明暗54 {66・67合併}(261~262・262~263 指紋の不一致と事件の再考察1)
作業中、鑑識の2人以外は、これまでの捜査の最終的な結論がそれに懸かっている以上、固唾を呑んでその仕事を見守っていた。だが、柴田が作業の手を止めるまでには、それほど時間は掛からなかった。
「どうだ?」
比留間が堪らず答えを求めた。
「やっぱりダメだ!」
いきなりの柴田の一言に、一同は、
「ええ!?」と「やっぱりか……」
の二通りの反応を示したが、西田は後者だった。
「間違いないな?」
沢井の念押しに、
「間違いない! 指紋の種類が血判のモノと違うわ。血判の蹄状紋自体がない。それまでに触れた竹下や、触れただろう仲居なんかのものも全部ひっくるめてもね」
と柴田が残念そうに返した。
「そうか……。ところで、これ、大島の両手の10指全部ついてるって、竹下は言ってたんだろ?」
と松沢は大場に確認した。
「はい。状況をしっかりチェックしていたと主任は明言してました」
「了解。じゃあ間違いないな……」
溜息をついた松沢に、
「血判にあった桑野の指紋は左蹄状紋だったっけ?」
と西田は確認した。
「そうですね」
と言うと、証文から取ったサンプルを取り出して見せた。それに呼応するように、柴田は徳利に付着し、アルミパウダーをかけられて浮かび上がった指紋を皆に説明しながらしっかりと見せた上で、比較して納得せざるを得なくなった刑事達を横目に指紋の写真撮影を開始した。
「この突起弓状紋ってのは、高垣が送ってきたサンプルから採取されたのと同じか?」
西田に問われた松沢は、
「はい」
と簡潔に言ったが、
「ということは、この大島の指紋とそれは一致する可能性が高いんだろうか?」
と再度聞かれると、
「それは今からやりますが、現時点で予断はしないでおきます」
と冷静に言われた。西田もそれ以上何か言うべき言葉を見つけられないほどの正論だった。
しかし、あっさりとこれまでの筋書きが否定された割に、皆の落胆ぶりは思った程でもなかった。というより、既に高垣提供分の結果が出ていたので、覚悟が出来ていたというか、ある種の緩和作用が生じていたという方が正確だっただろうか。どちらにせよ、有無を言わせない結論が出たことは確かだった。西田は座布団にあぐらをかいたまま、茶をすすることぐらいしか思い浮かばなかった。
柴田と松沢が精査している間、合間を見計らって、竹下が結果を聞こうと電話してきたので、西田は結果報告を入れた。
「ダメだった……」
その一言に、
「やっぱりそうですか……。一縷の望みに賭けたんですが」
とだけ言葉を発した。竹下も覚悟はしていたらしい。
「気を悪くしないで欲しいんだが、念のため。本当に大島のだよな?」
と確認した西田に、
「間違いないですね。終始『対象』と周囲の動きを把握した上で取ってきましたから。宴会場は警備中も丸見えだったんで」
とキッパリと断言した。
「まあ……だよな。お前がそういうところを抜かるタイプじゃないしな」
溜息を吐くのが精一杯の西田だった。
「ところで、そうなると、高垣さんの送ってきた奴と、一致したんですか?」
さすがに竹下だけあって、今度はその点が気になったようだ。
「今、それと一致してるか調べてるよ」
そう言おうとした時、柴田が少し離れた西田にも聞こえるように、
「精査する必要はあるが、ほぼ一致した。残念ながら間違いないだろうな」
と声を上げた。
「聞こえたか? そういうことだ」
西田は憮然としつつそう告げると、
「そういうことみたいですね。じゃ、明日の朝食絡みの採取は必要なさそうですね?」
と確認してきたので、
「ああ、そうなるな。お努めご苦労だった。この1週間全てが徒労だったが、今のところは向こうさんにはバレてないようだから、その点だけは上手く行ったってことで……。じゃあまた明日」
と言ってあっさりと切った。
会話を終えたのを確認してから、黒須が、
「指紋整形は3年前の手形との絡みでまずないって話だったけれど、夕食は湯上がり直後だからまず小細工もありえないし、やっぱり完全に無関係ですよねえ」
