明暗52 {62・63合併}(251~252・253~255 向坂プランに沢井の決断)
西田が黙ったまま「苦悶」の表情をしていたのを見ていた吉村は、状況を理解したか、
「まさか一致しなかったんですか?」
と確認してきた。電話をしたまま、ただ頷く仕草をしたのを見届けると、
「ここまで来てそれですか……」
と言ったきり絶句した。しかし、このまま呆然としていても仕方ないので、
「とにかく松沢の説明はよくわかった。沢井課長に替わってくれ……」
と松沢に精一杯絞りだすように言った。
「西田、残念だが、今回はそういうことだ」
課長は松沢から電話を替わるなりそう告げた。西田に言っているだけでなく、自分自身にも、何とか納得させようと努めているような、重々しい口ぶりだった。
「他の皆は大丈夫ですか?」
部下の様子を思いやった西田に、
「想像通りだよ……。さすがに……なあ」
と答えた。
「でもあれじゃないですか……。まだ高垣さんが送ってきた指紋が、本当に大島海路のモノかどうかはわからないわけですから」
「それはそうかもしれないが、信用したからこそ、こういう依頼をしたわけだろ? だとすれば、それは望み薄だと、自分で気付いてるんじゃないか?」
上司に図星を突かれた西田としては、それ以上言い訳を思いつかなかった。確かに、価値観は別にして、高垣の性格や信条を考えると、この依頼について言えば、ある程度信用して良いと確信していた。だからこそこの結末は痛い。
「とにかく、結果が出た以上は仕方ないですね……。ちょっと今は、何か具体的に考えられる状況じゃないんで……。後で遠軽に戻ってから……。あ、課長はもう帰宅してる頃か……」
「いや、俺も今日は西田達が戻るまで署に居るから、その時話そう」
「じゃあそういうことで」
会話を終えると、どっと疲れが西田を襲った。さすがにこれまで積み上げてきた構図が崩れ去りかねない事態だけに、ショックが大きい。
「課長は何て?」
「遠軽に戻ってから話そうということになったが、今更何をどうしようって話だよなあ。何も考えられない」
「でも、高垣さんが送ってきたのが、大島のものとは限らんでしょ? 可能性は低いかもしれないですけど」
「そう言ったら、課長は、『その程度の信用性の人間に頼んだのか?』って返された。言われてみれば、信用出来ると思ったからこそだから、何も言い返せなかったよ」
「結局そうなっちゃいますよねえ……。課長は許可与えただけだから、『言わんこっちゃない』って意識があったのかも……。でも、そもそも証文の血判が、実は桑野のものじゃなかったとか言うことはあり得ないですかね?」
さっき松沢との会話でも出た、全てを根底からひっくり返すような吉村の発言だったが、
「あの血判の内、砂金の分配を受けるはずだった、伊坂、北条正人は本人分と一致してるのは確認出来てる。免出の息子の分はないからともかく、桑野がそこで別人の血判だったなんてことは、どうなんだろうな、あり得るのかな……。だったらまだ実は左手だったとか」
そう言いながら、西田は少し不機嫌になっていた。
「それもそうでしたね」
意気消沈したような吉村だったが、
「万が一、大島海路の指紋をちゃんと送ってきていたとすれば、話が本当にめちゃくちゃになって、どう考えりゃいいのか」
と改めて途方に暮れていた。
「全くその通りだ……。大島はこれまで佐田実の失踪から、捜査に大なり小なり圧力を掛けてきた。そして、本橋から葵一家と大島周辺の政治勢力の関係が浮かび上がり、どうも本橋は伊坂からではなく、大島を通じて佐田実の殺害依頼を受けていたらしいという流れになった。それに動機を解明する、北村の遺品のテープがあって、それを元にして、戸籍から大島が桑野だと確信し、竹下達がそれを具体的に補強する捜査を本州でしてくれた」
これまでの流れを羅列して述べる西田に、
「ところが今回の照合で、桑野と大島が別人の可能性が出てきたわけですよね」
と吉村が呼応した。
