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修正版 辺境の墓標  作者: メガスターダム
明暗
76/223

明暗55 {68・69合併}(264~265・266~267 大島のDNAサンプル取得と指紋不一致・松島証言による伊坂の発言についての考察)

「うーん、そういう見方も出来なくはないか……」

西田も大場の考えに一定の理解を示した。沢井も、

「そこまでは俺も考えつかなかったな」

と感心したが、吉村は疑問を突きつけた。

「ちょっと待って! 証人となった佐田徹が、わざわざ証文作成の経緯について説明した手紙の中で、桑野欣也だけ人差し指だったと明記してるわけで。その場で、それぞれの捺印の様子を、ちゃんと見ていたと考えるべきじゃないですかね?」

西田と共に、証文や手紙の発見から考察まで、もっとも関わってきた吉村らしい考えだ。

「そういう考え方もあるのはわかる。実際のところ、別人が押したとは言っても、佐田徹が遺産の件を告げてから、証文に記載されてる連中が生田原を離れるまでの状況、時間的制約を見る限り、全くの部外者が押したと考えるのは無理があるわけだから。そうなると、別人だとしても、伊坂、北条、佐田徹の誰かだという可能性が高まるかもしれない。そこで、別の指で敢えて捺印したと……。あり得るのかな、柴田さん、松沢?」

西田は2人の方へ向き直ると確認してみた。


「指ごとに指紋の種類が違うことは割と普通ですからね。それで、他の証文の3人分の親指?の血判はいずれも渦状紋でした。ただ、それだけでは何とも……。少なくとも伊坂のすべての指の分は、8年前の捜査の関係で警察が保有しているサンプルとは、全く一致してないことは確かです」

と松沢が答えた。

「結論は出せないか、それだけでは?」

「そうなりますね、残念ながら」

松沢の回答は想定内ではあった。ただ根本的に、わざわざ「グループ」内の他者が押す意味も、佐田徹の手紙の内容からは思い浮かばないし、手紙でわざわざ指を明記した点も気になる。総合的に考えると、別人が押したという説はそれほど考えなくて良さそうではあった。


「ということは、これ以上は詰められないということで、あくまで可能性はあるが……、というレベルにしておこう。じゃあ次だ。偶然の同姓同名による別人説だな……」


 西田はそう言い始めたが、自分でも口にし始めると同時に、思わず苦笑いしてしまっていた。それもそのはず。「桑野欣也」なる同姓同名の別人が、伊坂大吉(太助)とそれぞれ別に絡み、大島海路になる「桑野欣也」が後から出てくると、「証文」の桑野が都合良く「表舞台」から消えたというのも厳しいからだ。仮に前者が何らかの形で「始末」……つまり殺されたという考えを前提にしても、桑野欣也と言う、ありふれてはいない同姓同名の人間が伊坂と偶然絡むというのは無理がある。


 勿論、同姓同名になった理由が、後に考慮する成り済まし等の「作為」であるとすれば、その時点で、「たまたま同姓同名」だったという前提条件に反するので意味が無い。

「これは……、やっぱり無いな……」

西田の一言に、異論を唱える者は誰も居なかった。


 そして、いよいよ最後の説だ。「血判の桑野欣也に、別人である大島海路の実人物が成り済ました」という可能性についてだ。

「これについてはどうだろうか?」

西田に問われた一同の中から、

「単に可能性だけ見れば、あり得なくはないよな……。丁度、時期的に戦争を挟んでる混乱期だから」

と、沢井は、発言内容と比較すると、如何にも「あり」というような口ぶりで言った。事実、証文作成の昭和16(1941)年と、桑野欣也が東京に分籍からの新戸籍設立で戸籍上流入した1948年の7年弱の間は、日本の激動と混乱の時代と重なっていた。


 例えば、松本清張の名著『砂の器』では、主人公は大阪空襲での戸籍記録消失に乗じて、架空の夫婦の息子として戸籍を作り直すというトリックを使っていた。勿論、それはフィクションの世界だが、当時を生きた著者であればこそ、そういう発想をするほどに社会が混乱していたとも言えた。


