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修正版 辺境の墓標  作者: メガスターダム
迷走
16/223

迷走3 (21~30)

 7月30日、日曜日の午前8時、北見方面本部で捜査会議が始まった。本来の北見ならばまだ涼しい時間帯のはずだが、割と湿度の高い、肌にしっとりと張り付くような不快な空気感を西田は感じていた。ただクーラーまでは必要もなく、しかもこの部屋にはどっちにしろクーラー自体が無かった。


 そもそも北海道の警察施設は、クーラーの設置されていない部屋が多い。実際、気温が高くなることはあっても、通常は湿度が低いので、体感温度はそれほど高くないからだ。北見は夏場、快晴日が非常に多く、日本でも有数の日照時間に恵まれている。それもあって気温も30度超える日は案外多いが、割と過ごしやすく、早朝と夜間は一気に気温が下がるので、クーラーの必要性は低い。北見方面本部でもクーラーのある部屋と無い部屋がある。遠軽署は全部の部屋にクーラーが付いているが、部屋数が少ないこともあるだろう。


 北見に留まった沢井、西田以外の遠軽署の刑事達は遠軽を6時には出ている訳で、皆眠そうにしていたが、竹下だけは思い詰めた表情をしていた。槇田署長は署を空ける訳にもいかないので、副本部長は不在だった。会議室全体も活気がないのは、早朝で元気がないというより、喜多川のアリバイ成立がそうさせているのだと、西田は感じていた。


 大友捜査本部長より簡単な捜査状況説明がなされ、詳細な説明は倉野事件主任官よりされたが、米田殺害・遺棄の最重要被疑者が捜査線上から基本的に消えたことは明らかだった。その上で、どうして喜多川が米田の遺体遺棄現場を知っていたか、関係ないはずの喜多川が何故、おそらくだが事件発覚を恐れ、米田の遺体を回収しようとしたのか、その二つを突いて行くことが、残された打開点だということを再確認した。


 そして、昨日の西田と北村が取ってきた新情報である、喜多川と前職の国鉄時代からの同僚である「篠田 道義」の存在が報告され、昨日書いた報告書が配られた。佐田の事件に関係している可能性を考慮する必要があるものとしたが、本人が既に死亡していることと、佐田の件の捜査は、確証が薄い段階の現時点では、再び「圧力」を掛けられる可能性があったため、かなり限定的にならざるを得ない部分はあった。それでも倉野は、篠田の周辺捜査に捜査員を10人投入することを発表した。想定しうる中では、最大限の人員投入だろう。勿論、西田と北村はその役割を当てられた。そして、捜査会議が終わろうかとしていた最中、竹下が突然発言の許可を求めた。西田もその他の出席者のざわめきと共に竹下を見遣った。


「竹下、何か問題があるか?」

「事件主任官! 喜多川の勾留、このまま飲酒運転と過失傷害のままでするつもりですか?」

竹下の言葉に複数の捜査員が竹下の方へ振り向いた。西田は竹下は最初からこれを言うつもりだったのだと、先ほどの竹下の表情を思い返していた。そして同時に、「やってくれたな……」と言う思いも抱いていた。


「何が言いたい?」

倉野は冷静に言い放った。

「主任官! 既に喜多川の米田の件での直接の関与は、アリバイが完璧な以上はほぼ無理筋という結論が出ています。今回は勾留段階で既に弁護士が付いており、今の勾留が実質別件逮捕ということも相手の知るところとなっています。既に別件自体の捜査が終了していることもバレている段階で、本件容疑の本筋がアリバイによって崩れたとなると、いつまでも今の勾留をするのはマズイんじゃないですかね? 相手の弁護士もこのままじゃないと思いますが」

会議室がざわつく。

「じゃあどうすんだ?」

「既に吉見のカメラの件で、本件の一部ですが、逮捕は認められる段階でしょう? 遠軽署あっちでの逮捕勾留に切り替えるべきです!」

倉野はそれを聞いて、

「確かに本件逮捕も出来る状況ではあるが……」

と言うも、そこに道警本部からのアドバイザーである道下が割り込んだ。

「おい、若造! おまえ何言ってんだ? ただですら喜多川が米田の殺害をしてないとわかった状況で、奴が現場を知ってた理由わけを問い詰めるのに、今まで以上に『時間』が必要になってんだぞ? そこでわざわざ自分から相手に有利になるようなことするなんて、捜査の基本イロハわかってんのか?」

犯人を取調べする際の迫力のあるドスの利いた声で竹下を威嚇したが、竹下もその程度では怯まない。

「本件で勾留しても、延長含め最大20日の取調べが可能です。その間に吐かせられないのなら、別件の分を足したところで結果は同じでしょう。今回は既に米田殺害の本件、おそらく死体遺棄についても、喜多川は無関係なんですよ? そっちでの容疑があるならともかく、そこを理解してますか?」

「おまえ誰に口利いてるんだ? こっちの経験はおまえのそれとは次元が違うんだ! 裁判所も検察やこっちの言いなりだ! 弁護士が何やろうが気にする必要はない!」

二人の会話がヒートアップするのと対照的に、他の捜査員達はなんとも冴えない表情になっていた。そんなことで争っている場合ではないというのが共通認識だったのだろう。


 確かに竹下の言うことは理想論に近いが、一方で本件での逮捕が可能にも関わらず、喜多川を別件勾留のままで取調べする必要性があるかと言われれば、かなり疑問がある。前回、車の中での竹下の意見を聞いた時とは、喜多川のアリバイ成立という状況が変わっているのも事実だ。一概に「青い」として切り捨てられる状況でもなくなっていた。


