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修正版 辺境の墓標  作者: メガスターダム
明暗
65/223

明暗44 {46・47合併}(215~216・217~218 シャルマン潜入)

 それからは、たわいもない話をしつつも、一通り話を聞いたこともあり、竹下と黒須は引き上げることにした。時間は既に午後3時を過ぎていた。小柴老人は脚が悪いこともあるのだろうが、応接間に座ったままで見送り、2人を玄関まで見送ったのは出迎えた家政婦だった。


 ここで竹下は、

「大変失礼ですが、小柴さんの奥さんはご健在ですか?」

と小声で尋ねた。

「いえ……。私がここに勤めるようになってから数年後、今から20年前ぐらいでしたか、お亡くなりになっています」

「そうですか……。姿が見えないので、入院かもしくは故人となっていたかとは思いましたが……。お子さんは?」

「それが……。娘さんが2人いらしたのですが、共にここ5年で……」

「なるほど……。大変嫌なことを聞いてすみません」

竹下は率直に詫びた。


「昔からご自慢の多い方ではありましたが、やはり奥様、そして娘さんを亡くされて、どうも気難しい面が強くなった気がします。年齢の問題だけではなく、やはり寂しいのですかねえ……」

家政婦の言葉を聞きながら、2人は靴を履くと、深々と一礼して玄関を出た。


※※※※※※※


「主任、どうしてあんなことを?」

黒須が、東京特有の歩道もまともにない狭い道をしばらく歩くと、不思議そうな顔で聞いてきた。

「事件とは全く関係ないよ。ただタクシー運転手が言っていた程、話した限り悪い人ではなかったから、何かそう思われるようになった原因があるのかと思ってね……」

「そうでしたか……。それにしても、あんな件を聞く限りは、まあ人間長生きすりゃいいってもんでもないですよね……。特に男は」

黒須は一瞬立ち止まって、元来た道を軽く振り返るとそう言った。

「それもそうだな」

竹下は黒須が聞き取れるか聞き取れないかの声量で言うと、後ろからタクシーが来たのを確認し、何もなかったかのようにサッと手を上げた。


「すみませんが、プレステージステーションホテルへ」

停車したタクシーの座席に乗り込むなり、竹下が運転手に行き先を告げると、

「あれ? 鳴鳳大学は? 今日は無理ですか?」

と、黒須が尋ねた。

「もう3時だろ? 例のシャルマンで高垣を張るまでにやっておきたいこともあるし、小柴の話もまとめておきたい。ちょっと係長に頼みたいこともあるんだ」

竹下がちょっと不機嫌に返答をしていると、運転手が、

「プレステージステーションホテルでいいんですね?」

と確認してきた。

「あ、そこで結構です」

と、誤魔化すように愛想笑いして、車はホテルへと向かった。


※※※※※※※


 ホテルの部屋に戻ると、これまでの午前中からの捜査内容を、まず遠軽の沢井に報告した。沢井としては、既に全権委任状態で東京へ送り出したので、特に意見することもなく、「良きに計らえ」という感じの言葉を竹下に与えていた。


 それが済んだ後は、北見の捜査本部に居る西田に連絡した。既にさっき連絡を受けたばかりだったので、本来であれば、シャルマンへ行った後でも良かったのだろうが、竹下は小柴の話を聞いてから、確認しておきたいことがあったのだ。


 まず、小柴から聞いた話を詳しく説明し、その上で竹下が考えたことを西田に伝えた。西田としても、竹下の合理的な推理について、特に大きな疑問を挟む余地はなかった。ただ、桑野欣也が田所靖となり大島海路となる経緯と、大島の早期の変質に伊坂との「遭遇」が絡んだのではないかという竹下の推測は、西田にとってもかなり興味深いものだった。


