名実4 {7・8合併}(16~18・19~21 東京で鏡殺害犯に聴取 高垣と久しぶりの再開 竹下湧別機雷事故取材)
「鏡と付き合い始めたのは、97年の夏ということだが、どういう経緯で?」
「なんでそんなこと話さなきゃいけないの? あいつが昔やらかしたことで来たんでしょ?」
「まあまあ、話の導入部だから、そうイライラしないで」
吉村が典型的な宥め役としての役割を演じた。
「ったく、しょうがないわね……。入った店の常連だったらしくて、新入りの頃からよく指名してくれたって、よくある話……。正直、ヤーさんとは恋仲になるつもりはなかったんだけど、ああ見えて、意外とマメだったのよ、同棲する前までは……」
「その後、暴力を振るうようになったわけか……。ダメカップルによくあるパターンだな、最初は妙に男が優しかったりするんだが、後から後悔することになる」
相葉の話を受けて、西田は感想をストレートに言った、と言うよりは、思わず言ってしまった。
「あー、うっさいわねえ! ホント刑事ってデリカシーに欠ける人ばっか! みんなこんな感じだった、前の取り調べの時も」
憤慨しながらも、短くカットされた髪の毛を弄る。西田はそれには取り合わず、話をさっさと次の話題に移す。
「なんか夜中にうなされたり、声上げたりしてなかった?」
と尋ねた。
凶悪犯罪者であれば、骨の髄から鬼畜のような人間も確かにいる。しかし、どんなに強がったところで、殺人という大罪への良心の呵責に、実はギリギリで耐えている犯罪者も案外多いもんだと、ベテランの刑事から若い頃聞いたことがあった。そういう点を踏まえた、ちょっとしたギャンブルの質問だった。
「うーん、そんなにうなされているようなことはなかったと思うけど……」
相葉の言い方に、西田は感じるものがあったので、更に突っ込んで尋ねてみた。
「何か気になることがあったみたいだけど?」
「……言われてみれば、よく酔っ払って寝ていた時に、突然『コンセントだ 早くしろ!』みたいな意味不明なことを叫んでたのが何度かあったわね。夢見てるみたいで、何度かあったから、『あれは何なの?』って聞いてみたけど、びっくりしたような顔して、『そんなこと言ってたのか?』と言ったきり黙っちゃったから……。それ以降はあっても聞かないようにしたのよ」
それを聞いた西田と吉村は、思わず顔を見合わせた。間違いなく、あの北村の録音していたテープと同じ状況のシーンを夢で見ていたのだと確信したわけだ。
「他には何か……、例えば『全員殺ったか?』とか『早く一緒にアベ!』とか言ってなかったか?」
具体的にテープの中身の発言を羅列した吉村に、
「それが不思議なもので、毎回そこだけなのよねえ……」
と言ったきり黙った。その部分だけ同じことを繰り返した理由は、はっきりとはわからないが、殺害実行後、回収すべきモノを急いで発見して逃亡するため焦っていたのは間違いないだけに、そこが特に強く印象に残っていたのかもしれない。
他にも色々と質問してみたが、実際に、鏡が具体的に何か彼女に明かしていたことはなかったようだった。殺しておいて、今更鏡のために義理立てする必要もなさそうだし、それ自体に嘘はなかったろう。むしろ出所後の、鏡のヤクザ仲間からの報復の方を恐れていた感じだった。
※※※※※※※
時間が来たので、相葉は面会室から連れ出されていったが、それを見送った西田に、吉村があることを指摘した。
「でも、今になってよく考えてみると、ちょっとおかしいですよね? さっきの台詞を、実際に鏡が事件当時、自分で口にしていたとなると、流れ的には、『アベ』と呼ばれたのは鏡自体にならないですか?」
「ああ、言われてみるとそうだな……」
西田もその時は気付かなかったが、吉村の言うことはもっともだった。何しろ、テープの音声は、
※※※※※※※
『紙とそいつが持ってたメモ帳は俺が回収したから。さっさとアレ回収しとけ!』
『どこだっけ?』
『コンセントの所だってよ、早くしろ!』
『あ、あったあった! 早く一緒にアベ!』
「あ……、また余計な癖が……。早く行くぞ!」
※※※※※※※
という流れだったのだから、鏡がコンセントに言及していたとすれば、呼びかけられた「アベ」が、実は鏡ということになるのが、どう考えても常識的だ。これまでは、アベと呼びかけたのが鏡だという前提での捜査をしていたので、これでは明らかにおかしなことになる。
「でも、自分で言ったことじゃなく、言われたことが印象に残るってのもあるだろ? 或いは、これ言っちゃうと、今までの捜査の前提が完全に無駄になるが、コードネーム(秘匿名)のようにお互いに違う名前を付けて呼び合っていたとか」
「いやいや、西田課長補佐! そりゃないでしょ!? 確かに、今までのように、『呼び掛けられた方がアベ姓』を前提にしてきた捜査方針の否定は、必要な修正であれば……、考えたくはないけど、残念ながら仕方ないとしてもですよ……。もしコードネームみたいな扱いだったとしたら、その後『悪い癖』なんて言う必要ないと思うんですが? 元々、本名がばれないようにするためのもので、現実問題、その通りに捜査が撹乱されたわけですから。まさか、より、本当の苗字かと勘違いさせるための『演技』だとすれば、それはもう相手が上手過ぎですが、そこまで演技する余裕なんてあったんですかね?」
