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修正版 辺境の墓標  作者: メガスターダム
明暗
72/223

明暗51 {60・61合併}(248・249~250 小柴と高垣から送られてきた物)

 4人は指した方向を見ると、小高い場所に石碑が見えた。

「ああ、『辺境の墓標』のことか……。あれはですね、向こうに見えるトンネル工事で亡くなった人達の遺骨を収めた墓標と慰霊碑を兼ねたようなものです」

西田は、自分達にしか通じない名前を呟いた後、高垣におおまかに説明したが、

「ヘンキョウの墓標? トンネル工事?」

とすぐさま問い返してきた。

「そうです。常紋トンネルって言うトンネルなんです……」

西田が言い終わる前に食い気味に、

「おい! あの向こうに見えてるトンネルが、あの常紋トンネルなのか!? おいおい先に言ってくれよ! そうか、どうも地名に何か聞き覚えがあると思ったら、そういうことだったか!」

と山峡に響き渡るような大声を突然あげた。


「常紋トンネルについて知ってるんですか?」

吉村が確認すると、

「知ってるも何も、タコ部屋労働だろ? さっき生田原って聞いて、何か聞いたことあるなと思ってたら、常紋トンネルの生田原だったんだな……。さっき通った留辺蘂って地名にも引っ掛かっていたが……。俺としたことが!」

と意味もなく悔しがった。

「やっぱり有名なのか……。北海道に縁も所縁ゆかりもない人が知ってるんだから」

西田が感嘆すると、

「何言ってんだよ! 丁度俺が記者辞める前だったかな、タコ部屋労働について本が刊行されて、結構有名(作者注・小池喜孝氏著『常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑』。尚、小池氏は、朝ドラ『花子とアン』の主人公のモデルとなった村岡花子女史と共に『赤毛のアン』の出版に、三笠書房に編集者として勤務時代に関わりました)になったんだ。俺も当時読んだよ。囚人道路なんかもその話から知ることになった」

と軽く怒鳴られた。


 また面倒なことになったなと思っていると、

「そうか……。現場が常紋トンネルの傍だとは思わなかったな。どうして事前にちゃんと言ってくれてなかったんだ?」

と、更に続けて4人はグチグチと文句を言われた。

「いや、捜査について話さないといけないことが多いんで、余り細かいことは省いてたんです。申し訳ない」

と竹下がすぐに謝罪したが、さすがに「周辺情報」まで一緒に説明する義理はなかったろう。

「謝ってもらうつもりで言ったわけじゃないんだが……」

高垣はさすがに言い過ぎたと思ったか、ちょっとバツが悪い顔をした。


「きっかけとなった事故死の件ですが、詳しく説明すると、これには常紋トンネルの幽霊話、本を読んでいるならご存知ですね? それが関わっていると考えているんですよ。吉見という中年男性の事故死の起きた辺りの時期に、幽霊話が、ここを通過するJRの運転士の間でまことしやかにささやかれるようになってましてね。それが後から考えると、どうも、今から3年前に殺害されたと思われる大学生の遺体を探していた、8月に取調べ中に倒れて問題になった、喜多川のことだったらしいという落ちなんですよ。で、大学生を殺害したのは、喜多川の同僚の篠田と見られています」

「未だにはっきりとはわからないが、そういう騒ぎが、一連の事件の捜査の切っ掛けになったってことでいいのか?」

竹下の説明を受けて、そう高垣が確認すると、

「はっきりわからないのは仕方がないです。今のところはそれで十分OKです」

と合格点を与えた。


 しかし、そのことよりも西田の呟いたことが気になったのか、

「それはそれでいいんだが、さっき西田さんが、『辺境の墓標』って言ったよな? あれの名称がそういう名前なのか?」

と尋ねてきた。

「いや、あくまで内輪でそう言ってただけの話で……。ウチの上司に沢井課長って人がいるんですけど、その人が事件の捜査で、初めて我々があの慰霊の石碑を見つけた時に、そう勝手に名付けただけですわ。特に一般的な名称でも何でも無いです。まあ元々『辺境』云々は、よく考えたら自分が最初に発言したんですけどね……。あくまで自分達が便宜上そう言ってるだけで、むしろ『仰々しいな』と思ってるぐらいでね、特にこいつらは」

