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修正版 辺境の墓標  作者: メガスターダム
明暗
74/223

明暗53 {64・65合併}(256~257・258~259 指紋採取の作戦開始1)

「課長の立場は、それなりにわかってるつもりです」

西田は伏し目がちだった。わかったようなことを、軽々しく言っているような罪悪感を覚えていたからだ。

「いやちょっと待て! 当たり前だが、実行するなら、お前も覚悟決める必要があるんだぞ? わかってるよな?」

そんな西田を見て、沢井は西田が「他人事」のように感じているのではないかと、危惧を抱いたらしい。

「いやわかってます! と言うよりむしろ、自分は具体的な『指示責任者』としての責任を負う覚悟があります。課長より、自分は竹下と同じで、大島を何とかしょっ引こうという立場を鮮明にしてるんで」

「そこまで考えているのならいいが……。失礼な言い方して悪かったな」

沢井は西田の肩に軽く手をやった。


「いや、課長に無理な頼みしてる時点で、そんなことを言う資格は自分には……」

沢井の謝罪に、西田はむしろ恐縮して俯いたまま首を振った。

「これでお互いの覚悟は分かったわけだ。しかし、問題は誰を『実行犯』にさせるかだが……」

「まだ本人には言ってませんが、向坂さんとの話の中では、竹下かと」

「それは、上司とは言え勝手に決めることじゃないだろ! 竹下のこれまでの考えを見る限りは、おおそらく拒否はないだろうが、本人の承諾なしに事前に勝手に進めるのは、どう考えてもフェアじゃないな!」

温厚な沢井にしては、珍しく怒気を強めた。

「さすがに決定事項ではないです。さすがに……」

西田はそう言い訳するのが精一杯だったが、沢井の言うことに一方的に理があるのは、火を見るより明らかだった。勿論、勝手に決めるつもりはなかったが、そういう話を平然としてしまう時点で、向坂と共に、やや事実解明に重点を置き過ぎ、色々見えなくなっていたのかもしれない。


「竹下ならむしろ志願するとは思うが……、あくまで『任意』だ。それは絶対忘れるなよ」

沢井は通常の口調に直すと、西田にそう指示した。

「わかってます。もし誰も希望しなければ、自分がやります。どっちにしろ命じたのは自分という形にしますから、ほとんど同じです!」

「そこまで覚悟してるなら大したもんだ! 明日朝一で、みんな集めて会議にしよう。週末とは言え、色々考えると時間も足りない。それから、竹下には今日中にお前から連絡しとけ。どうせ志願するだろうが、一定の時間は与えておくべきだろう……。いやこんなこと言ってる時点で、俺も西田と同罪だよな……。上司失格か」

沢井は苦笑しながらそう言うと、西田の背中を軽く2、3度叩いて先に休憩室を出た。西田はしばらく立ち尽くしていたが、我に返ったように自動販売機横の硬いベンチにドカッと腰を下ろした。


※※※※※※※


 西田は家に戻ってから掛けると、切り出しにくくなるような気がしたので、一服終えると、何かに押されるように、竹下にその場で電話連絡を入れた。向坂の話から沢井の話まで一通り並べると、やはり竹下は志願した。しかし、竹下の気質を利用した「汚い」考えが根底にあったことに、良心の呵責があったか、西田は率直に思いを吐露した。


「お前が実行役に志願してくれたことはありがたいが、正直言って、俺も向坂さんも、急先鋒のお前なら志願してくれるだろうと言う確信がどっかにあった。さっき課長に、『お前は汚い』とやんわり注意されたが、実際そうだと思う。言いたくはなかったが、そこを正直に言っておかないと、どうも寝覚めが悪くなりそうでな……」

「そんなことですか。くだらないですね」

竹下は一笑に付した。

「そうは言ってもだな……」

「だって、係長が指示した形なんでしょ? だったら係長も結局大きな責任を、何かあったら多少は取らされるわけで……。それに責任問題になるかどうかなんて、まだ決まったわけじゃない。こっちが上手くやりゃ、大島側には到底バレませんよ」