「問題はそこだ。確かに今の大島海路が、佐田実の殺害に大きく関与した上、北村や松島の射殺に関わったという話は、指紋の不一致とは無関係に独立してあり得るとしても、今度はそれまで明快に説明出来た動機が、かなり見えなくなってしまう。北村が取った松島の証言テープの信憑性が格段に落ちることにもなる。あの中で、伊坂は大島海路が証文の桑野欣也だったと明言してた。戸籍の変遷もそれを裏付けた。東京でも桑野が大島海路へと変貌していく過程も判明した。ところが、その桑野欣也が大島海路とは別者だとするなら、テープの中の伊坂の話は嘘になるし、そもそもが大島海路の元になった桑野欣也と、証文の桑野欣也は同姓同名の別人だということになりかねない。2人の桑野欣也による、複雑な絡み合いをどう説明していいのか、全く想像が付かない。同姓同名だとすれば、こんな偶然があり得るか!? 訳がわからない。これまで上手く描いてきた筋書きが、一本の筋にならなくなったんだからな」
目の前の吉村相手に、西田は感情的になっていたが、吉村もそれを気にする風ではなかった。それ以上に、事態が急激に悪化していることが気にかかっているようだ。
「指紋ですけど、大島海路が整形して変えたとか?」
ありがちな疑問を呈した。
「指紋は皮膚が再生する過程で、最終的に同じものになるから、生きている限りは整形しても意味が無いが、3つの指紋が直近のものなら、付け焼き刃にそういう可能性はなくもない。でも、問題はあの手形だ。あれは3年前のモノなんだろ。それを前提とする限り、継続的に常に変えた指紋と一致するように手術し続けている必要がある。常識的に考えれば、かなり厳しいはずだ」
「じゃあ、何かこう、指紋が付着するような形、油をちょっと塗るとかしておいて、無色透明な指サックのようなものをしているとか?」
「絶対ないとは言わないが、普段からそんなものを常時着用しているとは考えにくい」
西田は吉村の疑問をことごとく否定した。
そして、しばらく立ち尽くしたままで思案に暮れる2人の前に、向坂がやってきた。
「どうだ? 結果出たか?」
そう尋ねたが、2人の落胆ぶりを見てすぐ、思うような結果が出なかったことを察したようで、
「え、ダメだったのか!? 一体どうなってんだ……」
と信じられないという素振りを隠さなかった。西田は一応、わかる限りの状況を向坂に説明した。向坂もまた、高垣の送ってきたものが大島海路のものとはまだわからないという発言をしたが、向坂自身の高垣への信用度は西田達に比較してみれば低かったにせよ、自分でもかなり都合の良い考え方であることは、内心わかっていたはずだ。
「圧力で捜査中止どころか、自分達で大島関与の疑惑を払拭することに一役買うなんて、とんだ皮肉ですよ」
西田はそう言うと力なく自嘲した。
※※※※※※※
北見での勤務を終えて、ある意味「這這の体」で遠軽に戻った西田と吉村は、自分達以上に力の抜けた同僚や部下の姿を目にすることになった。
「お疲れさん」
と声を掛けてきた沢井が、年長でありながら一番元気が良さそうだった。竹下はソファでのけぞるように何かを考えていた。大島の中心的関与を、最も声高に以前から主張していただけに、この結果は辛いものとなったはずだ。
「皆やられてるな……」
周囲の状況を確認しながら自分の席に着いた西田に、
「鑑識の山下と松沢から、さっき精査した結果でもやはり別人ということだ。まあ指紋の種類自体が違っちゃ、覆るはずもないよな……」
と沢井が報告を入れた。西田はそれには一言も答えず、
「これから先どうしましょうか? 結果的には、自分達で捜査の幕引きをしたという始末になっちゃいましたけど……」
と聞くと、
「その高垣とか言うのに、もう一度ちゃんと指紋の入手過程について確認してみたらどうだ?」
と指示された。
「課長に言われてみりゃそれもそうだ。こっちで色々詮索したところで意味がない」
そう口にすると、自分を奮い立たせるように、すぐさま高垣に電話を掛けた。執筆活動に入っているはずで、電話に出てくれるか心配だったが、すぐに相手は出た。
「西田ですが?」
「はいはい、荷物着いただろ? それでどうだった? 照合したか?」
高垣の口調からは、当然一致しただろうという前提の下で聞いてきたようだった。
「いや、非常に言いにくいんですが……、残念ながら一致しませんでした」