そう言うと、西田は頭を掻いた。事実、西田より当時の部下達の方が、その「辺境」という表現が大袈裟だと感じていた。


「あんたらの上司のネーミングか。うん、あんたらはそれほど気に入ってない様だが、『辺境の墓標』、俺は中々いいんじゃないかと思うが……?」

西田のおどけにもかかわらず、意外と気に入ったようだ。


「じゃあ、せっかくなんで、近くまで行ってみてもいいかな?」

「どうぞどうぞ。時間は十分ありますから」

西田はそう許可を与えると、5人揃って、緩やかな斜面を登り墓標に近づいた。それにしてもやはり東京の人間からすると、北海道の郡部としてはよくあるレベルのこの程度の山中にあっても、「辺境」という言葉がしっくり来るのかと、地域性のギャップを痛感していた。元々は、西田がそういう表現を使っておいて、何だと言われればその通りではあった……。


 「墓標」の前にたどり着くと、高垣はしばらく石碑を読み、そして何も言わず卒塔婆や周辺を見回っていたが、最後には静かにしばらく手を合わせた。4名の刑事もそれに倣い黙祷したことは言うまでもなかった。

「こんな山の中で、夏冬問わず重労働に駆り出されて死んだんじゃ、浮かばれないよなあ……。墓標も朽ちていってる感じだ。このまま俺達現代人の記憶からも徐々に消えていくんだろう……。こうなることがわかってりゃ、酒でも持ってきて供養すりゃ良かったな……」

「今となっては事前に常紋トンネルについて、高垣さんにちゃんと言っておけば良かったですけど、この展開はさすがに予測できないんで……」

西田が黙祷を終えて感想を述べた高垣にそう言い訳をした。勿論、そこまで「読め」と言われても無理難題であることに変わりはない。


「トンネルだけはおそらく昔と同じままで、今もこうして『現役』なのが尚更皮肉なもんだ。大体、あんたらの先輩方が、きちんとタコ部屋労働取り締まらないからいけないんだぞ! 金貰ったり、開拓推進のために黙認したりじゃな……。警察なんてものは、昔から社会正義より、権力者寄りの秩序維持に忙しいからこういう犠牲者が出る!」

そう批判を込めて言い捨てると、再び墓標を見つめた。それについては、さすがに何十年も前の「先輩」の責任を押し付けられたら堪らないので、強く反論したい気もしたが、言い争いになるのも気が引けたので4人は黙っていた。ただ、どこかで『それ』が今も続いていると認めざるを得なかった部分が、反論をためらわせたこともまた否定出来なかった。


※※※※※※※


 その後、北見方面本部に戻るも、北見に高垣が残っているのは、未だ週刊誌の記事絡みの聴取をしているという理由だったので、形ばかりの聴取を一応しておいた。しかし、話した内容はそれについてではなく、高垣に依頼する「大島海路の指紋」の採取と「桑野欣也の尋常小学校以降の学歴」についての詰めの話だった。


 指紋については、高垣に接近できる立場の複数の人間に依頼して、それぞれ採ってもらって、「遠軽署」の方に送付してくれることになった。一方で学歴については、地域こそ絞れるものの、高垣は仕事も抱えているので、指紋について裏付けが取れた後、本格的に動くという口約束程度が、現状約束出来る範囲だと伝えられた。そして、当日を以って参考人聴取完了と倉野達に報告し、翌日高垣は東京へ戻ることになった。


※※※※※※※


 翌11月24日、本来西田と吉村はしばらくぶりの非番だったが、高垣を竹下、黒須と共に女満別空港まで見送る形となり、結果的には半休になってしまった。ただ、それでも、身体を休めることが出来ただけ良かった。ただ、ここ最近ずっと続いている精神的な緊張感はなかなかそう簡単に取れるものではなかった。


※※※※※※※


 11月27日午前、高垣からの指紋の提供を待つ遠軽署刑事課に、東京で竹下と黒須が聴取した小柴老人から一通、大きめの、そして厚みのある封書が届いた。かなりの達筆であったが、問題は中身だった。


※※※※※※※


 拝啓

 師走も近づく中、こちら東京も日々気温が下がり、竹下氏、黒須氏の御二方の勤務する遠軽も、おそらく雪の降り積もる時期ではないかとお察し申し上げる。さて、余計なことを書いて、貴重な時間を頂戴するのも迷惑だろうから、すぐに本題に入らせていただく。