 ただ、桑野の場合には、戦災と似たような天変地異である、大津波での戸籍消失という事情こそあれ、その後に桑野自身が家族を探しに来た所を地元民に目撃されていたという話もあり、戸籍再製の時点で誰かと入れ替わったということはほぼないだろうし、架空の戸籍でもない。よって「砂の器」のそれとは明らかに事情が違う。大体、戸籍再製は証文作成よりかなり前なので、そもそも今回の問題とは関係してこないはずだ。


「前から少し気になっていたのは、佐田徹、北条正人の『桑野評』と、桑野のその後の行動に、必ずしも整合性が取れない側面があったことかな……。伊坂と共に遺産の取り分を横取りしてしまったりと……。伊坂と桑野が一緒に、長兄の佐田譲、次兄の徹、実の小樽の実家に現れたのは終戦から割とすぐだということ。そして戦死した北条正人の弟である正治が佐田家を最初に訪れたのが昭和22年、つまり1947年だったと、長兄の譲が、昭和26年に再訪してきた正治と自分の父母から聞いて証言していること。当然、それより2人の訪問が先だったことは、砂金が全部盗られていただろうことから見ても、ほぼ明らかだろうから、そこは疑う余地はそうないはず。元の評はかなりの人格者であったようだが、その後の行動と少々矛盾してる。むしろ今の大島との整合性の方が少し高いように思える」

「ああ、自分もそれは気になってました」

西田の言うことに吉村も同意した。過去の言動を考えれば、むしろ吉村の方が桑野の裏切りについて、西田以上に批判していた。


 今度はそれに比留間が突っ込んだ。

「刑事やってりゃ、その手の人格の変貌に直面するのは日常茶飯事じゃないか?」

確かに犯罪に手を染める人間が、それまでも同じようにクズだったとは言えないケースも多々あるのは事実だ。それは否定出来ない。

「まあ、それはそうですが……」

西田は言い淀んだ。しかし、その人格面の違和感は、別人説の根本的な証拠にはならないのだから、どっちにせよ必要以上にこだわっていても仕方ない。話を次に移した。


「それはそれでいいとして……。その後、東京に大島海路の方の桑野欣也が流入したわけですよ。戸籍上の1948年1月の流入は、あくまで書面上だから、実態がどうだったかはわからないとしても、実物が確認されている1950年の3月、多田桜の下宿入りから現在までは、小柴がその目で見ていた以上、そこからの大島海路と戸籍の改名済みの桑野『靖』の同一性は問題ないはず」

西田はそこまで言うと、書き込まれたボードをしばらく眺めた。そして、

「話をちょっと前に戻すと、伊坂と桑野が、終戦後一緒に小樽に現れた。容姿や特徴も、徹が書いた手紙に記載されていた表現からかけ離れてはいなかっただろうから、少なくともそこまでは、伊坂と一緒に働いていた、つまり証文の桑野と同一人物だったと考えることもありじゃないかな? 別人と現れたとは思えない」

と、推測して見せた。だが、それを聞いた上で、

「しかし、松島の証言上での伊坂の話では、砂金を一緒に横取りしたのは、今の大島海路の方であったと考えるのが妥当でしょう? そうなると、小樽の佐田家を訪問した際、証文を持って来ていた上、佐田徹が遺した手紙の記述と大きな違いはないだろう容姿の、おそらく本物の桑野欣也がそこに居たが、その後の生田原で砂金を取ったのは、桑野とは別人の大島海路だったとなっちゃいますが、そうすると突然入れ替わってますね」

というように、黒須は問題点を指摘した。


「黒須よ! 指紋が不一致する前まで、竹下が考えていたのは、大島の最初の選挙運動中に伊坂と遭遇してしまい、そこで過去の砂金の横取りについて脅されたんじゃないかという話だったか?」

「確かに主任はそう言ってました。一蓮托生になるような、『一緒にした悪事』ってのも、伊坂が松島にしていたという話の流れを考えれば、砂金を横取りしたことなのは、ほぼ自明ですからね。また、本当は田所靖じゃなくて、桑野欣也で、どうも偽装してたって秘密も、弱みとして握られていたようですから、それも十分に材料になったでしょうし、横取りより大きな材料だった可能性は十分にある……。ただ主任の考えは、まだ大島海路が本来の……、証文の桑野欣也とは別人だった可能性があることは、全く考慮してない時のモノだったわけです。そうなると、大まかな流れはそれで良くても、今言ったように、砂金を横取りする前、どこで証文の桑野と入れ替わったかという問題が出て来ますよね……」