そう言い終えてから、高垣が反応するまで数秒あっただろうか、そしていきなり、
「どうなってんだよ!」
と食って掛かるような台詞を口にした。勿論、西田に何か文句があるというより、思いもしない理不尽な結末に、そう言うしか無かったのだろう。
「高垣さんもそうかもしれませんが、こっちも一体何がどうなってるのか……。一応ですが、提供してもらった3つの指紋には、1人分の共通した指紋が採取できましたんで、おそらく高垣さんが送ってくれた中に、大島の指紋はちゃんとあったとは思うんですが……」
「こっちも一応言わせてもらうが、かなり信用できる人達から、目的隠して入手してるからな。特に手形が一番わかり易いと思うけど。何なら手形にあった、大島海路名義のサインの筆跡鑑定をしてみたらどうだ?」
高垣は、西田が言おうとしていた「提供されたブツの信憑性」についての確認を、先回りして回答していた。
「やっぱりそうですか」
「しかし、一致しなかったってのはどうも腑に落ちないなあ。あんたらの話は十分整合性があったし、指紋以外の状況証拠からは、桑野欣也が今の大島海路こと田所靖になっているとしか思えないんだが……」
「正直、アテが完全にハズレて途方に暮れてます」
西田は率直に思いを吐露した。
「わかった。一応こっちも提供者に再確認してみるよ。でもなあ、3者とも別人からの入手ルートでありながら、やっぱり一致している指紋があったとなると、それが大島海路なのは間違いないと思うぞ! ちょっと時間を要するかもしれないが、数日後また連絡させてもらう。西田さんの個人の携帯でいいのか?」
「それでいいです。お手数掛けます」
高垣の好意に甘えることにしたが、望み薄なことはわかりきっていた。
※※※※※※※
12月4日月曜の午後、高垣からはやはり「問題なかった」との報告を、北見の捜査本部に居た西田は携帯電話で受けた。
「それで、一体どうなるんだこの後? 俺は捜査に関与してるわけじゃないが、かなり痛いんだろ?」
「ええまあ」
煮え切らない返事だったが、高垣も心中を察したか、
「まあ仕方ない。アテが外れちゃったんだから。とにかく、また何かあったら電話してくれ。助けられることがあれば……。しかし悔しいね、俺もイッチョ噛んだだけなのにそうだから、あんたらの気持ちはどんだけのもんか」
と聞き取るのに苦労する声量で言った。
「ともかく、今回は協力していただいてありがとうございました。残念ながら厳しいですね、この結果は」
西田が振り絞るように言うと、
「ところで、竹下から頼まれていた件、あれどうすればいいのかな? こうなると、調べても無駄じゃないの?」
と言い出した。
「ああ、桑野の進学先の件ですか……。そうですね、ちょっと無駄かもしれませんが、竹下の案件ですので、竹下に確認して下さい」
「そうかわかった。竹下には直で聞いとく。それはそうと、まだ終わったわけじゃないんだろ? 気を落とさず頑張れよ! 大島は絶対挙げろ!」
最後には、高垣らしい発言で締め、会話は終わった。
※※※※※※※
人気のない小会議室で高垣の話を向坂に伝えると、向坂は西田に予想もしないことを言い始めた。
「西田。大島海路が今週末、9日の土曜になるが、こっちに来るのを知ってるか?」
「いや、初耳ですが?」
「そうか……それは別に構わないが、とにかく来るらしい。それで北見や網走の地元の支援者と夜は温根湯温泉に宿泊するようなんだ。確認してみたが、名簿に伊坂政光の名前はなかったようだけど」
基本的に一般的な国会議員は、週末に選挙区のある地元入りすることが多いのだろうが、大島海路クラスになると1月に1度帰るか程度で、大体が地元のベテラン秘書などに支援者回りや会合出席は任せていることが多いと言う。
「温根湯温泉ですか。もう師走ですから、忘年会的な意味でもあるんでしょうか?」
西田は向坂の発言の意図を計りかねていたので、真意をちょっとずつ探るような言い方になった。
「そんな感じかもしれんな。まあそれはどうでもいいことだ。それでその情報は、俺がウチの所轄(北見署)の警備課から得たんだ。大島の警護に数名当たるらしい」
「そんな遊びの時ですら、首相じゃなくても付くんですね、SP」
