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修正版 辺境の墓標  作者: メガスターダム
名実
78/223

名実1 {1・2合併}(1~2・3~4 西田と吉村、7年後北見方面本部で専従捜査へ)

ここまでのあらすじ(あらすじと言いながら、相当長いですが、ここをある程度理解しておかないと、この後の展開を理解出来ないため、ご容赦ください)


 95年6月早朝、JR北海道・石北本線・常紋トンネルの生田原側出口付近の線路沿いで、鉄道の写真撮影に来ていた、北見市在住の会社員・吉見忠幸の死体が発見される。持ち物としてあったはずのカメラは、周辺を動き回っていた何者かに持ち去られていた可能性が高かった。殺人の可能性も考えられたが、木の根に躓いて転倒し、石に頭をぶつけたことによる事故死と大筋で判断。ただ、転倒の理由には、カメラを持ち去ったと見られる謎の人物の影響が考えられた。


 当時、現場周辺に少し前から、JRの運転士による「人魂」の目撃情報(吉村の行きつけの店である、小料理居酒屋「湧泉」の大将である、相田泉からの提供)があり、転倒も吉見がそれを目撃したことで、焦って発生したことも考えられた。


 その後、吉村の紹介で、JRのベテラン運転士が、目撃されていた一連の人魂の信憑性を否定する証言を行い、西田達は吉見からカメラを奪った人物の所業と判断。連日の深夜の山中での行動と気配を消したがっていた様子から、何か怪しい行動を取っていたと見て、署を上げて現場周辺を探ることになる。


 その結果、常紋トンネル建設の際に犠牲となった、無数のタコ部屋労働者の慰霊碑並びに、遺骨を収めた墓標、更に幾つか掘った痕跡を発見。最終的にその中から、米田雅俊という、3年前に周辺で行方不明になっていた鉄道マニアの大学生の遺体を発見することになる。


 遺体状況からすぐに殺人事件と断定。遠軽署に、上部組織である北見方面本部・刑事部・捜査一課の刑事達との捜査本部が立ち上がる。


 捜査は、当初なかなか手がかりが見当たらず難航した。しかし、「常紋トンネル調査会」という、タコ部屋労働の歴史を掘り起こす団体が企画した、現場周辺での犠牲者の遺骨収集の予定が、「北見屯田タイムス」と言う地元コミュニティ紙に載っており、その情報が「幽霊」の動向に影響した可能性が、湧泉の大将から吉村を通じて浮上する。つまり、遺骨収集活動で、周辺を掘り返されると、見つかったらマズイもの(遺体など)が出てくるのを恐れたということである。


 その主催者である松重という、地元の留辺蘂町・温根湯温泉の老舗ホテル「松竹梅」のオーナーからの聴取で、田中清という元国鉄の保線区員の名前が、重要人物として浮上する。更にその田中への聴取過程で、田中の同僚であった、訓子府町在住の奥田満という老人と知り合うことになる。


 同時期に、竹下とコンビを組んでいた、北見署からの応援捜査員である、ベテラン刑事の向坂から、興味深い話が語られる。87年秋に起きた、佐田実という札幌の会社経営者の行方不明「事案」で、故・伊坂大吉という、その時に聞き込みに向かう予定の伊坂組の元社長が、重要参考人となっていたことが明かされる。


 伊坂が佐田の行方不明直前に、当時の道議会議員の松島孝太郎と共に会食に臨んでいたことが理由だった。そして、伊坂が有力後援者だった、大島海路という地元選出の民友党・大物国会議員が、当時の捜査を妨害をしていたらしい。その事件は迷宮入りしたまま、この年の95年を迎えていた。


 捜査は相変わらず難航していたが、本格稼働前のNシステム(走行自動車ナンバー識別システム)の試験運用の際のデータから、伊坂組の専務である喜多川という男が浮上。喜多川は、田中清の娘婿であり、竹下と向坂が聞き込みで伊坂組を訪れた際に応対した人物だった。喜多川は、佐田実失踪の後、伊坂組内部で急速な出世を遂げており、それが佐田実の事件と何か関係があると、西田達は睨む。


 捜査本部は、北見方面本部の機動捜査隊(通称・機捜)と共に、喜多川を徹底マーク。7月末、別件の酒気帯び運転による人身事故で逮捕することになる。また、喜多川が吉見のカメラを現場から持ちだしていたことも、喜多川が部下に与えたカメラに残った、吉見の指紋から確定する。


 ところが、8月初旬、取り調べで追及中に、クモ膜下出血により喜多川が意識不明(9月に生命維持装置が外され死亡)になってしまう。その一方、喜多川と国鉄時代に同僚で、一緒に伊坂組へ転職した篠田という、これまた専務がいたことが(その前に奥田への再度の聞き込みがあり、そこで篠田の名前が浮上した)判明。


 その篠田の3年前の言動と行動が、事件のカギとして、新たに焦点になってくる。また、喜多川の意識不明に関して、大島によるものと思われる、地元大手紙である北海道新報を使った警察批判により、竹下の大学時代の先輩である、五十嵐と言う北海道新報記者との情報ルートが出来上がる。


 篠田の謎の行動(伊坂大吉が、佐田実の件で何か脅されていたのではという推理も同時期に成立)から、篠田が米田の殺害に絡んでいると見て、西田達は現場を再捜査。そこで、米田の遺体が埋められたのと同じ箇所に、おそらく8年前近辺、遺体が埋められていた可能性が浮上する。西田達は、時期的に見て、それが佐田実の遺体であると推測。米田の前に埋めてあった佐田実の遺体がどこへ消えたか捜査することになる。


 また奥田老人から、喜多川や篠田が昭和52年(1977年)の国鉄職員有志によるタコ部屋労働者の遺骨収集活動の際に、タコ部屋労働とは無関係の、身元不明の3遺体(正確には、残り1体は連絡を受けて駆け付けた警察の捜査で見つかった)を発見していたという情報を得る。