黒須はそう言うと、さすがに考え込んでしまった。


 それをしばらく見ているだけの西田だったが、

「いや待てよ……それを一気に解決出来るかもしれないな」

と呟くと、ホワイトボードに何やら書き連ね始めた。


※※※※※※※


◯砂金の在処を、佐田の父母から、伊坂と証文の桑野が伝えられた。その際に、容貌と証文の保持で本人確認している。但し、桑野については、余り特徴がなかったようで、意外と背が高いのと、教養があるという頭の中身の話がメインになっていた。いずれにせよ、おそらくその時は、証文の桑野本人である可能性が高い。


◯1950年以降の桑野欣也は、後に田所靖となって北見・網走地区で選挙活動をし、そこで伊坂と遭遇したと見られる。その際に伊坂に何か脅迫された可能性が高い。


◯証文の桑野欣也の存在はその後消えている(その後確認されていない)。


◯大島海路の実人物を、選挙以前から伊坂は知っていた可能性が高い。


◯大島海路は、余り北海道に良い思い出がなかった可能性が高い。


※※※※※※※


 ここまで書き終えると、西田は大胆な仮説を主張し始めた。

「本当の、つまり証文の桑野欣也は、砂金を掘り出す前に誰か、それはおそらく大島か伊坂、或いは両者かもしれんが、それらにより殺害され、大島海路の実人物が桑野になりすましたんじゃないだろうか? 桑野は身内は勿論、おそらくは知り合いの多数が津波で死んでいるので、成り済ますにはうってつけだった。ひょっとすると、伊坂大吉が言っていた一緒にした悪事ってのは、砂金の横取りだけでなく、この『殺害』も含んでいたのかもしれないぞ……。本物の桑野が殺害されたのは、佐田家から砂金の在処を聞き出した後で砂金を掘り出す前。人格的に評価の高い桑野が、何故か北条と免出息子の分の砂金まで横取りしたことも、これで粗方説明が付く。そして大島海路……。正体はまだ不明だが、これがその後逃げるように北海道から離れ東京までやってきた。戻った北海道で偶然再会した伊坂は、それらの犯行をネタに大島を脅した。これなら今回の指紋の不一致含め、話が繋がるぞ!」


「うーん、なかなか面白い説ではあるな」

それを聞いていた比留間は、珍しく素直に西田を褒めた。

「そうなると、大島海路は、本物の桑野欣也の本籍が何処にあるかは知っていたんですね。本籍を田老から分籍したわけですから」

「大場! それについては、伊坂が桑野と一緒に働いてた時に、桑野本人から聞いていれば問題ないし、もしかしたら、大島の実人物と本物の桑野も、以前に面識があったかもしれない。そこはどうとでもなる。そう仮定すると、問題はだ、殺害後におそらく北海道から遠ざかろうとしたにもかかわらず、わざわざ選挙に出馬するため戻って来たことだな。ただ、これは今回の不一致の前から、竹下なんかがある程度考えていたのと同じ考えで、何とか説明が付くだろう。北海道に戻る際も(大島は)色々考えた末、何とかなると思った可能性はある。当時は今ほど、末端の国会議員がテレビに出る時代ではなかっただろうからな。出身が道南の伊坂になら、面が割れる可能性があるのは、選挙期間中の新聞の小さな写真程度だったろうし、それ程恐れる必要はなかっただろう。目の前のチャンスを考えると、そういうリスクを冒す価値はあったはずだ。しかし、実際には選挙区の北見に伊坂は居たと」

部下の質問も無難に交わし、西田も徐々に自説に自信が芽生えてきたという感じだ。


「いいですね……。ただ、自分からも1つ疑問が。大島自身も一応鳴鳳大学に入学・卒業出来るだけのレベルの知性、学力はあったはずですが、そうなると、大島はどういう形で伊坂と知り合いだったかということですね。同じような境遇での知り合いだったとすれば、本物の桑野といい、ずいぶんインテリが『流れ』の作業員みたいな立場にあったことになりますが?」