西田としては「税金の無駄」と思えたので、そういう発言になったが、向坂は気にせず続ける。
「うちの警備課からは、SPみたいな身辺警護と言うほどのもんじゃなく、あくまで周辺警護程度のもんらしい。ただ、北見方面本部の警備課からはSPクラスの対応要員が付くようだな」
「そうなんですか」
未だに向坂が何を考えているかはわからなかった。
「泊まるのは、西田と北村が前、常紋トンネル調査会のことで聞き込みに行った、ホテル松竹梅だとさ」
「ああ、松重さんのところの。あそこは老舗ですからね。なるほど……」
「なあ西田……。残念ながら先日、桑野と大島海路の指紋は一致しなかったわけだが……。もし俺たちが描いたシナリオがまだ正しいとすればだ……。可能性としては、送られてきた指紋がそもそも大島海路のモノではなかったという場合か、証文の指紋がそもそも桑野のものではなかった場合だな?」
「そりゃそうですが、可能性としては極めて低いのは、向坂さんもわかってるでしょ?」
「勿論だ」
「じゃあ、それはもう諦めるべきでは?」
「お前としてはそれで納得出来るのか? あらゆる状況証拠は桑野と大島が同一人物だということを示唆してる。これは誰も否定できないレベルでだ!」
熱を帯びた向坂の主張にも、西田は未だその真意を汲み取れないでいた。
「ホント、数日経った今でも、どうしてこんなことになったのか、さっぱり理解出来なくて混乱してるんですよ、正直なところ」
西田の半ば泣き言に対し、
「それなら尚更、今度の大島海路の北見入りは、俺達にとってそれをはっきりさせるチャンスじゃないかと考えてるんだが」
と、向坂は思いもしないことを言い始めた。
「チャンス?」
「ああ、チャンスだ。目の前に居る大島海路から、直接指紋を採り、それが桑野と一致するか調べる。これで全てが明確になるはず」
「いやいや、ちょっと待って下さいよ!」
ここに来て、ようやく向坂の意図が読めたが、その瞬間に「とんでもない」計画を聞かされる羽目に陥ったわけだ。
「一体、どうやって指紋を採るんですか? 俺らは警備をするわけでもないんですから!」
先輩刑事相手に声を荒げる西田に対し、向坂は大胆な発言をしながらも、声のトーンは至って冷静なままだった。
「それを倉野さんに何とかしてもらう」
「いやいや、なんとかしてもらうと言っても……」
あくまで荒唐無稽な計画だと、経験豊富なベテラン刑事の発想であれ、半ば馬鹿にしたように聞いていた西田だった。
「こういう時こそ頭使わないとダメだ! 高垣から提供を受けた指紋が、桑野と一致しなかったと言う事実は、捜査本部の上層の人間にとっては、勝手に俺達がやったことにせよ、むしろ都合の良い事実だよな?」
「言われてみれば……。大島に向かってダイレクトに捜査するのを避けるには、都合の良い理由にはなります」
「だとすれば、まずその情報を上にこれから報告しよう!」
「え? こっちが勝手に捜査してたのがバレちゃうでしょ?」
西田は大胆な発想に面食らった。
「大丈夫だ。自分達の責任が軽減されるような事実を、西田達が掴まえたんだから、結果オーライで喜んでくれるに違いない」
「少し楽観的過ぎやしませんかね?」
「いいや、大友さんも倉野さんも、西田の言う通り、捜査しないで済む『真っ当』な理由を欲しがってるはず。渡りに船のはずだよ」
向坂は自信に満ちていた。
「仮にそうだとしても、さっきの話に戻りますけど、どうやって自分達が大島の指紋を採るんです?」
「実はな、北見方面本部の水島警備課長は、奇遇にも倉野さんの元部下なんだ。で、俺が前任地の旭川方面本部の捜査一課に居た頃、その時の課長が水島課長と同期でね。一度俺も旭川に出張中の水島課長と一緒に飲んだことがあった。酒の席なんで、口が軽くなってたんだろうな……。どうも水島課長が以前かなりヤバイ捜査ミスをしたんだが、その時の上司だった、倉野さんに上手く揉み消してもらったらしい。それがなけりゃ懲戒、下手すりゃ諭旨免職レベルだったそうだ。具体的には重要な捜査の証拠を紛失したとかだったかな……。当時は笑い話で済ませられたが、リアルタイムではそれどころじゃなかったみたいだな」
