですか? 今回は、捜査目的まで含めて、こっちの出張所の方に直接伝えてもらえたもんですから、調査に融通が利いたということもあります。やはり地元の戸籍は、元々の地元の人間の方が詳しいわけで、目的を知っていれば、『周辺』の情報まで含めて調べておく融通が利きます。後、これは言いにくいんですが……、この地区の人口減のせいで、戸籍や除籍簿の管理が7年前より進んでいるということもあるかもしれません……」
と、前回情報が出なかった理由を推測、解説してみせた。それにしても、そう最後に語った時の新沼は、地元の衰退を意味しているだけに、少々悲しそうに見えた。
すると間髪入れずに
「これは、婚姻による新戸籍の設立だとすると、この女性が婿を迎えたという形なんでしょうか?」
と、空気を読まない吉村が尋ねた。
「戸籍上はそう見るのが筋でしょう。新たな家庭を作って、隣に家に住みだしたということがあり得るんじゃないですか? ただですね、明らかに戸籍の情報が断片的で、やはり津波の後、戸籍の再製がされたということだと思います。おそらくですが、この戸籍に記載されている、一人息子さんから聞いて、断片的な情報になったのではないですか? 小野寺マチコの原戸籍、つまり旧姓の小野寺トキコも載った、元々の小野寺家の実家自体の戸籍は再製されてないようですし」
それを聞いて、西田は謄本の写しをマジマジと眺めた。小野寺マチコと夫の「小野寺 道夫」は、昭和8年3月3日に亡くなったことになっていた。戸籍筆頭が小野寺マチコということは、吉村の言う通り道夫は婿養子なのだろう。
「昭和8年の3月3日というのは、昭和三陸大津波の発生した日でしたっけ?」
「えーっと、確かそうですね。よくご存知で!」
西田の知識に、新沼は軽く感心して見せた。
「そうなると、一人息子の、この道利という人物は、その時には死んでないんですね。亡くなったのが昭和17年ですから」
西田がそう言うと、
「先程も言ったように、この息子さんに当たる人から役場が色々聞いて、なんとかこの方の直接の一家の分の戸籍だけ再製したということなんでしょう。おそらく、流出した戸籍の方に載っている方達も、津波で亡くなった可能性が高いんじゃないですか?」
と自説を述べた。小野寺道利は、大正7(1918)年7月10日に出生し、昭和17(1942)年5月26日に亡くなっていた。
「……なるほどわかりました。これいただけますか?」
「ええ、どうぞ。そのつもりで写しにしときました」
新沼の返答を受けて西田は礼を言った。
それにしても、桑野欣也が本人自体、或いはあくまで「名義上」行方不明になっていても、誰も何か行動を起こしていないのは、母方の親族も粗方死んでいることも影響していたのだろう。桑野の父方は出身自体が田老ということだったようなので、親族丸ごと亡くなっていた可能性が高いが、岩手県南部のこちらでも似たような惨劇が起こっていたと思われた。「本物」の桑野欣也を知る人間は、捜査が進めば進むほど、居る可能性が低くなってきていることを西田は実感していた。
「それで、どうしましょうか? この後も小野寺家について知っている方を探しておきましょうか?」
新沼の申し出は当然渡りに船だった。
「勿論ですよ。是非!」
「わかりました。寝たきりの方なんかも居ますから、ヘルパーなども含めて協力を要請します。ただ、ボケてる方もいますし、現実はかなり難しいとは思います。何せ若者がほとんどいない地区ですから。何かご報告出来ることはまあ……ほぼ無いと思っていてください」
苦笑いしながらの新沼の発言だったが、北海道での地方勤務の経験もある西田と吉村から見ても、遠い場所の無関心でいられるような言葉ではなかった。
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出張所を後にして、何とか14時前の釜石行きの列車に滑りこむことに成功した西田と吉村。もしこれを逃すと、本数の少ないローカル線で、夕方まで足止めを食らうことになり、危ないところだった。勿論、それは遠軽でも同じことだったが……。乗客も少ない車中ということもあり、周囲を気にせず自然と捜査の話になった。
「桑野欣也の母トキコの実家も、同様に網元だった話は驚きでした。しかし、おそらく姉妹であろうトキコとマチコ、片方のマチコはそのまま小野寺家に残り、婿を取ったんですから、そちらが家督を継いだということなんですかね?」