黒須は賛同しつつも異を唱えた。

「そこは正直わからん……。確かに人格面はともかく、知性という意味では、大島海路は『桑野像』をきちんと承継している側面もある。その点はイマイチ詰めが甘いかもしれんなあ。但し、世界恐慌あたりから、かなりのインテリ階級でも職にあぶれていたことがあったのも事実だ。絶対無いとも言えないだろう」

そう答えた西田だったが、他の問題と比較すればそれほど深刻な問題ではないだけに、余り気にしてはいなかった。


「じゃあ俺からもいいかな?」

「なんですか課長?」

確かに、今現在よりは杜撰だったかもしれないが、戸籍をいじる以上、本人確認というのは当時からやっていたはずだ。大島が桑野に成り済ますために、殺害後戸籍を分籍した際、一体どうやって確認したんだろうな? 詳しいことはわからんが、よくわからない人間から依頼されただけで、勝手に分籍して東京に戸籍移すという程、当時の行政もいい加減ではなかったと思うんだよな。そこが問題じゃないか?」

「うーん、それはちょっとわからんですが、戦後の混乱期で、死者も多かった時代ですから、一々細かくチェックしなかったとすれば、それほど深く考えなくてもいいように思いますよ」

西田はこの点についても、ある種の楽観的な態度で応じた。


「そこら辺は、昔はいい加減だったことは十分考えられますから。自分もその点は気にしなくていいように思います。ただ、伊坂が佐田実との87年9月の会食後、同席していた松島に対して、『証文に、田所靖になる前の、俺と一緒に遺産を横取りした時の、奴の古い名前が書かれている』と言った部分は、田所、つまり大島海路と証文の桑野がおそらく別人と判明した今となっては、それとは別にちょっと引っかかりますけどね」

黒須は、この点も西田の意見に同意しながらも、最後に新たな問題を提起した。

「何が問題なんだ?」

沢井が西田の代わりに尋ねると、

「よく考えてみてください。砂金を横取りした当時は、まだ大島は桑野欣也に『成り済ましていた』とは言えないんじゃないかと? 桑野の戸籍上は、時系列で見れば、昭和22(1947)年10月まで、明らかに何の動きも、当時はまだなかったはずですから。砂金掘り出したのは、ほぼ確実にそれより前のはずです。北条正治が小樽の佐田家を最初に訪ねたのが昭和22年だったそうですからね。そして、それ以前に伊坂と大島は佐田家を訪問していた。一体何を以って成り済ましていたと言えるのか? それに、誰かに『俺は桑野だ』と宣言して砂金を掘り出したわけでもないだろうし、砂金を横取りした時には、桑野に成り済ます必要もなかったはずですよね? しかし伊坂大吉は、『俺と一緒に砂金を横取りした時の奴の古い名前』と会食後に発言したと、松島は北村さんに証言してます。どうしてもそこに拭い切れない違和感あるんです。『遺産を横取りした時の』古い名前は、今の大島の実人物がやったとすれば、その時点で『桑野欣也』名義ではあり得なかったはずですよね? この点については、係長の考えでも、結局説明が付きませんよ」

と答えた。


「言われてみれば確かにそうだが……。そもそも松島が、当時の伊坂の発言をそのまま一言一句間違えずに、北村に証言していたかはわからないからさ。そこまで細部の表現にこだわる意味あるかな?」

西田は手にしたマーカーをクルクルと回しながら、黒須に語りかけた。

「確かに松島の証言は、その時点であくまで8年前の記憶ですから、それはそうなんですが……。でも『古い名前』と言うところを、普通ならば出てくるはずの『本名』と言う表現にしなかったのは、桑野欣也と大島こと田所靖が、結局は別人の可能性が出て来た今現在から見ると、妙に意味があるような気がするんですよねえ……。もし、『大島こと田所の本名が桑野だ』というような言い回しで、伊坂が当時発言していたと松島が証言していたなら、松島のこの部分の証言は、大島と桑野が別人かもしれないということになった今、ある意味的外れなモノになるんですが、そうではなかった点において、筋は未だ通ってるんです。そう考えると、この妙な表現は、実際のところ伊坂が当時そのまま口にしていて、更に表現自体にも、しっかりとした意味があると考えることも、あり得ない話じゃないような……」