 先日訪問された際、失礼な物言いながら、大島についての様々な記憶を辿ることを求められたことは記憶に新しい。同時にそのことで、老い先短い身を顧み、過去のことについてもう一度振り返ってみたいと言う欲求が頭をもたげた次第。


 そういうわけで、訪問より数日後、昔の資料や写真などを整理しつつ、押入れをひっくり返し、過去を振り返る作業に没頭。すると、(多田)桜さんが亡くなる前に、預かっていたものがたまたま出て来た。記憶の片隅で「靖がこの先、道を誤るようなことがあれば、これを黙って渡してください」と仰っていたように思われる。詳細、由来、来歴の類については、桜さんは聞いても、具体的には答えなかったと記憶している。


 しかし、おそらく養子になった前後に桜さんに預けたようなことを匂わせていたようにも思う。とにかく、当時の大島にとって「戒め」の類になるモノだったようである。


 諸兄が調べていることが何かは、具体的には存じ上げないが、万が一、大島が諸兄の世話になるようなことがあった場合、これを本人に見せることで、何らかの進展があるかもしれない。勝手に他人に譲渡することは、桜さんのことを思うと、いささか気が引けるが、それが桜さんの遺志にも、結果的には合致するものと信ずるが故、同封の上、進呈させていただく。


                                敬具


 拝啓や敬具を使いながら、ところどころに出てくるやや高慢な表現が、如何にも小柴らしいと竹下は思いながらも、ビニール袋に入って同封されていた、広げると大体20センチ四方、いや四方とは言っても、決して正方形ではなく、無理やり引きちぎったような断面に囲まれたものだったが……。この赤黒く染まった端布はぎれをしげしげと黒須は勿論、他の捜査員と共に眺めた。


 この端布は、より正確に表現すれば、おそらく元々は全体的に藍色?だったのだろうが、そこに、これまたおそらく白抜きの三角形の模様が幾つも並んでいたモノだった。それが赤黒く全体的に染まっているように見えたわけだ。


「何ですかねこれ? 切断面から見て、切り取ったというより、無理やり剥ぎっとったような感じです。この赤黒く染まってる色は血ですよね……? 元は濃紺っぽい生地みたいですが、染まってて元の色がわかりづらくなっちゃってる……。着物っぽいですね。でも柄は小さい三角形がたくさん並んでる感じかな。ちょっと着物にしては、あまり見ない柄に思えます」

黒須がそう言うと、

「赤黒いのは、言う通り血痕で間違いなさそうだ。念のため、ちょっと鑑識で人血かどうか調べてもらおうか?」

竹下はそう言うと、鑑識へ向かい、すぐに松沢主任にルミノールを吹きかけてもらった。案の定暗がりで全体的に発光し、血液であることが判明した。その後は人血鑑定を行い、人血と確定された。


※※※※※※※


「多田桜の遺言の内容と人間由来の血痕……。なんか犯罪の匂いがしますね……」

一緒に居た黒須がそう言ったのを聞き流しつつ、竹下は鑑識主任の松沢に、

「これ布は結構古いのは間違いない?」

と尋ねた。

「かなり古いのは間違いないな。数十年単位のもんだと思う。おそらく時効も過ぎてそうだ」

鑑識らしく、時効が気になったらしい。

「何時この血痕が付いたかわからんけど、元々の持ち主の多田桜が亡くなる前なんで、布自体の来歴は、少なくとも昭和35(1960)年以前のモノで間違いないと思う。明らかにハサミなんかで切った感じじゃないけど、引きちぎったとかそういう感じ?」

「わからないね。ただ、厚手の布がこんな風になってるわけだから、相当の力が掛かっていたのは間違いないと思う」

「相当の力ねえ……」

竹下はその場では思い当たる理由が浮かばず、首を傾げた。

「しかし、『道を誤った時に見せろ』ってのは、とても気になるなあ」

黒須は腕組みしたまま、松沢の机の上に載った端布を見つめていた。


 その後、鑑識から出るとすぐに沢井に報告し、北見で捜査中の西田には戻ってきてから伝えることにし、捜査資料として念のため保管することにした。


※※※※※※※


 北見から西田と吉村が戻ってくると、課長への報告を終えた西田に、早速竹下は小柴からの手紙と端布を見せた。


「これ血だろ? 事件性があるのか?」

案の定、布全体に広がった血痕にまず興味を示した。

「事件性についてはわかりませんが、義母が亡くなる直前に渡されたということは、それ以前でしょうから、どちらにせよ時効事案です。事件性そのものについては、余り必要以上に考えなくていいと思いますが」