 一方で道下のベテラン刑事としてのプライドもわからないではないが、若手を恫喝するほどの正当性は明らかにない。捜査が混沌としたこともあり、なんともやりきれない空気が漂い始めた中、空気を察した倉野が仲裁に入った。


「道下刑事も竹下もお互いに落ち着いてもらえんか? 捜査本部が割れている状態じゃないんだ! ここが大事な時なんだから……。竹下、おまえの意見ももっともだが、喜多川が何故米田の遺棄場所を知っていたかについて調べるためには、時間はあればあっただけ良いのも事実。そして何より、佐田の件と喜多川はまだ切れてない。まだ別件で得た時間は無駄には出来ん。そこは理解してくれ」


 道下はやってられないという態度を隠さなかったが、竹下は不満はあるのだろうが黙って頷き、取り合えずその場は収まった。基本的に捜査に余り介入しない、よく言えば現場任せ、悪く言えばやや無責任な大友捜査本部長も、

「とにかく捜査本部が一体でなくなったら、この難局を乗り切ることは不可能になる。上から下まで一貫して対応に当たらなくては、事件は解決できんのだ!」

と強い口調で訓示せざるを得ない状況に陥っていた。


 捜査会議は1時間強ほどで終わったが、雰囲気の悪さは後を引いていた。西田はこの後の篠田の情報収集捜査に行く必要があって、遠軽署には戻らないので、竹下のフォローは敢えてしないことにした。おそらく沢井課長が対応してくれるだろうという期待もあったが、西田自身、「頭を冷やさせる」必要があると感じたことも、その理由として大きかったことは言うまでもなかった。


※※※※※※※


 篠田についての聞き込みでは、本人が死亡しているとは言え、その日のうちにそれなりに情報が集まった。死亡してから、それほど年月が経っていないこともあったが、喜多川の時の捜査と違い、周辺から知られないように慎重に捜査する必要がなかったため、楽だったということもその理由になっていた。


 刑事達は伊坂組にまず直接寄った。日曜ではあったが、数人出社していることを確認した上での行動だった。伊坂組では、既に捜索を食らっていたこともあり、素直に情報提供がされた。喜多川と同様の出世経緯なのは奥田に聞いた通りで、1987年の冬に部長に昇進、1990年春に人事部の部長になっていた。92年頃から慢性肝炎が悪化し、93年に肝臓ガンになり、94年3月2日に死去したとの話だった。


 部下だった社員にも聴取し、篠田の人となりについての情報も得られた。はっきり言ってしまえば、余り他人から評判の高いタイプの人間ではなかったと言うのが結論だった。かなり打算的なところがあり、信用に値しないという声が多かった。だからこそ、特別仕事が出来た訳でもないのに、異例の出世を果たしたことを、喜多川以上に不可思議なこととして受け止めていた人間が周辺に多かったのだ。


 また家族は妻と娘が一人居て、北見市内に在住していることもわかったが、遺族との連絡がすぐに取れなかったので、その日は周辺の聞き込みだけに留めることになった。その後、西田と北村の組は病歴・死因について調べるため、掛かり付けでもあり、死亡時まで入院していた北見市内の飯田病院へ行き、それらが事実だったという裏付けを取った。


 一方、喜多川の事情聴取は朝から道下を中心に、北見署の取調べ室でしつこく行われていた。米田の殺人に直接関与していない喜多川が、米田の遺体の場所を知っていた理由、そして遺体回収の目的などをしつこく聞くも、一貫してそれについては知らないと主張。穴を幾つか掘っていたのは認めたが、それは遺体を回収するためでなく、きんを探すためだったと、延々と言うばかりだった。


「なんだ金ってのは? 弁護士の入れ知恵か? だとしたら、全く余計なことを……」

道下が、取調室の裏に陣取る倉野や大友捜査本部長に愚痴を言いに来た。

「いや、よくわからん、我々も」

倉野も困った様子だ。

「あんなところで金なんて採れるわけがないだろ! 聞いたことがないぞ」

「道下、声が大きいぞ! さすがにあっちに漏れる、静かにしろ」

大友が、道下が道警本部から来ているとは言え、階級上明らかに上の立場を示すためもあったか、声を荒げる道下を注意した。そして、

「倉野、生田原町役場に連絡取ってみろ。そこならなんかわかるだろ?」

と提案した。

「本部長、今日日曜ですから、役場に人が居ても、それがわかる人かどうかは……」

倉野がそう答えると、大友はハッとした様に、

「そうだ、今日は日曜だったな……。曜日感覚がすっかり無くなってたよ、スマン」

とボヤき、最後は残念そうに舌打ちした。その間にも道下は既に取調室に戻り、喜多川を問い詰めることを再開していた。マジックミラー越しに机をバンバン叩いて被疑者を脅している道下の姿を、倉野は何とも言えない表情のままで見つめていた。対面の喜多川は俯きながら、額の汗をぬぐっている。暑いだけではなく、緊張感からの汗でもあるだろう。


※※※※※※※


 夕方の会議では、西田達による篠田についての聞き込みの成果が発表された。倉野は、

「篠田も佐田の失踪に何か関係していることは、ほぼ間違いなさそうだ」

と言って、ホワイトボードに伊坂組から提供された篠田の写真を貼り付けた。喜多川の取調べ班からは、新たな主張である「金探し」の報告がなされたが、明らかに取ってつけたような言い訳だという意見が大勢を占めた。