西田は取り繕うとしたが、吉村はそれに全く納得できないようで、首を捻るばかりだった。
「だけど、よく考えてみれば、結局音声の方も、北村さんの胸ポケットにレコーダーが入っていたことと、2人の声に特徴が大して無く、同じような感じだったこともあって、どっちのモノかはっきり識別できなかったわけです。つまり、アベと言ったのがどちらかすら、究極的には、はっきりしてるとは言えないんですよね?」
「そういうこともあって、行った声紋分析では、それぞれの犯人の音声の識別こそ付いたが、鏡の生前の声のデータはなかったから、どっちが鏡かということもわからず仕舞いなのは確かだ。勿論、相手のデータなんか、あるわけないからな現時点では。ただ、コンセントについて言及した犯人と、アベと言った犯人は確実に別人だ」
「ああ、耳で聴いてもわからないってことで、声紋分析に掛けたんでしたっけ……。しかし、どっちが鏡の声かわからないことは間違いない。となると、鏡が『アベ』と呼び掛けられたってことは、確かにあり得るんですよね……。悪い癖ってのは、人の名前を間違ったということを意味しているとすれば、あり得なくはないのか……」
「え? じゃあ吉村は、やっぱり「早く一緒にアベ」と呼び掛けられた方が、実は鏡だと思ってるのか?」
西田は、さっき自分の説を否定された挙句、吉村も似たような方向になってきたので、皮肉も込めて大げさに尋ねた。
「否、そこまでってわけじゃないんですが……。今回の鏡のコンセントのうわ言の件を、本人が言ったと考えると、色々と何か割り切れないんで……」
しっくりこないせいか、そのまま特に何か付け加えるようなことはなかった。そして、2人は考え込んだまま、拘置所の建物の外まで出た。
「しかし、東京まで来た割に、悔しいが思うような成果は無かったなあ。それどころか、むしろ混迷が深まったってのが正確なところか……」
拘置所入り口の前でタクシーを待ちながら、西田は吉村に愚痴った。
※※※※※※※
その日の午後6時、新宿ゴールデン街の「シャルマン」のカウンターに、西田と吉村が座っていた。どうせ東京で泊まっていくならば、折角だから高垣に会っておこうと、事前に、捜査の一環で上京すると伝えていたのだ。ホテルも、葛飾からも羽田からも共に離れた、新宿に取っていたのはこれが目的だった。高垣と直接会うのは、95年の11月、北見へと高垣がやって来て以来だった。まさに7年弱もの間会っていなかったことになる。
一方。シャルマンには、実は3年前に、千歳署時代に捜査で東京出張した際に寄っていた。マスターの斉藤は、西田をしっかりと憶えており、刑事だったということも忘れてはいなかった。勿論、今回も西田が来店した際に、西田だと把握していた。
それどころか、7年会っていなかったにも拘わらず、同行していた吉村のこともしっかり憶えており、その記憶力に西田も舌を巻いていた。やはり、北海道の刑事がわざわざ新宿の場末のバーに現れたということが、強烈に記憶に残っていたかららしい。
マスターを含めた3名は、再会を祝してハイボールで乾杯したが、もう1人の主役、高垣は西田に「ちょっと遅れる」と言う伝言を残したまま、午後9時過ぎてもやって来なかった。西田も吉村も気分良く飲んでいたので、もはや高垣のことは半ばどうでもよくなりつつあったが、そんな状況を知ってか知らずか、ようやくやって来た高垣は、店のドアを勢い良く開けた。
「よう! 久しぶりだな!」
相変わらずデカイ声と態度だなと2人は思ったが、それはお首にも出さず、
「遅かったじゃないですか! 待ちわびてましたよ!」
と応じた。
「いやあスマンスマン! ちょっと取材対象と会ってたら時間が掛かってな……。2人共、結構出来上がってる感じだが?」
高垣はそう言うと、マスターの方を見て確認した。マスターは笑って頷いたので、
「やっぱりそうか」
と納得すると、例のごとく壁際の席に陣取った。
「どうだ? 鏡を殺った女の聴取は? 上手く行ったか?」
「さすがに細かいことは、協力してもらったことがあるとは言え、基本的に部外者の高垣さんにゃ言えませんよ!」
吉村が毒づいた。
「そりゃそうだろうな。前、あんたらも痛い目に遭いかけたんだから!」
高垣はそう言って高笑いした。
「簡潔に言えば、『基本的に東京にわざわざ来るほどの甲斐はなかった』って結論でいいです」
西田は少し投げやりな言い方で答えた。
「ほう……。そいつは残念だったな。それにしても、一連の事件に関与してる奴は、何と言うかよく死ぬな。ツタンカーメンよろしく呪われてるのかな?」
本気か冗談かどちらとも取れない言動に、
「北海道はエジプトじゃないんですよ!」
吉村は冷たく端から否定した。
「そりゃ女ぶん殴ってたら、呪い以前に恨まれるに決まってるわな……」
西田が呆れたように言うと、
「呪いより現実の女の方が手強いってわけだな」
と大袈裟に笑った。
高垣も交えて、しばらく飲みながら、たわいもない話をしていたが、再び話が事件に及んだ。
「佐田実殺害の方はどうなんだ? 本橋の起訴から判決確定まで含め、今年一杯……で丁度時効だったよな? 何か事件に繋がりそうな情報とか、ありそうなのか?」