竹下の回答に、

「そう言われると確かにそうだな。ただ、小柴の話が本当なら、大島海路という男の人生に何か大きな影響を及ぼしてる節があるからな、どうして血染めになったかは気になる」

西田はそう言うと、端布を蛍光灯の光に一度透かした。しかし、生地はかなり厚めの生地のようで、当然光は透けなかった。

「道を誤った時に見せろという点も気になりますね」

「点検」を終えた西田から端布を受け取りながら、黒須がビニール袋に仕舞いながら言った。

「そのうち、何か見えてくるのかもしれないな。残念ながら現時点で思い浮かぶようなことは何もないが……」

西田は椅子に腰掛けると、両手を頭の後ろに回し、多田桜の言葉と共に思いに耽った。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 11月28日、高垣から竹下の携帯に最初の報告が入った。今回の東西の記事が出た経緯と、察庁へどういう圧力が掛かったかの「調査結果」だった。


「東西の例の記事は、在籍してる記者連中から得た情報では、やはり椎野が関わっているらしい。これまでのことを先日聞いた限りでは、まあ間違いないだろう。警察庁からの圧力は、自治大臣・国家公安委員長の津山から警察庁長官の田島に指示があったと言うのが、警察庁キャリアの連中の間で密かに言われているらしい。ただ、これはトップシークレットなので、さすがに断定は難しいわ。津山自体は箱崎派ではなく豊水会所属だが、津山の嫁さんが箱崎派の大澄議員の娘なんで、そういうルートで何かあったかも知れない。俺が現状わかるのは、残念ながらこの範囲だ」

「そうでしたか……。これ以上わからないのは仕方ないですね。相手もそんなに外にバレるようなことはしないでしょうし」

「スマンな。もうちょっと行けるかと思ったんだが……」

高垣にしては謙虚な物言いだった。逆に言えば、もっと核心に迫れると考えていて、それなりに自信もあったということなのだろう。


「それより、指紋の方はどうです? やれそうですか?」

「そっちは、今既に幾つかのルートで依頼済み。右利きなのも確認済みだ。近いうちにそっちに送れると思うわ」

「そうですか! それは何よりです。期待してますよ! あと大島の学歴関係の方は……」

竹下がそう言いかけた直後、

「さすがに俺も記事書かないといけないんで、そっちはほんと暇な時だけにさせてくれ! 悪いが、それは優先度が低いだろ?」

と高垣はやや苛ついたように制した。さすがに竹下も高垣の好意を前提にしていることはわかっていたので、

「わかりました。引き続き暇な時で」

と言うに止めた。


※※※※※※※


 12月2日。さすがに11月の終盤からは、遠軽も薄っすらとではあったが雪に覆われていたが、この日、西田と吉村は、捜査本部のある北見方面本部ではなく、本来の持ち場である遠軽署で待機していた。適当な理由を付けて、北見の捜査本部には遅刻することは連絡済みであった。というのも、高垣から、複数の大島海路の指紋が付着したと見られる対象物が、遠軽署に送られてくる予定が入っていたからだ。11月29日に出して、この日の午前中には着くということだったが、なかなか郵便局の配送員が来ず、既に時計は午前10時近くになっていた。


 本来であれば、証拠物に付着した指紋から、無関係の人間の指紋を除外するため、触った可能性のある人物全部についての指紋も提出してもらうのだが、その「ブツ」を確保するのに、高垣に協力してくれる人物以外の者も絡んでくるので、それは不可能だと、高垣が北見滞在の段階で言及していた。確かに、その「物」に桑野欣也と同じ指紋が付着していれば、それで十分なのだから、多少手間が掛かるとしても大きな問題ではなかった。