「ということは、水島課長には倉野さんに借りがある、そういうことですね? ただ問題は、こちらの要望を倉野さんがまず受け入れてくれるかどうかです。そこを受け入れてくれるなら、倉野さんが要請して、それを水島課長が聞いてくれることは十分あり得るとは思いますが……。同じ課長待遇とは言え、捜査一課長と警備課長では捜査一課長の方が上の立場ですから、その点も大丈夫でしょうし」
「大丈夫だ。ウチのトップの連中は圧力ではなく、大島から手を引く正当な『理由』を欲しがってる。それに反対する急先鋒がある意味俺達。その俺達から、その正当な理由を提供されれば、ある意味奴らに貸しが出来ることになる。その貸しの代償として、警備に俺達の中から1人参加させ、指紋を採取させてもらう。そういう算段だ」
向坂の大胆な案に、西田は異を唱えた。
「ちょっと待って下さい! その計画は、大島を疑っているが故の潜伏調査なんですから、上層部としては相容れない考えじゃ?」
「そこが甘いんだよ、西田! お前もわかっているように、何がどうなってこうなったかは俺も含め全く理解できない一方で、現実的に第三者視点で見れば、残念ながら桑野と大島の指紋が一致する可能性はかなり低いのも事実だろう。どうして他の状況証拠と反する結果になるのかは全くもって不明だがな……。それは話をきちんとすれば、大友さんも倉野さんも理解出来るだろ? 単純にオツムの出来はいい人達なんだから……。とすれば、仮に捜査させても、それが覆る恐れはほぼないとも考えるはずじゃないか? そして直接採るのだから、それが否定されれば、今度は完膚なきまでに、言わば大島関与『積極派』の俺達を黙らせることが出来る。一方の俺達にとっても、直接大島から指紋を採ってみないことには、描いてきたシナリオの筋の通り方を、完全に否定するには釈然としない、モヤモヤした何かを残したままになる。そこに自ずとお互いの落とし所が見えてくる」
向坂のプランは、警察組織の論理と正義追求の狭間を上手く利用するようなやり方だった。悪く言えば実に狡猾だ。しかし、向坂の案は乗ってみる価値は十分にあるような気が段々と西田もしてきていた。
「向坂さんがそこまで考えていたとは……。かなり大胆過ぎて……。正直脱帽ですよ」
西田は向坂案を認める方向に舵を切らざるを得なくなった。
「現実問題として、大島と桑野の指紋が一致する可能性はやはり低いと思う。ただ、このままじゃ諦めきれないだろ? だったらこの取引をやる価値はあるはずだろ?」
「わかりました。で、話は向坂さんがしてくれるんですか?」
「ああ。発案した俺が言い出すべきだろうな。ただ、実際に捜査を許可されたとすれば、悪いが、遠軽署中心に動いてもらうことになると思う」
バツが悪そうに、西田からは一瞬視線を逸らせた。
「やっぱり北見署は動けませんか?」
「まず無理だな。ウチの課長は基本的には、組織の論理で動いてるタイプだから。沢井さんの方が、その点はまだ遥かに『急進派』にも協力的だ。傍にいる西田が一番わかってると思うけど。当然だが、北見方面本部本体が動くことは到底ありえん。消去法でも遠軽しか残らないんだ」
なるほど、確かに沢井課長は若干頼りなさそうなところもあるが、西田達の独自捜査にも一定の理解を示してくれていた。そういうところに甘えてきた半年の捜査だったと言っても過言ではなかった。
「そのことは余り深く考えてこなかったんですが、言われてみればそうですね……」
「おそらくだが、仮に警備に俺達の誰かを忍ばせることを了承してくれたとしても、大島に動きがバレる場合のような、最終的な責任は回避する『非常口』を用意しておきたいと思うはず。そこは所轄に責任を負わせておきたいだろう。たまたま補充した所轄の職員が勝手にやったと言うパターンをな」
「うーん……。沢井課長はどう言うかな……」
西田は沢井の心境を思いやった。
「いや、沢井さんだけじゃないぞ、遠軽署の管理職系のメンツも大なり小なり責任問題になり得るんだから。勿論西田もだ」
他人事ではないのだと、向坂は西田に警告した。
「高垣さんに協力してもらう時に、俺と竹下はそれなりに腹は決めてます。ただ、部下……と言っても吉村と黒須だけしか話してませんが、彼らは揺れてましたね」