 この3遺体は、鑑定の結果、おそらく戦前のモノと思われ、一部に事件性のある遺体もあったが、時効も確実であり、それ以上のことについては、遠軽署に残っていた発覚当時の捜査資料を見てもはっきりしなかった。ただ、幾つかの遺留品などもあった。


 そして、ふとした捜査中の吉村の言葉と偶然から、佐田の遺体(遺骨)が「辺境の墓標」に、タコ部屋労働の犠牲者の遺骨に紛れて隠されていることを西田が読み解く。その後の捜索で、実際に辺境の墓標より佐田のものと見られる遺骨を発見し、その後鑑定で一致。行方不明の佐田実が、8年前の行方不明直後に殺害されたことが確定することになった。


 佐田実の事件を再捜査することになった西田達は、捜査のため、佐田実の遺族が住む札幌へと飛んだ。そこで、故・伊坂大吉が、8年前の事件から数年後に、誰かに脅されていたという情報を、当時の捜査を担当した札幌西署の刑事から聞き出すことになる。それが、篠田の米田殺害時の行動と絡んでいると西田は睨む。


 また、佐田実の遺族から、3遺体の事件と明らかに関係していると見られる事実が記された、みのるの次兄である徹(既に太平洋戦争中戦死)の実父母に宛てた手紙と、それに絡む証文を提供される。それらは、佐田実の行方不明から4年後(91年)の冬に発見され、警察にも情報提供されたが、当時としてはいまいち信憑性に欠け、しっかりと捜査されなかったらしい。


 証文の内容自体は、仙崎という砂金掘りの老人が遺した砂金を、雇っていた3人(桑野欣也、伊坂太助、北条正人)と、同僚であった高村哲夫(彼自身も伊坂と北条により、免出の敵討ちとして復讐され殺害された)という仲間に、仙崎の死亡直後に殺害されて亡くなっていた、免出重吉と言う男の遺児(名前わからず)、合計4名に均等に分け与えることを記したモノであった。


 この手紙と証文は、元々は実と徹の兄である、小樽在住の長兄「譲」が、亡くなった3兄弟の実母から受け継いでいたものであった。また譲の証言から、証文はもう1通(手紙にかかれていた北条正人の分を、受け継いだ弟の正治から、昭和26年に提供された)あり、みのるはそれも譲から渡され保持していたようだった。ただ、そちらの証文については、現在行方不明だった。


 その証文や手紙に記載されていた、「伊坂太助」という人物が、西田の推理により、「伊坂大吉」と同一人物だと判明。「みのる」は、自分の会社の経営問題から資金を必要としており、伊坂太助が大吉だと知ったことで、そのために伊坂大吉を脅したと推測した(徹の手紙の中で、伊坂が殺人を犯していたと言う事実が記載されていたため)。


 また、伊坂から指示を受けた、当時平社員の喜多川と篠田により、佐田実が殺害されたものと推理した。そしてその報酬として、2名は急激に昇進したと、以前の推理を再確認する。尚、鑑定の結果、佐田は銃殺されていたことが判明。この点は、喜多川と篠田と言う、表向きは「堅気」による犯行に、殺害方法という面では、やや疑問符が付くことにもなった。


 更に、実が殺害される前の87年8月に、遠軽の旅館に宿泊し、生田原の現場を訪れようとしていたこともわかった(91年の冬に、手紙と証文を金庫から発見した佐田実の遺族が、それについて情報を提供したにもかかわらず、警察がまともに捜査してくれなかったことに業を煮やし、直後、遠軽周辺に、自分達で目撃情報を求めるビラ配布やポスターの掲示をした。その結果、殺害された実が、87年のお盆に、宿泊していたと旅館「志の山」の主人から情報提供あり)。


 一方の西田達は、北条兄弟(本来の砂金の相続人であり、兄の北条正人は戦死)の親族が、滝川市近辺に居ないか探した結果、親戚の存在を突き止め、弟の北条正治が、現在東京に居ることがわかった。


 西田と吉村は聴取のため東京へと飛ぶ。北条正治は、苦境にあると同時に、保管されていた、兄・正人から正治への戦前の手紙の中で、免出重吉の遺児が男児であること、そして桑野欣也が戦況の悪化を予言していたという言及があった。


 また、東京に来たついでに聞き込みした、現・伊坂組社長である、大吉の息子・伊坂政光の大黒建設社員時代の話から、3年前の92年秋に、政光の様子がおかしかったこともわかった(後に、竹下との会話で、伊坂大吉が何者からか、佐田実の殺害について脅迫されていたことを、息子である政光に打ち明けたためと推理)。そして、ふと立ち寄った新宿ゴールデン街のバー「シャルマン」で、高垣真一というジャーナリストの存在を知る。


 事前に予定していた捜査も済み、遠軽へ帰還しようとしていた2人に驚くべきニュースが飛び込む。多数を営利目的で殺害していたとして、既に死刑判決が確定していた本橋という元ヤクザが、収監中の大阪拘置所で、前触れもなく、西田達が遺体を発見するまで発覚していなかった、佐田実の殺害を自供したと言うのだ。


 すぐに2人は、予定を変更し大阪へと向かう。それに遠軽から竹下達も合流した。そこで本橋の聴取に臨んだ竹下は、本橋の態度に疑惑を感じ取り、暴力団に詳しい大阪府警の捜査4課(当時。現・組織犯罪対策部)長より、本橋と本橋の所属していた葵一家並びに民友党の箱崎派との関係をレクチャーされる。


 更に、本橋に自供直前会っていた、東西新聞の椎野という箱崎派番記者の存在を知り、椎野から本橋へと宛てられた手紙に、本橋が突然自供し始めた理由を示す、何か暗号が潜んでいると睨む。


 道報の五十嵐に、本橋の新たな犯行関与の情報(本橋が佐田実を殺害していたこと)を事前に提供した見返りとして、椎野の詳細情報を得た竹下は、箱崎派の重鎮である大島海路が、単に佐田の行方不明事件で伊坂を支援しただけでなく、事件そのものに深く関わっていると考え始める。