「それの時効が、俺と吉村が北見に転属された、実は隠れた大きな要因ですから、解決すべき順番で言うと、病院の銃撃事件よりも、実はそっちなんですよねえ……。本橋に最終的に押し付けて、一応解決したことになってるんですが……。あ、マスター、ハイボール追加で! ……取っ掛かりは、正直全くないです」
西田は途中でおかわりをマスターに要求しながら、現状を説明した。
「指紋がなあ……。アレが痛かったよな。俺の送った指紋で一致しなかった後、わざわざ大島の懐にまで潜り込んで、指紋取ってもダメだったんだよな? 竹下から後で聞いた限りじゃ」
「そうですね。おそらく、大島の実人物が、桑野を殺害してそのまま成り済ましたなんじゃないかと思ってるんですが、如何せん仮説なんでね……。それに、仮にそうだとしても、何で桑野に成り済ます必要があったか、そこがはっきりわからない」
西田は、マスターが作ったハイボールを、目の前に置かれたそばから、一息でゴクッとかなりの量飲み込んだ。
「それについても、以前竹下から聞いてた。竹下とは4年前に、俺が北海道に取材に行った時に札幌で、2年前はあいつが東京に来た時にそれぞれ会ってるんだ」
「結構直接会ってたんですね」
「吉村君よ! そりゃ、一応あいつも俺と同業者になったわけだから、こっちも親近感が以前よりあるし、あいつも電話で、先輩である俺にアドバイス求めたりすることもあったわけよ。まあ、新聞協会賞とるような連載記事の執筆陣として名前出る程の奴に、今更アドバイスなんて出来る立場じゃねえけど」
出来上がりつつも、得意げにそして自虐も交え吉村に語った。
「あ、高垣さんも見たんですか、奴も関わった震災の記事?」
「西田さんよ。リアルタイムじゃ見てない。後からまとめて見たんだ。兵庫新聞の記者と道報の記者、なかなかやるなと思ったよ。感傷を極力排除しつつ、被災者にも寄り添った良い記事だった。問題点や課題も具体的にしっかり抉ってたし」
「確かに。俺も記事の良し悪しをとやかく言えるような立場じゃないですが、なかなか読ませる記事だったと思います。奴にも直接そう伝えましたよ」
「あんたもそう思ったか! 元上司にそんな風に思われたら、転職した甲斐があったと言えるだろうな、竹下も」
高垣は満足そうにタバコに火を付けた。
「一緒に捜査してた人が、今や新聞記者ですからねえ……。もともと警官向きのタイプじゃないとは思ってたけど、今思うとやっぱり不思議だな……。7年程度前ですけど、それについては、やけに昔のことのように感じますよ」
「そりゃな。俺もそんなパターンはアイツ以外では聞いたことがない。前代未聞ってことはないと思うが……」
吉村と高垣の会話も、先程までのノリと違ってきて、西田自身懐かしい感情が湧いてきていた。
「ところで、高垣さんは、今何か書いてるんですか?」
そういう気分もあって、話題を敢えて変えようとした。
「今は高松首相の周辺と民友党の内部力学の変化を追ってる最中だ」
「へえ……。で、どうなんです、高松の『徹底的再構築』とやらは?」
「西田さんがそういう言い方をするってことは、あんまり信用してないんだな?」
「じゃあ、高垣さんは出来ると思ってるんですか?」
「あははは。こいつは痛いところを突かれたな!」
高笑いしたものの、心からの笑いではないのは明らかだった。
「やっぱりダメですか?」
「まあな……。結局は箱崎・梅田派から志徹会へと、利権がシフトしただけだったんじゃないか? 俺が見ている限り、現状では、残念ながら、それが正しい認識で間違いないと思うぞ!」
「断言しちゃうんですねえ」
囃し立てるような言い方をした吉村に、
「マジだ」
とポツリと答えたあたりに、西田はむしろ「リアリティ」を感じていた。
「そうそう……、それはともかく、『与党内政権交代』は、あんたらには追い風みたいだな。色んな場面で梅田派の圧力は下がり気味だから」
「それは多少なりとも感じてますよ、やっぱり」
西田もそれは実感していた。
「そもそも、大島自体も年だからなあ。何だかんだ言って、80は後半だっけ? 次はもうないだろ? 箱崎派も、既に死んだオヤジの箱崎からジュニア箱崎、と言っても、いい年のおっさんだけどさ……。それに世襲して、一般的には、梅田辰之助が領袖の、梅田派扱いに、完全になっちゃってるわけで」
実際、西田は箱崎派という言い方を、まだすることもあるが、高垣が口にしたように、一般的に今は「梅田派」というのが通例だ。
「それはそうと、竹下に頼まれていた大島の学歴調査、旧制二高で躓いたそうですが、よくそこまで調べましたね。戦争やら寿命やらで結構亡くなってる人も多かったでしょうに」
「実際難儀したよ……。噂通り、本物の桑野が優秀だったのは、ほぼ間違いないはずだ。旧制中学を飛び級だからな。しかし、その先の二高時代の話は全く出てこない。学友だった連中が死んだ可能性もあるが、退学したのではみたいなことも言われたな……」
「皮肉なことに、大島……、当時の多田(桑野)靖(欣也から改名後)の『旧制中学までしか出てない』って発言と一致してることになるんですよね、その中退説が本当なら」
「そうなるな。大島の方が、桑野のそれを知っていて、意識的に言ったのか、それとも偶然なのか、はたまた大島自身がそういう境遇に実際にあったのかはわからんが」
