ルードヴィヒの現在 〜後編〜
「はぁ。ホントにあんたってヤツは…」
私の打ち明け話を聞き、ジャンの発した言葉はこれだった。
「正真正銘の馬鹿野郎だな」
「ぐっ……」
辛辣な言葉が胸に痛い。が、きっとこれこそ多くの者が言いたいと思っていたであろう言葉だ。
今まで誰からも受けなかった直接的な罵倒。私はそれを、漸く今ジャンから聞けた。
そうだ。私は馬鹿野郎だ。今更何を取り繕う事がある? これをしっかりと自覚してからでなければ、先へなど進めない。
誰にも告げられない侘びの言葉。
「そうだな、私は馬鹿野郎だ。だが…」
しっかりと、ジャンの目を見て決意を告げる。
「馬鹿野郎だったと、皆に過去形で言ってもらえるようになるよ。これからの私は」
ジャンが私の真意を計るかのように、無言で睨んでくる。
その強い視線に負けぬよう、私も黙って真っ直ぐ彼の瞳を見つめ続けた。
どれ位そうしていただろうか、耳の奥が痛くなるような沈黙が続く。既に心の中は凪いでいるが、鼓動が聞こえてしまいそうなほどに静かな時間が続いた。
不意に、ジャンが溜息を吐き、次いで柔らかく微笑んでくれた。
その笑みの中に、もう蔑みの色はない。
しかし今後の私の行動次第では、彼の私への評価は簡単に元に戻ってしまうのだろう。
平坦な道ではない。だがそうしてしまったのは己の浅はかさなのだから。
『馬鹿野郎』
この言葉を胸に、気を引き締めていかねば。
ふと、ジャンの笑みがニヤニヤしたものに変わっている事に気がつき、流石に居た堪れなくて視線を逸らした。
逸らした先に、遥か遠く、地平の上に広がる夜空が映り込んで。
「綺麗だ……」
空を見上げれば、降るような星空が広がっていた。感嘆からの溜息が洩れる。宝石の欠片を散りばめたように、ささやかにひとつひとつが瞬いて、鳥肌が立つ程に美しい夜空だった。
「星空とは、こんなに美しいものだったか……?」
ポツリと呟けば。
「何言ってる。そういつもと変わりない空じゃないか」
ジャンが呆れた口調で返してきた。
気付かなかった。半年もここで過ごしたというのに、こんな美しいものを、私は今まで見過ごしてきていたのか。
一体どれだけ視野が狭かったというのか。
満天の星空を眺めながら、ぼんやりとそんな事を考えた。
これから私の瞳に映る景色が、少し色を変える気がした。
〜・〜・〜
「父に、手紙を書こうと思う」
数日後、鍛錬後の休憩の際にジャンに告げた。誰に聞かれても良いように『陛下』とは言わずに。
(そういえば陛下の事を父と呼ばなくなったのは、一体いつからだったか?)
そんな事を考えながら。
「手紙?」
何の?と言いたげにジャンが問うてきた。
それはそうだろう。この砦に来てからというもの、私が誰かに手紙を書いた事など一度として無かったのだから。
「ああ、私の今後についてな。ここ数日考えていたんだが、思い切って父に伝えてみようかと」
「…へえ?」
声の調子に面白がる気配を感じて、少し居心地が悪くなる。
「なんだ。その顔は」
「別に〜?」
ニヤニヤしながら返事を返すジャン。
ジャンは私の告白を聞いたあの日から、時々こんな顔で私の事を見てくるようになった。
(なんなんだ一体。嘲笑とは違うが、どうにもやりにくいぞ…)
「とっ、兎に角! そういうことだから、お前の『鳥』を貸してくれ」
居た堪れなさを感じながら頼みごとをする。
本当に、なんてやりにくい。
「ふぅん……? ま、いいけどな」
ジャンの了承を得たので、今日の勤務が終わり次第手紙を書くことにした。手紙を送るのは早ければ早い方がいい。決意が鈍ってしまう前に、行動を起こさなければ。
私は一つの決意を胸に、やけに今日は勤務時間が遅く過ぎるなと思った。
私は、今の自分の心境や、今後の自身の処遇について提案がしたい事などを手紙にしたため、ジャンに渡した。こうすればジャンから『鳥』という名の影の連絡係が、陛下に手紙を届けてくれるだろう。