西田の意見にも、相変わらず黒須は釈然としていないようだった。同時に、松島が後で勝手に伊坂の発言を意訳したにしても、妙に言い回しを小難しくしているような気は、確かに西田からみても感じていた。


 ただ、黒須が何となく気にした、松島が証言した伊坂の言い回しに、実は明確に大きな意味があることに、後で西田は気付くことになる。しかし、この時の西田達にそれに着目しろというのは、現実のところかなり無理があった。気にしていた黒須ですら、何となく程度の無意識に近い着目だったのだから、かなり酷な要求だったと言えよう。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「ただな、西田! 結局それが納得させられる仮説だとしても、それだけじゃ上は動かせないな。状況は、指紋が合わなかった前の状況と、せいぜい良くて同じになるだけだ」

比留間は、黒須の疑問をすっ飛ばして、西田に冷水を浴びせるような現実論を語り始めた。

「それはわかってます」

短く言い切ったが、不一致による最悪の事態からは脱することが出来たというだけのことに、これだけパワーを掛けざるを得なかったわけで、やりきれなさも感じてはいた。


「一応ですが、今重要なのは、『訳がわからない』と言う状況からは脱せたってことでいいんじゃないですかね?」

黒須は場をとりなすようにまとめに入った。

「それでいいと思う。今日、この混乱した状況ではそれで足りる」

沢井はその発言を補強し、

「とにかく管理官! 結果だけでなく、今の討議についても、上にきちんと伝えておいてくださいよ、お願いします」

と比留間に頼み込んだ。

「まあ、その点はちゃんとやるから心配しないでくれ」

比留間も浴衣の襟を正すと、真剣な表情で返した。


「じゃあ、頃合いもいいところですから、飲んで鬱憤晴らしでもしましょうや!」

吉村としては、結局そこに辿り着きたいようだったが、比留間も沢井も笑いながらそれを受け入れた。捜査に掛かったストレスと結果の不満足さを、旅館に居る今ぐらいは、暫定的にでも解消しておきたいという心理が強く働いていたのだろう。どんちゃん騒ぎという気分ではなかったが、つかの間の休息にはなったはずだ。竹下に今の討議について伝えることも忘れ、刑事達は、ひたすら冷蔵庫のビールとカップ酒を消費する「作業」にいそしんだ。このこともあって、竹下に会議内容が報告されることは、当日中はなかった。


※※※※※※※


 翌12月10日、竹下は朝食を摂りに部屋から出て来ていた『御一行』を、昨日の宴会場で再び警備、いや監視していた。指紋の採取は、既に昨日の時点で結果がわかっていたので、もはや単なる時間をやり過ごすだけだった。宴会と違い、仲居の出入りもほとんどなく、大島筆頭にひたすら食べているだけだったが、昨夜はあの後も部屋で飲んだようで、二日酔いなのか皆余り箸が進んではいなかった。


 割と時間を掛けて食べ終えた後、大島達はお茶とタバコで一服し、部屋へと戻って行った。仲居がそれを片付けようとしてた最中、竹下は自分でも驚くほど無意識に、急に思い付いたような行動を起こした。大島の膳を片付けようとしていた仲居に、

「ちょっといいですか?」

と声を掛け、膳に載っていた陶器の湯呑みを手に取った。仲居は何かそれに理由があるのかという顔をしたが、竹下が警察だとわかっていたので、一々聞くことも憚られたか、

「もう行っていいですよ」

と促されると、そのまま他の膳に重ねて、片付けの作業を再開した。竹下はそれを昨日同様胸元に隠すと、こちらも食事中の西田に連絡し、手洗いで待たせていた大場にメモ書きと共に渡した。


