光の扉
「……伊垣くん」
声?
弱々しいそれだった。
病室のドアの方からだ。
わずかに隙間が開いていた。
その隙間から、ずいぶんと小柄な少女が顔を覗かせて、オレの名を呼んでいた。
「キミは……?」
おずおずと少女は入ってくる。
何かを気にするように、周囲に視線を配り、そしてオレの元にやってきた。
そこでオレは気付いた。
どこかで見た顔。
幼く見えるが――
ひらめいていた。
まさか、
「……実原さん?」
少女はこくりと頷いていた。
本当に?
オレは疑うが、ここでなら何でもあり得そうだった。
こうして幼い少女の姿になる、なんていうこともあるのかもしれない。
それに目の前の彼女からは嫌な気配は感じなかった。
「信じて……もらえます?」
実原は馬鹿正直にオレに聞いて来た。
自信なさげなその言い方に、オレは思わず苦笑いしていた。
疑えなかった。
「……えっと、たぶん。って、こんな答えじゃダメかな? ごめん」
「こ、困ります! 十分です!」
実原は慌てて頭を下げていた。
久しぶりに聞いたその口癖。
バスに乗ってる間に、何度も実原が口にしたそれを再び聞いて、オレは思わず目元が熱くなっていた。
彼女は生きていた。
そのことだけで十分だった。
「……伊垣くん?」
それでも再会できたことを喜んでる暇はあまりないらしい。
「あぁ、ごめん。それで――」
「早く逃げてください」
唐突だった。
「まだイジューは気付いてません」
「……どうゆう――」
「まだ伊垣くんの身体は無事なんです」
言い方はずいぶんと端的だった。
だが顔は至って真面目だ。
おっとりした彼女の雰囲気からは想像もつかない明確な態度だった。
だが、それだけ差し迫ってるってことらしい。
「それってやっぱりまだオレがここにいるから?」
実原は頷いていた。
「でも、それも時間の問題なんです」
実原にオレは聞きたいことがいっぱいあったよ。
けど、どうやらそういうわけにもいかないようだった。
つまり、こういうことらしいからだ。
オレは、あの谷の底で事切れる寸前、この実原に救い出され、いまは匿われてる状況にあるらしい。
だが、この心象世界にはいまだイジューもまた存在し続けているので、このままいれば、オレの身体を奪うことが出来ないことに気付いて、再び殺そうと探しに来るという。
「けど、そう言ってもどうすれば――」
「出口に伊垣くんを案内します」
「出口? そんなのがあるのか?」
実原はこくりと頷いた。
「そこまでの道は私が教えます。私ももちろん行きますけど、伊垣くんはとりあえず私の前を歩いて行ってもらえますか?」
……前を?
オレは首を傾けていた。
「ナゼ?」
別に実原を疑ってるワケじゃない。
純粋に気になったからだ。
けど、そう聞くと実原は複雑そうな顔をして言っていた。
「イジューが追ってきたら、私気配でわかるんです」
「ふむ」
この世界は現実とはちょっとばかり勝手が違う。
それはあのイジューとの攻防でオレは理解させられていた。
おそらく長らくこの世界にいた実原の方が、こっちの勝手は分かるのだろう。
そういうことなら任せる方がいいかもしれない。
「えっと、ダメ……ですか?」
「まさかっ」
そう言ってオレはよろしくお願いしますと丁寧に頭を下げていた。
ここは彼女に従うのが正解だ。
「それじゃあ行きましょう。まず部屋を出たら右です」
とそう言ってから思い出したように、実原は「あ」と言葉を出していた。
「ん?」
「あの、その、部屋を出たら絶対に振り返らないようにしてください」
理由を聞こうとしたが、これまた複雑そうな顔をされたのでオレは聞くのをやめた。
時間は貴重だ。
片足も石膏で固められてるこの状況では、急ごうと思ってもそれほど急ぐことも出来ない。
オレはベッド脇に置かれていた松葉杖を取った。
「なら、行こう」
実原の指示に従った。
病院は、オレのよく知る病院そのものだったよ。
もうずいぶんと行ってないが、記憶の中にあるものと変わっていない。
ただ薄暗いっていうのが、なければだが。
もちろん人はいなかった。
ただ、その分よけいに不気味だった。
夜の病棟ってのは経験はないが、おそらくこんな感じなんだろう。
やたらと足音が響いてたよ。
「そこを右です」
ナースセンターの前を通り過ぎる。
実原はどうやら上に向かっているようだった。
エレベーターでなく階段を使って登っていく。
そうしてどれだけか進んだ時、実原は言った。
「ちょっと待ってください」
慌てて、
「でも、こっちを向かないで!」
振り向きそうになったオレはギクリとして、前を向いていた。
ちょうど階段の踊り場にさしかかろうというところだった。
しばらく彼女が黙り込むので、さすがに不安になったが、
「……大丈夫です。……行きましょう」
ひどく声が疲れている気がした。
「実原さん?」
「大丈夫です」
頑なに言う。
さすがに心配になったが、振り向けない以上オレにはなにも出来ない。
「わかったよ」
オレは彼女に従った。
そして階段を上りきり、目にすることになったのは屋上につながっているらしい赤いドアだった。
嫌な予感を覚えて躊躇していると、
「大丈夫です。ただ外に出るだけですから」
オレは覚悟を決めて、ドアのノブを回していた。
途端にそこから入り込んでくる強い風。
オレは目を細めて、光射すその奥に見える風景を確かめる。
「……」
オレの口からこぼれたのは安堵だった。
屋上。
晴れ渡った青い空が見える。
オレは屋上に出ていた。
遅れて実原も出てくる。
その気配を背中に感じていた。
直後。
バタンッ!