 また、本橋の証言から北見方面本部が行った、死んだ喜多川宅のガサ入れ絡みで、北網銀行の貸し金庫から、佐田実が持っていたはずの、北条正人が元々所有していた、行方不明の証文が見つかる(証文に付着していた指紋が、証文の正人の血判と一致)。


 一緒に出てきた、佐田実と伊坂大吉の間で結ばれた資金提供の契約書にあった、佐田から伊坂への「仙崎の遺言書」、つまり証文を譲渡すると言う文面と、その証文の貸金庫における存在は、矛盾するものだった。尚、いずれも、本橋が佐田を殺害した際に、協力していた喜多川と篠田が、佐田の持ち物から伊坂を脅すために持ち去ったモノだと推測された。


 一方の西田は、本橋の件で大阪滞在中に、ふとしたことから、バーで知った高垣真一というフリージャーナリストが書いたという週刊誌の記事を読んで、北見網走地方で、大島海路絡みの土建業者の鍔迫つばぜり合いがあると知る。同時にそれが事実か懐疑的な見方を示した。


 その上で、その週刊誌に同時に載っていた特集記事から、佐田実が証文を偽造して、その偽造したものを伊坂に当時渡していたのではないかと推測することになる。そのために、北条正人の分の本物の証文が、佐田実の手元に残っていて、それを死後奪い取った喜多川達が保管していたと見た。しかし、同時に大きな疑問も湧いていた。偽物の証文を作って伊坂大吉に渡しておきながら、何故本物の北条兄弟の証文を、北見まで持ってきていたかは不明だったのだ。


 また、北見方面本部が、伊坂家周辺の資金の流れ(佐田実殺害の依頼に金が動いた可能性があったので捜査)を洗う内に、唯一、伊坂家の資金が陰で動いたと思われる、振込先の「福田」名義の、おそらく実際には、伊坂家のものと見られる架空口座を発見していた。しかし、その口座は、資金の流れの時系列により、殺人事件に関係していなかったことは明白で、更に口座からは社会福祉団体への寄付などが多く、捜査本部はその事情に免じると共に、国税庁や税務署が介入してくると捜査の邪魔にもなるため、敢えてそのまま放置することにした。


 その後、大阪拘置所から札幌の琴似留置場へと本橋を移送し、道内に帰還した西田、竹下、吉村は、佐田実の遺族の元を再訪し、妻が佐田が証文を偽造していた証拠を隠していたことを突き止める。夫の罪を表に出したくない一心からの「隠蔽」だった。同時に、佐田が8年前に、札幌の探偵事務所に何やら調査を依頼していたことを知る。


 その探偵事務所で、佐田が桑野欣也や北条正治、免出重吉の遺児についての行方調査をしていたことがわかる。ただ、桑野や免出の遺児については、事務所側では「捜索不可能」として断っていた。しかし、その後、佐田実は、その事務所の知り合いの調査員に、免出の遺児が見つかったと話していた。それについては、西田達も本当かどうか懐疑的ではあったが、佐田が嘘を付くメリットも思い浮かばないでいた。


 一方竹下は、大阪で入手した、椎野から本橋へと出されていた手紙に、何か暗号が潜んでいると見て、大阪からずっと解読方法を考えていたが、全く把握出来ていなかった。しかし、遠軽に戻ってから、同僚刑事の言動にヒントを得て、そこに、本橋に佐田実殺害を自白するように仕向けられていた暗号が書かれていたことを突き止める。


 一方の西田は、高垣の書いた週刊誌記事を当初「ガセ」くさいと睨んでいたものの、その後、その記事に似たような、建設会社とそのバックに居るであろう暴力団の抗争状態が、具現化していくことに、何やら「臭い」を感じていた。


 また、札幌で取り調べられていた本橋を、佐田殺害現場である、生田原での実況見分のため、遠軽へと西田は移送することになった。その際、移送に同行していた北村が、推理小説のファンだったことが刑事志望の動機だったということで、本橋含めシャーロック・ホームズのエピソードで、護送車中は少々盛り上がることとなった。


 そして、本橋が留置された遠軽署では、簡易的に西田と竹下は本橋を取り調べることが出来た。しかしながら、本橋は追及をたくみに交わした。唯一反応したのは、東西新聞の箱崎派・番記者・椎野からの手紙に潜んだ暗号についてだったが、動揺した素振りの中に、西田は一瞬本橋が笑みを浮かべたような気がして気になっていた。


 本橋は去り際に、「ノーウッドの建築業者」という、ホームズの話を持ち出した。そのストーリーに関わる「蛇足により、犯行がばれる」という示唆を、本橋がしていたものと後から竹下は気付き、非常に悔しがった。結局本橋は、自供以上のことは新たに語ることもなく、起訴され、事件はこのまま幕引きとなるかと思われた。


 しかし、95年11月11日、北見共立病院の病室で、伊坂と佐田実の行方不明前の会食に同席していた、肺がんで死ぬ間際の松島・元道議と担当看護婦、そして北村刑事が銃撃事件に巻き込まれ、3名とも即死という事態が発生する。


 北村は、直前まで西田と遠軽でカラオケをする予定だったが、急遽松島に病院に呼び出され、北見へと引き返した後の悲劇だった。西田は呆然とするが、翌日、吉村と共に捜査応援のため、北見へと出向く。


 そして北村が、たまたま西田とカラオケをするために持ってきていた携帯テープレコーダー(夏場の喜多川への張り込みの際、西田は、北村が自分の歌声をそれで録音するぐらい、カラオケに打ち込んでいることを聞いていた)で、松島との会話を録音していたことが発覚。


 しかもそこから、大島海路が過去犯していたことや、本当の名前を西田達は知ることになった。大島海路は、証文にあった桑野欣也だというのだ。また、銃撃の実行犯の中に、「アベ」という名字の人物が居た可能性が、録音されていた犯人同士の会話から判明していた。