「これ、柴田さんと松沢主任にって竹下主任が。」

部屋に戻った大場が、湯呑みを食事中の2人に手渡すと、

「結果はもう出てるのに、何やってんだあいつは」

と、柴田は訝しげな態度になった。しかし、添えられたメモ書きを見ると、違う意味でわけが分からなくなった。


【湯呑みの大島が口をつけた部分から、唾液等でDNAが検出出来ると思いますが、後から「試料」を渡すので、それと比較してください。詳しい話は後で。柴田さんは北見へ戻られるでしょうから、別途連絡させていただきます】


「DNA検査? 大げさな話になってきた。また何だろうな……」

柴田は爪楊枝で歯の隙間を掃除しながら、松沢に既に眺めたメモ書きを手渡した。西田もそれを覗き込みながら、竹下の意図を把握しかねていたが、何の意味もなくこういうことをやる人間ではないことも、身近にいて身に染みていたので、後から話を聞くまでは判断しないでおこうと思っていた。


※※※※※※※


 大島「御一行」は、午前10時過ぎにホテル松竹梅を出発。大島はこのまま女満別から東京へ戻り、支援者は中川秘書と共にバスで北見まで行き、そこで豪華な昼食を済ませてから散会という話のようだった。警備の連中は、大島を女満別まで送ってこちらも業務終了と言う話だが、業務終了を以ってそのまま解散というわけには当然行かず、北見方面本部まで戻って、業務終了の引き継ぎ・報告という流れだ。おそらく午後2時過ぎまでは、竹下は拘束されるはずだ。


 西田達もその直後にチェックアウトを済ませ、比留間と湯呑みを持った柴田は、北見へと帰路に付いた。そのまま倉野達へと報告もする予定だ。西田達も遠軽署へと戻り、竹下の帰還を待つことにした。署に戻ってからも、本来なら何か捜査に関係する話でもしておくべきだったかもしれないが、吉村と西田は昨夜痛飲したこともあり、さすがにアルコールは抜けていたが(吉村は本来運転するはずだったが、念のため運転を代わってもらっていた)ソファで寝そべっていた。沢井は部下の心情を思いやったか特に注意することもなく、ただ時間だけが過ぎていった。


 竹下が戻ったのは、既に外が暗闇になり始めた午後4時前だった。早速、湯呑みの話になった。

「指紋の件は、最悪の形だったにせよ片付いたんだから、湯呑みの目的は何だ? DNAがどうたらとか」

「課長、大したことじゃないんで……。大げさになってすみません。例の端布はぎれの血痕と比較したいだけです」

「端布? ああ、東京で話聞いた爺さんから送られてきたって奴か?」

沢井は思い出したように頷いたが、それでも竹下の真意は計りかねていた。

「そうです。小柴さんが言うには、大島が道を誤った場合の『戒め』だとか何とかって話なんで、ちょっと調べてみたくなって……」

「それを調べたところで、何か意味があるのか?」

沢井の疑問はもっともだった。


「一致して大島本人の血痕であれば、何か怪我したとか、殺されかけたとか、そういうことに繋がるかと思っただけです」

バツの悪そうに答えた竹下に、

「そうだとすると、大島とこれまでの事件の関係に何か生じるのか?」

と沢井が問い質す。

「考え過ぎかもしれませんが、義母の多田桜が、知人とは言え第三者の小柴さんに敢えて託してまで遺したあの布には、何か大きな意味があるように思えて……。それと、証文の桑野と大島海路が、これまでの事件の状況証拠や松島証言における伊坂の話にもかかわらず、別人だという奇妙な結末に何か関係してくるような気が……」


 竹下にしては、はっきりと理屈を明示出来ない、しどろもどろな状況だったが、いわゆる「刑事の勘」の類なのかもしれない。余り直感で動くタイプではないが、勘が鈍いタイプでもないだけに、西田も言下に否定出来なかった。