と嘆いた。沢井は、
「それはもう考えても仕方ないレベルだろ?」
と、言うだけ無駄だというような口ぶりで切って捨てた。
「そうなるともう、やけ酒でも食らうしかないのかなあ!」
吉村が投げやりな言葉を口にした時に、沢井が、
「いやちょっと待て!」
と急に大声を上げて注意した。そして、
「今回の捜査で、大島の指紋と桑野欣也の血判が一致しなかったことは、残念ながら確定したわけだが、やけ酒あおるのは、どうせなら事件全体をきちんと振り返って検証してからでもいいだろ? 痛いところではあるが、敢えて言い方を変えれば、俺達の考えが否定されたのは、今の大島が証文の桑野とは別人だってことだけだ」
と、ここは上司らしく引き締める発言をした。比留間もそれを聞いて時計を確認した。まだ午後9時前だった。すると、
「沢井課長の言う通りだな……。どうしてこうなったか、この場で考えておいた方が今後のためにもいい。遊びで来てるわけじゃないんだから!」
と、その提案を後押しした。
「西田、おまえが一番詳しいんだから、ちょっと時系列絡めて、復習のために大きな流れを説明してくれ!」
沢井の指示に西田は、
「わかりました。1時間ぐらいで復習しておきますか」
と言って、早速始めようとした。が、すぐに沢井が、
「ちょっと待て! 吉村! 電話でホワイトボードあるかフロントに聞いて、あったら借りてこい。研修とかでもここは使われるだろうから、あると思うんだよな……。あった方がわかりやすいだろ?」
と命令した。吉村が電話で確認すると、予想通り存在するようで、「持ってきて良いか」とホテル側に確認すると、たまたまそこに松重オーナーがいたらしく、会議室をただで貸してくれるという。そこで、メンバーは会議室の方で復習を行うことにした。
※※※※※※※
西田は、大島と桑野の指紋が一致しないと判明する前までの、捜査によって判明してきた事実・推測の流れを、2人が運んできたホワイトボードに書き込み始めた。
◯87年9月末、伊坂大吉と、「資金の融通」要求における折衝のための会食をしに、北見へやって来た佐田実が、おそらくは大島の箱崎派・政界ルートによる依頼を受けた本橋と、伊坂により「買収」された、伊坂組従業員の喜多川、篠田により、生田原の山中で殺害され埋められた。
佐田は、経営していた会社の経営に失敗し、多額の資金が必要になっていた。丁度その頃、実母の死をきっかけに、佐田家が戦死した兄「徹」から受け継いでいた、ある手紙や証文に加え、当時の話を知ることとなり、それをネタに伊坂を脅迫していたと思われる。その話とは、戦前の、伊坂達が砂金を雇用主から相続する話だった。
佐田殺害の直後、喜多川と篠田は、伊坂が過去殺人を犯していたことをネタに脅迫?し、伊坂組での出世街道を掛け登り始めた。
◯この会食で伊坂と共に佐田と会っていた道議・松島が、幾つかの当時の証言を北村にした直後、2名の何者かによって射殺された。当時の証言内容の要旨は以下の通り。
1)伊坂が松島に、佐田が会食の場から立ち去った後、殺害の予告めいた発言をしていた
2)佐田は伊坂に、免出重吉の遺児(雇用主・仙崎の遺産相続メンバーの1人である北条正人の実弟・正治への手紙により、男児と判明済み)が見つかったので、そちらの対応も要求していた。それはおそらく、伊坂が自身へ危害を加えることを、伊坂に止めさせるためでもあったとみられる。
しかし、伊坂はそれをブラフと取った可能性が高い。荒唐無稽な話だけに、実際に遺児を佐田が見つけていたかは不明だが、佐田が依頼していた探偵事務所などの話などから、ただの作り話と断定することもまた出来ない。
3)昔、伊坂は大島と共に「悪事に手を染めた」ことがある。それにより、伊坂に大島は協力せざるを得ないと伊坂は言っていた。その悪事の内容は、伊坂と桑野以外が相続すべき砂金まで横取ったことと思われる。
4)大島海路の本名は現在「田所 靖」だが、本当の元の名前は「桑野 欣也」だった。