 但し、翌日の月曜、倉野が朝方に生田原町役場(合併により、現・遠軽町役場生田原総合支所)に問い合わせると、午後には産業課より、

「過去、生田原町に複数の商業金鉱山があったのは事実。ただ、川で採れる砂金のような形のものより、土中にある普通の小粒な金の塊のパターンが多かった。現在も少量のものなら採れる可能性はあるが、該当現場周辺で採れるかどうかは不明」

との回答が、小一時間程で寄せられた。


※※※※※※※


 北海道では、現在において金が事業レベルで採れる場所は既に皆無だが、かつては遠軽町の近辺でもある、紋別市の「鴻之舞こうのまい鉱山」(紋別とは言っても、遠軽からもかなり近い場所にあった)や生田原にあった「北ノ王鉱山」など、日本でも有数の大規模金鉱山が存在しており、それらはかなりの産出量を誇っていた。当然、商業鉱山レベルには達しないものの、豊富な砂金なども道内各地で発見され、それを目当てに入ってくる「山師」も多く、北海道の東西南北各地で小規模ながら、「ゴールドラッシュ」の様なものが明治から戦前を中心に発生していた(江戸時代に既に金の採掘が行われていた箇所も道南を中心に幾つかある)。生田原町でも開拓農家の農夫が作業中に金塊を発見、その後鉱脈が発見されたことから、かなりの活況ぶりだったという。


※※※※※※※


「しかし弁護士もなかなかちゃんと調べてますね。後付の言い訳にもちゃんと歴史的裏付けがあったんだから……。松田弁護士? なかなか嫌らしいことやりますわ……」

方面本部から北見署での取調べの様子を見にやって来ていた比留間管理官が、倉野を相手に「してやられた」という態度で捨て台詞を吐いた。

「そこはやり手だから。まあ、そんなことも気にせず、アイツは相変わらずだが……」

倉野の言葉通り、マジックミラー越しには、喜多川相手に高圧的な取調べをする道下の姿が映っていた。


「ところで、接見要求はあれ以降ないんですか? 倉野主任官」

「比留間、今日は拒否して明日の午後に指定してるよ」

「へえ。すぐに接見させないと弁護士もお怒りじゃないんですかね? 飲酒運転の逮捕自体は問題ないにしても、どうも別件だったってバレちゃってるんですから。遠軽の竹下でしたか? あいつが昨日言ったことも、俺はわからんでもないですよ」

「裁判所はこっちの言い分は聞いてくれるはずだから、大丈夫だとは思うけど……」

「まあそうですけど……」

比留間は頬を膨らませ、他人事のようにおどけて見せると、

「ちょっと外の空気吸ってきますわ。なんかここに居ると暑くて息苦しい感じがして」

と言い捨てて部屋を出て行った。比留間自身は何か言いたいことがあったのだろうが、立場上遠慮した様に倉野には感じられていた。


※※※※※※※


 その頃、西田と北村は、篠田の遺族の家を訪れて、ちょっと派手目の未亡人・倫子から篠田についての聞き込みを行っていた。さすがに1年以上前に死んだ男について、警察が何やら調べにやって来たことは青天の霹靂だったらしい。当然任意での聴取ではあったが、他人に話す機会も無かったせいか、一度話始めると止まらないという感じで、警察相手にも案外饒舌に故人のことを喋ってくれた。


 妻が語る篠田像は、肝臓が悪い割に酒好きで、女性問題も幾つか起こした女好きで、賭け事が好きで、たまに手もあげるが、それでいて嫌いにはなれない、そんな男だったらしい。悪い表現をすれば、いわゆる共依存関係であり「腐れ縁」の夫婦関係だったとも言えそうだった。


 また、モノを置き忘れたり、失くしたりするなど、集中力に欠けた点が、妻としてはかなり気に食わない篠田の悪癖だった様だ。時計やカギなどを紛失して大騒ぎなどということがよくあったらしい。特に結婚から数年後に、有名宝飾ブランドのオーダーメイドの結婚指輪を失くして夫婦喧嘩になったという話になると、今目の前で起きているかのように、目を吊り上げて怒っていた。その様を見て、二人は早く退散したい気持ちになった程だった。


 ただ、そんな倫子から見ても、篠田の出世劇については首をかしげるもので、未だにその理由がよくわからないと言う。その辺を篠田本人に確認しても、余り多くを語らなかったそうだ。しかも、出世してからの方が、肝臓が悪いにも関わらず、酒を飲んでの妻への悪態の頻度が増えたらしい。そういう意味で、稼ぎは増えたが、余り歓迎できる状況ではなかったというのが、妻の本音だった様だ。そのおかげで自分が今生活出来ているとしても、それより生きていて欲しかったという言葉に、西田は嘘は微塵も感じなかった。そして出世が佐田の失踪と「引き換え」であるのなら、出世後のやさぐれ方から、何か篠田自身に後ろめたい感情があったとしても不思議ではないと、西田も北村も思った。具体的な証拠もない以上、現時点ではただの推測に過ぎなかったが。


 結局のところ、カミさんによる、死んだ旦那との惚気のろけ話とも言える話も多く、暇な熟女の話相手になっただけとも言えたが、西田と北村は「お相手」を最後まで勤め上げた。そして上手いこと誤魔化して、篠田の写真と生前篠田が使っていたというライターから指紋を採取すると、北見方面本部に戻った。


※※※※※※※


 その日の夕方、北見署で取調べを見守っていた倉野と比留間に、交通課により重大な報告が入った。松田弁護士が勾留を止めさせるために「勾留取消請求」を釧路地裁北見支部に提出したらしい。今回の飲酒運転事故を担当している、釧路地検北見支部の木島担当検事より、交通課に連絡が入ったのだ。弁護士が検事に直接、別件逮捕状況の解消を求めると共に、アリバイが立証された事件の取調べの不当性を主張し、喜多川の身柄解放を求めたが木島が拒否。それを受けて松田が勾留取消請求を裁判所に提出したらしい。