「その認識で良いじゃないかな? さっきもらった謄本の写しには、マチコは明治26年生まれとあった。確かトキコの方は、謄本では明治28年生まれだったはず。他に兄弟姉妹がいたかどうかはともかく、マチコがトキコより姉で家を継ぎ、トキコは同じ網元の桑野家へと嫁いだ。こういう認識でいいと思う」
西田はそう言うと、写しをもう一度確認した。
「そして、マチコの方の息子が道利。大正7年の7月生まれ。これが桑野欣也のおそらく従兄弟にあたるわけだが、昭和17年の5月に亡くなってるな」
「戦死ですかね?」
「当時の年齢として、西暦で言うと……、1918年生まれの1942年死亡だから……23歳。その年の7月まで生きてりゃ24歳だったか……。可能性は十分にあるな」
西田がそう頷くと、
「大島海路の実体の方は、戦争に行かなかったことは間違いなさそうですが、桑野欣也自体はどうだったんでしょうね……。桑野と大島が別人だという前提であれば、おそらく戦争には行ったんじゃないかと、年齢から考えても」
と、吉村が従兄弟の桑野に言及した。
「桑野も年齢的には戦争に行っていて全く不思議はないし、その可能性は高いだろうなあ」
「そして、桑野は戦後、小樽の佐田家に伊坂と共に現れたわけですから、戦争を生き抜いたってことになりますね。道利が戦死したとすれば、同じ従兄弟でも明暗がくっきりと別れちゃってます。運命ってのは、ホント個人の意思じゃどうしようもないところがあります……」
吉村はやけに実感がこもった言い方をした。
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本日のこれからの予定では、宮古にいる天井老人の家を訪問し、旧制二高の寮の集合写真を見せて確認し、そのまま宮古で宿泊するつもりだった。翌日は、桑野の故郷である田老町(現・宮古市田老地区)を訪ねてから帰路につく予定だった。
2人は釜石で、南リアス線からJR山田線へと乗り換え宮古駅に着いた。そこから市内の天井宅まではタクシーに乗り、10分程で到着した。
天井は85歳ということで、若干足腰が弱っている様子があり、杖を室内でもついていたものの、頭の方は全く問題ないようだった。妻との二人暮らしだが、言葉遣いは、西田達相手ということもあるのだろうが標準語だった。聞けば、旧制釜石二中を卒業後、一度釜石の製鉄所で事務員として就職した後、召集を受けたものの、戦地に赴く前に運良く終戦を迎えた。しかも敗戦間際に、釜石が空襲を受けていたので、もし釜石に居住したままであれば、それはそれで危険だった可能性もあり、本当に運が良かったらしい。
復員してから数年後に一念発起し、復活した製鉄所の事務員として働きながら、地元の定時制高校を卒業。更に上京して、小さな食品製造会社で働きながら、東京の私立大学の夜間部を卒業。横浜で商社に再就職し、定年を機に帰郷したそうだ。そのせいで、基本的に標準語にも慣れていた。妻も埼玉の出身ということで、こちらも言葉は標準語だった。また大変物腰の柔らかい、西田ら警察官とは相反するタイプの人物であった。
西田と吉村は、写真を確認して貰う前に、まず天井による桑野欣也という人物の当時の話を聞くことにした。
「我々が持っている情報では、大変頭が良くて人望もある人物だったという話がありますが、実際のところ、天井さんから見てどのような方だったんでしょうか?」
西田の質問に、
「刑事さんの仰るとおりですよ。高垣さんからも聞いてるでしょうが、旧制中学が5年制のところを4年で飛び級卒業して、仙台の旧二高に行ったぐらいですから、二中でもトップクラスだったことは間違いない。私と桑野先輩は同じ水泳部で一緒でした。頭脳明晰というだけでなく、大変面倒見の良い先輩でしたよ。今で言うと175センチ以上はある背丈で、体格も当時としてはかなりの恵体だったと思います。水泳も漁師の息子だからかなりの泳力でした。県内大会でも、トップと言う程ではないにせよ、かなり上位だった記憶があるなあ」
と答えた。
「文武両道、人格も良いとなると完璧ですね」
「まあそうなるのかな。ただ、当時としては、不良生徒だった側面もあったかもしれません」
吉村の感想に、気になる言葉で返したので、西田はそこに突っ込んだ。
「今までのお話と不良というのが結びつかないんですが、一体どういうことですか?」
「今となっては別に問題でもなんでもないんだが、当時としては思想的に危険だった……、いや危険と言っても過激派ではなかったが、社会主義思想みたいなものに惹かれていたようなところがありましてね……」
天井はしばらくタバコを燻らせると、ゆっくりと煙を吐いた
「なるほど。治安維持法なんかもありましたから、危険思想と見なされてもおかしくはない」