 ただ、西田は高垣が警察のやり方として、重要参考人であろうがなかろうが、指紋をデータベースに残すのが常套手段ということを知った上で、それを事実上拒否したのだろうとも勘ぐっていた。警察とすれば、相手が一般的善良な市民であれ、あらゆる指紋を取っておくことが、将来の捜査上、何らかの突破口になる可能性がある以上は、それを排除しておきたくないのだ。


 無論それは、証拠収集方法としてはかなりグレーゾーンであり、高垣がもしそれを前提に「拒否」したとしても、責められるようなものでもなかった。同時に、高垣は「物」を受け取る瞬間から送付するまで、ビニール手袋で自分の指紋は一切付かないように気を付けていたとも送付前に語っていた。しかし、いざとなれば、高垣が西田達から受けた北見でのレクチャーの時に触れていた証文と手紙のコピーを、まだ捨てずに持っていたので、それから検出すれば問題ないことも西田はわかっていた。


 午前中指定にもかかわらず昼近くになってようやく、女性職員が刑事課に、配送業者から受け取った高垣からの荷物を運んできてくれた。かなり小さいダンボールだったが、すぐさま西田や沢井始め刑事課のメンバーが群がり、ガムテープの封印を解いた。


 事前に受けていた連絡では、「湯呑み」、「色紙」、「グラス」の3つが送付されてくるとのことで、実際にその3つが開封すると入っていた。「ソース元」がバレることはあってはならないということで、彼は詳しいことは教えてはくれなかったが、大島と近い関係か或いは直接的には無関係かはわからないにせよ、ある程度大島に接近出来る立場に居る人間からそれらを得ただろうことは、西田達にも容易に推測出来る3つの証拠物だった。


 ただ、その3点の中で、唯一異色と言うべきか、かなり重要な証拠となりそうなのが「色紙」であった。そして高垣が「物」としての色紙を送ってくることになった経緯は、次のようなものだった。


 大相撲の「沖ノ山部屋」の現・親方は、元・大関「冬雷とうらい」だったが、北見・網走の近辺の美幌町の出身と言うことで、後援会長が地元の有力国会議員の大島海路になっていた。その後、引退した冬雷が年寄「沖ノ山」を当時の師匠から譲り受けて襲名し、沖ノ山部屋を継いだ後は、沖ノ山部屋そのものの後援会長として、大島はある意味君臨していた。


 色紙は、その沖ノ山部屋の力士で最高位「小結」まで昇進した現・幕内5枚目の「波嵐なみあらし」の3年前の「小結」昇進パーティで、波嵐と共に、お遊びで大島海路ら有力な「タニマチ」が「手形」を取り、それに自筆のサインを入れ、その場で後援会の出席者に、波嵐の色紙と共に配られたモノらしい。


 その中の1枚を、後援会の中にいる高垣の知人から入手して送付してくれるということだった。手形の存在自体は偶然の産物だったが、高垣としては、大島が沖ノ山部屋の最大のタニマチだったことは、既に頭に入っており、その情報が引き寄せた「幸運」だったようだ。否、そうである以上は、単純に偶然という言葉で済ませるには、高垣に失礼かもしれない。


 いずれにせよ、掌紋(いわゆる手相だけでなく、指紋のように、手のひらの細かい線も含む)も含めた右手5指全ての指紋が、手形ということもあって、多少ズレやブレなどの不鮮明な側面があったにせよ、ある程度確認出来る以上は、相当有力な証拠物件であることは間違いない。そして、証文の血判も「右手人差し指」だと佐田徹の両親への「手紙」に記載されていた以上、同じ右手でドンピシャだった。これでズレやブレがなければ尚、完璧な比較対象だったのだが……。


 既に遠軽署の鑑識係長の山下と主任の松沢が呼ばれており、3点の証拠物を丁重にダンボールから取り出すと、刑事達にも軽く披露した上で、自分達の持ち場へと運んでいった。鑑識にある程度時間が掛かることが予想されたので、さすがにこの時点で昼を過ぎていることもあり、西田と吉村は結果を待たずに北見方面本部へと向かった。結果の連絡は携帯に掛かってくるはずだ。これについては、北見の捜査本部の上層部は全く関知していなかったが、もし一致すれば、そのことを事後報告として西田は伝えるつもりだった。それは「覚悟を決める」必要があることを、大友刑事部長や倉野課長、比留間管理官にも伝える最後のチャンスだと思っていたからだ。