わざとなのか、素なのかは判断つかなかったが、竹下は明るい声だった。もし素だとすれば、「明確に決着を付ける」機会が訪れようとしていることを喜んでいるのかもしれない。それとも西田に気を遣った演技なのか……。


「勿論、北見(方面本部)がどういう決定をするかはわからない。ただ、向坂さんは自信ありげだったよ」

「本当に、自分も意外といけるアイデアだと思います。この期に及んでウジウジしていても仕方ない。ついでに今から向坂さんに連絡しといてください。早い方がいいでしょ? 何なら自分からでもいいですが」

「いや、俺からしておくよ。こっちは準備万端だとな」

言い終えた時、自分自身も「高まって来た」ことを強く自覚し始めていた。


※※※※※※※


 翌12月5日、昨夜のうちに打ち合わせを済ませた向坂と西田は、倉野に直談判していた。まさか指示も受けずに、勝手な捜査をした刑事から、更に要求を叩きつけられるとは、露ほども思っていなかっただろう。


 しかし、向坂の読みはズバリ当たっていた。大友と倉野は勝手な捜査を形式的に最初は咎めたが、それ以上に指紋の不一致を喜んだ……。いや表向きは参ったという顔をしていたが、絶対に内心はそうじゃないと西田と向坂は看破していた。もしそれが言い過ぎだったとしても、それに近い感情が、捜査が再び混迷していくという苦悶と同時に存在したと言えただろう。


 捜査に圧力をかけてきたこれまでの大島の行動、本橋との裏の関係、松島の証言テープ。そしてそれらを裏付ける戸籍の履歴と竹下と黒須が岩手・東京で掴んできた証言。これだけの状況証拠を、単なる指紋の不一致が大きくかき乱した。その事実に混乱しつつも、その混乱に終止符を打つべく、直接目の前で採取するという案は、倉野の警備課長からの「貸しの返済」という手段込みで、案外すんなりと採用されることになった。仮にそれを具体的に向坂に言われなくても、貸しを利用することぐらいは、自分でも思いついたろう。


 同時に、やはり万が一何かあった場合の責任をどうするかということを、大友も倉野も忘れてはいなかった。言外に発案側に責任取らせる流れを作り出す辺り、人格的な問題はそれ程無いタイプにせよ、さすが大友は警察庁キャリア組、倉野は道警のエリートだけはある。表現悪く言い換えれば、責任逃れについては如才ないとも言えるが、これはこちらが引き受ける前提で考えていたのだから、どうこう言っても仕方ない。警備組との交渉をする必要があるので、確約はしなかったが、2人はこの程度なら、まずイケると考えていたはずだ。


 そして夕方までに、週末の大島海路の「帰還」の警備・警護に竹下を加えることが、首尾良く決定された。言うまでもなく事件捜査とは直接関係ないので、それは北見方面本部の警備課による決定であった。西田はそれを受け、すぐに沢井と竹下に連絡を取った。遠軽では、予定通り、朝から課長が西田との昨日の話を捜査員全員に向けて既にしており、雌雄を決する時に向けて、遠軽署も動き出していた。


※※※※※※※


 12月6日水曜日、大友と倉野から「事前準備」を指示された西田は、大島一行が宿泊する予定のホテル「松竹梅」の松重オーナーに会いに行っていた。大島から指紋を取った直後に、すぐに解析に入るので、捜査員や鑑識員を秘密裏に同宿させておく必要があり、そのために事前に許可を取っておく必要があったからだ。松重とは、常紋トンネル調査会の今年中の調査を諦めてもらうために電話して以来のコンタクトだった。


「その節は、いろいろご迷惑掛けて」

「ああいう事件があったわけですから、仕方ないですよ。しかし、最初に来られた時からは思いもしない方に、あれよあれよと進んでしまいましたね。おまけに、北村さんまで殉職するとは……。初めて会った時には想像すらしていませんでしたよ。本当にお気の毒でした。」

松重は報道で知ったのだろうが、凶弾に倒れた北村についてお悔やみを述べた。それは社交辞令ではなく、心からの言葉だったはずだ。そして松重の言う通り、あの時はまだ8年前の佐田実の殺害事件まで行くとは、少なくとも西田は、……否、つまりほぼ全員ということだが、まだ思ってもいなかった。松重は勿論、北見共立病院の事件が、それと関係がありそうだということまでは知らないはずだが、西田としてはそれも含めて、思いもしなかった方向へと一気に進んでいったことを思い返していた。