「だから先輩もおおっぴらに公言はしてなかったし、目をつけられないように気を付けていたように思いますよ。そっち系統の本を英語やドイツ語の原語で、下宿なんかで隠れて読み漁ってたようです。元が優秀だったし、網元の実家からもそれなりに援助は受けてたようだから。ご本人が言うには、零細網元という話だったけれども、それでも網元は網元。地元の小作、貧農や小舟1艘の漁師やヤン衆(雇われ漁師)とは次元が違う。本なんかは仕送りを節約して購入していたようですね。影響を受けた、更に上の先輩から貰ったものもあったようです」
「え? 旧制とは言え、中学生でドイツ語の本を読みこなすだけの語学力があったんですか!?」
驚いた吉村が確認するも、
「一応当時の旧制中学は、正規の授業で英語の他にフランス語やドイツ語もやってたんですよ。特に釜石二中は、外国語教育の質の高さでこの岩手じゃ有名でね。一般的には、より有名な釜石一中、宮古中じゃなくて、二中に来るのはそういう目的の生徒も多かったんですよ」
と事も無げに答えた。事実として、旧制中学のカリキュラムでは、その3言語が普通に取り入れられていたようだ。そういう連中の中で、更にトップクラスの学力なのだから、いくら片田舎の旧制中学とは言え、確かにインテリ中のインテリなのは間違いない。
「しかし、当時そんな恵まれた状況の人間が、社会主義や共産主義に目覚めるもんですかねえ……」
西田は理解できないという風な言い方をしたが、それに対し、
「それは失礼だが、見方が少し浅いですな。それなりに裕福で優秀であるからこそ、周りの困窮した人間を見ると、罪悪感を抱き、社会の矛盾を考えざるを得なくなることもあるんです。まして優しい人であればこそ……。特に東北北部は、当時日本でも特に貧しい地域だった上に、世界恐慌や大飢饉に見舞われたら尚更でしょうな……。ウチも宮古の商売人で裕福とまでは言えなかったが、一人息子を学費の高い旧制中学に通わせられたんだから、この辺りじゃ十分資産家と言えたレベルでした。ところが折角入っても、学費の問題で辞めていく仲間も身近に居て、なんとも言えないもんでしたよ。そして、そんな状況に追い打ちを掛けるような昭和三陸(津波)の後はもう酷かった……。死んだ人間も多かったが、経済的な問題で、中学から消えた友人も数えきれない程でしたよ。校舎自体も流されて何も残らなかった。私の宮古の実家も、津波でほぼ全部終わったとは言え、なんとか卒業までこぎつけられたのだから、贅沢は言えない……」
天井は、そう一言一言を噛みしめるように言った。昔を知る地元の人間故、そして体験してきた本人そのもの故の重い言葉だった。2人もそれを黙って聞いていた。
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因みに余談であるが、当時の旧制中学の全体の入学者のうち、全国的に3分の1弱は、おそらく学費を払えずに中途退学していたというから驚きである。しかし、当時の政府の「見方」は非常に冷淡であった。以下、1929年12月10日の読売新聞記事中における、当時の文部省役人の言葉である(作者注・ウィキペディアよりの抜粋のため、本当に当時の読売の記事にあったかは確認しておりません)。
「半途退学者の中にはその他の事由によるというのが約3分の1近くを占めている。この中には落第して原級に留まっている者も多少含まれているが、然しこの大多数は一定の方針もなく只漫然と入学した者で、父兄にその責任がある。もし世の父兄の考えがもっと着実になって、出鱈目な入学に目覚め、半途退学者の数を減らすことが出来たなら、今日の試験地獄は著しく緩和されるであろう」
まさに今日の「新自由主義」の源流となる、「官僚という上位階層」による自己責任論に基づく考えと、遥か時代を超え共通しているところが興味深い。しかし、そのような時代故に、社会の身近な貧困等の問題を意識して成長したインテリ層も、反面少数だが居たのだろう。
またそれの1つの実例として以下の事例を挙げておく。
日本において、旧社会党から選出された総理大臣は、片山哲、村山富市の2名であるが、社会党出身という枠組みで捉えると実は3名になる。その新たに加わる名前が、「鈴木善幸」であることを知る人は、今や少ない。当然のことながら、鈴木は自由民主党の総裁として第70代内閣総理大臣の地位に就いたが、戦後初めて国会議員になった当初は、当時の社会党の議員であった。その後自民党の前身である民主自由党に入り、1955年の保守合同(民主自由党と日本民主党による保守政権の合併。いわゆる「55年体制」の1つの動き)により自民党議員となった経緯があった。