 また、事件の本筋とは関係ないが、大島の「師匠」たる海東匠の人柄を表す、「海東イズム」なる言葉が、竹下にとって強く印象に残ったので、それも西田に伝えた。西田も海東匠と言う男についての世間の評価は大体知ってはいたが、直近の知人にそこまで言わせる程のモノだったかと、竹下の話から再認識することになった。


「ところで、係長に是非確認してもらいたいことがあるんです」

「何だ? 何なりと言ってくれ」

「伊坂の件なんですが……。桑野と伊坂は一緒に生田原で働いていたわけですから、当然、ある程度双方の出自について知っていた可能性は高いと思うんです」

「なるほど、言われてみればそういう可能性はあるな」

「大島が不安を抱きつつも網走に行き、そして選挙に出て、その後、後悔した様子から見て、自分の推理通り、大島と伊坂が選挙期間中に遭遇していたとするならば、もしかすると、伊坂が北見に居るという推測を大島はしていなかったんじゃないか? そう思うんです。確か、伊坂は1950年、えーっと、昭和25年には伊坂組を起こしてますから、大島が北海道に戻った頃は、既に北見在住だったはずです。しかし、それを知らなかったとなると、伊坂の出身地を洗った方が良いかと思いまして……。生田原での労働状況から察するに、若い頃は流れ者の可能性が高いにせよ、少なくとも戸籍の出生地においては、実際のものと結び付くでしょう」

「つまり、当時の桑野が聞いていた伊坂の居住履歴と、北見網走地方が結びつかなかったため、道東ならばれないのではないか? と思っていたってことか?」

「全くその通りです!」

竹下は声を張った。

「しかし、戸籍を洗うとなると、北見市役所になるだろうから、伊坂には後々バレるかもしれんぞ」

西田は懸念を伝えたが、すぐに、

「いやいや、もう伊坂には捜査が及んでるのは自明だから、今更バレるのを気にする必要なんてなかったな……」

と即発言を撤回した。


「そういうわけで、お願いできますか?」

竹下は西田の「妄言」にはいちいちコメントすることもなく、要望を繰り返した。

「わかった。今日はちょっと厳しいが、明日夕方までには何とかする」

「頼みます。それから今日はこちらも、やっぱり鳴鳳大学へは行かないことにしました。シャルマンに行くまでもう時間も余りないので」

「それは仕方ない。そっちのペースに任せるよ」

「ええ、甘えさせてもらいます」

竹下はそう言って笑うと、電話を切った。


※※※※※※※


 報告を終えるなり、それから2時間程掛けて、竹下は買ってきた本をざっと読んだ。さすがに全てを把握するのは無理がある。あくまで概要だけ掴んで、高垣と遭遇した場合、話しかける切っ掛け程度になれば良い。黒須は、朝出かける前にホテル近くの店に頼んでおいたあるモノを受け取りに行き、戻ってくると竹下が読んでいない本を交互に読んで備えた。


※※※※※※※


 当日(11月16日)の午後8時過ぎ、新宿ゴールデン街に、如何にも「御上りさん」と思しき、シャルマンを探す2人の姿があった。西田から大体の位置は聞いてはいたが、あくまで伝聞であり、実際に来てみた様子とは違ったので、少し迷っていた。

「あ、ありました! ここですね」

黒須がちょっと小汚い外装の店を指さす。

「ああ、この点は聞いていた通りだな」

竹下も呟きながら、店のドアを開けた。


「いらっしゃいませ」

カウンターから中年のバーテンの低い声がした。こちらも事前に西田に聞いていた通りだ。確かマスターは斉藤という名前のはずだが、見ず知らずの人間がいきなり呼びかけるのも相手を警戒させるだけである。