「それでですね。大島議員が宿泊するので、警備の方の人員もこちらに泊めて頂くことになっているはずですね?」

「ええ、既に半月ほど前に北見方面本部、北見署の方からも、大島様の方からも承っておりますよ」

「それについてですが、実はちょっと不穏な動きがありまして、増員を計画しております。遠軽署がそれの応援を頼まれまして……」

「えーっと、それは北見の方からは事前に連絡頂いてませんが……」


 松重が「不穏な動き」について聞いていないのは、この作戦は、警備課には一切伝えていないモノだったからだ。大友と倉野が警備課に竹下の参加を認めさせた理由は、表向きは「所轄に優秀な署員がいるが、警備課への配属希望のため、適性を見たい」と言う「方便」を前提にしているためだ。ゴリ押しであっても、本当の目的は伝えていない。そんなことが漏れると困るからであった。


「実は、完全な秘密裏の捜査でして……。遠軽署が動いているのは、内部で情報が漏れているかもしれないということで、完全な外部である、当署に依頼が来たと言う流れです」

西田はそうは言ったが、よく考えたら、それだけ情報管理したかったら、松重にすら言わないはずだ。更に言うなら、西田達自身の計画のためにも、松重には本来言わない方が良いはずだった。しかし、西田も捜査に参加するわけだから、それ以前に松重との面識があったことで、当日にばったり会いでもすると、ややこしいことになって面倒だという意識があった。それで、大友と倉野にも「事前の虚偽の通達」を認めさせていた。


 そうは言っても、「もっともらしいが穴がある理屈」に、素人は一々突っ込む術も頭もないのは仕方ない。松重はその西田のハッタリをすっかり受け入れてしまった。

「わかりました。何名の宿泊になりますか。部屋の余裕はありますから、その点の問題はありませんよ。協力させていただきます」

「助かります。確定はちょっと現時点では無理ですが、8名以内には収まるはずです」

頭の中には、刑事課メンバーの一部と、鑑識員、場合によっては北見方面本部の倉野捜査一課長か比留間管理官、鑑識主任の柴田も加わることを念頭に置いていた。

「それでは3室ほど取っておけばよろしいですか。和室になりますが」

「ええ、それでお願い致します。支払いの方は、遠軽署の刑事課で持ちますので」

「業務の一貫のようですが、お料理などはどうしましょうか?」

松重の思わぬ質問に、瞬時に回答出来なかった。確かに公的ではないが、捜査なのだから仕事ではある。しかし、せっかく温泉旅館に泊まるのだから、料理ぐらいホテルのものを食べてもバチは当たるまい。

「じゃ、通常の宿泊と同じもので」

「そうですか。北見の警備の方でもそう承っておりますので、その方がいいと思いますよ。当ホテルは料理には自信を持ってますので、お楽しみに」

松重はそう言うと笑みを浮かべた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 最終的に、事情を知っている北見方面本部の鑑識主任・柴田と、お目付け役的な立場を担う比留間管理官も加え、警備そのものに参加する竹下を除き、沢井課長、西田、吉村、黒須、大場、遠軽署鑑識の松沢主任、合計8名が、裏捜査することになった。大場を入れたのは、直近では北見に出入りしていないので、仮に警備担当と鉢合わせしても、怪しげな行動には見られないのでは? という、やや心配性な考えからだった。


 細かい点については、沢井に指揮を任せ、竹下は警備課との打ち合わせ、西田と吉村は射殺事件の捜査に、基本的には計画実行日まで従事していた。また、伊坂政光が会合に参加しない理由は、土日に会社の関係で札幌に出張するかららしいと、どこからともなく情報が入ってきていた。


 大友や倉野、比留間によるヤクザ関係の洗い出しは、「アベ」という苗字、葵一家との関係性がある全国の構成員・関係者にまで及んでいた。しかし、なかなか該当者が絞りきれていなかった。同姓で可能性がある者が何名か居たが、いずれも犯行日の前日、当日、翌日のいずれかに明確なアリバイがあり、時間的、物理的に、まず犯行は無理であると判断されていた。そのような流れもあり、「アベ」発言とは捜査を撹乱する目的のデマを流したのではないかと言う考えまで、首脳陣の間には生まれたらしい。