鈴木は、岩手県の三陸沿岸にある山田町(JR山田線の名前の由来でもある)の網元の家の出で、水産学校から今の東京海洋大学(旧東京水産大学と東京商船大学の合併により誕生)の前身である「水産講習所」を卒業し、漁協などを経て国会議員になっていた。
戦前の水産講習所時代に、弁論大会において「網元制度の前近代性」を問題視する演説を行う(それによりいわゆる「アカ」扱いを受けたこともあったようだ)など、網元出身故の階級社会的な問題認識が非常に強かったと推測されている。それが戦後社会党から立候補したことにもつながっていると思われる。また、首相就任後もハト派路線で、対米・安保同盟関係において問題発言を行い、対米関係が一時悪化するなど、やや自民党の従来型の保守政治家としては異質な存在であった(但し、当時の保守本流と言われた、鈴木も所属した宏池会は、基本的に対米従属型ではあるが、吉田茂以来のハト派色が強い派閥でもあった。よって派閥全体としてみれば、それほど鈴木が異質な主張をしていたというわけでもなかった。事実、後の首相である、戦時中の官僚で反戦主義者だった宮沢喜一も、鈴木内閣に入閣していたこともあったが、鈴木を擁護するような発言をしていた)ことも、こういう戦前からの思想背景が原因としてあった可能性が高い。
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「それで、桑野欣也が、仙台の旧制二高へと進学した後は、疎遠になったということでしたが?」
吉村が、黙っている西田に代わり話題を転換した。
「そういうことになるかな……。実家も田老だから、中学のある釜石とはかなり離れていたし。ただ、夏休みだったか、桑野先輩が水泳部の様子を見に来た時に、顔を合わせて話した記憶がありますよ。元気そうでしたね。高校は面白いか聞いたら、熱心に進学を進めてくれたように思います。目が輝いていたと思います」
「その時が、1932年の夏、つまり昭和……」
西田がそう口ごもると、
「昭和7年の8月ですね。ここの換算は面倒だから」
と、笑顔で面倒な西暦と元号の変換を代わってくれた。
「どうもすみません。それで、その昭和7年以来、桑野氏を見ることはなかったということでよろしいですか?」
「そう、それが最後だったと思いますよ。何せ実家が田老で、破滅的な状態だったようだから、ひょっとしたら地元に戻っていて被災したんじゃないかと考えたこともありましたよ。しかし、何せ、津波以前から東北は飢饉が続いていて、こちらも生きるのに精一杯でね……。残念ながらあれ以来そのままということですよ」
高齢の老人は、当時を思い出したか、しばし目を閉じた。
「津波の後、確実かどうかはともかく、地元・田老での目撃情報があったようですし、色々なことから勘案すると、巻き込まれたということはないと考えています。実家は壊滅し、田老に居た親族はおそらく全員死んだと思われますが……。ただ、その後1941年、昭和16年までの足取りはよくわからないんです。戸籍上はまだ生存しています」
「あ、その後の生存情報があるとは、高垣さんから聞いてはいましたが、昭和16年まではわかってるんですか? 何か、民友党の大島海路だったかの写真を取り出して、『この人に面影が似たような人じゃなかったか?』とか、わけのわからないことを言われたんですが……」
吉村の発言に対しての反応から、核心部分については、高垣本人から聞いていた通り、余り詳しいことは言わなかったと確認出来た。警察に対して、余り捜査情報を撒き散らかさないようにという、彼なりの配慮があったのかもしれない。直接会っている時には、そういう遠慮の類は感じさせない人物だったが……。
「そうです。北海道は北見の近くの生田原というところで、砂金掘りに従事していたと、こちらでは確認しています」
「砂金……掘りですか? またどうしてそんなことをしていたんだろう……。二高を津波の影響などで退学していたとしても、あの人なら代用教員の口ぐらい幾らでもあったろうに……」
天井は、西田の言ったことがさっぱりわからないという感じで首を何度も捻っていた。
「やっぱり信じられませんか? 当時は大恐慌なんかも重なって大変だったようですが?」
その様子を見た西田がそう尋ねると、
「あれだけのレベルの人ですから、そういう時代とは言え、本気になれば経済的に困窮していても、色々働き口はあったはず……」
と言いかけて、
「……でも、よくよく考えれみれば、そういったことはあり得なくもないかもなあ……」
と述懐した。