◯この(4)については、その後の戸籍の遍歴調査でも裏付けられた。そして、東京での聴き込みにより、戸籍の桑野欣也が大島海路へと変貌していく過程を認識した。桑野欣也→桑野靖→多田靖→田所靖
◯92年8月10日? 伊坂大吉への正体不明の人物による脅迫行為? のため、佐田実の遺体を、殺害現場まで確認しに来たと思われる篠田により、たまたま鉄道写真を撮影しに来ていて、その場で鉢合わせたとみられる米田雅俊が殺害された公算が強い。米田の遺体は、佐田の遺体が以前埋められていた場所に埋められたものと見られる。
◯そこにあったはずの佐田の遺体は、より確実に見つからない場所、もしくは見つかったとしても見過ごされる場所であると篠田が判断したと思われる、すぐ近くにあった常紋トンネルのタコ部屋労働の被害者が安置・納骨されている慰霊碑兼墓標に紛れて封印されていた。
その篠田の発想の原点は、自分(西田)の推理が正しければ、昭和52(1977)年秋のタコ部屋労働の犠牲者の慰霊式典で、篠田や喜多川達が、それ以前の遺骨採集の際にたまたま発見していた、3名の当時身元不明だった遺体も、いつの間にか共に納骨されていたという事実からヒントを得たのではないか(慰霊式典当日にはそのことに気付かず、後日、身元不明遺体を喜多川や篠田と共に発見していた種村という保線職員が、安置されていたはずの生田原の弘恩寺にお参りに行った際にその事実を伝えられて、その後両名に告げたとみられる)?
◯その遺体の埋め替え直後に、篠田がアメリカに出張していた喜多川の時計を紛失(実際には盗難されていた)していたため、95年になってから、既に死亡していた篠田に代わり、喜多川自身が米田の遺体と時計を探す羽目になった(常紋トンネル調査会による、本格的遺骨収集開始を喜多川が知り、万が一、その作業で米田の遺体が発見されて、更に自分の名前の入った時計がそれと共に発見されると、初期には確実に疑われることになる。とは言っても、殺害自体は、喜多川には明確なアリバイがあったので問題ないが、付随して佐田実の件まで探られたりする恐れがあり、色々とやっかいなので)。
その過程で、常紋トンネル付近で鉄道写真撮影に来ていた吉見忠幸が、深夜に隠れて作業していた喜多川の動きを、幽霊と勘違い?し、転倒して事故死(の公算が強い)した。しかし、その後タイミングよく、盗難されていた時計が警察の手によって手元に戻ってきたので、喜多川は安心していたはず。
◯喜多川を別件で逮捕し取り調べたが、水分補給などへの配慮ミスで意識不明(後に生命維持装置を外し死去)。その件で、おそらく大島海路が政界ルートで道報に圧力を掛け、同時に捜査にも圧力を掛けようとした。
◯本橋突然の自供。喜多川の死で、佐田実殺害事件の実行犯の中で生存しているのが本橋のみ。逆に言えば、本橋が死ねば実行犯はこの世から完全に消え、ある種の口封じの効果もあった。
喜多川逮捕で雲行きが怪しい中(この時点では、佐田実が殺害されていたことは判明していない)、本橋に接触するため東西新聞の箱崎派番記者・椎野が動き出した。最終的に手紙に潜ませた暗号文で、佐田の遺体が発見された9月末に、死刑も確定していた本橋に自供を促したと見られる。
◯同時に高垣を利用して、週間FREEでのでっち上げ記事を創り上げたと見られる。目的は、佐田実殺害事件での証言をしかねない松島を始末する際の偽の筋書きを、「一般社会」や警察側に与えておくこと。上手くハマれば、刺激されたヤクザが本物の抗争を起こす可能性もあった。そうなれば更に「工作」がわかりづらくなる。
◯松島が、大島側に裏切られたとして、北村に8年前の会食の際の事実を証言することになった(これはおそらく大島側は予測済み)が、直後、北村と共に殺害された。同時に、警察へ提出する予定だった上申書を実行犯に持ち逃げされた。ただ、北村はカラオケのために持ってきていた携帯テープレコーダーで証言を録音していた(既出事項については除く)。