※※※※※※※


 北見方面本部には、先に昼食を済ませてから、午後2時前に着くと、2人はヤクザ関係の洗い出しの作業を手伝い始めた。現実には、倉野達が「アベ」姓の情報を元に追っていたモノの再確認作業ではあったが、先日聞いた倉野の話では、既に道内の暴力団構成員について、アベ姓のチェックは済ませており、大島と関係の深い、葵一家の構成員についての、全国的なチェックに既に入っているようだった。ただ、テープの存在を知っている2人だけに許された作業故に、かなり地味で大変な作業ではあった。


 向坂には、証拠物が届くことは、高垣から連絡があった時点で既に伝えていた。そのせいか、西田達が北見へ到着して「まだ確認出来てない」と伝えてからは、西田の方をしきりに見ながら、遠軽署からの連絡がないか気にしているようだった。割とどっしりしたタイプの向坂にしては、かなり落ち着かない様子ではあったが、西田も人のことを言えるような状況ではなく、気もそぞろになりがちで、リストをチェックしながら見落としがないかに注意していた。


 午後3時過ぎになり、吉村と共に一息付くために休憩所でコーヒーを飲んでいると、不意に携帯が鳴った。

「あ、やっと来ましたね!」

吉村が目を見開いて西田の方を見たが、西田はそれには一々反応せず、すばやくポケットから携帯を取り出し電話を受けた。

「沢井だ。今会話出来るか?」

「たまたま休憩中ですから大丈夫です! それより出ましたか?」

そう結果を急かした西田に、上司の口から、思わぬことが伝えられた。


「それがだな……。落ち着いて聞いてくれ。結論から言えば、出なかったんだ……」

予想外の言葉に、西田は慌てふためいた。

「いやいや、ちょ、ちょっと待って下さいよ! ちゃんと調べたんですか? 時間もそれほど経ってないですし、見落としがあったんじゃ?」

「いや、それはないそうだ……。ちょっと今松沢に替わるから、詳細はそっちから聞いてくれ」

努めて冷静にそう言うと、会話の相手は鑑識の松沢主任に替わった


「西田係長、替わりました松沢ですが……」

相手が名乗るか名乗らないかのタイミングで、

「おい! 割と早くに結論出したみたいだが、本当にちゃんと調べたんだろうな?」

と西田は思わず怒鳴っていた。しかし、松沢は意に介さず、

「時間はそれほど掛けてないとは言え、結果は間違いないですね……」

と低いトーンで答えた。

「いやありえないだろ!?」

西田は相変わらず頭に血が上った状態での言動を繰り返したが、

「残念ながら、血判の桑野欣也の指紋は対象物3点からは、いずれも発見されませんでした。また、念のため対象物の指紋に前歴がないかも調べましたが、そちらも完全に白でしたね。本筋とは何の関係もないですけど、念のため」

と静かに言った。


「右手人差し指の分がなかっただけじゃないのか?」

「少なくとも手形の右人差し指とほぼ合致してる指紋が他の2つ(の証拠物)からも出てますんで、その合致してる分については、間違いなく右手人差し指の分でしょう」

その言葉を聞いて、尚更冷静でいられなくなったか、西田は思わず、

「何なら、北見方面本部の柴田さんに再度鑑定してもらってもいいんだぞ」

と禁句を口にしていた。正直、これはかなり松沢のプライドを踏みにじるような発言だとは西田もわかってはいたが、焦燥感がその「躊躇」を軽々と乗り越えてしまった。


「別に構いませんが、誰が鑑定しようが同じ結果になるはずです」

内心かなり頭にきただろうが、所轄の仲間は感情を押し殺したようにそう言い切った。おそらくここまでの発言含めて、いつも以上に冷静な言動なのは、西田の心境を思いやってのことなのかもしれないと、やっと西田は思うに至った。既に遠軽署刑事課内での落胆した空気は、松沢も感じていたに違いない。