そこに吉村が割って入った。
「本物の桑野自身が、旧制高校を中退したという前提で考えると、津波で彼の実家が大変な被害を受けた時代と微妙に重なってるわけですから、やっぱり『大島』が多田桜や小柴に言ったように、『経済的な理由』が、退学の引き金になって、実質旧制中学までの学歴になった可能性はありますよね? 本物の桑野についても。大島もそれを知っていての発言なのかな? それとも、大島が自分自身の境遇を言っただけなのか……」
「色々わからないことは多いが、これだけ長い間、大島海路が桑野に成りすましていて……、それが結論かどうかはともかく……、それが誰にもバレてないということは、やはり桑野は、津波で天涯孤独になっちまったんじゃないかな? そうなると、吉村君が言うように、旧制高校の学費を払えるとは思えないな。当時もかなりの額だったはずだ」
高垣は、吉村の最初の説を支持した。
「当時の旧制高校は、かなり学力が高くないと行けなかったというのは聞いてますから、飛び級含め、相当優秀だったのは確実です。これは、佐田徹と北条正人の桑野評と強く一致してます。人望もあったらしい。その人物が忽然と消え、理由はともかく、大島海路の実人物がそれに成り代わっていた可能性が高い。そして、東京都議だった小柴の桑野『靖』評は、小柴自身が東京帝大出ということもあったかもしれないが、それ程高いモノではなかった。しかし、旧制高校に飛び級するようなレベルの人物だったとすれば、帝大出であっても、何か感じるところがあったはず……。やはり、その時には、桑野本人じゃないことを裏付ける証言にもなっているんでしょうか? しかし、何があったのか……。桑野殺しの説は正しいのか、そうだとして理由は何か、うーん」
唸ったままの西田をしばし見つめていた高垣は、
「まあ、あんたらも頭が痛いだろうな。大昔のことが複雑に絡みすぎてる。直接的に関わってはいないが、大変なのは察するよ……」
と言ってグラスを傾けた。
「それはそうと、銃撃事件の捜査の話は、昨年辺りに鏡の件がニュースになって以来、あんまり詳しいことは聞かないが、どうなってんだ? 共犯の目星は付いてるのか? あんたらが今日、鏡の女に話を聞いたのはともかくとしてだ。竹下も、今は警察の情報は知りたくても知ることが出来ないから、わからないので教えられないとずっと言ってる」
高垣は軽く唇を潤すような飲み方をした後、突然そう言い出した。
「竹下がそんなこと言ってるんですか?」
この発言を西田は多少驚きを持って聞いていた。というのも、竹下なら入手しようと思えば、西田に聞くなど、ある程度までの情報収集は出来ると思っていたからだ。
これまでは、警察を離れた以上、関心がないわけではなかっただろうが、特に聞く必要がないので、そうしていなかったように勝手に想像していた。竹下から西田に対し、捜査状況について詳しく聞きたがったようなことは、警察を辞めてからほとんどなかった。勿論、西田自身も遠軽を離れてからは、この捜査に直接従事していたわけでもなかったので、得られる情報は限定されてはいたが……。
しかし、最近の状況や、今の高垣の話を聞く限り、竹下が警察を離れたから聞く必要がなかったというのは絶対に違う気がした。確実に、一連の事件が気にならないはずはない。当時の捜査にアレほど入れ込んでいたのだから……。
そして西田は、今年の春から「現場」に復帰していた。そうなると、新聞記者になった以上は、ある程度警察とマスコミは緊張関係にあった方がいいと考え、敢えて詳しく聞くことを我慢しているか、或いは、事件担当である西田の「権限逸脱」に気を遣ったかのどちらかではないかと考えた。一方で最近の竹下は、捜査が新たな展開を示しつつあったせいか、その「熱望」を抑えるのにギリギリのラインにあるのではないかとも、何となく思いつつあった。
「ああ、そう言ってるし言ってたよ」
高垣はそう答えた。
「そうでしたか……。自分には聞いてきたことはないです。それで話を戻しますが、銃撃事件の捜査は、ある条件の問題で暗礁に乗り上げてます、残念ながら」
西田は、高垣にはテープの「アベ」情報をまだ与えていなかったことを意識して、唐突に話を変えた。
「1人実行犯が見つかったってのは、相当デカイ収穫だと思ったんだが」
「そりゃそうですよ。思いもしないところから出て来たんですからね。死んでましたけど」
「そして今日、殺した女からは収穫はなしと……。しかし、『ある条件』ってのは何だ?」
さすがにそこを突かないジャーナリストは居ないだろう。高垣も例外ではなかった。
「7年前も言わなかった以上、今も言えません」
「西田さんよ! 7年後だからこそ言えることもあるだろ? それに自分で話に出しといてそりゃないんじゃないか?」
高垣は大げさに西田の肩を叩いた。
「いや、言えませんね、それは」
指摘通り、話題に出しておきながらの冷たい素振りに、
「頑固だねえ」
とおどけて言いつつ、高垣は残りの酒を飲み干した。
「いや、お互い様でしょ。むしろそっちが頑固」
西田も笑って負けずに応じた。