 そこで、銃撃事件の直接的な捜査からは外れている、遠軽署勤務でフットワークの軽い竹下と黒須が、西田の要請で、桑野欣也の本籍があった岩手県・田老町へと出張する。


 田老町では、桑野の故郷が、昭和初期の大津波(昭和三陸津波)で押し流され、家族や周辺住民もろとも死亡もしくは行方不明になっていたことが判明した。大島海路が桑野であるとこれまでバレなかったことは、そのような特殊条件が作用していたことを2人は感じ取る。


 そのまま、桑野の戸籍の移転先である東京へと向かい、東京で「多田桜」という女性の元で下宿するだけではなく、その女性の養子となっていたことも確認。その詳細を知る、元東京都議・小柴という90歳超えの老人から、色々な話を聴き出し、桑野欣也が、政治家・大島海路となっていく背景や過程を知ることとなった。


 また、西田は、フリージャーナリスト・高垣真一の書いた記事が、松島の殺害でも疑われた、建設会社とヤクザの抗争を想起させることに、一役買っていたのではないかと感じており、東京で高垣を探るように竹下は指示されていた。


 しかし、高垣は、大島の所属する箱崎派に近い、東西新聞関連の週刊誌側に騙されていたことが発覚。竹下から話を聞いて怒りを覚えた高垣は、捜査に協力することを申し出る一方、彼らと共に北見へと足を運んだ。


 丁度その頃、東西新聞が、捜査本部に圧力を掛けるような記事を載せたため、高垣の怒りが北見で再燃し、捜査に更に協力する代わりに、捜査情報を教えるように西田達に要求した。捜査情報が、反権力的なジャーナリストに漏れる危険性対し、西田は当初それを拒否するが、竹下の「静かな反逆」に直面し、自分も腹をくくることを決意。高垣に捜査情報を積極的に提供し、見返りとして、東京で大島海路の指紋を入手する(大島は基本的に東京にいることや、そもそもが政治家であるため、刑事は安易に近付けないので)ことに成功する。


 また、この時期に、東京の小柴から、手紙と共に、亡くなった大島の義母の多田桜より預かっていたという血まみれの端布はぎれが送付されてくる。大島海路が、「道を誤った」際には、それで反省を促せという遺言だったらしい。捜査にもし役立つならという理由で送られてきた模様だった。


 ところが、高垣が入手した指紋は、本来一致するだろう証文の桑野欣也の拇印とは一切一致しなかった。仕方がないので、大島が道内に帰還するタイミングを狙い、大島から直接指紋を入手して再確認することを西田と向坂は画策。竹下をSPとして、支援者との懇親のため北見入りする大島海路の傍に送り込むこととし、指紋を入手した。


 しかし、それも一致しなかったことで、捜査はそれまでの支柱である「大島海路=桑野欣也」の構図を完全にひっくり返されることとなった。ただ、黒須だけは、殉職した北村の録音テープに残されていた、伊坂大吉が松島に語ったという、「田所靖(大島の現・本名)になる前の、俺と一緒に遺産(仙崎の遺した砂金)を横取りした時の、奴(大島海路)の古い名前が書かれている」と言う、やけに回りくどい表現に、何か引っ掛かるものを感じると主張していた。


 いずれにせよ、テープの松島の証言から発覚したはずの構図が、いきなり立ち行かなくなった以上、その構図が証言されていた、北村の録音テープの内容全体の信憑性の低下を含め、捜査は混迷を極めることになる。


 また、アベ(阿部、安部、安倍など)姓の該当しそうな暴力団関係者もピックアップ出来ず、こちらでも捜査は難航した上、西田達は道警本部側の要請で、遠軽署の通常業務へと戻されることとなってしまった。

 札幌の自宅マンションの居間で、西田は年賀状に目を通していた。妻の由香が、朝食べたおせち料理の他に、スモークサーモンを追加して、夫の酒の肴にしようとして動き回っているのを横目に、懐かしい名前が出て来たのを確認した。


「お、沢井課長……。相変わらず元気そうだな。しかし、もうそういう年になったか、課長も……」

裏面に印刷された写真には、警察を退職し、故郷の芽室めむろ町に戻って、帯広周辺の警察官相手の保険の外交をしているという沢井が、ゲートボールに興じている姿が写っていた。


 沢井は、遠軽署の刑事課長を経た後、97年の春から、滝川署の刑事課長を3年務め上げた時点で早期退職していた。中規模所轄の課長職は、小規模所轄である遠軽署の後の異動という点を考慮すれば、まあまあの出世と言えた。


 そして、「隠居」先の故郷・芽室町は、何を隠そうゲートボール発祥の地だという予備知識は西田にもあった。それにしても、老人のスポーツというイメージのあるゲートボールと沢井が、西田にはしっくりと結びつかなかったのだ。


「もう明けて2002年だもんなあ」

そう呟いた通り、この日は2002年の元日だった。それにしても、前年の2001年は、西田のみならず世間的にも、印象的である大きな出来事が2つ起きていた。


 まず春先に、与党・民友党の総裁選においてそれが起こっていた。非主流派の中の派閥「志徹会」の中で、更に非主流と言える「高松 壮太郎」が、「徹底再構築」を標榜。政治不信の世論の圧倒的支持を受け、なし崩し的に総裁選に勝利し、民友党総裁に就任したことがあった。当然そのまま、日本国家の総理大臣の地位に就くことになった。


 民友党の中の力学ではなく、世論頼みという新たな軸による総裁・首相就任は、かなり大きなニュースとなり、一般ニュースのみならず、ワイドショーなども巻き込んで、一種のセンセーションとなっていた。


 そして、もう一つの大きな出来事が、9月11日に発生していた。ニューヨークの世界貿易センタービルを崩壊させた、イスラム過激派による連続航空機テロだった。4ヶ月弱程経った今も、崩壊する2つのタワーの映像は、西田の脳裏に深く刻まれていた。