正規に手紙を送るなどの連絡手段を取ってしまうと、幾つもの検閲機関を通り抜ける事になる。そうなれば、ドディがルードヴィヒである事が容易く知れてしまうだろうし、最悪陛下に手紙が届くかも怪しい。が、この『鳥』を使えば、影から直接陛下に手紙を届けられる。
因みに『鳥』の連絡手段の中には、本当に鳥を使う時もあるのだそうだ。
学園で影が私の事を陛下に報告した際も鳥を使ったのだと、最近ジャンから聞いた。報告者がジャンである事も。
その時の奴は表面上へらっとはしていたが、なんとなく、バツが悪いのを隠そうとしているように見えて。私はただ笑って「そうか」とだけ告げた。
少しホッとしているようなジャンの表情を見て、私の予想もあながち外れではなかったのだろうと思った。
更に数日後、私はルードヴィヒが静養している事になっている離宮へと来ていた。陛下はルードヴィヒの見舞いという形で、この離宮へとやってくる。
私は手紙での遣り取りで十分だと思っていた。
陛下に手紙を送るなど今までしたことが無かった私は、取り敢えずはまず現在の状況や心境、今後について決めたことがあるので聞いて欲しいという事だけ書くのが精々だった。手紙を読むくらいはして頂けるだろうが、だからといって私の話を聞いて頂けるかどうかは分からなかったからだ。
なので、陛下からの返事を待って、聞いて頂けるようであれば、決意の内容やその理由を改めて手紙に認めるつもりでいたのだ。
が、陛下からの返事は『ならば直接会って話し合おう』というもので。
私と会うということは、私が王宮に出向くか、陛下がこちらに来ることになる。どちらにしても、表向きルードヴィヒは離宮で静養中ということになっているのだから、各所への面倒な手続きや手配が必要となるだろう。
忙しい陛下や官吏たちにそんな手間は掛けさせられないからと、私は陛下からの提案を辞退する旨を手紙で伝えたのだが、その手紙が届く頃には、既にほぼ支度が整ってしまっていたらしい。
「なんて無駄に有能な官吏達だ……」
と、私が頭を抱えて苦悶の声を上げるのを、ジャンがケラケラ笑って見ていたのは記憶に新しい。
兎に角、あれよあれよと言う間に陛下からの指示が影からの手紙で齎され、私は慌てて長期外出の為の手筈を整えなければならなくなったのだ。
陛下からの手紙には『話し合いをするのにあたり、王宮では事情を知らぬ者の目が多すぎるので、離宮で会おう』という言葉と共に、追って正式な文書が私とジャン宛に届くから、それを待って離宮に向かうようにとの指示がなされていた。
数日後には届いた王宮からの書簡で『火急の指令により借り出され』私はジャンと共に離宮へと向け旅立った。
離宮には、勿論ドディとして訪れる事になっている。
ルードヴィヒは不治の病という事になっているし、離宮にいるのが信用の置ける者達であるとはいえ、情報漏洩の警戒は怠らないほうが良い。
私は、事情を知っていて今回指令を受け待機していた近衛兵と離宮手前の街で落ち合い、その後問題なく離宮へと足を踏み入れた。
辿り着いたのは、奥まった場所にある小さめの応接室。
ここはルードヴィヒの静養部屋から隠し通路で繋がっており、陛下はルードヴィヒを見舞うと見せかけてこの部屋まで来るのだそうだ。
ジャンは、警戒のため他の影の者達とこの部屋の周辺を探ると私に告げ、部屋の前で姿を消した。
なので、給仕のための侍女が去った後は、この部屋にいるのは私一人となってしまった。
ひとつ深呼吸をしてソファへと身を預けると、ここに辿り着くまでに随分緊張していたらしく、どっと疲れが押し寄せてきた。
まずはここまで、何事もなく辿り着くことができた。
ホッとしてソファの背もたれに頭を預けると、知らない天井が視界に映る。
頭を元に戻し部屋の中を見回すと、応接室であるのに調度品が余りにも少ないことに気付かされた。