「いよいよ相手さんも動き出しましたか……」

報告を受けた比留間はさもありなんという口調だった。

「あり得るとは思ってたが、想定より早かったな」

「まあ、接見も思うように出来ないとなると、相手を刺激してしまったかも」

倉野とは対照的に、相変わらず第三者的な比留間の発言だ。倉野は内心むかつく部分もあったが、ぐっと我慢した。

「でも裁判所が検察、警察の言うことを聞かないなんてのは、まずないから。俺はそれほど心配はしてない」

「いや主任官! 一応、吉見の件での逮捕勾留への切り替えも頭に入れておいた方がいいでしょ! 常に最悪の事態を考えておかないと」

比留間はこの時ばかりはかなり真剣な言い方になっていた。

「それもそうだな。考えておくか」

先程までの比留間の態度であれば、素直には受け取らなかっただろうが、今の比留間の言葉は捜査を真面目に考えた上での発言に思えた。


「しかし、あの人はこのままずっとあの調子なんですかね? スマートにやれとは言いませんが、あんなやり方じゃ、警察批判に反論出来ないでしょ……」

比留間は道下の威圧的な取調べを注視しながら、呆れたように言った。

「こんなに理知的なタイプだったっけ?」

それを聞いた倉野は比留間の言動に内心違和感を覚えていた。しかしながら、よくよく考えてみれば、以前懇親会で飲んだ時に酔った勢いからか、「警察は変革が必要だ!」としつこく言っていたのを思い出し、職場でこそ余り熱いタイプではないが、内心は色々考えているのかもしれないと思い直した。


 松田弁護士により勾留取消請求が提出されたことは、すぐに遠軽署の捜査本部そして方面本部の捜査本部「別館」にも連絡が入り、こちらはこちらで軽く騒ぎになっていた。勾留取消請求の詳細な請求理由については、書面を見ていないので捜査員達には具体的にはわからないが、おそらく「別件逮捕相当として不当」というのが、その理由になっているだろうと大方が見ていた。倫子の事情聴取から戻っていた西田もそれを聞いていたが、おそらく裁判所は相手にしないし、いざとなれば本件事案に切り替えればいいと、ほとんど気にしていなかった。


 一方で遠軽署に居た竹下は、それとは違う感想を持っていた。それは竹下が別件での勾留維持について疑問を持っていたからではなく、松田弁護士という人間の手法からすると、やけに「弁護士らしい」行動だと思ったからだ。通常通りの判断を裁判所が下すとなると、おそらく警察寄りの判断をするのが常道で、そこに敢えて正論で真っ向勝負してくる弁護士なのか、松田の今までのやり方を聞く分には竹下には疑問だったからだ。

「これは、ある程度勝算があるのかもしれないな」

と竹下は呟いていた。


 夕方、喜多川の取調べ状況についてと、西田達の篠田関連の捜査報告が捜査会議でされた。篠田についての情報は、佐田の失踪事件解決の鍵になるかもしれないという期待感を捜査本部では持ちつつも、現状では決定的な情報ではないということが、いまいち「反応」を鈍くさせたかもしれない。しかし、それ以上にアリバイによる、米田殺害事件の停滞感と相手弁護士による「逆襲」が、沈滞した雰囲気の大きな要因のように西田には思えた。


※※※※※※※


 8月1日、勾留取消請求についての審議が、釧路地裁北見支部で行われている中、道下と向坂は喜多川を詰問していた。本日は佐田の失踪の件の取調べで、北見署組の向坂も取調べに参加していた。向坂は逮捕直後より、喜多川がかなりやつれているのを感じた。


「おいお前! 弁護士が勾留を取消しようと画策してるみたいだが、裁判所は警察の味方だからな! 逃げ場所なんて無いんだよ! 観念してそろそろ本当のことを話せよ!」

相変わらずの道下節だったが、喜多川はほとんど反応しないまま下を向いている。向坂が尋ねる。

「あんた佐田っていう男を知っているか? 8年前、先代の伊坂組社長に会いに来た後、行方不明になっているんだ。俺はあんたが関わっている見ているんだが、そこはどうなんだ?」

向坂としては威圧的な態度を取っても良かったのだが、道下の後に聞くとなると、自然とやや穏やかな聞き方になってしまっていた。

「おい、なんか言え! わかってんのか?」

道下の顔が喜多川の顔に付きそうなぐらい近づき、睨み付ける。

「おう! 聞いてんのかおまえ?」


 裏の倉野はそんなやり取りをしばらく見ながら、そろそろ焦りを感じ始めていた。道下の恫喝を以ってしても、なかなかしぶとく黙秘やかわしを使って、喜多川は警察の追及をやり過ごしていた。弁護士のアドバイスが効いているのは間違いない。

「接見の制限を有効活用しないといけないな……」

なるべく松田弁護士と喜多川を会わせないようにしないといけないと、強く意識し始めたその時だった。


「おい、喜多川! おい!」

マジックミラー越しに、道下の恫喝ではない大声が響いたことに倉野は気付いた。取調室を見ると、喜多川が机に突っ伏し、それを道下が揺り起こそうとしている。向坂は異変に気付いたようで、取調室の外に助けを要請していた。倉野も取調室に駆け込んだ。