 尚、年末には、九州の南西海域で、北朝鮮の工作船と見られる不審船と海上保安庁の巡視船が交戦する事件も発生。最後は不審船が自爆して自沈。最後まで落ち着かない年でもあった。


 勿論、それらのことは、単なる個人的な印象論だけでなく、多くの日本人は勿論、警察組織にも大きな影響を及ぼしていた。特に「911」直後には、地味ではあるが、警戒態勢がしばらく道警の警官の間ですら敷かれていた。21世紀の開始年にある意味ふさわしい、日本や世界にとって激動の1年だったのである。


※※※※※※※


 さて、95年末で、北見での捜査から外されてこれまでの間、西田はと言えば、それまでとは違い、実はトントン拍子に出世をしていた。


 というのも、直接の事件解決ではなかったが、本橋の事件での、本来埋められていた場所から移動していた佐田実の遺体発見が、かなり重要な犯行の裏付けとなっていたことで、道警の人事的にはかなり評価を稼いでいたからだった。


 もっとも西田だけでなく、遠軽署・刑事課・強行犯係全体にも高い評価が与えられていたのは、沢井を筆頭に他のメンバーのその後の処遇を見れば、ほぼ明らかだった。


 西田は昇進試験にも合格して、階級が警部補から警部になったこともあり、遠軽に97年3月まで居た後、すぐに道南は八雲署の刑事・生活課長としてまず迎えられた。2年後の99年には、いきなり千歳署の刑事課長にランクアップし、01年からは新設された札幌厚別署の捜査一課長として赴任していた。


 千歳署勤務からは、札幌の家族と共に暮らしていたが、40キロ超の長距離通勤はかなり辛かった。だが、札幌厚別署への転勤で、「刑事としては」ゆったりとする生活を送ることが出来ていた。もっとも、遠軽署や八雲署時代と比較すれば、圧倒的に事件が多かったので、その点は過酷だったと言えたかもしれない。


 ただ、既に西田は、この年の3月末には、再び単身赴任で北見方面本部の捜査一課・課長補佐として赴任することが内々に決まっていた。家族と別れるという意味では、気の重い側面はあったが、自分の意志も反映されて赴任する以上、気持ちが入っていたことも当然だった。


 そして、そういう流れになったのは、実は、北見方面本部で捜査一課長を6年前までしていた倉野からの、前年11月末にあった一本の電話が始まりだった。


 倉野は、明けてこの年の02年の2月を以って、道警本部・警務部長として定年退職する予定だった。しかし、その総仕上げとして、人事担当部署のトップらしく、西田に時効(作者注・当然今は時効はありません)が迫っている「佐田実殺害事件」の再捜査と、北村が殺害された、北見共立病院銃撃事件を併せて、専従捜査に当たらせる提案をしてきたのだった。


 倉野としては、佐田実殺害事件の全容解明が出来たかは、到底疑問であり、且つ7年前の事件での不完全燃焼な捜査と、西田達を擁護しきれなかったことを改めて悔いていた。この提案は、その「やり直し」をさせたかったことと、謝罪の意味があったらしい。


 電話での会話で、その点を強調して西田に詫びていた。更に銃撃事件において、事件後初めて大きな「動き」がその年(01年)の春先から出て来たことも、それを強く後押ししていた。


 ※※※※※※※


 西田達が捜査から外れた、北見共立病院銃撃殺害事件は、結局大島へと結びつくどころか、銃撃犯すら検挙出来ないまま、発生から1年後に捜査本部を縮小し、2000年には、「本格的」な専従捜査員すら皆無になるという有り様で、実質迷宮入りしていた。


 また、佐田実殺害で起訴された「殺し屋」本橋は、検察側の主張を全て認めていたため、既に死刑が確定している(刑法46条1項により確定死刑囚は死刑以外の刑罰は科されない)ということも影響したか、殺人事件としては異例のスピード裁判を受けていた。


 そして96年の1月下旬には、無期懲役判決(既に確定判決を受けていた、一連の殺人事件と本来は併合審理されるべきだったが、そちらは既に死刑判決が確定していたため、別途個別の事件として量刑が決まる)を受け、本人も検察も控訴しなかったため、2月上旬には判決が確定。その後、元の大阪拘置所へと移送され、1年後の97年10月に、法務大臣の署名により、既に確定していた死刑判決を元に死刑が執行されていた。死刑確定から死刑までの期間がそう無かったのは、営利目的での殺害依頼の実行という悪質度を重く見られたかららしい。


 ただ、西田と吉村は、それだけが原因ではないと考えていた。96年の年末から、箱崎(現・梅田)派の「橋爪 富雄」を首相とする内閣が誕生し、第2次橋爪内閣改造で法務大臣に死刑積極的賛成派の「室伏 章次あきつぐ」が就任していたことがまず1つ。


 そして、この内閣改造で、航空機購入にともなう汚職事件として知られる田村丸男元首相の「ロッドマン事件」に絡んで、以前有罪が確定したことのある「才野さいの 久蔵きゅうぞう」が、総務庁(当時)長官として内閣入りしたことに世論が反発。結果として内閣支持率が急落したという2つ目の原因が、1つ目と合体して大きく影響したと見たのだ。


 つまり、箱崎派の大島に配慮し、早々に本橋を始末しようと画策した上、更に内閣支持率が一気に低下し、倒閣が早まる危険性が出て来たことから、改造内閣組閣から1か月で死刑執行となったという考えだ。この点については、電話で竹下と話した際にも、竹下から完全な同意を得ていた。


 但し、当然だが、これはあくまで推測である上、仮に事実だったとしても、どうあがいても表沙汰に出来るようなことにはならないだろうと思われた。勿論、大島達が自白でもすれば話は別だが……。


 一方、死刑の際の本橋の様子は、マスコミの報道によれば、大物犯罪者らしく、取り乱すこともない静かな執行だったという。警察内部から伝わってきた情報でも、ほぼそれと同様の情報だったので、間違いなくそのような最期を迎えていたのだろう。