「じゃあ、取り敢えずウイスキー水割り、ツーフィンガーでそれぞれに」

コートを脱ぎながらカウンターに座った。

「お客さん初めてですね?」

チラチラとこちらを確認しながら、マスターは尋ねてきた。

「ああ、東京に出張に来ていていね。ゴールデン街ってのがどういうところか、部下と冷やかしと言っちゃなんだけど、見てみようってことで足を運んだってわけ」

「そうですか……。結構ごちゃごちゃしてるでしょ?」

苦笑いしながら聞いてきた。

「まあ、ある程度聞いてはいたから、こんなもんかなと」

「それならいいですけどね……。ところで、何でわざわざ数ある店からウチに? 特別入り口に近いわけでもなく、目立つわけでもない。まあ、たまには居ますけどね、そういう飛び込みみたいな客が」

竹下は想定外の流れに少々戸惑った。これほど「追及」してくる一般人を予期していなかったからだ。西田からも、こういうタイプだとは聴いていなかった。いや、西田の時も、実際には西田と吉村の会話から色々推察して話しかけてきたのだから、こういう「傾向」の持ち主であったのかもしれないが、ここまでズバズバ聞いてくることは、教えた西田も想像していなかったに違いない。


「いや、別に特に何かというわけでもなく、何となくね……」

竹下は適当に誤魔化そうとした。

「いや、別にどうでもいいんですけどね……。先月辺りも2人連れの人が迷いこんできてね。確か刑事だとか言ってたな。何かの捜査とかでもなく、あれもたまたまだったようだけど」

いきなり、西田と吉村についてだろう話題を切り出してきたので、特に何か悪いことをしているわけでもなかったが、2人はビクっとした。

「ほう。そんなことが……」

そう言っている間に、斉藤は2人に水割りを出した。そして別の客と談笑し始めた。


「何か想定していたのとちょっと違う感じですね。ちょっと焦りました」

黒須がヒソヒソと竹下に話し掛けた。

「ああ、俺も少し焦ったよ」

竹下も応じた。しかし、このまま2人だけで飲んでいては、情報収集が出来ない。2人はタイミングを計った。


「マスター、ジントニック!」

「俺はハイボール」

マスターが常連らしき客との会話を一段落した頃合いを見計らって、2人は注文を入れた。手際よくそれぞれのオーダーを作ると、竹下にジントニック、黒須にハイボールを差し出した。

「はいどうぞ!」

「ところで、マスター、何かツマミないかな?」

「ええ、ナッツ類とか、スナックとか、サラミとかありますよ」

黒須が聞くと、飄々として答えた。

「ああ、なんかそういう洒落たもんじゃなくて、氷下魚こまいとかないかな?」

部下はすぐに予定通りの「口」動に出た。

「氷下魚? いやそれはここにはないですよ。それにしてもお客さん、北海道の人?」

竹下と黒須が事前に考えた「罠」にマスターは見事に掛かった。氷下魚とは北海道でよく食される珍味系の代名詞でもあり、タラ科の小魚の名称でもある。干したものが酒の肴やおやつとして重宝され、マヨネーズや七味唐辛子などを付けて食べられるものだ。道民以外にはそれほど知られていない干物の類である。


「え、何でわかったの?」

白々しく聞く黒須。

「いやあ、氷下魚なんてのは本州、いや内地(年配の道民には本州を内地と呼ぶ人もいるが、さすがに2000年代以降となるとほとんど居ないのが実情だが)じゃ取れませんからね。あれは北海道特有の魚の干物だから」