「おいどうした!」

倉野は大声で叫んだ。

「意識がないみたいだ。まいったな……」

そう言いながら、道下が相変わらず喜多川を揺り起こそうとしていたので、倉野は手でそれを制した。場合によっては悪化させることもあるからだ。

「呼吸と脈はあるみたいです。既に救急車の要請をしてます。消防署はすぐそこですから、時間もかからんでしょう」

向坂が取調室に戻ってくると冷静に言った。

「そうか……」

倉野はやや落ち着きを取り戻した。

「どうなってんだ全く!」

道下はイライラして突然壁を蹴飛ばしたが、倉野と向坂は意に介さず、喜多川を床に静かに寝かせることに専念していた。


 すぐに到着した救急隊員により搬送される喜多川と共に、倉野と向坂が付き添いながら署の廊下を救急車に向かう。救急隊員が、

「意識不明になる前に何か症状を訴えていませんでしたか?」

と聞く。

「そう言えば、直前に頭を抑えてたなあ。その後すぐに机に倒れこんでました」

向坂が当時の状況を説明した。

「頭痛か何かかな。となると脳の方か……」

救急隊員は厳しい顔つきをしながら、ストレッチャーごと喜多川を救急車に運び込んだ。倉野は向坂に、

「俺はこのまま付き添って病院まで行くから、捜査本部の方に連絡頼む!」

と言い残し、サイレンを鳴らしながら救急車は北見署を出て行った。


※※※※※※※


 向坂は捜査本部に一報を入れると取調室に戻った。道下含め、捜査員が全員控え室に待機している為、先程までの喧騒が嘘のように静まり返った取調室で、向坂はドカッと椅子に腰を下ろした。何となく他の捜査員から距離を置きたい心境が、控室ではなく取調室に足を運ばせていた。時計を確認すると午前11時を指していた。喜多川が倒れた時には、まだ10時半前だった記憶があるから、あれから30分程しか経ってないのが信じられない向坂だった。


 5分程だったろうか、しばらくボーッと座っていると、

「そうだ。留置場に入れる前に預かったモノを、家族に返さないといけなくなるな……。気が付いた段階でやっておかないと、気の利かない警察組織うちらのことだ、本人が回復して思い出すか、家族が気付いて申し出るかでもしないと、そのまましばらく放置されるかもしれない……」

と思い付き、留置場を管理している署内の警務課に足を向けた。


 喜多川が救急搬送されたという事情は既に飲み込んでいた署員により、預かった物品のリストと物品を入れたビニール袋を渡され、それを一人で照合する向坂。そうこうしていると、やけに高そうな腕時計が一際目についた。向坂はその時計を慎重に手に取った。何気なく文字盤を見ると、そこには、高級時計で有名な幾つかのブランドの中では、一般的には知名度はそれ程でもないが、高級度合では上位クラスであるロイヤル・フェリペの名前があるのを確認した。

「へえ。ロイヤル・フェリペか……。また随分高い奴をしてるな。さすが重役ってところか……」

向坂は興味深々に、まじまじと時計を色々な角度から見ていると、時計の裏に、「伊坂組発足40周年記念 平成2年 5月1日 喜多川 友之」と彫ってあるのを見つけた。

「会社の記念贈答品でロイヤル・フェリペとは驚いたなあ。平成2年だから1990年、丁度バブルの頃で儲かってたんだろう。警察じゃあり得ないわ」

向坂は半ば呆れ、半ば羨ましく思いながら、いけないことだとは思いながらも、時計をはめたり外したりしてみた。

「だめだな、俺には似合わん、こういうのは……」

納得したように自嘲すると、担当署員を再び呼びつけ、

「喜多川が搬送された病院がわかり次第、家族に返すのを絶対忘れないようにしてくれ」

と念を押し、刑事達が待つ控室へと向かった。


※※※※※※※


 救急車に乗せられた後、幸いすぐに近くの北見共立病院の救急救命センターに運び込まれた喜多川は、クモ膜下出血による意識不明と診断され、そのまま緊急手術が行われた。比留間管理官、警察から連絡を受けた家族も病院に駆け付けた。一礼をする倉野に妻の加奈子はキツイ言葉を浴びせることもなかった一方、突き刺さるような冷たい視線を感じてもいた。比留間はそんな様子を見ていたのか、

「痛いですねえ、こうなるとああいうのは」

としかめっ面で独り言の様に言ったが、倉野としては否定出来ないものの、無責任な発言に聞こえていた。


 昼過ぎの手術から3時間が過ぎ、一度執刀医が状況を説明に家族や倉野の元に訪れたが、状況はかなり良くないようで、妻は落胆していた。執刀医の、

「高血圧やストレス、水分補給の失敗などが原因となりやすいですが……。何か原因となることがありませんでしたか?」

と、暗に警察の責任を問うような発言を聞いた倉野は、

「まあ……」

と言葉を濁すことしか出来なかった。全てが該当したからに他ならない。特に、高血圧の傾向のある喜多川に、ここのところの高温の状況において、水分補給を十分にさせていなかったことは、倉野としても注意しておくべきだったと内心深く後悔していた。


 喜多川の救急搬送と緊急手術、そして勾留取消請求の結果という、大きな案件の連絡が立て続けに来た北見方面本部は軽いパニック状態になっていた。幸い勾留取消請求が認められることは、何とか回避出来た様だったが、当の喜多川が意識不明となってしまってはほとんど無意味であったとも言えた。大友捜査本部長も、倉野が病院に掛かりっきりなので、陣頭指揮を直接執っていたが、同時に道警本部との連絡にも追われているらしく、頻繁に部屋を出たり入ったりを繰り返していた。当日は西田とは別行動の北村も、