「それはどういうことですか?」
「西田さん、さっきの話にも繋がってくるんですよ。社会主義だの共産主義だの。つまり、社会的な上位層こそ、底辺にあえぐ人達と共に歩まなくてならないというようなことを、桑野さんが何度か当時口にしていたように、記憶が確かなら思うんですよ。ひょっとしたらその意識の下で、そういう世界に、わざわざ自分から飛び込んだのかもしれない。あくまで自分の勘ぐり過ぎかもしれないが」
「なるほど。社会主義運動の一種の『実践』としてですか……」
2人は老人の推理に一定の理解を示した。
「取り敢えず、桑野欣也氏の人となり、当時の様子については、お話を伺ってある程度わかりましたし、我々の捜査情報と重なる部分が多いと確認できました。それでですね、高垣さんからも、今回事前にお話を聞いているとは思いますが……」
そう言うと、吉村に4枚の写真を取り出させた。昭和7年から昭和10年までの4月の聡明寮の入寮者の集合写真である。本来なら、昭和7年分だけでも良いかと思ったが、念のため4枚持ってきていた。
「この写真の中に、桑野欣也氏が写り込んでいないか、確認していただきたいんです」
「あ、これですか……。確かに話は聞いてますよ。えっとちょっと待ってくださいよ……、メガネを」
天井は、吉村に差し出された写真を見ながらそう言うと、老眼鏡を探した。
「あ、あったあった……。さて、じゃあ拝見させていただこうかな」
再び座卓の前に座ると、4枚の写真を確認しはじめた。その間8分程だったが、西田達は黙って見ている他なかったこともあり、やけに長い時間に感じた。吉村はチラチラと腕時計を数度確認しているのがわかった。
「残念ながらどこにも桑野さんは見えないですね」
天井は写真から顔をゆっくりと上げると、2人にそう断言した。
「間違いありませんか?」
結論が変わらないとわかってはいたが、やはり確認しておかざるを得ない。
「西田さん間違いない。この中には桑野先輩は居ないですよ」
「わかりました。そうですか……。そうそう上手くいくとは思ってもいなかったですが、正直な話残念です」
西田は、確認後はすぐに引き下がり、吉村に写真を手渡して仕舞わせた。
「後、もし良ければ、この筆跡が桑野氏のものかわかりますか?」
西田はそう言うと、自らのポケットから、証文に書かれていた、桑野欣也の名前の部分のコピーを取り出し、座卓の上に置いた。
「これが桑野先輩の自筆かどうかということで?」
「ええ」
「いや、申し訳ないが、さすがにどんな字を書いていたかまでの記憶ははっきりとはない。ただ、割と字は上手かったような気がするが、この字にはそういうモノは感じないなあ。むしろ下手な感じすらしますよ」
天井は苦笑したが、筆跡からの「鑑定」については、案の定「はっきりしない」というところだった。西田は元々期待はしていなかったこともあり、すぐにそれをポケットに戻した。
「ところで、高垣さんからも余りはっきりした回答は得られてないんだが、桑野先輩はなにか警察沙汰になるようなことをしていたんですか? まあ、そもそも時効が絡んでくるような話にしか思えなくて、今更警察が探る意味もわからないんだが……」
西田が仕舞ったポケットから手を抜くのと同時に、天井が当然抱くであろう疑問をぶつけてきた。これだけ昔のことを、北海道の警察が執拗に聞いてくるのだから、何かあったかと思うのは自然なことだ。
「これだけ協力していただいたわけですから、捜査情報とは言え、ある程度お話させていただくのは当然ですので……」
西田はそう前置きすると、
「この桑野氏の戦前のはっきりしない足取りが、現在捜査中のある重大事件の本質へと、時代を超えて繋がっていると見ています。そのためにわざわざ北見からお伺いしました」
と伝えた。
「つまり、やはり何かの容疑者ということではない?」
「それは何とも言えません。ひょっとしたら被疑者かもしれませんが、現状むしろ被害者であると考えています。これ以上は勘弁してください」
「ある程度」と言いながら、かなりボカした発言になったように西田は思っていたが、これをわかり易く説明しようとすれば、「ある程度」では済まないことも事実だ。我慢してもらうしかない。
「正直ピンとは来ないが、確かに遠路はるばるこれだけのためにやってこられたんだ、何か大きな事件に関係しているんでしょう。ただこれだけは言える。あの人は大きな悪事をやらかすような人ではないと思いますよ。根っこからの善人です!」
天井は老眼鏡を座卓に物音させずにゆっくりと置くと、一方で、2人にはピシャっとはっきりとした口調で断言した。