と答えた。勿論そんなことは百も承知だ。事前に練っていた計画が成功した。後は計画通りに進行するだけだ。

「そうだったんだ。本州にはほとんど来ないから知らなかったよ」

「それでお客さんは北海道のどこなんですか? 2人ともそうなのかな?」

「いやあ、勤務してるのは札幌の食品卸会社なんだけど、出身は岩見沢、こいつは小樽」

さすがに西田が既にマスターの斉藤相手に喋った「遠軽」と言う地名は避け、竹下が実際に生まれた岩見沢と、黒須の実際の出身地小樽に変えて答えた。

「岩見沢に小樽か……。僕は岩見沢は住んだことがないが、小樽は小学校の一時期住んでたことがありますよ。オヤジが教師やってたからその関係で……」

「マスターも北海道なんだ?」

黒須が話に上手く入り込んだ。


「だからこそ氷下魚の話したでしょ? 高校まで僕も北海道ですよ」

「そうかあ! そりゃ親近感が湧くなあ。じゃあ偶然の出会いを祝して、マスターに俺からおごるから乾杯しようか! マスターも何か飲んでよ」

竹下に促され、

「じゃあ、ハイボールもらうかな」

とにこやかに応じた。そしてすぐにハイボールを作ると、

「乾杯!」

と3人はグラスをぶつけた。


「ところで、東京へは何しに?」

「食品関係の卸会社なんだけど、ちょっと取引先の新規開拓にね。北海道も景気良くないから、社の方針で思い切って本州へって話……」

既に黒須とどんな偽装をするかは事前に決めていたので、最初は想定外の流れに焦ったが、この辺りは落ち着いて竹下は対処出来た。

「東京は詳しいってわけでもないんでしょ?」

「うん、ほとんど来たことがないから、色々大変でね……」

「そりゃあ、知らない土地で飛び込み営業みたいなことやってたら、大変だよね」

マスターはハイボールをチョビチョビ飲みながら、嘘の設定に乗って話を広げてきた。


「まあね……。でも見るもの全て目新しくて、修学旅行にでも来た気分だよ。実際修学旅行以来だから、東京は」

「そんなこと言っても、札幌も都会でしょ?」

「いやあ規模が違いますよ!」

黒須がやけに大げさな口調で言ったが、必ずしも謙遜ではないはずだ。

「言われみりゃ確かに、都会の規模は段違いではあるなあ。20年以上住んでるから、自分は麻痺してしまってるところはあるかもしれないね……」

西田から事前に得ていた、マスターの個人情報を加味すると、その発言にも何か哀愁を竹下は感じていた。


「20年か……。東京はマスターにとって良い街だった?」

「うーん、どうなんだろうね。無数の夢とそのむくろが息づく街、そんなな感じががしますよ、振り返って見ると」

黒須の問いにやけに文学的な表現をしたので、竹下は思わず、

「いいねえ……」

と唸ってしまった。

「いや、そこまで言ってもらうようなレベルじゃない」

マスターはさすがに照れたようにグラスに口をつけた。


「ところで、ゴールデン街って、結構有名人が来るとか聞いて楽しみにしてたんだけど、ここもそういうお客さん居るの?」

「まあ文壇バーみたいなところもチラホラありますからね。ま、ウチは基本的にそういう客層の店ではないですよ、残念ながら」

回答が、竹下の想定とは違う方向に行ったので、少々面倒なことになった。ここで「高垣真一」の名前が出てくるかと思ったが、どうも、ジャーナリストのカテゴリーとしては有名だが、「有名人」という括りだと遠慮したのかもしれない。


「でも、『基本的に』ってことは、皆無ってわけでもなさそうだね」

ある意味必死に修正を計った。

「うん、まあ居ないということもないかなあ……。知ってるかどうかわからないが、ジャーナリストとかノンフィクション作家で有名なところだと、高垣真一って人がチョクチョク来ますよ」

「え? 高垣真一って、サタデープロジェクトとかに出てる、あの高垣真一!?」


 普段の竹下からは違和感のあるテンションで反応したので、横の黒須が笑いをこらえるために俯きながら、微かに震えているのが視界に入ってきたが、構わず続ける。

「そうそう! あ、知ってるんだ。そりゃ良かった」

「知ってるも何も、著作も何冊か読んでるよ!」

「へえ! 結構ファンなんだね。本も読んでるとか。あ、ちょっと待ってね」

そう言うと、店の棚から何やら取り出して竹下の前に置く。

「これ、高垣さんが本出した時にサイン入りで置いてくれてった奴」


 目の前のカウンターに置かれた本は、「永田町VS霞ヶ関 情報操作」と「領袖 ドンの威厳」、「兵庫県警 淀みの本質」という3冊だった。この内、竹下と黒須が古本屋で入手していたのは、「領袖 ドンの威厳」だけだった。プレミアが付いていない著作だった。発行年月日の確認はしていないが、おそらく最新の3冊だと推測した。