 しかし、北村が音声を録音していたと、実行犯の2人が知っていたかどうかは、西田からしてもありえない話だった。仮にもしそうだとすれば、中途半端に、仕掛けていた盗聴器の存在を匂わせたとは思えないからだ。そもそも知っていたとすれば、テープをそのまま現場に残したのは、警察の捜査への「罠」でしかないが、そこまで知能犯という印象も犯行の様態からは見えなかった。


 そして、おそらく浜名の自死は、彼が設置したと思われる盗聴器による盗聴を示唆しているはずだった。ただ、テープの中身を捜査員全員が全て把握しているわけではない以上、それらの推理については未だに公に出来ないでいた。全部を開示する状況になるかは西田の専権事項ではない


 一方、佐田実殺害事件からの、共立病院銃撃殺人事件へのアプローチは、伊坂や松島の周辺への聞き込みを終えてからは、ほとんど2つの捜査へと変貌していた。


 まず1つ目は、ヤクザの洗い出しへの捜査協力。これは西田や吉村のように、「アベ姓」についての情報を知っているモノは、大友達の調査済みリストの再チェック、そうではない一般捜査員は、道内や全国の葵一家系ヤクザの全体的な情報を中心にしたチェックだった。


 2つ目が、逃亡犯の行動範囲を考慮すると、周辺にアジトのようなモノがあったのではないかということを元に、逃亡に使われた盗難車があった空き地の半径2キロまでの、単身世帯用の賃貸物件を洗うことだった。事実、事件直後の検問設置はかなり迅速であったが、犯人には事実上逃亡されていた(と見てよかった)。


 当日の検問設置は、郊外から市内中心部へと狭める形でされていたので、時間的にも車で逃亡した場合、検問をくぐり抜けて市外へと出た可能性は低いと見てよかった。勿論、抜け道や山林などを通った可能性や徒歩による脱出もあり得ないわけではなかったが……。


 そうなると、どこかで警察による検問等の動きが一度収まるまで待ち、それから逃亡を実行したという「時間差攻撃」を行った可能性があった。その場合、ホテルなどでは捕まる可能性がかなり高い上、実際のところ、警察側もチェックしていたのだから、その点は無視して構わないはずだった。また、北村が松島の病室へ聴取に訪れてから殺害までの時間的近接性、そして、かなり事前から準備しておかないと、「上申書」を渡すタイミングに併せて殺害出来ない点を考慮すれば、事件発生前からある程度の期間、北見に入っていないとならないという点とも合致していた。


 当然とも言えるが、事件から5日程度経った頃、空き地から半径1キロまでの賃貸物件へのチェックは、実は捜査本部は既にしていた。それを2キロに広げて、当時該当人物がいなかったか再チェックしていたのだ。


 結局のところ、その2つへの捜査協力に忙殺されるばかりで、佐田実事件からの捜査については、実質的に動き様がない状態が続いていた。原因の大半は、大島海路へ直接結び付く証拠がないのと、埋めつつあった外堀が指紋の不一致でおかしなことになっていたからだった。温根湯温泉での「最終決戦」に、これからの捜査方針がどうなるか懸っていると言えた。


※※※※※※※


 12月9日土曜の午後、一見、刑事とは思えない私服の男達が、ホテルのラウンジに待機していた。そこにフロントから戻った西田がやって来た。

「部屋割りどうしようかな……。比留間さん、柴田さん、松沢と、その他で分けましょうか?」

西田の提案に対し沢井は、

遠軽刑事課うちはそれでいいが、比留間さんは?」

と確認した。実は直前に、3部屋取る予定を2部屋に変えていた。予算の問題もあったが、たくさん部屋を分けると、いちいち捜査員が移動するのが面倒ということもあった。


「半々じゃなくていいのか? いいならそれで構わんよ」

比留間は新聞を見ていたが、一度西田の方に顔を向けると、そう言って再び紙面に向き直った。

「じゃ、そういうことにしましょうか。一息入れたら部屋へ行きましょう。これ比留間さん」

西田から比留間管理官、沢井課長にそれぞれキーが渡された。その時、比留間が新聞を机に広げたまま置いたのだが、紙面は、前日12月8日の高速増殖炉のナトリウム漏れ事故の記事だった。西田も前日の夜のニュースで知っていた。先日の高垣の原発事故の隠蔽話もあり、「やっぱり安全ではないんだな」と漠然とした感想を持っていた。