「あ、ちょっと待て、あれ竹下に言わないと!」

沢井が突然叫ぶように大声を上げたので、眠そうな顔をしていた吉村が、ハッとしたが、その意味を西田も理解した。

「課長うっかりしてました……。竹下! 昨晩結果が出た後、俺達なりに色々今回の不一致の理由について考えたから、お前の意見も聞かせて欲しい!」

西田はそう言うと、昨晩の竹下抜きの検討会について説明し始めた。


※※※※※※※


「結局のところ、やっぱり大島によるなりすまし説が有力になっちゃうんですよねえ……」

話を聞き終えた竹下はそう感想を言うと、西田達が署に戻ってから、西田の指示で、大場が事前に昨日の話をまとめて書き込んでおいたホワイトボードの前へと進んだ。


「そうなると、係長の言う通り、伊坂が大島に対して握っていた弱みは、一緒に砂金を横取りしただけでなく、大島が桑野を殺害してなりすましていたことも、やっぱりあるんですかねえ……。勿論、当時伊坂が大島と共謀したりして、桑野の戸籍などについて知っていた上での犯行という話になりますけど」

「竹下も似たような考えとなると、やっぱりこの線で行けるのかな」

西田は、自分の考えに改めて自信が持てる流れになったことを喜んだが、

「係長、さすがにそれは買いかぶりが過ぎますよ。正直、色々わからないことが多すぎて、何も確信は持てないです。それに、何故桑野になりすました後に、更に桑野の色を消そうとしたのか……。その流れになっていく理屈が、釈然としないままなのが問題と言えば問題ですね」

そこまで言うと、今度は昨晩の黒須が呈示した疑問に言及し始めた。


「後は黒須の疑問ですか……。『俺と一緒に砂金を横取りした時の奴の古い名前』っていう伊坂の発言とされるモノですね。勿論、それは伊坂本人ではなく、あくまで松島の口を通したものですが……。今、指紋が一致しなかったことを前提に考え直してみても、これは松島の証言内容が、伊坂が当時本来していた発言とは違うのか、それとも正確な記憶で、更にその回りくどい表現自体にも、ちゃんとした意味があるのか……。黒須の指摘は、筋が通っているという意味で、確かに頷けるところはありますが、自分には、何とも言えませんね、正直」

竹下は謙遜ではなく、単なる客観的な事実を述べただけだろう。何かはっきりとこれについて言及出来るような事実関係は、未だわかっていなかったのも確かだ。黒須も、竹下に何か意見することはなかった。


「ところで、DNA検査の話に戻るが、仮に別人説の通りだったとすると、あの布の切れ端も何か関わってくるんだろうか? それとも何の関係もないんだろうか? あれだけの血で染まった布に、義母の『戒め』発言」

西田は話を不意に血染めの端布に戻した。

「ひょっとすると、殺しも臭う別人説とも関わってくるのかもしれないですね、桑野と大島海路の……。まあ、ちょっとそれは都合が良すぎますか」

竹下はそう言って少し微笑むと、捜査資料のダンボールから端布を持ち出し、小さくハサミで血痕がしっかり付着している部位の端をカットし、西田に北見の柴田へ渡すように頼んだ。


「少なくとも、昭和35年以前のモノであることは確実なんだよな? 多田桜が死ぬ前だから。経過時間考えると、今の技術力では鑑定は厳しいかもしれんな、門外漢だから断定は不可だが」

受け取った際に発した西田の言葉に、竹下の表情は一瞬曇った。わかってはいるのだろうが、他人に指摘されると余計に気になることもある。


※※※※※※※


 12月11日、西田は大友から呼び出された。何かと思って呼び出された刑事部長室へ赴くと、倉野と比留間も待っていた。


「9日の指紋の照合の後、色々検討したという話は、比留間から聞いたんだが、こっちもその点について、考えていてね。そういうわけで、西田にも聴いておきたいことが幾つかあるから、来てもらった」

「どうですか、あの考えは?」

西田としては、何とか大島を直接射程に捉える捜査のラインをまだ残してもらいたい一心だった。

「まあ悪くはないとは思う。ただ、西田達が賭けていた、指紋の一致があってもギリギリなのに、それがないとなると、やはり直接大島を対象にしていく捜査から、大島逮捕を狙うのは厳しいわけだ」