質は良いが装飾の少ない応接セット。窓は無く、代わりの灯りである燭台も、数は控えめであるらしい。他にはほぼ何も無いと言っていい部屋だ。
今までこの離宮を訪れた事はあっても、こんな部屋がある事など私は全く知らなかった。
「密談の為の、部屋、か……?」
素晴らしく防音が効いているのか、部屋の外の音が一切聞こえてこず、更には、がらんとしている割に、己の発した声が吸い込まれるように響く事無く消えてゆくのを感じて、私は少し落ち着かなくなった。
これから私は大きな決断を自らに下し、実行に移すつもりでいて。しかしそのためには陛下の許可と協力を得なければならず。
この静かな部屋に一人きりでいると、要らぬ考えが不安と共に浮き上がってくる。
(今まで失敗ばかりしてきた自分に、上手く陛下を説得なんて出来るのだろうか……。そもそも離宮にいらっしゃるのだって私の話を聞くためではなく、最終処分を伝えるためなのかもしれないし……)
手紙を出す前に散々悩み打ち消してきた憂いがここにきて、私の決意を打ち砕かんと襲ってくる。
不安に苛まれるたびに脳裏によぎる景色を、私は懸命に思い出そうと足掻いた。
それは、あの日見た夜空。あの日、私は生まれ変わったのだ。
自分の弱さを他の所為にせず。今まで受け取るばかりだったものを、そしてそれ以上のものを少しでも与える側に回るのだと、あの日、私は決めた。
それが自分に出来る贖罪であり、きっと陛下が私に望んでいたものなのだから、と。
きつく拳を握りこみ、なんの音も無い部屋で、私は弱い己と戦っていた。
暫くそうしていると、不意に軽いノックの音がしてジャンが現れた。
「陛下が来たようだよ」
耳を澄ませば、少し開いたままの扉の向こうから数多の馬の駆ける音が微かに耳に届いた。
私は立ち上がり、姿勢を正した。ジャンもこのまま残るのか、部屋の隅の壁に向かうと、そのまま静かに兵士の直立姿勢を取った。
それからまた暫くして、隠し扉から近衛数名に先導されて陛下が姿を現された。
陛下は私と目を合わせられると、何かを考えていらっしゃるかのように押し黙られたまま、ただ私のことを見つめてこられた。
が、やがて部屋に給仕の侍女が現れると、私の対面のソファへと進まれ、ゆっくりと腰を下ろされた。
私にも身振りで着席を促され、ジャンと近衛ひとりを残して侍女と残りの近衛が部屋を去ると、おもむろに口を開かれた。
「久しいな、ルードヴィヒ」
その声は硬く、私は押さえつけた筈の不安がまたも湧き出してくるのを感じ、それを抑えつけるため膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。
そうして目をそらすこと無く、挨拶をした。
「お久し振りに御座います、陛下。此度はご多忙を極めておられる中、私の為にお時間を戴き、また、その為にこの離宮まで足をお運び下されましたこと、誠に有難く、恐悦至極に御座います」
座ったままではあるが、深々と頭を下げる。
その向こうから、未だ硬いままの陛下の声が降りてきた。
「頭を上げよ。其方も知る通り、余はあまり時間が取れぬ。が、此度は其方が自身の今後について伝えたい事があるというのでな。離れた場所からの手紙の遣り取りでは時間が掛かるし、途中で不備があってもいかん。其方の決意とやらも、顔を見て聞かねば互いに齟齬があっても分からぬかもしれんから、こうして時間を作ったまでだ。単刀直入に申せ。畏まって言葉を弄し時間を潰すのは本意ではない」
そのお言葉にさらに不安を掻き立てられるが、私は頭を下げたままぎゅっと瞼を瞑り決意を固めると「よし!」と心の中でひとつ唱え、勢いよく頭を上げた。
陛下の目をしっかりと見つめて言う。
「畏まりました。では、単刀直入に申し上げます」
ひとつ深呼吸をし、本題を告げた。
「ルードヴィヒを、殺してください」
次回、第三者目線でのルードヴィヒのその後をお送りする予定でいます。