その中で、実行犯2人組の中に漢字不詳ながら、アベ姓の人物が居り、松島が証言をすることになったことを、コンセント型盗聴器で把握していたらしいことも分かった。
その後、病室に忍び込んでいたと思われる理事長・浜名が自殺したことにより、少なくとも浜名が何らかの形で盗聴に関わっていた公算が高い。
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「取り敢えず、大まかな流れと事実関係はこんな感じですかね」
西田はホワイトボードに粗方書き込むと、沢井と比留間にお伺いを立てた。さすがに、これだけの文字量を一気に書き込んだので、多少疲れが来ていた。時計を見ると、考えながら、そして思い出しながら書いたこともあり30分以上掛かっていたようだ。
「まあこんなところじゃないか? よくやってくれた。ただ、指紋の照合で問題になった、証文辺りはもうちょっと詳しく復習しといたほうが、比留間管理官のためにもいいかな」
沢井がそう言うと比留間も、
「そこは是非お願いしたいね」
と頷いた。
「わかりました。血判は、証文からそこだけ別途サンプル化したものを持ってきてることもあって、今手持ちに資料がないんで、こちらも申し訳ないが大雑把で済ませます」
内心、「人使いが荒いな」と思いながらもそう前置きすると、ボードの裏面に書いて説明を始めた。
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◯1941年に、伊坂太助(後の大吉)、桑野欣也、北条正人、免出重吉、高村哲夫の5名の青年?を雇って砂金を掘っていた仙崎という老人が病死。5人に遺産としての隠し砂金を分けるはずが、その話を、仙崎から生前に委託されていた、佐田実にとっての2番目の兄である佐田徹が告げる前に、高村が別の金品を持ち逃げしようとして免出を殺害。報復として、伊坂と北条が見つけ出した高村を殺害。
これにより、遺産は伊坂、桑野、免出の遺児(北条の弟・正治への正人の手紙により男児とみられる)、北条の4名により分けられることとなった。しかし、佐田徹が伊坂について「難あり」と、両親に注意していたにもかかわらず、戦後に砂金の在り処は伊坂と桑野に教えられ(伊坂単独では教えないはずだったが、桑野も一緒に現れたとみられる)、その砂金は、2人によって全部横取りされてしまう。戦死した北条正人の弟であり、正当な相続人である「正治」は、その後不遇な人生を歩むことになった。
尚、その権利関係を記した証文は、佐田徹が事情を説明するために遺したものを佐田家が保管していたものと、弟の北条正治が、戦時召集された最初の相続人である兄・正人から渡されて、その後更に佐田家に預けたモノの2通が確実に当時現存していて、いずれにも「血判」が捺印されていた。
佐田徹が佐田家に遺した手紙では、証文の血判は、桑野のみ右手人差し指、残りの人物は全て右手親指による捺印とされている。
北条の分の証文も、佐田家に長く保管されていた。しかし、佐田実が何故か北見へ持参しながら、殺害された時点で、最終的に佐田実の持ち物から篠田と喜多川の手に渡っていたらしく、喜多川が現在まで銀行の貸し金庫に保管していた。おそらく、それは伊坂大吉への2人の脅迫の材料に使われた可能性が高い。
一方で佐田実は、伊坂大吉に対して偽物の証文を資金融通の契約書と引き換えに渡していた公算が強いため、何の目的で「本物の証文」を北見まで持参したのかは今のところ不明。
◯戸籍の流れと松島の証言から考慮して、桑野欣也は大島海路こと田所靖と同一人物のはずで、つまり、証文の桑野の血判と大島海路の指紋は一致するはずだったが、現実はしなかった。
高垣が、東京で集めてきた指紋と今回採取した大島の指紋が一致したので、確実に大島の指紋と血判の指紋は別のモノ。
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「まあ、こんなもんでしょうか……」