 執行後は本人の希望により、医療の発展に貢献するための、「献体」に供せられることになっていた。最期は、これまで出来なかった人の役に立って死にたいという、たっての願いからだったようだ。おそらく、その思い自体に偽りはなかっただろう。


 同時に、佐田実の殺害が誰からの依頼だったか(裁判上は、本人が「指示者」だと言いはった伊坂大吉が依頼人という扱いに終始していたが)は、墓場まで持って行ってしまった形だ。男らしいと言えばらしいが、本当の意味で反省することなく死んだクズと言えば、またそれも事実だろうと西田は思っていた。


 そして、肝心の大島海路は相も変わらず、与党の大物国会議員として君臨していた。昔ほどの威光も権力も無くなってはいたが、重鎮議員として旭日章の叙勲も受けて、尚意気軒昂というところを見せていた。


 しかし、さすがに今年で87歳と言う高齢から見て、今期限りで引退するべきという世論が地元選挙区でも大勢を占めており、さすがに次はないと見られている。箱崎は既に引退して死亡していたので、箱崎派は後継の梅田が率いる梅田派へと変貌していた。大島は、その梅田派のアドバイザー的な立場に収まっていたわけだ。


 そしてもう1人、竹下から桑野欣也の進学先の調査を依頼され、西田達が捜査から外れた後も、自称「趣味と執念」と言い張り、独自に調査していた高垣真一の存在も忘れてはいけないだろう。昭和三陸大津波と戦争による混乱を挟んでいたこと、そして、何より同じ世代の年齢が80近辺ということで、普通に戦死以外の寿命などの問題により、その調査はかなり難航していた。


 実際、幾つかの沿岸地域にあった旧制中学は、津波で校舎ごと流されるなどして、当時の卒業生名簿なども流出してしまっていたのだ。該当しそうな対象年齢の当時の在校生などを、OB会などのツテで何とか探し出し、桑野について知っているか聞くなどしていたらしい。


 そんな地道な作業を、本来のジャーナリスト活動・ライター業の合間に、高垣は断続的に地道にしてくれていた。そして、とうとう97年の夏に、桑野と旧制釜石二中(作者注・小説上の架空設定。釜石中学は存在しました)で後輩だった記憶がしっかりあるという、現在岩手県の宮古市在住の天井あまいという老人をやっとのことで探し出すことに成功していた。


 その天井から、桑野欣也は仙台の旧制二高(現在の東北大学の前身)に、5年制の旧制中学を成績優秀のため、昭和7(1932)年の春、4年修了で飛び級(作者注・旧学制では、尋常小学校と旧制中学での優秀な生徒は飛び級が認められていました。ただ、尋常小学校を飛び級する人は、ほとんど皆無だったようです)で入学していたと言う証言を得ていた。この話は、これまでの桑野欣也評とピッタリ一致していた。


 そして、昭和8(1933)年の昭和三陸大津波により、天井の当時の宮古の実家も大きな被害を受けるなどして、人のことなど構っていることが出来ず、完全な音信不通になったようだ。天井も何とか中学の卒業までは出来たが、その先の進学は経済的に厳しく諦めたと語った(作者注・被災等関係なく、当時の旧制中学の授業料はかなり高く、現実問題として、経済的に払えなくなって退学する生徒が多かったというのが史実です。当時の旧制中学の大半では、中途退学者が卒業生より多いという事態は、割とよくあった事例のようです。当然、学力不足や健康の問題等も含めたものですが)。


 ただ、桑野の実家が、津波で大きな被害を受けた田老であることは、天井も承知しており、当時も心配はしていたとのこと。一方、今の大島海路が桑野欣也であった可能性について、指紋の件からないだろうと思いつつ念のため、ぼかしながらも確認すると、「全く面影がないわけではないが、同一人物ということはあり得ないだろう」と鼻で笑われたそうだ。


 しかし、その後の足取りを調べ始めたものの、旧制二高は、敗戦間近の昭和20年7月の仙台空襲により校舎が焼け(作者注・これは史実通りで、仙台市北六番丁にあった旧制二高校舎は空襲で焼失しました)てしまったこともあって、卒業生などの名簿はすべて失われていた。


 また、当時の桑野を知る可能性のあった在校生なども、こちらもOB会を通じて色々調べたものの、なかなか出てこなかった。やはり戦争による戦死、寿命が影響した可能性が高かった。ただOB会の理事からは、「ひょっとすると卒業していないのではないか?」という意見もあったらしい。事実、その点については、高垣も断定する材料を持っていなかった。


 因みに、おそらくは「偽」の桑野である後の大島海路は、東京の小柴や義母・多田桜などに、「経済的な問題で旧制中学までしか行けなかった」という身の上話を当時していたそうだ。その点は、もし桑野の旧制高校中退(あくまで現時点では「可能性」であるが)を大島自身が知っていたのであれば、それが事実だろうとも言えた。


 また、単に桑野に成り済ます意味での「旧制中学までしか行けなかった」という発言ではなく、大学まで行ける学力自体が、大島自体にあった点を考慮すれば、実際に、大島海路自身が旧制中学まで行っていた経験に基づく発言である可能性もあった。更に、その両者が共に事実だったことも、あり得ない話ではなかった。


 一方、その報告を高垣から受けたと西田に連絡してきた竹下は、皮肉にも既に警察を96年の春には退職しており、捜査にその情報が活かされることはなかった。もっとも、高垣も既に竹下が退職していたことは知っていたので、あくまで報われないことをわかった上での、自称通りの「執念」の調査だったのだろう。


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 そんな袋小路の一連の事件捜査が、突如動き始めたのは、01年の3月末だった。

 東京の八王子の山中から、林道のがけ崩れ復旧工事の作業中にたまたま見つかった、身元不明男性の腐乱死体の毛髪の毛根から、当然DNAが採取された。そしてそのデータが、北見共立病院銃撃事件の犯人が逃亡に使った盗難車両から見つかった、複数の毛髪の毛根から採取されたDNAデータと一部一致したのだった。銃撃事件唯一の犯人に直接結びつく物証が、DNA検査の進化、警察データベースの進化という偶然と絡んで、生き返った形になった。因みに、倉野からなされた、西田が再捜査に関わる提案に影響した新たな動きとは、このことである。