「スマンちょっと言い過ぎた……。とにかく、状況を詳しく説明してくれ。納得がいかないんだ」

さすがに謝罪しておくべきと思い、まず詫びを入れた上で説明を求めた。


「既に言ったことと重複する部分もありますが、じゃあ説明しますよ。まず、大島の可能性が段違いに高いだろうと思われる、右手全指が揃っている色紙の指紋を分析しました。さすがに目的が手形ですからね、ぶれている部分が多くて、はっきりしない箇所が多かったのは事実です。ただ、人差し指と親指は弓状紋の中の突起弓状紋型で、その他が渦状紋(作者注・以前、吉見の盗まれたカメラから喜多川専務の指紋を検出照合する際、指紋について記述しましたが、詳細に見ていくと、各指ごとに弓状紋、渦状紋、蹄状紋が違う場合も結構あるようです。いずれにせよ、弓状紋型は日本人には少ないようです)で構成されていることは十分にわかりました。湯呑みやグラスからも、複数の指紋が検出されましたが、いずれにも突起弓状紋型の指紋がありました。因みに蹄状紋はいずれにもありませんでした。更に湯呑みから検出された突起弓状紋とグラスから検出されたそれの中に、さっきも言いましたが、現時点でほぼ確実に一致する指紋が見つかっています。それらと色紙の指紋とも照合しましたが、ブレや不鮮明な分を割り引いて考えても、それらは色紙の5指全部の指紋含め近似してます。この3つの証拠物件から検出された指紋においては、特に弓状紋の存在割合の少なさを考慮した上で、ほぼ確実に同一人物の右手人差し指の指紋が含まれていると解釈すべきでしょう」

「つまり、高垣さんが送ってきてくれた指紋には、ほぼ間違いなく同じ人物の指紋がそれぞれにあって、それは手形の名義を前提にすれば、大島の分だということだな?」

「そうですね。それが誰の指紋かは、相手の言うことを信じるしか無いにせよ、おそらく同一人物の指紋ではあったと見ていいと思います。しかも大島海路の」

「その一致した、おそらく大島の右手人差し指の指紋と、証文の、桑野の血判が違ったってことでいいんだな? 手形については大島のモノであると見るのが普通だろうからな、高垣さんが悪意を以って偽証していない限りは……」

「ええ。係長の予想通りでした」

西田はこの時平静を取り戻していたこともあり、血判にあった桑野欣也と思われる人物の指紋の形状を思い起こした。

「証文の(桑野の)奴は蹄状紋だったっけ? それについては、どのブツからも出なかったんだな?」

「そうですね。左側に流れた形の乙種(左)蹄状紋です。血判と一致するものは一切出てません。そもそも言ったように蹄状紋は一切検出されていません」

「なるほど、根本的に指紋の形状が違ってるわけだ。それが結果が割とすぐに出た理由か……」

西田は呻くように呟いた。

「正直、そういうわけで、結果は1時間もせずにすぐにわかったんですが、皆さんの落胆も考えて……」

松沢はそう言うと、言葉を失ったように何も言わなかった。十数秒ほど、2人の呼吸音だけが互いの受話器から漏れていた。


 だが、沈黙を破るように、西田が口を開いた。

「ただ、根本的に、今回送られてきた3つの物に付着していた指紋の『持ち主』が、どれも大島海路でなかったとすれば、まだ『線』は切れてないってことでいいんだよな?」

「ええ。それは当然そういうことになるはず……。ただ、何度も言うように、確実に右手人差し指の一致した人物が、提供されたブツに絡んでいることだけは間違いないでしょう。それが高垣という人のモノでないことは、係長から既にもらっていた、証文や手紙のコピーについた指紋からわかってます。そうなると、どうなんでしょうね……。或いは血判の指紋がそもそも桑野ではなかった、或いは左手だったとか……」

松沢は色々と西田に言った。しかし前者のパターンであれば、送ってきた高垣自身の故意、否、悪意か、或いは別の提供者の悪意が前提が必要になってくる。高垣の性格を考えると、大島を守るためにこういう偽装をしたことは、正直考えにくかった。後者の血判の自体の問題は、これは佐田徹が記した手紙の中身が、少なくとも部分的に間違っているという、これまでの大前提が崩れてしまうのだから、色々と考え直さないとならないことになる。


「いやあ、本当にまいったな……」

西田の吐き出した言葉は、くどい演技をする役者のわざとらしい台詞のようにも聞こえたが、逆に言えばそれぐらい強い実感がこもっていた。

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