西田は書き終えてから全員を見渡した。最後の文だけは書き足したくない中身だったが……。
遠軽組は、基本的に十分に把握している内容なので、比留間の理解度を特に見る必要があった。比留間も捜査に関わっている以上は、ある程度はわかっているはずだったが、ここまで書けば、様子を見る限り問題ない次元のようだ。
「課長! 竹下は居ませんが、黒須が居ますから、東京での大島海路の若い頃についての聞き込み関連の話も、どうせならもう一度ちゃんとやっときましょうか? 証文上の桑野と、大島の桑野、どうして一致しなかったか、そこもキーになるんですから」
西田の提案に沢井は賛同し、黒須に簡略な説明を命じた。それを受けて、黒須が西田に代わりボードに書き込み始めようとしたが、
「東京でのって話でしたけど、一応生まれた岩手の田老の話からやらせてください。指紋が一致しなかったんで、こういう言い方も何ですが」
と前置きした。そして、
「えーっと、桑野は1915年、今から80年前に岩手県の田老という、当時は村で生まれました。その後の昭和8年、つまり1933年3月に、一族郎党が地震に伴う大津波に巻き込まれて、桑野以外の地元の親族は勿論、地域住民の多数が死亡した模様です。こういう点も桑野についての証言が出てこない、大きな要因となっているようです。逆に言えば、正体を隠したいと思われる、桑野、つまり大島にとっても都合が良い」
と一気に言い切った。
「そこなんだが、役場の戸籍ごと流されて、生き残っていた桑野が戸籍作り直したって話だったな?」
沢井が確認を入れた。
「はい、そうです! 勿論、そうじゃないかという話の次元ですけど」
「その時点で、桑野が別人に入れ替わっていたと言う可能性はどうだ?」
比留間が思いついたように突っ込んだが、
「管理官、それは指紋の不一致と結びつけるのは無意味ですよ! 時系列的に見れば、証文の血判が押されたのはそれより遥か後ですから……。津波が1933年なら、証文が書かれたのは1941年です。仮に1933年に何かあったとしても、血判と一致しなかったことには影響してないはずです」
と横から西田に反論された。
「それもそうだな……」
比留間はあっさりと自説を撤回したが、どう考えても理屈に合わないのだから仕方ない。黒須はそれに気を留めることなく、ボードにマーカーで書き込み始めた。
※※※※※※※
◯東京での桑野の痕跡が初めて出るのが、昭和22(1947)年10月に、田老から千代田区に分籍という形で新戸籍作成。おそらく東京への転入とそれほどの時差がない時期での分籍とみられる
◯昭和25(1950)年2月 桑野欣也から桑野靖に改名届け
◯同年3月 多田 桜の元に転籍。おそらく下宿移動とほぼ同時
◯同年4月 鳴鳳大学法学部入学
◯昭和26(1951)年11月 多田桜の養子となる
◯昭和29(1954)年3月 鳴鳳大学法学部卒業。卒業と同時に民友党所属の都議会議員・小柴の紹介の下で以前から手伝っていた、衆議院議員・海東匠の秘書となる。
◯昭和31(1956)年7月 網走の海東の有力後援者・田所佳子と結婚し、婿に入る形で田所佳子筆頭の新戸籍に入り、田所靖となる
◯昭和35(1960)年9月 養母・多田桜死去 尚、この前に、小柴に血染めの布切れを渡し、「大島が道を誤るようなことがあれば、これを見せろ」と言われていた。その布が何を意味するかは不明。
大島は、桜からの相続財産の土地・建物を千代田区へ寄贈し、それが前の公民館になる。
◯昭和38(1963)年11月 衆院議員選挙に海東匠の後継として出馬。初当選して国会議員となる
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黒須は書き終えてマーカーを置くと、補足説明し始めた。