 その身元不明の男は、「かがみ 拓哉」という名前の、葵一家門下の東京を中心とした勢力である、「紫雲会」の構成員だった。95年当時、35歳の舎弟格だったが、その後、本部長に出世してから殺害されるまで、幹部であること以外は特に目立ったヤクザではなかったらしい。


 鏡自身の殺害事件の捜査とは別に、周辺を警「視」庁のマル暴と共に北見方面本部の刑事が洗ったが、どうも95年の10月末辺りから11月中旬辺りまで、東京では見かけなかったという話があり、その間北海道へ潜伏して、松島襲撃の期を窺っていた可能性は突き止めていた。


 一方で、残念だが、葵一家のドンである「龍川 皇介」含め、葵一家本体や当時の紫雲会のトップであった元会長「久米 たかし」の指示系統には辿りつくことは全く出来なかった。こちらは紫雲会の構成員を、別件逮捕などを徹底して駆使して吊るし上げたが、結局誰も口を割らなかった。


 ただ、捜査にあたった刑事の話では、この手の話は、組長から直接実行犯に伝える話で、中間の構成員が知らなくても当然だろうとのこと。当然、組長レベルが簡単に口を割るはずもなく、こうなることは自明だったかもしれない。また、鏡の自宅などをガサ入れしたが、事件に関係したような証拠物件は一切発見出来ていなかった。


 尚、警視庁のその後の捜査の結果、鏡が殺害された経緯が判明していた。愛人のホステスに暴力を日常的に振るっていたことを、ホステスが彼女に横恋慕していたクラブのボーイに相談。そのまま共謀の末、99年12月に睡眠薬を盛って絞殺し現場に埋めたという、殺し屋にしては間抜けな最期だったらしい。


 しかし、重要なことはそんなことではなく、当然の話だが、北見共立病院銃撃事件の犯人の1人が鏡だったと確定したということだった。そしてそれは、その鏡の共犯が「アベ」だということに直結する点でもあった。片方が「鏡」姓である以上、「早く一緒に! アベ!」と鏡が呼んだ相手が必然的にアベ姓になる。


 ただ、北村の録音テープでの、鏡と見られる声を鏡の親族や知人にも聞かせたが、「似ていないような気がするが、否定するほど似ていないかと言われると……」という煮え切らない回答がほとんどだった。テープが北村のコートの内ポケットに入っていたこともあり、音声がそこまで鮮明ではなかったことが、このような結果を生んだ要因ではあったようだが、同時に鏡自身の声もそれほど特徴的ではなかったことも影響したようだ。


 実際、アベと呼びかけられた方、つまりアベの声と、アベと呼びかけた鏡の声は、当時西田が聞いていても、大して差がわからなかった(そのことは当時はほとんど気にしなかったが)程だったのだから。つまり、2人の声自体に大した特徴もなかったということだった。


 ただ、そこから先が本当の問題だった。警「視」庁組対にも、協力してもらった北見方面本部の捜査でも、鏡の周辺に「アベ」なる人物の影が見えなかったのだ。正確に言えば居ないこともなかったが、行きつけのラーメン屋の店主「安部」では、どうしようもなかった。また確実に、北見で銃撃事件があった日の前後に、その店主にはアリバイがあり、どちらにしてもマル被(被疑者)にすらなり得ない人物だった。


 尚、鏡が所属していた紫雲会は、葵一家の2次団体ではあるが、葵一家に上納金を貢ぐ「シノギ力」の高さの割に、それほど組織の中で発言力のある立場ではなく、事件当時の会長(組長)である「久米 崇」、現会長である「真壁 憲男」共に、葵一家そのものの中では、若頭、若頭補佐ですらない。葵一家組長「龍川 皇介」の「舎弟」筋扱いの組織だ。


 その「距離」が、むしろ事件捜査を難しくすることに有効と見て、実行犯を出す組織として葵一家中枢から選ばれたのかもしれないと、捜査の行き詰まりを受けて、出張でばってきた警「察」庁の組織犯罪対策部から北見の捜査陣へアドバイスがあった。


 しかし、アベ姓で該当人物が挙げられなかったことから、同じく捜査を撹乱させる目的で、共犯も紫雲会と「遠い」組織から選ばれた可能性も考慮し、察庁(警察庁)組織犯罪対策部も全面的に協力態勢を敷いて調べた。だが7年前と同じように、アベ姓で該当しそうな葵一家系列の全国組織構成員がなかなか炙り出せず、事件は再び難航したまま2002年を迎えていたのだ。


※※※※※※※


 その状態を打開するために、昨年末、倉野が職権で、西田を北見方面本部所属にて専従捜査に当たらせることを強行に主張したらしい。より正確に言えば、銃撃事件を利用して、佐田実殺害事件をまずなんとかしておきたいという意図もあった。時効前なら、表向き本橋や伊坂、喜多川、篠田による犯行だと解決済みの事件であっても、大島の関与を明らかにするチャンスがあるからだ。


 しかし、そのリミットとしては当然時効の壁が存在した。今年の9月26日で、事件発生からの本来の時効15年になる。だが、時効はそのままで決まるわけではない。それにプラスして、本橋の起訴から判決確定までの期間と、共犯関係にあると見ている、大島海路が海外に渡航していた期間を合わせる必要が法的にあるからだ。


 そうなると、この年の年末までに、大島を起訴しておく必要があった。逆に言えば、考えようによっては、年末までに起訴すれば良いという、更なる猶予が出来たということでもある。


 ただ、不幸なことに、大島は15年前には党・政府の要職から高齢を理由に外れていた上、海外の水が合わないということもあり、近年はほとんど外遊・渡航をしておらず、延べの時効算定除外期間は2週間もなかった。