凄い勢いでドアが閉じられていた。
オレはハッとして振り返りそうになり、
「はーい、おっけ~! もーいいぜぇ~」
そんな声に、訝しげにしながらもオレはとうとう振り返っていた。
言葉が出てこなかった。
「ナハハハハ。いやー、元気そうでまいっちまうぜぇー。まさかまだ生きてたなんてなー」
そこにいたのは実原であって実原でないものだった。
混じり合っていたんだよ。
小さい実原の身体の半分が、イジューに変容していた。
辛そうにしていたのは、だからだったらしい。
振り向くなと言ったのも。
「伊垣くん、はやくそっちに!」
同じ身体から、今度は本物の実原の声がしていた。
まだ実原の身体である片手の指が、一つの場所をさしていた。
屋上の突き当たり。
そこに強烈に光る長方形のそれがあった。
空間に開けられた穴だ。
出口だった。
「はやく行ってください!」
「バカいうんじゃねぇっての! 逃がすと思ってんのかよ?」
急速に実原の身体をイジューが侵蝕しつつあった。
「実原さんは!?」
オレはまだ彼女である部分を見る。
いまならオレは確実に逃げられる。
けど、彼女は?
その考えがオレの足をとどまらせていた。
「私はもうっ、ダメだからっ! お願い伊垣くん!!」
「ダメって――」
そんなこと言うなよ。
ダメとかってさ。
せっかくまた会えたってのに。
「そうそう、ほーら、すぐにオイラ色に染めちまうしーってか?」
実原の大部分が飲まれていた。
残されているのは顔半分だけだ。
おそらく全て飲まれたら、イジューにその身体の支配権は移ってしまうんだろう。
「伊垣くん!」
オレは実原の声に奥歯を噛んだ。
言い聞かせた。
まだ――
まだ方法はある。
現実に戻れば、きっと。
「お願い!!」
オレは実原に背中を向けた。
絶対に助ける!
そう誓って松葉杖を放り出した。
痛みなんかクソくらえだった。
オレは走り出した。
「あ、クソ! なに逃げてんだよっ! どうなってもいいのか!? このお嬢ちゃん、本気で消えちまうかもだぜっ!?」
動揺した。
けど、オレは振り向かなかった。
冷たいのかもしれない。
けど、今のオレにはなんの力もない。
無力なオレが与えられるのは、ただ残酷な運命だけだ。
そして出口の前でオレはようやく振り向いた。
イジューに変わりきった実原が、こっちに向かって走ってきていた。
「すぐに終わらせる! 絶対だ! 実原! 絶対にお前も助ける!」
オレは現実へと飛び出していた。
オレはかっと目を見開いていた。
頭から、手足の先から、一気に覚醒感がオレを包み込む。
オレは瞬時に行動していた。
イジューが、おそらく意識のない間にオレから奪い取った黒月刃を、上段からオレに向かって振り下ろそうとしていた。
オレはほとんど反射的に両手を持ち上げていた。
刃が黒く閃く。
交差する両手の影。
タイミングが重なっていた。
イジューの歪む顔が見えた。
白羽取り。
オレは無事生還していた。
現実世界に戻ってきていた。
そこはもといた椿家の松林の中だった。