※※※※※※※


 高速増殖炉とは、MOX燃料(プルトニウム・ウランの混合酸化物)を使用して、消費したエネルギー以上の燃料を得られるという「夢の原子力発電所」である。しかしながら、冷却に「金属ナトリウム」を使わなくてはならないなど、大変危険が伴う。ナトリウムは非常に発火性が高く、また水に対しても急激な反応を示すなど、安全管理が難しいとされるもので、「夢の原子力発電システム」でありながら、各国が導入をためらった大きな理由の1つである(他にも要因が多々あるものの割愛させたいただきます)。日本でも高速増殖炉「もんじゅ」が1995年12月8日にナトリウム漏れ事故を起こしている。現時点で廃炉の方向へと政策が変更される見通しである。


※※※※※※※


 しばらくすると、比留間が新聞を読み終わったので、タイミング良く一同は揃ってエレベーターへと向かった。


※※※※※※※


 大島は、朝一の便で女満別に着き、そこから網走の支援者詣しえんしゃもうでを済ませ、午後は北見の支援者との会合をし、そのまま温根湯温泉で親交会の予定だと言う。竹下は昨日から既に北見入りし、もう警備の仕事に入っている。全体的な状況は逐一、大友部長から、警備課長を通じて情報が入っているようだ。名目は竹下の仕事ぶりのチェック目的だが……。


 2つの部屋は、当然隣同士で和室だったが、思ったより広く小奇麗だった。隣の部屋も同じ広さだったが、鑑識作業のための大きなバッグが3つあったせいか、やや狭く感じた。やはり、数を半々にしないで良かった。これで、ホテル内に2部屋による簡易の捜査本部ちょうばが完成したわけだ。


 ただ、今は部屋で一仕事前にリラックスした感じを、どちらの部屋も醸し出していた。あと数時間で、色々と忙しくなってくる。取り敢えず今はゆっくりして、2時間後の事前の確認打ち合わせに備えた。


 午後6時過ぎ、大島海路と地元駐在の秘書である中川、支援者十数名一行、並びに北見署・北見方面本部の警備課、そして竹下がいよいよホテルに到着したと、ロビーで待機していたから大場から西田に連絡が入った。


 因みに中川秘書は、80年代から大島の地盤の網走と北見地区を仕切る役割の、番頭と呼ばれる地元の筆頭秘書であった。大島の地盤は、本来は網走が地元中の地元ではあったが、票田としては北見地区の方が大きいこともあり、ほとんど北見の事務所に勤務している秘書でもあった。大島海路の言うことは何でも聞く、言わば「イエスマン」だが、同時にその威光を元にして、地元ではかなり顔の利く立場だと言う。


 そして「御一行」が滞在中、竹下が上手く隙を突いて、大島が触れて指紋が付着した対象物を入手し、こちらに随時提供してもらう予定だ。


 竹下は、大島が一息ついて風呂に行く間に、大島が飲んでいた湯呑みを手に入れようとしたが、室内には秘書がそのまま待機していたので、第一のチャンスはまず諦めた。そのことについて、機を窺って、西田達に「失敗した」と短い電話報告が入った。


 次のチャンスは夕食だ。これを逃すと、翌朝の朝食まで機会はおそらくないだろう。西田から発破をかけられ竹下は気合が入ったが、相手や周囲の状況もあり、そう簡単に行くかどうかはわからなかった。勿論それ以前に、何か指紋が付着し、それを持ち出し確保出来るような機会があれば、躊躇せず実行するのみである。


