海になりたい
直樹からのメールが届いたのは深夜0時の事だった。
件名は無く、本文には『海になりたい』の一言が添えてあるだけ。他の人から送られてきたなら無視するような意味不明の文だが、俺はそのメールを見るや着の身着のままで直樹の家へと向かった。
直樹がこの手のメールを俺に送りつけるのは女に振られた時と決まっている。
ヤツは非常に顔が良く寄ってくる女は数えきれないほど。そして直樹も直樹で惚れっぽく、寄ってくる女をすぐ好きになる。しかしいざカップルになると瞬く間に振られてしまうのだ。友人には見せない裏の顔があるのか、乙女が真っ青になって逃げだす性癖があるのか、あるいはその突拍子もない行動が嫌になるのか――真相は分からないが、俺の知っている限りでは一人の女と半年と持ったことがない。
そして直樹は振られる度、心に深刻なダメージを負う。これだけたくさん振られていれば慣れそうなものだが、そういうものでもないらしい。
俺もお人よしの性格。今にも死にそうな友人のSOSを放っておくことができない。
ドアを開けると、暗く狭い部屋の隅っこに直樹が膝を抱えて座っていた。俺は慣れた手つきで電気を付け、直樹に声をかける。
「よお直樹」
「海になりたい」
そう言って顔を覆う直樹の横に座り、コンビニで買ってきた酒とつまみを取り出す。
「まぁ飲もうや」
「戸棚に塩がある。取ってきてくれ」
「つまみに塩か? 好物のチータラも買ってきてるのに」
「塩を」
「ハイハイ」
渋々戸棚からケースに入った塩を取り直樹に手渡す。
直樹は塩を手に取り息を吐き、そしてカッと目を見開いた。
「俺は海になる!!」
塩を鷲掴みにしてそれを口に詰め込む。思わず目を丸くした。
「なにやってんだ」
「海水の塩分濃度はおよそ3パーセント。体液の塩分濃度を3パーセントとし、俺は海になる!!」
「馬鹿、海になる前に死ぬっての」
酒と同じくコンビニで買っておいたミネラルウォーターを直樹の口に突っ込み塩を吐きださせる。口では止めるなだのなんだの言っていたが直樹も限界だったのか割とおとなしく塩をビニール袋に吐きだした。
「いい加減にしろ、そういうエキセントリックなとこが嫌になって女も逃げるんじゃ――」
そう言いかけたところで慌てて口を閉ざす。
今の直樹にそんな事を言えばどんな暴走をするか分からない。恐る恐る直樹を見る。
しかし直樹は無表情のままだった。
「……直樹?」
「なにを言われても動じない。俺は海だから」
どうやら直樹は体内の塩分濃度が3パーセントになった気でいるらしい。
「でもまだ足りん」
直樹はうわ言のようにそう繰り返しながら部屋の中を歩き回る。
まるで狂人だが振られたての直樹にはよくあること。
「わかめ!!」
なにか思いついたらしい。
今度は乾燥ワカメを鷲掴みにし口に詰め込む。なるほど、海には海藻が生えているものだが。
「やめろって……」
直樹の手からワカメの袋を取り上げる。
乾燥ワカメを喰い続けると腹で膨らみ胃が破裂するという都市伝説の真相を確かめたくはあるが、友人の胃が目の前で破裂する様はあまり見たくない。
直樹の方もワカメに満足したか、もしくは腹がいっぱいになったか取り上げたワカメには目もくれずさらに部屋中を歩き回る。
「魚!!」
彼の熱心な視線が金魚鉢を泳ぐ2匹の金魚に注がれる。俺は直樹を羽交い絞めにし、哀れな金魚から遠ざけた。
「やめろ!! 離せ!」
「金魚が可哀想だろ、人間ポンプでもする気か?」
「俺は海だ、魚が必要だ!」
「海ならなおさら金魚じゃ駄目だろ。淡水魚だぜ」
「うぐっ……うわああん」
直樹は気が抜けたように崩れ落ち、わんわん泣き喚いた。
「泣くなよ直樹」
「泣いてない、これは地球温暖化による海水面の上昇で水が溢れてしまっているだけだ」
「はいはい。で、なんでまた海になりたかったんだ」
「海は……すべてを受け入れる。生活排水も、工業排水も、魚も海藻も。そういう男に俺はなりたい」
「で、塩やワカメを喰ったり金魚を丸のみにすれば海みたいな男になれるのか?」
「いや……」
「そうだろ? じゃあ今は酒を飲んでこの苦しみを浄化して、明日から海みたいな男を目指そうぜ」
「……お前はまるで海みたいだな」
「そうでもないさ」
直樹が彼女と別れたとのうわさは瞬く間に広がり、次の日には列ができるほど直樹にアプローチする女が寄ってきた。新しい彼女さえできれば直樹の立ち直りは早い。直樹は寄ってきた女の一人の告白を受け入れてめでたくカップル成立となった。これで直樹の精神も安定するはずだ。俺も安心して眠れる。そう思っていたのだが。
それからしばらくして一件のメールが俺の元に届いた。
『山になりたい』