「そりゃ、こっちだけで盛り上がってもダメだな。一度遠軽署に持ち帰って、みんなで話してみてくれ。それで了解が得られれば、いよいよ俺が切り出すから」
向坂の言葉の端々からは、強い意志を感じられた。
※※※※※※※
北見での仕事を終え、吉村と共に遠軽署へ戻ると、沢井はまだ刑事課に残っていた。正確に言うなら、北見に居る間に、既に沢井に「重要な話があるので、戻るまで帰らないでくれ」と伝えていたからこそではあった。ただ、沢井は基本的には、部下も戻りが遅い時には、戻ってくるまで待つことが多かったので、あくまで「万全を期して」そう連絡しておいたのだ。
「話ってのは、例の指紋の件か?」
吉村も先に帰し、2人は休憩室で話し始めていたが、沢井は西田が何について話すのか、既に理解していたようだ。
「そうです。その件で今日、向坂さんと話しまして……。ある提案を受けました」
西田はそこまで言うと、一度軽めの深呼吸を入れた。
「今度の週末、大島海路が地元の支援者と一緒に温根湯温泉に宿泊するそうです」
「ほう。地元入りか……。あんまり帰ってこないタイプだと聞いたことがあるが」
沢井はそう言いながら、顔を軽くあげ、何の意味があるのかわからないが天井の方を眺めた。西田は沢井のその挙動が元に戻るまで待つと、
「その時に、警備にウチから誰か参加させて、直接大島の指紋を採取するという計画です」
と一気に一息で喋った。一度でも止めると言いづらくなる気がしたからだ。そして、沢井の様子を窺った。しかし、
「ふん、そうか」
とだけ沢井は言うと、大して驚いた様子は見せなかった。西田は思ってもみない状況に、どうしていいかわからなくなり、
「いや、あの……。それだけですか?」
と確認してしまった。何かリアクションがあるものと思っていただけに、かなり拍子抜けしてしまったからだ。
「だって、お前。重要な話があると言われていて、それで大島がこっちに来るって言われたら、そういうことをしたいんじゃないかと、何となくわかったからな……。向坂も西田や竹下と同じ立場だってのはわかってるから」
「何だ、すっかりバレてましたか……」
西田はそう言うと頭を掻いて苦笑した。さっき天井に視線をやったのは、「そう来たか」という思いだった故の行動だったのだろうと推測した。その考えが合っているかどうかはともかく、いずれにせよ上司にすっかり読まれてしまっていたわけだ。
「でも、それは北見(方面本部)や本社の方はどうなんだ? (警)察庁から直接妨害があったって話なんだろ? そんなことをやらせてくれるのか?」
「それを自分も向坂さんに言ったんですが、向坂さんは、高垣さんからもらった例の指紋が合わなかったことを、大友さんや倉野さんに伝えると……」
「はあ? 意味がわからんぞ?」
さすがに聞いた直後には、この向坂の発言の意味を、沢井は理解することはなかった。通常の論理で考えれば、その意義を把握出来なくて当然だ。西田は丁寧に説明する必要があると痛感した。
「ちょっと理解し難いと思うんですが、向坂さんが言うには、我々が『落胆』した結果は、首脳陣にとっては『有頂天』や『幸運』だと」
「幸運?」
「はい。幾らなんでも、圧力でやるべき捜査を止めるってのは、罪悪感を覚えない警察官は居ないはずです。しかし、我々が勝手にやった先日の指紋の不一致は、幾らそれまでの状況証拠が、大島の殺人関与と奴が桑野欣也と同一人物であることを示唆していたとしても、これまで積み上げて描いてきた『筋』を分断するだけの破壊力がありました。何せ『科学』による否定ですから。そして、まだ全体には表にしてませんが、松島の証言が入った北村のテープの中身の信憑性にも、色々怪しい点が出てきてしまう。大島が証文の桑野欣也とは別の桑野欣也になってしまうわけですからね。松島が語っていた伊坂大吉の話が嘘になりかねない。ここは正直、同姓同名で片付けられるようなモノではないとしか思えないんですが、今でも……。それはともかく、そうなると、大島に対する疑惑を弱めるだけの、きちんとした理由にはなってしまいますよね?」