そんなしょうもないやりとりをしたまま、しばらく飲んだ後、2人は高垣と共に店を出た。高垣はゴールデン街の入り口でタクシーを拾い、身をかがめながら乗り込む最中に西田達の方を見ると、
「俺が協力すると言った話は、7年後の今も継続中だからな! そいつだけは忘れんでくれ!」
と突然叫んだ。
「わかってます! 何かあったら、いの一番に助けを求めますよ!」
そう言った西田を確認すると同時に、二度三度手を振って、姿が車中に完全に収まるとすぐ、ドアが閉まり、タクシーは走り去った。
「見た目も中身もあの頃のままでしたね……」
「ああ、変わらんなあの人は。良くも悪くも……。逆に俺達はどうなんだろうな?」
「は? ……ええっと、どうなんでしょうね。自分達のことは自分達じゃ、案外よくわからんもんじゃないですか?」
西田に逆に問い返されて、吉村は誤魔化した。聞いた西田も実はよくわからなかった。成長したのか、劣化したのか、はたまた変わらないのか。
「さて、明日は朝一で北見へ戻るわけだから、戻ってさっさと寝ようか!」
2人は止めていた歩みを再開し、近くに取っておいたビジネスホテルへと向かった。
※※※※※※※※※※※※※※
4月30日火曜日。オホーツク海側にある漁業拠点都市の1つ、紋別市にある北海道新報・紋別支局の社屋3階で、竹下は、報道部の熊田デスクの席に、若手後輩の濱田記者と共に呼ばれていた。
「竹下、これ知ってる……よな?」
そう言われて手渡された数枚の紙から、最初に竹下の目に飛び込んで来たのは、「湧別機雷事故」の文字だった。
「詳しくはないですが、勿論知ってますよ。毎年かどうかはともかく、ウチでも5月26日は、慰霊式の記事は小さいながらも出してたように思いますが?」
そう言った竹下は、流れで、湧別機雷事故で亡くなったという、7年前の居酒屋「湧泉」での大将の父親の話を思い出していた。
「その通り。ただ、昨年は取材には行かせてないんだよなあ」
熊田はそう思い返すように喋ると、
「それはまあどうでもいいや。で、渡したその資料にあるように、今年、その事故が発生してから、丁度60周年に当たるらしいんだ。昭和17年だから1942年だな、今年が2002年。まさに5月26日でキッカリ60年だ。キリの良い年だから、5月末に掛けて、ウチからそれについて、特集の連載記事を1週間に渡って7回分連載して欲しいと、本社から指示が来てる。それを竹下と濱田にやってもらいたい」
と、あくまで他人事的な業務連絡に徹した言い方をした。
「60年ですが、10年前の92年に50周年だった時には、特集はやらなかったんでしょうか?」
それを聞いて、濱田記者がもっともな疑問を口にした。
「どうだろうな……。10年前はどうだったかわからんが、とにかく今回は大々的にやってくれという話だから、俺としてはそのまま指示するだけだ。どうも、事故の遺族会から記事にして欲しいという要望があったようだ」
熊田は困ったような表情を浮かべながら、そう答えた。それに対し、
「とにかく大体の話はわかりました。ただ、この事故の概要の資料だけでは、連載記事を書くとなるとさすがに如何ともし難いですね。これの書いてあることを羅列するだけじゃ意味無いですし」
と、助け舟を出すように竹下が話を本筋に戻した。事実、熊田から渡された資料だけでは、連載記事を数本書くのは実際無理だったこともあった。
「あ、スマン。それについては……、こっちの資料にある人物に取り敢えず取材してくれ」
そう熊田が新たに渡した資料には、「北見青洋大学文学部 教授 大内 喜好」という名前と、「佐呂間漁協理事長(湧別機雷事故遺族会会長) 佐々木 達三」という文字が踊っていた。
「佐々木さんってのは、役職名からわかりますが、この北見青洋大学の教授は何ですかね? 歴史分野の専門家かな?」
「多分そうじゃないか? この事故について、色々詳細な資料を持っている人らしい」
「なるほど。取り敢えずはわかりました。この2人に会って、色々聞いた上で、何を書くか構想してみましょう」
濱田と共に自分の席に戻った竹下は、最初にもらった資料を若手記者と共に眺めはじめた。死者112名(後日怪我が元で亡くなった人含む)という大惨事だったにもかかわらず、戦時下ということもあり、当時道内でもわずかに報じられただけだった。
※※※※※※※(以前「鳴動」章で記載したものと一緒です。一部リンク増えました(※が付いたもの)
湧別機雷事故とは、1942年(昭和17年)、現湧別町、当時下湧別村において起きた、漂着していた機雷の爆発による事故である。106名が即死、怪我が原因の死者も含めると、延べ112名が死亡、負傷者も同数の112名という、今では道民にもほとんど知られていないが、かなり大きな被害を引き起こした爆発事故である。
事故の経緯は、その年の5月に、村内の海岸に相次いで2個の機雷が漂着したことに始まる。機雷がどの国のものかについては諸説あり、未だに特定は出来ていない。
当然村は大騒ぎになり、村内の駐在所から、管轄署である当時の遠軽警察署に連絡が入った。遠軽署ではこの連絡を受けて、署長により、安全な場所での処理と戦意高揚も兼ねて、浜での爆破処理をすることを決定。
そして、運命の5月26日を迎える。2個の機雷は、前日までに浜に並べられていた。爆破処理が行われることは周辺市町村にも伝わっており、千人以上の地元民である見物客が押しかける騒ぎとなった。