「やばいことになったな……」

とさわつく捜査本部「別館」の様子に軽く狼狽していた。


 西田はこの日は篠田の捜査を一時休止し、遠軽署でこれからのことを沢井、竹下と検討していた。先に取消請求否認の連絡が来たので、一安心していた中、やや遅れて入った喜多川の手術の報に驚愕していた。

「課長、これからどうなるんでしょうね……?」

西田は力なく沢井に聞いた。

「どうなるもこうなるも、勾留は結局解消されるだろうよ。取消が認められなかったことは、結局無意味になると思う」

沢井は残念そうに西田に告げた。

「そうなりますよねえ……」

西田は天井を見上げ、目線を宙に泳がしていた。

「本件逮捕どころの騒ぎじゃなくなってしまったなあ。残念です」

竹下も呟くように言ったが、余り感情のこもっていない、ある意味達観した言葉にすら西田には聞こえていた。


 午後7時過ぎ、緊急手術は終了し、喜多川は手術室から搬出された。妻の加奈子と二人の子供がストレッチャーの横に張り付きながら、心配そうに集中治療室まで付いて行ったのを見守った倉野と比留間。やや遅れて手術室を出てきた執刀医は、

「一応手術はしましたが、正直意識が戻る可能性はかなり低いと思います。戻ったとしても、後遺症はかなり重いんじゃないでしょうかね。取り調べの最中だったようですけど、以降の取り調べはまず出来ないと思ってください。それじゃあこれからご家族に説明しなきゃならないんで……」

と淡々と報告した上、足早に二人の捜査官の前を後にし、搬入された集中治療室へ向かった。


「これじゃあ米田の事件はどうなっちまうんだ……」

倉野は遠ざかる医者を見ながらポツリと言うと、

「いつの間にかもう飯時ですよ……。ここに食堂があるから、そこで飯食って、それから考えるとしましょうか。色々と……」

と比留間が提案した。

「そうだな。そうしよう……」

と答えた倉野だったが、半ば上の空の返答だった。


※※※※※※※


 8月2日午前中、松田弁護士が、釧路地裁北見支部に「勾留執行停止」の申し立てをした。勾留執行停止とは、被疑者又は被告(起訴後)に急病が発生し、入院が必要となった場合や親族の急死に伴う葬儀出席(これも無条件に認められるわけではない)など、かなり特殊な事情が勾留後発生した場合に、一時的に勾留状態から開放されることを目的として裁判所に申し立てられるものである。既に喜多川は手術を受け、入院しているため、実質既に勾留は停止されているのだが、弁護士主導により、きちんと権利確定しておこうという腹があるのだろう。これは検察側も文句の付けようがないし、裁判所も100パー認めてくるだろうが、警察としては今更痛くも痒くもない「反撃」である。ただ、喜多川という重要参考人を「失いかけている」事実がそれ以上の痛手であった。本人は未だ意識不明のままであり、意識回復についての道筋は全く見えていなかった。


 同時に松田弁護士は北見方面本部の監察官室に、取調べの違法性を主張した上申書を提出した。体調面で多少不安のある喜多川への配慮を欠いた取調べと、別件勾留での米田事件の取調べは違法だという主張だった。


 昨日夕方の段階で北見の監察官室は事態を把握していたこともあり、昼を回った頃にはすぐに関係者への聴取が行われ、大友捜査本部長、倉野、比留間、道下の捜査本部幹部を始め、取調べに当っていた刑事全員が対象となった。沢井課長、西田、竹下、小村の遠軽署取調べ担当刑事は、当日は監察官聴取の存在以前に、北見方面本部へ捜査会議のために出張でばっていたので、そのままの流れで聴取を受けることになった。


 札幌の道警本部からも、刑事部長の遠山と道警本部監察官室長の飯原が、昨日中に北見へ来ることを決めていた様で、ある意味タイミング良く到着した。そして状況説明を園山北見方面方面本部長などから受け、これからの対応を模索していた。さすがに被疑者が実質別件逮捕時において意識不明となると、道警全体として適当に流しておくということは出来ない。また、ややこしいことに、別件逮捕時点の本件容疑である殺人・死体遺棄では既に無実だということが実質確定していたということも、それに拍車を掛けていた。


 調査を受けた遠軽署の4人は、1日目の取調べだったこともあり、喜多川の意識不明にほとんど影響がなかったので簡単な質疑応答で済んだが、向坂など喜多川が倒れた当日の取り調べ担当者や、責任者級のメンバーについては、かなり長い時間聴取が行われていた。


 捜査本部「別館」室内も、手の空いた捜査員同士の現状についての勝手な「分析話」で、かなりざわついていた。

「これどういう風に収拾つけるんですか?」

会議のために、これまた北見に来ている吉村が課長に尋ねていた。

「わからん。喜多川があの調子だと、真犯人へつながる糸口が見い出せないままになるかもしれん。そうなると厳しいのは当たり前だな」

「いやそれもありますけど、何か問題になりそうかなと」

吉村が尚も聞くと、

「不幸中の幸いというか、別件逮捕の別件事案は、飲酒運転と人身事故だから、通常でも逮捕勾留されるレベルだろ? だからそこは別件逮捕と言えども、問題になる要素は少ないと見ているが……」

と言うにとどめた。

「ほんとにそこだけは救いですよ。これが転び公妨みたいな、イチャモンの軽犯罪レベルだったら、逮捕・勾留なんてする必要はまずないですから、洒落にならん状況だったかもしれないです」