「うーん、そうなるかな……。テープが出る前までの時点で既に、大島が佐田の殺害に関与した可能性はかなり高かった。そしてテープの中身が明らかになってからは、特に佐田の殺害に関わるだけの動機として、桑野欣也と同一人物だとすれば全てが繋がる展開だった。ところが、それがあの照合の不一致で、一気に話が繋がらなくなった。確かに大島に対する疑惑は、鎮火こそしていないが、炎上していた状況からは、かなり火勢は弱まったように思えてくる」
沢井もかなり納得出来つつあるようだ。
「ホントそうです。そうなると、そのことを捜査首脳に教えてあげれば、指示を仰がず、勝手に捜査していたとしても、なんだかんだ言って喜んでくれるんじゃないかというのが向坂さんの推測なんです」
ここまで言うと、沢井は全てを理解したようだ。
「そのバーターとして、最後の頼みで、直接指紋を採らせて欲しいと頼むわけか。やらせてみたところで、どうせ一致する可能性は限りなく低いと見るのが常識的な読みだ」
「まさにそれが狙いです。ただ、直接探るってのは、リスクを伴います。その時には、北見(方面本部)は知らなかったことにしておきたいはずだと、向坂さんは言っていたんです」
「ははあ……。つまり生贄になる奴を作れば、北見はその頼みを聞いてくれるんじゃないか? そういうことだな」
沢井はそこまで言うと、ちょっと顔を歪めた。おそらくこれから言うことを予見したのだろう。しかし西田はそれを無視するように、
「その生贄として、いや勿論、向坂さんはそういう言い方はしてませんでしたけど……、遠軽署しか適役が居ない、それが向坂さんの答えでした。向坂さんが警護に参加するとなると、向坂さんの個人的な行動であれ、何かあれば、少なくとも北見署直属の上司の刑事課長には責任が及ぶ以上、協力は得られないだろうってことです。そもそも、今事件担当所轄の係長が、別件に係るなんてこと自体無理です」
と伝えた。
「一方で、俺が了解して、遠軽署から警護に派遣する形になれば、その派遣した人間の『勝手にした』捜査の責任はこっちにお鉢が回ってくる、そういうことだな?」
「そうなりますか……」
西田は、北見に居た時に向坂が西田に対してしたように、視線を沢井から逸らした。それから妙な間が2人の間に流れた。
「わかった。俺はまあ構わんぞ……。今回の捜査では、これまでも何度か覚悟を決める場面があったわけだから。但し、俺はそれを積極的に肯定はしないんだから、直接指示したことにされるのは、情けないが正直困る。結果的に監督責任を問われるのは甘んじて受け入れるにしてもだ!」
沢井の言っていることはもっともだった。監督責任と、指示を出して上部組織の捜査方針を破ることは、同じ責任でも全く次元が違うものだ。処分される重みも違う。前者は結果責任だが、後者は故意責任だ。
「それもそうですね」
「俺ももう50越えてるし、昇進もこれ以上の地位はそうそう望めないだろうから、早期退職というのも1つの選択肢に入りつつある。そうなったら、故郷の芽室(作者注・十勝地方・芽室町)に戻って、警察OBの紹介で再就職という考えも何となくある。ただ、その理由はどうであれ、表向きは『自主退職』の形じゃないといけない」
沢井は、西田が4月に遠軽に赴任してから何度か、「そろそろ刑事稼業も先が見えてきたから、早期退職して故郷の芽室に戻り、帯広辺りで警察官相手の保険の外交でもやりたい」と言っていた記憶が西田にはあった。ささやかな希望だが、決して冗談ではなく、本音だったのだろう、こういう場でもそういう発言をするということは……。
「それは向坂さんも考えているとは思いますよ」
西田も課長の立場を考えると、そう言わざるを得なかった。
「誤解して欲しくないが、俺の為でもあるが、俺より上の副署長や署長のことも考えないといけないってこともあるんだ。西田達が独立してやる分には、俺に対する署長達の責任は、言わば『管理責任者への管理責任』という形になるが、俺が命じたとなると、『直接的な管理責任』になって、迷惑かける度合いも違ってくるんだからな。どっちにせよ大きな迷惑という枠で見りゃ同じなんだろうけど……」
そう言った時の沢井は、ある種の悲壮感すら漂っていた。