更に昼前に、誘爆の危険性を考慮し、1つの機雷をもう一方から離す作業をすることになった。だが皮肉なことに、その作業中に突然機雷が爆発。浜はバラバラになった遺体や鮮血で地獄絵図となった模様である。
この事故により、一般の見学者は勿論、作業に関わっていた、或いは監視していた警防団(現在の消防団に該当)や遠軽警察署の警官も多数亡くなっている。陣頭指揮を取っていた当時の遠軽警察署長の千葉氏も殉職。当地方の行政面に置いても大きな被害となった。
◯参考資料リンク(直接リンク出来ないサイトの仕様ですので、アドレスコピペでお願い致します。いずれも当方とは無関係の他者様のサイトとなっております。)
http://itokhotsk.iobb.net/ganbo/tyousi/tian/tian.htm
(第2節遠軽警察署 参照)
http://www.phoenix-c.or.jp/~ryousi/sub124.htm#2
(ページ下部 悲惨!機雷爆発事故 参照)
http://www.phoenix-c.or.jp/~ryousi/sub167.htm#6
(ページ下部 浮遊機雷爆発の大惨事 参照)
北海道慰霊碑巡礼の旅
https://blogs.yahoo.co.jp/suzmin1110/64842270.html
※※※※※※※
竹下は、まず犠牲者名簿を見ながら、「大将」の父親を最初に探していた。大将こと、「相田泉」の父親は、この事故で亡くなっていたと大将の口から聞いていたからだ。しかし、最初から注意しながら最後まで見たが、「相田」という苗字の犠牲者は、名簿に全く載っていなかった。
「あれ、おかしいな……。間違いなくこれで死んだと言っていたはずだが……」
ブツブツ言う竹下に濱田が、
「何か問題がありました?」
と尋ねてきた。
「大したことじゃないんだが、知人の親族がこの事故で亡くなったと聞いていたんだ。でも見当たらないな……」
「なんて名前ですか?」
「姓は相田、名前は知らない」
そう言われて、濱田も調べてみたが見つけられず、
「見当たらないですね。何らかの理由で苗字が違うんじゃないですか?」
と言い始めた。
「いや、それはないと思うが……」
竹下は口ごもったが、今回は、別に大将の父親を探すことが仕事ではないので、頭を切り替えて、事件の経緯と犠牲者が書かれた書面を後輩と共に見始めた。
そんな中、竹下には、ちょっと気になる犠牲者が3名ほど居た。職業が、「三友帝国金属鉱山 鴻之舞金山勤務」と書かれた3名だ。
「なんで海岸に山の中の鉱山の社員が……。当時の5月26日は火曜日で平日だったはず……、うん、そうだな。だから、わざわざ見学に来ていたとは思えないしなあ……」
腑に落ちないままではあったが、竹下は最後までリストに目を通し終えた。
「それにしてもこれ酷いですよね! 機雷の処理なんて、警察やら当時の消防団やらで何とかなるようなもんじゃないでしょ!」
読み終わるや否や、濱田は憤慨を隠さなかった。それは単純に、彼が新入社員として昨年の6月に赴任して来たという、若手記者故の正義感というより、常識的な人間なら抱くだろう普通の感想だった。
「そもそも、現時点ではあくまで推測だが、鴻之舞の金鉱山の連中は、機雷を爆破処理するために呼ばれたんじゃないか? もしそうだとすれば、一般の鉱山のダイナマイト技師にやらせるとか……。考えられんな、今の感覚なら」
竹下も、呆れてものも言えない感情に突き動かされて、大声を上げていた。
「なんだ? 何か問題があったか?」
その声で、パソコンに向かっていた熊田が「異変」に気付き、状況を尋ねてきたが、
「いや、あまりにも馬鹿らしい原因で100人死んだって知って、酷いなと……」
と竹下が答えると、
「ああ、それは確かに酷いな」
と言ったきり、再びパソコンへと集中し始めた。もうちょっと共感してくれるかと思ったが、あっさりとした態度に、竹下は少し拍子抜けしていた。
「特集記事だが、この辺りも色々と書いていく必要がありそうだ」
改めて後輩に「構想」を伝えると、
「ですね。軽薄な署長の行動を批判しましょう!」
と若手記者は賛意を示した。
※※※※※※※
ゴールデンウイークが終わった5月8日水曜日。竹下と濱田は、佐呂間漁協の理事長室で、理事長の佐々木達三を待っていた。遺族会の代表から、詳しい当時の話を聞こうというわけだ。サロマ湖の漁協らしく、昆布茶にホタテのヒモの干物と言う、割と渋い「出し物」を堪能していた2人の前に、
「いやいや、遅れてもうしわけないね」
と平謝りしながら佐々木が入ってきた。
「こちらこそお忙しいところ、無理言ってスミマセン」
と竹下が返すと、
「なんもなんも! こっちが道報さんに記事書いてって頼んだんだ! そんなこと言える資格ないべさ」
と陽気に笑った。
竹下は60周年とは言え、わざわざ大きな特集記事になる理由を、その言葉で改めて確認した。遺族会の要望が道報本社へと行ったと、デスクからも何となく聞いてはいたが、佐々木から直接聞けたわけだ。おそらく50周年の時には、それほど大きな記事にならなかったのではないか?