本件逮捕に終始こだわっていた竹下も、それについては沢井同様、運の良さを強調した。


「誰か責任取らされますか?」

小村も沢井に聞いた。

「どうだろうなあ。ヤバ目な道下さんについては、本部が送り込んできた人間だし、本部としてもあからさまな処分しづらいんじゃないか? 別件逮捕も、これで文句言うと、道警全部の刑事が責任取らないとならない。何らかの軽い処分はあるかもしれないが、捜査本部に表向き大した影響はないと俺は考えているが、蓋を開けてみないことにはなんとも……」

課長はそう言うと、ペットボトルのお茶に口をつけた。沢井も高血圧気味なので、この件で自分も気を付けているように見えた。普段は余り水物を口にするタイプではないはずだった。


 そんな話に夢中になっていると、聴取が終わった向坂が戻ってきた。かなり疲れた表情をしている。

「向坂さん! どうでした?」

捜査で組んでいる竹下がまず声を掛けた。

「それなりだ、それなり」

向坂は疲れて面倒だったか、短く答えた。そして席に就くとタバコに火を付け、大きく煙を吐いた。

「しかし、俺も運がないね。いきなり取調べ初日にああいうことに巻き込まれるとは……」

黙って見守っていた遠軽組の視線に気が付いたか、冗談交じりに話し始めた。

「実際のところ、倒れた時はどんな感じだったんだ?」

沢井課長が尋ねた。

「逮捕された後、北見署で裏から何度か見てましたが、その時よりやつれた感じは出してましたよ」

向坂の返答に西田は、

「俺が初日に取調べした時にはそんな印象はありませんでしたから、やっぱりここ数日の取調べがキツかったんですかねえ。もともと高血圧だと言う話は会議でも出てましたし」

と言った。

「まあ、あの人の取調べだとストレスあるだろう。それと暑さもかなり影響しただろうな……」

向坂も同調すると同時に、暗に道下の取調べのやり方に懐疑的な感想を述べた。そして、

「で、明日からどうなるの?上からなんか聞いてる?」

と続けて、長い聴取のせいで、捜査本部の状況把握が出来ていないことを補完しようとした。

「こちらも何にも聞いてないぞ。そこまでやってる余裕がないというか、頭回ってないと思うな、俺は」

沢井課長が答えたので、向坂は恐縮したか、

「ああ、そうなんですか」

とかしこまったように礼を言った。


 丁度その時、園山北見方面本部長が会議室に姿を見せた。それを見た捜査員があたふたと自分の席に戻る。全員が席についたのを確認すると、重い口を開いた。


「待たせて申し訳ない。まだ監察官の聴取が続きそうなので、一旦状況と明日以降のことも含めて説明する必要があると思いやって来た。基本的に道警も方面本部としても、逮捕・勾留については、裁判所の判断を得ていることは当然、過去の事例から見ても至って適正であり、何の問題もないと考えているのは言うまでもない。ただ、米田の殺害についてのアリバイの存在と、取調べの際に、きちんと水分補給がされていなかったという点において、若干だが、拙かったかもしれないという考えの人もいることは確かだ。そこら辺をしっかりするために、聴取をして精査しているところだ。正直今日中に結論が出るとは思えない。そこでだ、ひとまず今日は午後7時まで結論が出るかどうか、ここに残ってもらった上で、出なかった場合には、明日は午後まで自宅待機。午後より捜査会議という形にしたいと思っている。おそらくその頃には結論は確実に出ているだろう。そこからまた仕切り直しになる、そういうことだ」


 沢井課長がその発言を聞いた上で挙手をして質問した。

「すいません、所轄組は署の仕事の関係上、勤務は通常通りにしていいんですね?」

「そうだな、方面本部組と違って、所轄は専従捜査と言っても、ある程度対応しないといけないからな……」


 事実、米田殺害における捜査本部設置後も、西田率いる強行犯係は、数件の遠軽署管内の傷害事件について、他の係の協力も得ながら解決していたことがあった。ただ、他係の協力程度で同時進行出来るレベルの事件規模であったから良かったものの、場合によっては捜査本部から数名外れて対応しないといけなかったかもしれない。他の係も今回の捜査本部に既に適宜協力していたので、それほど余裕がある訳ではなかったからだ。


「わかった。遠軽組は午前中は所轄で行動してもらいたい。後……、向坂はどうするかな。北見署からは向坂一人しか来てないし、今更北見署に行ったところで、やることないだろ?」

と、園山は向坂に話を振った。

「ええ、午前中だけ所轄戻っても、長期出張してた奴が突然ちょっとだけ戻ってきたみたいなもんで、邪魔になるだけですよ」

向坂は苦笑していた。

「じゃあ、仕方ないな。好きにしてくれ。ただ、余り派手な動きはよせよ。まあとにかくそういうことだからよろしく頼む!」

園山はそう言うと会議室を出た。


 園山の発言を向坂は、事実上「問題にならない程度に好きに捜査しろ」と言うことだと受け取った。いや、上意下達の警察で「好きにしろ」とはそういうことと断定して良いだろう。それを受けて、

「沢井課長、申し訳ないんですけど、西田、明日の午前中貸してもらえませんかね?」

と願い出た。

「うん? 俺は構わんが、理由は何だ?」

沢井は向坂の意図がわからなかったので、聞き返した。

「いやあ……。佐田の失踪と篠田の件で、伊坂組への聞き込みを自分でやっておきたいんです。前回は自分は参加できなかったですし、日曜なんで居た社員というか、関係者も少なかったように、報告を聞いた限り思いましたから。西田はその時も参加してた訳で、また篠田のことは西田が持ち込んで来た話ですから、同行してもらうとありがたいんです」