「どう、読んでるのある?」

「えっと、ドンは読んでるな……」

「他の2冊もなかなかいいですよ。是非!」

マスターはそう言うと、本を取り上げて背中を向け仕舞った。仕舞い終わったのを確認して、竹下は改めて声を掛けた。

「ところで、チョクチョク来るって話してたけど、最近はどうなの?」

「確か……、10日前ぐらいに来たはず。その時は沖縄に取材に行くとか言ってたな……。数日取材で滞在するとか言ってたから、近いうちにまた来るんじゃない? 地方に取材に行ってる時は勿論だけど、東京に居る時でも執筆に入ると、何週間も来ないことがあるから、安請け合いは出来ないけど」

「そうか。せっかく東京に居るんだから、会えないかなあ」

「いつまで居るの?」

「期限は、まあ大体11月の25日ぐらいを目処とは、会社から言われてるけど……」

「そうかずいぶん逗留するんだな……。じゃあ、もし良かったら、高垣さんが来たら連絡してあげましょうか? そんだけ居るなら会える可能性は高いと思いますよ」


 マスターの一言は、竹下達が想像していた以上の、まさに「渡りに船」の提案だった。

「あ、そうしてもらえるかな? 助かるよ。じゃあこの携帯の方に連絡してもらえる?」

そう言って手渡した名刺は、区役所に行く前にショップに注文しておき、さっき黒須に取りに行かせたものだった。


「カネ実食産 営業部 主任 竹下 昌一郎 携帯電話…………」名義の名刺だった。会社の電話番号は、札幌に居る竹下の弟の家の固定電話のものにしておいた。固定電話は引いているが、家にほとんど居ないので出ることはまずないからだ。「カネ実食産」名は佐田実の経営していた、既に倒産した会社のものをそっくりそのままいただいたわけだ。

「了解。じゃあもし来たら、ここに掛ければいいんだね?」

「それで。よろしく頼むよ!」

竹下はそう言うと、それから小一時間ほど黒須と共に「安心して」酒をあおった。小柴の聴取で色々見えてきたものがあり、少し調子に乗ったのかもしれない。


※※※※※※※


 11月17日金曜日、西田と吉村は北見市役所に居た。勿論目的は、伊坂一家の戸籍を洗うためだった。息子の政光の戸籍チェックを名目に、伊坂家の戸籍を調べた。その結果、伊坂大吉、いや太助は、大正9(1920)年に道南の松前町(作者注・1940年までは福山町。その後改称)で生まれ、昭和22年の12月に、結婚による新規戸籍の筆頭として、北見市(作者注・1942年に野付牛町から北見市制へと以降しています)に戸籍が出来ていた。


 息子の政光は昭和24(1949)年に生まれていた。そして同じ年に、太助から大吉へと改名が認められていたようだ。伊坂組が昭和25年に設立されたことから考えると、そのために景気付けもあって改名したのかもしれないし、息子の生誕が契機になったかもしれない。


「なるほど。出身地は松前か……。一緒に生田原で仙崎老人の下で働いていた頃、そういう話を聞いていたとすれば、まさか北見に居るとは思わなかったかもな……」

「小樽の佐田譲の話では、戦後割と早い時期に小樽に来て、桑野と共に砂金を掘り出したとすれば、その後の2人がどう別れたかは別にしても、そのまま近場である北見周辺で定住していたというかもしれないですね」