「私が竹下、隣が濱田と申します。よろしくお願いします」
取り敢えず、名刺を渡しながら自己紹介をすると、すぐに本題に入った。
「まず、遺族会代表とのことですが、佐々木さんの亡くなった親族は、この佐々木さんで間違いないですか? 何名かいらっしゃるようですが?」
竹下が指し示した犠牲者名簿の中には、佐々木名が数名居た(作者注・事実との記載ない場合、名前等は実際の犠牲者とは一切無関係の創作です)。
「えーっと、ウチのオヤジは……、あ、これだな。「佐々木 武三」だね。当時、下湧別の警防団の副団長だった」
老眼鏡を掛けてリストを見ながら、2人に説明した。
「警防団、今なら消防団の副団長をされていたわけですか」
「うんそう。全く運がないとしか言い様が無いわ。大人になってから振り返ってみれば、完全に無駄死にだべさ。記者さん達もそう思うべ?」
「そうですね、専門家も居ない中で機雷動かして爆発ですから。亡くなった方は気の毒です」
竹下の言葉に、佐々木は我が意を得たりと深く頷いた。
「当時、会長さんは現場にいらっしゃったんでしょうか? かなり地元の広範囲から人が集まってきたそうですし、なんでも地元の学校の生徒なんかも、あたかも行事見学として、現場に連れて来られたとか」
濱田の質問に、
「当時、俺は芭露尋常小学校に通ってたが、見学に行かされて……。幸い巻き込まれはしなかったが、一家の大黒柱たるオヤジが死んだらそりゃね……」
と、至って明るい初老の男の表情がにわかに曇った。
「大変聴き辛いことで申し訳ないんですが、ご遺体の方はお父上と?」
爆発事故だけに、遺体の損傷が激しいことは、竹下も資料は勿論、大将の話からも把握しており、なんとかボカして聞き出そうとした。
「いやあ、やっぱりね……。俺はガキだったから、直接見たわけじゃないが、服の一部でオヤジと判断されたらしい。まあみんなそんな調子だったからさ……。ウチだけが特別じゃないから仕方ないべ……」
「そうでしたか」
余り傷口に塩を塗りこむようなことは憚られた。否、記者としては、ある意味非常識ぐらいの方が仲間内では褒められる部分があるが、竹下自身は、それには徹しきれるタイプではなかった。刑事にも向いていないと言われた彼だが、ある意味ブンヤにも向いてはいなかったかもしれない。
しばらく、当時の状況や遺族のこの60年間の動向などを聞いていると、突然ドアが開いた。
「理事長、頼まれてた漁獲割り当ての見積もり……あれ? お客さんかい?」
理事長より若干若そうな、60代前半から50代後半あたりで白髪交じりの、日焼けした男性が目の前に現れた。理事長はドアのところまで歩み寄ると、
「あ、やってくれたのかスマンな。それで、こちらの御二人さんは、ほら、あの記事書いてもらう道報の記者さん」
と紹介した。
「ああ、そういや理事長そんなこと言ってたな」
大げさに自分の頭を叩いた、これまた陽気なおっさんを前にして、記者2人はどうすることも出来ず黙っていたが、
「この人は、ああ、『浅井 久』って言うんだが、うちの漁協の理事やってもらってんだ。そして、こいつもまた、親族が機雷の爆発で亡くなってんのよ。叔父さんだったっけ?」
と言い出した。
「あ、じゃあ遺族会の方でもあるんですか?」
西田にそう問われると、浅井は、
「ああ、一応ね。ただ理事長の言う通り、ウチは俺から見て叔父さん、つまり俺のオヤジの弟が亡くなってるだけなんで、理事長みたいなのとは到底一緒には出来ないけどな」
とドアの前で突っ立ったまま言った。
「そんなところに居ないで、こっち来たらどうだ? 記者さん達も話聞きたいだろ?」
と、浅井に言った後竹下に確認してきたので、竹下は
「ええ、是非」
と答えた。それを受けて浅井は「それならお邪魔して」と言いながら、理事長の隣のソファに腰を下ろした。
「えっと、浅井さんと仰っていたから、これかな……?」
持参した犠牲者リストから、竹下は浅井を探し始めると、遠軽署・芭露派出所勤務の「浅井 稲造」という警官の名前が、すぐに出て来た。
「うん、これだね。稲造叔父さん。ウチの兄弟姉妹は、稲おじさんって呼んでたな。しかし、元々漁師の家系なのに、稲とか付けるから漁師にならなかったんだろうな」
と、浅井は何とも言えない複雑な笑みを浮かべていた。運命論者ではないし、合理主義者と見られがちだが、実は竹下も極たまにそういう非合理的な話にやけに惹かれることがあった。自分でもその理由はわからなかったが……。
「叔父さんにはご家族は?」
「家族……。居たことは居たんだ。カミさんと息子が」
濱田に問われ、そう返した。
「つまり、浅井さんにとって従兄弟がいたと言うことですね?」
「あれ、この話も記事になるの?」
浅井は、突然素に返ったように竹下に尋ねた。
「それはまだわかりませんが、一応あらゆる情報を集めておかないと、後で記事にする際に情報不足になったりするんで。実名で記事にする時には、ちゃんと連絡させていただきますよ。公人以外はプライバシーの問題もありますから。」