 また、大島と本橋の間で何らかの仲介役を果たしたと思われた、葵一家のドンである瀧川皇介については、日本一の暴力団組織の幹部中の幹部であり、大物マフィアという扱いで渡航拒否を受け続けており、海外には行きたくてもいけない状況であった。これは本橋ですら、有力幹部になった後は、破門後も含め渡航拒否レベルだったわけだから、当然のことでもある。一昔前はそれ程うるさくはなかったようだったが、近年は日本自体も海外も、暴力団関係者は厳しい目で見られていた。


 いずれにせよ、こちらも本橋の公判分以外の時効期間の延長は、ほとんど無いと見られていたわけだ。そもそも瀧川等、関わった可能性のある葵一家の幹部を挙げることは、妨害などを除いた純粋な捜査上の問題の枠内に限定すれば、ある意味大島を挙げるより難しいと考えられていた。鏡の件でもそうだったように、ヤクザの指示系統を解明するのは、相当厳しいのが現実だからだ。


 西田も、瀧川始め紫雲会含めた葵一家系列の幹部ヤクザについては、佐田実殺害、共立病院銃撃事件共に検挙は計算していなかった。事実上の白旗宣言だったかもしれない。


 それらの状況を総合的に考えると、表向きの優先度合いと違い、捜査的には若干見えてきていた北見共立病院銃撃殺害事件よりも、時効が迫って解決が困難に近い佐田実殺害事件の方が上かもしれないと、倉野は西田に匂わせていた。当然、西田もその時間的な優先度合いは考慮していた。


 ただ、それを優先しても、佐田の殺害事件の全貌をはっきりさせるためには、関係者がほとんど鬼籍に入ってしまった以上、病院銃撃事件から、その目的であろう佐田実殺害の真相隠蔽を以って事実関係を明らかにするプロセス以外、西田は現状思い付いていなかった。そうなると、結局は7年前の事件を先に何とかせざるを得ないという、振り出しに戻ってしまうわけだ。


 また、既に北見方面本部が、鏡の関与発覚により、捜査本部とまではいかないが、少数の北見署員と共に専従部門を小規模ながら復活させていた。そのため、わざわざ強力な専従体制確立のための捜査員を異動により更に配置する必要があるか、「本社」上層内部でも議論があったようだ。それを踏まえて尚、倉野が退職する際の「置き土産」として、西田の転勤が認められた経緯があった。当然、西田の了解を得た上での「強行」だった。


 ただ、西田はその提案を積極的に受け入れると同時に、「相棒」の異動も要求していた。美幌署で刑事・生活課の強行犯係主任をしていた、遠軽署時代の部下の吉村の抜擢を求めたのだった。皆順調に出世する中、吉村はあくまで若干だが、出遅れ気味で燻っていたこともあったが、彼の強運、直感力、そして部下として頼りないながらも、気兼ねせずに仕事が出来る点を重視し、共に捜査に当たることを希望したのだ。


 無論、吉村が既に室蘭署勤務時代からの「彼女」と結婚し子供をもうけ、美幌町と隣り合う北見で居を構えていたことや、一連の事件に精通していたことも、「非常に都合の良い」こととして西田の要求に影響していた。


 倉野は、この西田の要求を一も二もなく受け入れた。そして01年末には、年明け3月に、北見方面本部捜査一課において、事実上、「北見共立病院銃撃事件」の専従捜査の直接責任者、役職としては課長補佐として、特別に赴くことが決まっていた。


 尚、役職は現在の課長から課長補佐に降格した形になるが、所轄より上位組織の「方面本部付」であるため、スライドもしくは若干の「栄転」というのが正しい認識である。


 ※※※※※※※


 次々に年賀状をチェックしていると、今昔の上司、部下、同僚などからの便りに混じり、沢井以外の遠軽署時代の部下からも届いていた。


 小村は今、旭川東署の捜査二課で係長をしているはずだ。元々卒が無いタイプで、それなりに上手くやっているだろう。


 澤田は、刑事畑からは撤退し、小樽署で警務課の係長をしているようだ。遠軽署時代も割と書面処理が得意だった記憶があり、本来向いている方に路線変更したのは、決して悪くないと西田は思っていた。


 黒須は、札幌中央署の捜査一課の主任をしているらしい。遠軽署の後に赴任した根室署で、赴任前に発生していた殺人事件の解決に尽力したことが評価され、所轄としては華形の札幌中央署勤務に栄転したようだ。


 また、澤田と黒須とは地理的な近接性もあって、西田は2ヶ月に1度程度は、すすきので一緒に飲んでいる。


 最も若かった大場は、今は帯広署の捜査二課にいる。隣町の芽室町に居る沢井とは、未だに付き合いも深く、次々と保険を契約させられていると、年賀状で冗談交じりに嘆いていたが、実際のところ、元の部下は良いカモだろうと西田もそれを見ながらニヤニヤした。


 さて、渦中の吉村だが、前述の通り今は美幌署に居るが、遠軽署の後は、苫小牧署の刑事課に居た。そして、遠軽署以前に勤務していた、室蘭署時代に付き合い始めた彼女と、近くで勤務出来たことで再び気持ちが強くなり結婚していた。


 西田が千歳署時代に、苫小牧が隣の市だったこともあり、結婚について何かと西田は吉村から相談を受けていたが、それ以降も深い付き合いは続いていた。


 ただ、美幌署への転勤後は、西田に「上司と折り合いが悪い」とばかり愚痴っていた。吉村からその不満を聞いていたことも、今回の北見方面本部赴任において、西田が吉村を抜擢したという理由のごく一部にはなっていたわけだ。当然だが、吉村は西田のその話に飛びついたことは言うまでもなかった。


 今回の年賀状でも、「3月からが楽しみです」という文面と共に、幼い娘と妻と共にVサインで写っている彼の写真が印刷されていた。楽しみなのは構わないが、実際、動き出したとは言え、再び暗礁に乗り上げている搜査を考えると、楽観的過ぎると西田は少し眉をひそめていた。

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