吉村の言う通り、生田原と北見の距離で言えば、もしかしたらそのまま居着いて、落ち着いた後、結婚して北見で戸籍を作った可能性はあった。ただ、この時2人が時代背景を深く考えていれば、そして7年後の2人の捜査の結果から見れば、伊坂大吉が「そのまま居着いて」ということはなかったのだが……。しかしそれをこの時の2人に求めるのは酷だったと言えよう……。


※※※※※※※


 一方、東京の竹下と黒須は、卒業大学の鳴鳳大学法学部の教務課で聞き込みに入っていた。それ以前の学歴について、入学資格と絡んで何か記録が残っていないか調べることがまず第一目標であった。


 しかし残念ながら、それは残っていなかった。残っていたのは在籍時の成績だけだった。色々大学側に調べてもらった結果、戦前に旧制中学を卒業した人間の入学資格においては、小柴の証言通り、「新制大学入学資格認定試験(作者注・昭和23年から25年まで実施)」なる、大学入学資格検定、いわゆる大検(現・高等学校卒業程度認定試験、いわゆる高認)の前身の制度を利用する必要があったようだ。


 大学入学時点の昭和25年春で既に「桑野靖」として入学。その後養子縁組により「多田靖」として卒業していた。勿論教務課の職員は、この多田靖が今の「大島海路」であることは認識していなかった。ただ、軽く大学OBの有名人について聞き出してみると、大島海路の名前が出て来たことからも、OBであること自体はそれなりに有名のようだった。本人も公報に載せるほどで、全く隠しておらず、大学側も「大島海路」どころか、現在の本名である「田所靖」として、名前こそ違えど、把握しているのは間違いなかったようだ。


 いずれにせよ、政治上の名前である大島海路を彼の本名だと思っている人間の方が、地元以外では圧倒的に多いのだろうから、一般人相手への改名によるロンダリングの意味は、結果的には、それほどなかったのかもしれない。


「桑野の痕跡をたどるには、また岩手行って、近隣にあった旧制中学を虱潰しに調べてみるしかないんですかねえ……」

大学の学食で、講義がないのかサボっているのかはわからないが、談笑している学生に紛れ一息入れていると、黒須が大きくため息をいた。

「先はそうなるかもしれないが、今はそれを考えても仕方ない。次のターゲットは高垣への接近と偵察。そこをまずどうするかだ」

竹下は部下に、直前に迫った任務にまず目を向けることを要求した。それにしても、周りの学生の楽しそうな様子を見るにつけ、イラついた気分になったのは、捜査の進展にやきもきしていたからではなく、単に、若さと自由だった青春時代への憧憬があった故かもしれないと、竹下はうっすらとではあるが気付いていた。


※※※※※※※


 午後、北見署の捜査本部にやっと大きな動きが出た。病院の看護婦の中に、事件現場となった北見共立病院の理事長である浜名が、被害者・松島の個室に入るのを、夜間に何度か目撃したという話が出て来たのだった。


 元々、理事長と松島は昔からの知り合い(共立病院への入院もそういう理由があった)ではあったが、わざわざ面会時間外に会う必要もなさそうで、本来であればもっと早くに出て来るべき情報だったが、かなり前のことでうっかりしていたらしい。


 殺人事件の後、普段はそれなりに明るいボスの浜名が妙に暗く、顔色が悪かったことで、やっと思い出したということだった。


 盗聴器を仕掛けた人間が誰か、未だにわからないだけに、この新たな情報は、再び事件が動き出す可能性を秘めたものだった。一方で、北村のテープの存在を捜査本部全体に公表していなかったこともあって、全体としては、まだ盗聴器が仕掛けられていた件を、共有はしていなかった。


 しかし、共立病院事件において1つの捜査方針の選択肢である、佐田実殺害事件との関係上、何らかの盗聴自体の可能性としては、テープの存在が明らかになる以前から、捜査員に既に提示していたこともあり、浜名を任意で聴取することを決定した上で、本人に連絡して聴取に応じることを求めた。



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