「なるほど。俺は構わんぞ。ただ西田はどうだ?」

西田は話を振られたが、特に拒否するような理由もなかったので、

「俺は構いませんが、相棒の竹下はいいんですか?」

と向坂に尋ねた。

「さすがに係長と主任同時に貸してもらうのはマズイ」

向坂は遠慮したが、沢井は、

「同時に居なくなると言っても、午前中だけだし、今回の捜査でもほとんど同時に仕事してたんだから、今更って話だ」

と、容認の姿勢を見せた。

「いや、本当に心遣いだけで十分です」

と向坂はそれでも固辞したので、沢井はそれ以上は竹下の同行を勧めなかった。ただ、

「わかってると思うが、佐田の案件は色々難しいから、そこだけは気を付けてくれよ」

と向坂に念を押した。タイミングを見計らっていた西田は、

「課長、明日も北見に居るとなると、今日は先日のように方面本部に泊まってもいいですか? 最近北見に来ることが多くて、さすがに面倒になっちゃいましたよ」

と沢井に許可を求めた。一方で沢井は、

「おまえは単身赴任だし、遠軽に戻るメリットもないな。いいんじゃないか? ただ、着替えは持って来てないだろうから、シャワーだけは浴びてくれ。夏場だからな」

と、鼻をつまむ真似をしながらおどけてみせた。


 結局、午後7時を過ぎても聴取は終わらなかったので、園山方面本部長が再び会議室にやってきた。そして勾留執行停止に検察官も同意したため、裁判所が勾留停止を決定したことを告げた。これは当然のことだったと誰もが受け止めていた。その後、時間がオーバーしていたので、事前に通告していた通り散会を指示し、捜査員は帰宅の途についた。


 西田が沢井課長に許可を得たことで、北見方面本部の宿直室に泊まることになった為、向坂は西田を夕食に誘った。向坂行きつけの居酒屋だった。冷酒で乾杯しながら、向坂と西田はこれまでの捜査内容についてのそれぞれの意見などをぶつけ合った。勿論、周囲に情報が漏れない程度の声でだったが。そんなこんなで1時間程経った頃、向坂が話題を変えてきた。


「西田、竹下についてどう思う?」

「どうって言われても、困りましたね……」

酔いの軽く回った頭では、すぐに言葉が出てこないこともあったが、話題そのものが想定外だったので、何とも答え様が無かったというのが本当のところだろう。

「俺はね、あいつはいつか警察辞めるんじゃないかと思うんだ」

向坂はそんな西田に構わず話を続けた。

「え? 竹下がですか?」

西田は更なる思わぬ展開に二の句が継げなかった。

「あいつ見てたらそう思わないか? いやな、本当のことを言うと、西田を明日貸してもらおうとした理由は、竹下についての話をお前としたいと思ったからってのが、実は大きいんだよ。ところが今日北見に泊まるってんで、予定より早くこういう話になっちゃったんだけどさ」

突然の自分を指名した捜査協力要請には、そういう意図があったのかと、西田は改めて驚いた。

「そうだったんですか……。てっきり篠田の話が、そのまま理由かと思ってましたが」

「いや、勿論それもなかった訳じゃないけどさ……」

向坂はそう言うと、鶏皮を串から頬張った。

「向坂さんが言う通り、確かに竹下は融通が利かないところがありますけど、刑事としての才覚はあると思いますよ」

「それは俺も否定しない。あいつは30前半で、西田にも失礼な言い方かも知れないが、小さい所轄とは言え、遠軽署の主任になってるんだから。その前は札幌の所轄で刑事やってたそうだし。おそらくその頃からあの調子だったにも関わらず、この早い出世ってことは、昇進試験をパスしてるだけでなく、それなりの実績を挙げてるからに他ならないはずだよな。間違いなく刑事としの将来も悪くないはず。大学も北海道じゃ北大に次ぐレベルの高い翔洋大学で、強豪の剣道部出身だからな」

「だったら、尚更辞めますかね?」

「辞めると思うね俺は。ああいうある意味『まとも』なうるさ型は警察組織としては邪魔だろ?」

「邪魔なタイプなのはその通りだと思いますけど、優秀ならそれでも抱えるのも警察だと思いますが?」

西田は先輩刑事に敢えて反論して見せた。

「そう。邪魔でも必要なら抱えるだろうよ。ただ、だからこそ、奴の方から見切りを付けることもありえるって話だ。それを言ってるんだよ、俺は……。邪魔だが必要悪として抱えられることに、本人が納得出来ないって話」

「そういうもんですかねえ……」

西田はいまいち向坂の話に頷けないでいた。

「西田、おまえもわかってると思うが、警察ってのは上に行けば行くほど、汚い部分と向き合わなけりゃいかん。そりゃ下っ端の頃もそういう部分はあるが、上の汚さはそれを踏まえた上で更に汚いからな。あいつは頭も良いし、刑事としてもなかなか出来るから、ある程度の出世は確約されてるだろうが、だからこそ耐えられなくなるのも早いような気がするんだな、俺から見ると」

向坂の熱弁に耳を傾けていた西田だったが、ここに来て多少実感が湧いてきたのか、黙って向坂の猪口に冷酒を注いで話し始めた。

「難しいところですが、俺より経験のある向坂さんがそう感じるのなら、そうなのかもしれませんね。確かに竹下みたいのが、将来今の警察組織のままでふんぞり返ってるってのは、性格的にも考えづらいかな……」

「ああ、竹下が上に行ってるなら道警は大丈夫だろう。辞めてるならそのままってことだ」

向坂は、西田の猪口に酒を注ぎ返すと、突き放すように言った。


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