 一方、西田達は、後の仕事に備え早目の夕食を味わっていた。否、確かに味わってはいたが、心から楽しんでいられる心中ではなかった。竹下から大まかな「実行予定」を聞いていたので、大島達が夕食を摂る前には済ませられるとは考えていたが、竹下がいつ指紋を確保するかわからないので、落ち着かない状態だったのだ。そんな中でも、吉村は余裕で舌鼓を打っていたように見えたのは、大物なのか鈍感なのか……。


「吉村、大場は今食べずに張ってるんだから、そんな呑気な面してないで、ちったあ後輩のことも考えて食べろよ」

そう軽く嫌味を言ったが、

「そんなこと言われても、俺は最近北見に出入りしてるから、連中に会うとマズイんで、目につく所には居れないって理由でこうなってるだけですから……」

と不貞腐れたような言い訳をした。ただ、その言い訳は屁理屈ではなく、真っ当なものではあったので、

「それはそうだが……」

と言いかけたところで、

「大事の前にくだらんことで言い争いするな! せっかくの美味い飯も不味くなる」

と課長に軽くたしなめられた。


※※※※※※※


 西田達が夕食を終えようとしていた頃、湯から出て来た大島達は、小宴会場での夕食を開始した。警備は宴会ということもあり、外から入り口付近を固めるだけだったが、フスマは開けっ放しなので、中の様子は常にチェック出来ていた。ただ、直接室内に入れないので、使用済みの食器やビール瓶、徳利などを自分の手で入手するのは無理がある。仲居も呼び止める暇もなくせわしない動きで、他の警備担当の目もある。案外難しいことに、今更ながら竹下は気付かされた。いざとなれば、仲居を呼び止めて、大島以外のモノもまとめて、という覚悟も決めていたが、チャンスは意外な所からやってきた。


「アチッ」「あーあ」「やっちゃったあ」「大丈夫か?」「フキンくれ!」

という複数の声が宴会場から響いた。様子を窺うと、大島海路後援会の斜里しゃり支部の会長が、酔って御膳の上の小鍋をひっくり返していた。丁度、大島から斜め対面の位置に座していたので、竹下は好機到来と駆け寄った。秘書の中川もトイレに行っていたようでその場に居らず、仲居がその時点で室内に一人しか居なかったのもラッキーだった。


「大丈夫ですか?」

竹下はそう言いながら、ふきんを持ってきた仲居からふきんを取り上げ、

「もっと持ってきてください」

と指示し、その場を離れさせた。どうせすぐ他の仲居もやってくるだろうが、一時的にせよ少ない人数でその場を仕切っておきたかった。もう一人の警備担当と共に、畳を拭きながら、チラリと大島の方を見た。大島はさすが大物政治家だけに、右往左往することもなく、どっしりとその様子を見ていたが、大島の横には、先程飲み終えたばかりの徳利が置いてあった。確実に大島がそれに両手で何度も持つように触れていたのは既に確認済みだったので、竹下は、色々片付ける振りをしながら、ドサクサに紛れ

「危ないんでこれ片付けてよろしいですか?」

と大島にお伺いを立てた。これが初めて直接交わす会話だった。

「ああ、構わんよ」

酒が入っていたせいか、テレビで聞いていた声より、否、ホテルに来るまでの会話での声よりは、高めの声でそう返された。そして、竹下が最初から想定していたように、背広の裏にセットしていた大きめの袋に、上手く目立たないように忍ばせることに成功した。本来ならば、直接手を触れるのは憚られるが、手袋をして警備するのも明らかに不自然なので仕方ない。既に鑑識の2人には、竹下の指紋は提出済みなので、それは除外してくれるはずだ。そして、そのままやってきた仲居と共に、処理を済ませると、何食わぬ顔でそのまま警備に戻った。


※※※※※※※


 それから30分程、竹下は宴会の警備に従事したが、夕食を摂るための交代が入ったので、隙を窺い西田に連絡を入れた。すぐに大場が徳利を取りに向かい、首尾よく臨時の捜査本部ちょうばに戻った。既に比留間側の部屋に全員が待機していた。


「これです!」

エレベーターを使っていたとは言え、緊張感のせいか息が切れ気味の大場から、ビニールに入った徳利を柴田が受け取り、松沢と共に鑑識作業に入った。


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