《SS 》食戮
「甘いもの、食べる?ケーキを買ってきたの」
そう、彼女は言った。安くて狭いアパートにありがちなごく普通の台所で皿洗いをしながら。
「いいね」
乗り気で頷いた彼に、作業していた手を止めると、蛇口をひねってから冷蔵庫に向かって四歩程進んだ。彼女は身をかがめて、冷蔵庫の中から、片手でケーキを取り出した。コンビニのショートケーキだった。彼女が、皿の上に乗せようと準備し始めたので、彼は「そのままでいいよ」と声をかけると、彼女は「そう」と一言呟いて、コンビニで買ったそのままのケーキをテーブルの上に置いた。「あ、そうだ。これも」忘れていたように、後からフォークを置いた。
真っ白いふわふわとした生クリームが食欲をそそる。早く舌の上に乗せたくてたまらず、外の蓋を取り外した。そこで、皿洗いを終えた彼女は、彼の隣の席へと座った。
「美味しい?」
か弱いスポンジにフォークを奥まで刺して、一口サイズにくり抜き、そして口内に誘った。じゅわりと舌の上で生クリームの甘さが溶け出す。
「ああ、うまい」
彼は一口、また一口とケーキを口に含んでいく。
彼女は、密かにその様を眺めながら興奮していた。己が買ってきた食べ物が、彼の口に侵入する瞬間。やがてそれは、胃袋に到達し、彼の一部となるだろうと考えて。
彼はそんな彼女の思惑には気づかず、一口、また一口とケーキを口に含んでいった。
「ああ、美味しい」
彼女は、少しだけ、彼の舌に嫉妬した。彼の意識を独り占めする舌に。ああ、しかし何と、艶やかだろう。食欲という欲にあらがえぬまま、食べ物の己の体内への侵入を許すとは。彼女は、決して口には出せぬ、欲情を彼に抱いていた。
「ごちそうさま」
彼はケーキを綺麗に食べ尽くした。
「いつも美味しそうに食べるのね」
彼女は言いながら、こんなありきたりな日常の風景の中で不意に――例えるならば、まるで、かつて誰かが地球が丸いと発見した時のようなひらめきで――思いついた。
「金曜日も、うちでご飯でもしていかない?カレーをつくってあげるから」
彼は断わる理由もなく嬉しそうに肯いた。
金曜日。夜を照らす窓の明かりは、日常の風景であり、非現実的な要素などどこにも含んでいない道を歩いて、彼女の家へと向かった。
ぐつぐつぐつ。鍋の音が漏れだしそうな夕飯の香りが鼻腔をくすぐる。ついお腹の音が鳴る。
彼女のアパートの前で、換気扇から匂う香りに、彼は呟いた。
「ううん!今日はカレーだな」
更に浮き足立つ心情隠さず、顔は笑みを浮かべて、彼女のアパートの扉を開けた。
「お邪魔します」
居間には明かりがついているのに返事がしない。彼は首をかしげながら中に入っていったが、彼女の姿は見当たらなかった。代わりに、ぐつぐつぐつ。カレーを温める鍋の音だけが聞こえる。
コンビニで材料でも買いに行ったのかな。ふと、テーブルの上を見るとメモが置いてあった。
《 ごめんなさい。ちょっとだけ出る用があったので、先に夕食済ませておいてください》
メモを読むと、何だ用事かと、少し安心し、メモに書かれている通り、一足先に夕食のカレーを食べることにした。
ぐつぐつぐつ。
カレーの香辛料が、空腹をそそる。じっくり煮込んである鍋の中を掻き混ぜて、火を止めると、ご飯を器によそる。絶妙な配分でカレーを上にかけたら、テーブルの上に置いた。さて、食べよう。いただきます、と手を合わせた時「あ、そうだ。忘れてた」台所からスプーンを取って改めて、いただきますと手を合わせた。
ご飯とカレーをスプーンで掬い、口に運ぶ。熱々のカレールーが柔らかくて甘い人参を包み、口の中で蕩ける。ルーの中に細かく挽肉が入っていて、舌の上にいいアクセントをくわえる。美味しい。一杯目を完食し、またおかわりをよそった。二杯目も完食した後、幸福な満腹感に、腹をさすり、椅子にもたれた。
「はぁ、美味しかった」
ピリリリリリ。携帯電話が鳴り、着信を見ると、そこには彼女の名前が表示されていた。
「もしもし」
「カレー、食べてくれた?」
「ああ、美味しかったよ。二杯も食べちゃったよ」
「そう、良かった」
「今どこにいるの」
「今」
彼女は、言い出しづらそうに溜めた。
「今、病院」
病院という彼女に、驚いて椅子から立ち上がる。
「え、どうしたんだ?大丈夫か?」
「ちょっと事故で。でも大したことないから大丈夫よ。カレー食べてくれてありがとう。あなたが美味しそうに食べてるの一番好きだから」
彼女はそう言って電話を切った。
彼は、彼女の怪我を心底心配しながら、せめて家事を済ませておこうと食べ終わった皿を洗い始めた。
翌日、彼女の帰りを待つ。彼女にごちそうさまを言う為に。