「はあ……」

大友の話に、西田は返事とも溜息とも付かない言葉を発した。


「それはさておきだ。その桑野に大島海路が成り済ましたという説、いや、もっと言うなら、殺して成り済ましたって話だったな?」

「ええ」

横の比留間の方を見やると、比留間はそれを受けて頷いた。

「その話に、幾つか疑問があるんだが、それについて発案者でもある西田に、どういう考えがあるか質問させてくれ」

「わかりました」

西田は思わぬ展開に、緊張感がみなぎってきたが、表に出すまいと敢えて表情を緩めた。


「まず最初だが、桑野を殺すまではともかく、どうして桑野自身に成り済ましたかの動機が見えない。仮に生きているように見せかけたかったとしてもだ、戦後の混乱期のことだ。そこまでしなくても、言葉は悪いが、流れ者みたいな人間1人や2人居なくなったところで、殺人がバレるとは思わないんじゃないだろうか? それに、成り済ませば、本物じゃないと万が一バレれば、余計詮索されかねないんだぞ? 結局のところ、大島自身がどうして桑野へと変貌しておく必要があったのかどうか? ちゃんとした動機が必要な気がするぞ」


 西田はしまったと思った。相手は時間を掛けて検討しただけあって、あの場の勢いでやってしまった考えは、やはり単純な欠点があったようだ。大友の指摘は痛いところを突いてきていた。

「それは……」

大友の視線が、立ちすくむ西田に突き刺さってきた。しばらく答えられないでいると、倉野が助け舟を出すと共に追い打ちを掛けた。

「部長とも協議したんだが、俺は、それについて深く考える必要はまだないとは思ってる。しかし、それでやり過ごしたしたとしても、次の問題が出てくる」

「と言いますと?」

「大島海路が桑野に成り済ました後、その大島海路の実人物は、どういう扱いになったんだろうか?」

再び大友が倉野に代わって疑問を呈した。この時、西田は多少頭が回るようになっていたので、即座に、

「桑野と比較して、世の中から消えて良い存在だった、そういうのはどうですか?」

と返した。

「ふむ……。つまり世の中から消え失せても誰も心配しないし、問題にならない?」

「はい」

「その点については、さっきも言ったが、桑野自身も、余り社会的に存在感のある立場じゃなさそうだったから、それより更に存在感のない人物が大島の実人物だったとなれば、筋は通るかもしれない」

大友は西田の苦し紛れの回答ではあったが、根拠を聞いた上で一定の評価を示した。


「わかった。2点目については、そういう抽象的な考えでも、まあ悪くはなさそうだな。となると、やはり1点目だな……。わかった。取り敢えず今日はそれでいい。もしこれから何か思いつくことがあったら知らせてくれ」

大友はそう言って、ひとまず矛を収めた。

「わかりました」

「それから……。例の北村のテープの件だが、指紋が一致しなかった以上、証言内容にも部分的とは言え疑問が出てしまった。最終的にどうするかはわからないが、捜査員にもきちんと開示出来そうなのは、共犯の2人の会話部分だけになると思う」

倉野が、大友の発言の後を受けてもう1つの検討結果を告げた。


「やっぱりそうなりますか……」

西田としては上の決定に落胆すると同時に、仕方ないと納得せざるを得ない感情が入り交じっていた。大島の佐田実殺害関与を疑わせる証拠としては、大島の圧力を気にする以前に、指紋の不一致と松島の証言による伊坂の話に齟齬が生じたせいで、テープの中身そのものの信憑性に疑義が生じてしまっていたからだ。

「じゃあそういうことでよろしく。もう戻ってもらって構わん。仕事中スマンな」

大友はそう冷たく言うと、椅子を回転させ、窓の方へ向き直した。ある種の拒絶の意図が含まれた態度のような気がして、西田としても、相手を説き伏せることが出来ないまま、忸怩たる思いを抱いて部長室を出た。


※※※※※※※


 戻った捜査本部の室内で、吉村から

「どうでした? 何か問題でも?」

と聞かれ、事情を説明すると、

「そうかあ……。そこは考えが抜けてましたね。イケると思ったんですが、上はあんまり納得してくれなかったってことですか。何か対策を考えないと」

と言ったまま、考えこんでしまった。


 結局その後も、西田、吉村のみならず、竹下筆頭に遠軽署のメンバーも向坂も、何故大島が桑野に成り済ます必要があったのか、具体的且つ説得力のある考えをひねり出すことは出来ないまま、時間が経過するだけだった。

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