「桑野は、戦争には病気を理由に召集されなかったようです。当時本人がそのように言及していたと、今回色々聞いた小柴老人の証言があります。また、病名についてはわかりませんが、陸上部に入ろうとしたことがあったようで、少なくとも、当時流行していた結核ではなかっただろうと、彼は話してました。まあ、ただ陸上と言ってもフィールドや短距離もありますから、そこを理由として確定事項とするのは、少々危険かもしれません」
「戦争には行ってないって話だが、それは本人談でしかなかったんだよな?」
「課長、あくまで伝聞です」
そう答えた直後、
「大島の後援会では、当時腸閉塞とか、腸の関係の病気を長く患っていたことで、戦争には行かなかったような話が出ていたそうだぞ。これは捜査で知ったわけじゃなく、ちょっと後援会にいる知り合いから小耳に挟んだだけだが」
と比留間が新情報を入れてきた。
「まあ、勝手に戦争に行ったことにしておくと、どこの部隊に居たとかですぐバレるから……。こういう話は嘘は付けないはずでしょう」
西田はそう言って、桑野が戦争に行かなかったことは、まず間違いないだろうと結論付けた。
「こうして確認してみても、多田桜の元に下宿してからは、小柴という老人に常に見られていたわけだから、この桑野『靖』以降の大島海路については、確実に同一人物と見ていいはずですよ。問題はやはり、証文の血判における桑野欣也と大島海路の戸籍上の正体である桑野欣也が別人だという、指紋照合の結果との矛盾です」
そう言って、吉村が勝手に問題の核心に触れる話題に言及し始めた。
「一方で、松島のテープ内の証言によると、佐田殺害前日の会食において伊坂大吉は、『大島海路は証文の桑野欣也だ(作者注・正確には、『証文の中に、田所靖になる前に、伊坂と一緒に砂金を 横取りした時の大島の名前、つまり桑野欣也名が書かれている』ですが、この時点で、その面倒な言い回しの意味については、沢井課長は理解出来ていないので)』と発言していた。この松島の証言における、伊坂の発言において、双方に聞き間違いや勘違いがないとすれば、証文の血判は桑野のモノではなかったということと辻褄が合わなくなる。何かストレートに取っては行けない発言なのか、やはり伊坂或いは松島の勘違いなのか……。しかし、少なくとも戸籍の裏付けがあった以上、単なる勘違いとするのも相当無理があるんだよなあ……」
この沢井課長の意見を聞いて、西田が新たな提案をした。
「ちょっと、そこら辺を幾つかパターンに分けて考えてみましょうか」
「どういうことだ?」
「課長! 血判と今の大島の指紋が合わないのは、伊坂や松島が何か勘違いしていたという点を除外すれば、3点ほど理由として考えられるはずです。
西田はそう言うと、再びホワイトボードの前に立ち、書き込み始めた。時計を見ると、もう午後10時になろうかという程時間が経っていた。
A) 大島海路は、証文の桑野欣也と同一人物で間違いないが、証文の血判だけ桑野(大島)のものではない
B)血判の桑野欣也と大島海路の正体である桑野欣也は、同姓同名の完全な別人
C)血判の桑野欣也に、別人である大島海路の実人物が後に成り済ました。
「こんなところかな、自分が現時点で思い浮かぶのは……。血判の指紋が、佐田徹の手紙と違って、左右、或るいは指の種類間違えていたってのも、今日の大島の両手の分を指全部確認したことで否定されるわけだから、考慮の必要はないはずです」
そう語った西田が書き起こした論点を見た大場が、
「最初の説ですが、それの1つの根拠になりそうなことがありますね」
と言い出した。
「何だそれは?」
「桑野の血判だけ、何故か拇印が右手人差し指だったでしょ? 他は免出の子供の分がないことはともかく、右手親指だったと佐田徹が書いてます。ちょっとおかしいですよね?」
「一応、以前も言ったが、拇印で押すのは、親指だけでなく人差し指でもおかしくはないぞ?」
西田はそう再確認したが、
「しかし、わざわざ1人だけそうするのもねえ……。その場でみんなと一緒にやっていれば、わざわざ変えたりしないでしょ? 何らかの理由で別の場所、日時に押したとすれば、それなりに筋は通るかもしれないですよ?」
と言い返した。