「いや、俺に関しては自分で喋ってるから、それが別に記事になっても構わんが、従兄弟の話は当然許可得てないからな」
「なるほど。とにかく実名記載は勿論、匿名でもバレそうな場合、許可無く勝手に記事にはしないので」
竹下はそう釈明はしたが、記者によっては、この手の確認はかなり適当な場合が多い。その点は、「報道の自由」を都合よく解釈しすぎているだろうと、竹下は思っていた。
「まあ居たと言えば居た、居ないと言えば居ない。何とも言い難いなあ」
煮え切らない浅井の表現の源泉を、竹下はすぐに理解できなかった。それを察したか、浅井はすぐにその意味を語り始めた。
「実は、稲叔父さんとそのカミさんは、内縁関係で正式な夫婦じゃなかったって話だ」
「そういうことで、記事になるかどうか気にしたんですね」
2人は浅井の言い分を理解した。
「まあそんなところだ。そして、籍入れなかっただけでなく、実は息子と叔父さん自体も、血縁関係がないんだ。つまりカミさんの連れ子。色々複雑なんだわ」
「つまり内縁の妻の連れ子だったということですか?」
濱田は、浅井が言ったことを繰り返すように確認した。
「そうそう。だから従兄弟と言っても、俺とは戸籍上も血縁上も正式には従兄弟ではないんだ。ただ、仲は良くて、今でも付き合いはあるよ」
「しかし、今でも結構、結婚相手は面倒なのに、当時の警察官で内縁のままだと、問題あったんじゃないですか?」
竹下が自身の警察時代の経験から、疑問点を抉った。
「当時そういうことがあったかは俺は直接知らんが、叔父さんの内縁の相手は、アイヌの女だったんだよ。それで叔父さんのオヤジ、つまり、俺から見ると爺さんが大反対してね。今はそういうことは大分無くなってきてはいるが、当時は色々あったから……。あんたにもわかるべ? まして言葉は悪いが『コブ付き』だろ? それで、色々揉めて籍入れられなかったらしい。爺さんが死んだら籍入れるつもりだったんだと。俺のオヤジから、後で聞いた話だけど」
「ほう、奥さんはアイヌの方だったんですか……。まあ色々障害があったんですね。しかし籍を入れないままとなると、その叔父さんが亡くなった後、どうなったんですか? いわゆる『恩給』(作者注・現在の公務員共済制度に移行する前の制度。但し、その頃には一般国民には年金は存在せず、まさに親方日の丸の典型的な、お上優遇措置でありました)の受給対象ではなかった(作者注・現在の公務員共済制度では、一般的な内縁関係にある相手は補償対象となります)と思いますが?」
竹下が更に自分の知識を元に質問すると、
「その辺は、俺も詳しくは聞いてはいないが、その後遠軽の母親の実家で暮らすも、かなり困窮していたようだから、そういうのはなかったんだべなあ……」
当時のことを思い出すように、そうしみじみと語った。
「遠軽?」
竹下が思わず尋ねると、
「そう遠軽。叔父さんは、元々遠軽署勤務の警官で、そこでカミさん……まあ、俺は直接は『おばさん』と呼んでたけれども……、つまり、内縁相手と知り合って結婚を約束したってよ。だけど、今の話の流れで、籍を入れないままで一緒に暮らすようになり、芭露の派出所勤務になって、最後事故で死んじまった……。あ、叔父さんとウチのオヤジの実家はここ、佐呂間町で代々漁師やってたが、さっきも言ったように、稲造なんて言う名前のせいか知らんが、何故か船酔いが酷くて、ウチの親父みたいに漁師継がずに警官になっちまったらしい……まあそれはどうでもいい話なんだが」
そこまで言うと、鼻の頭をせわしなく触る。
「それで、叔父さんの死後は、2人の生活が苦しいんで、見かねたウチのオヤジ、つまり義理の兄が援助を申し出た。オヤジは爺さんより、弟である叔父さんの方に味方してたから。でも、おばさんは魚介類なんかの差し入れは受け取ったが、金銭的なものは一切受け取らなかったそうだ。俺も夏や冬休みに、たまに遠軽に遊びに行ったが、まあガキから見ても、生活は楽ではなさそうだったな。ウチも裕福じゃなかったけどよ。今は漁師は儲かる商売になったが、当時は多くが貧しかったからな……」
そう言った浅井の口ぶりに、竹下はちょっとした重みを感じた。
「因みに、遠軽では、おばさんの父親、つまり従兄弟からすると爺さんと、爺さんが死ぬまでしばらく一緒に暮らしてたが、小さい畑耕して、なんとか糊口をしのぐ生活だったみたいだな。その爺さんは爺さんで、アイヌのプライドが高い人だったってな。その人自体も、ウチの爺さん同様、娘の和人との結婚にはあまり良い顔してなかったみたいだけど。日本語もあんまり喋らない人だったみたいだ。両家の親から反対されてたら、結婚自体、中々上手くいかんべや? 仮に叔父さんが死ななかったとしてもだ……。とは言え、勿論、叔父さんとおばさん、あ、その人はミチって言ったんだが、叔父さんとミチさんと連れ子のイッチャンの仲はかなり良かったんだけどな」
と話した。浅井の話は、当時のアイヌと一般的な日本人との軋轢、家制度の問題故の悲劇に聞こえた。当人同士が良くても、周りがそれを邪魔するということは、今より遥かにあり得た時代だったのは間違いない。




