オレはおちていく。
オレはそのガラスケースに収められていた標本を見上げて、血の気が引くのを感じたよ。
膝から力が抜け、下手をすればそのままへたり込んじまいそうだった。
が、それでも立っていられたのは、そのガラスケースに手を伸ばして触れていたからだ。
「椿の家が……? これを?」
オレは口を押さえた。
吐き気を催していた。
にわかに信じられなかったからだ。
こんなことが許されていいのか?
オレの眼が捕らえたそれは、それほど悲惨なものだった。
「あぁ、そうなんだよ。けど、椿の家はそれをやっていた。ずっと昔からな」
正直、オレの頭の中は混乱したよ。
整理がつかなかった。
けど、ツキグモが全てを説明した。
そう、全てを、だ。
まるでこれまでずっと見てきたかのように、その経緯を。
――――。
「一応ことわっておくが、いま話したのは別にお前に何かをして欲しいと思ってるわけじゃないからな。ただ、あたしはお前に教えておきたかっただけだ。中にはどうしようもねぇ妖魔もいるが、妖魔以上に恐ろしいものもいるってことを」
オレは深刻な顔をしてそれを聞いていた。
なんでそんなことをツキグモが言うのかはわからなかった。
だが、オレはあの時のことをふと思いだしていた。
実原の死を知ったときに、オレがツキグモに聞いたことだ。
『妖魔ってのは、みんなこうなのか? みんなこうやって人を殺すのか?』
ひょっとしたらあの時のことを、ずっと気にしていたのかもしれない。
いや、だが、ツキグモはこうも言っていた。
これがばあちゃんの頼みだと。
これを見せることが、ばあちゃんの頼み?
そもそも、それがわからない。
どうしてツキグモはオレのばあちゃんのことを知っているのか。
なんの関係がある?
疑問が次から次へと沸いていた。
だが、ツキグモはかまわず続けていた。
「それでもわかっちゃいるよ。否定はしねぇさ。イジューもやり過ぎてる。いくら私怨だからっつってもな」
ツキグモは視線をすぐ横へと向けていた。
そこには破壊され、空になった特殊な標本ケースがあった。
他のケースと違うのは、多くの電子制御機器で周囲を固められているうえに、材質がガラスではなくその大半を金属で覆われているってことだ。
いまは内側から爆破されたように中心部に風穴が開いていて、その本来の機能は完全に失われているようだった。
だが、それ以上にオレの目を引くものがそこにはあった。
その標本のプレートだ。
そこにはオレも予想もしなかった文字が躍っていた。
『イジュー』
それが意味することは一つしかない。
信じようが信じまいが、これは――この標本ケースの中にはイジューがいたってことを示していた。
オレは驚きのあまり理解が追いつかず、声すら発せられなくなっていた。
おそらくこれがログの消された理由だった。
イジューがここに囚われていたことを隠蔽しようとしたために。
「さぁて、これで公平になっただろ? 五葉家の理由も、イジューの理由も、どっちの理由も知った。あとはお前がどうするか、だぜ?」
ツキグモはオレをまっすぐ見ていた。
グリーンの光彩を放つその神秘的な目は、オレに期待している目だった。
お前の決断を待つ。
その目は、はっきりとオレにそう告げていた。
「ここからのお前の選択には、大きな作用が生まれる」
ツキグモはゆっくりとオレに言い聞かせるように言った。
「忘れちゃいないだろ? これはお前のばあさんの頼みなんだって言ったことを。お前を導いてくれってあたしらは言われてる。それはお前に力があるからだ。伊那から受け継いだ力がな。それがお前に選び取る力を与え、他者に認めさせる絶対的な根拠となる」
「受け継いだ? ……根拠?」
ツキグモは頷いていた。
「ただし、いまのままじゃちと不完全なんだけどな」
そう言ってツキグモは唐突に爪を尖らせる。
それで何をするかと思えば、鋭く尖ったそれで自分のもう片方の手のひらをスッと撫でていた。
赤い線。
つと滲んだのは血だ。
「お前はコイツを飲む必要がある」
血を?
オレはツキグモを見返した。
「口移しの方がいいならいいぜ? あたしは全然かまわない」
フフンと笑ってちゃかしてくるツキグモ。
オレは思わず想像し、ごくりと生唾を飲み込んでいた。
「ったく、わかりやす過ぎだ。しゃーねー」
「って、待て待て待て!」
オレはまんざらでもなさそうな顔をして、近づいてくるツキグモを精一杯止めていた。
「それ以前に、だ。それに何の意味があるんだよ?」
「意味? そんなもん飲めばわかる」
ホントかよ?
「心配すんなって。大丈夫だよ。妖魔の血だからって飲んでも死にやしねぇよ」
ツキグモの目は嘘をついているようには見えなかった。
「……絶対だな?」
「あたりきよ」
オレは逡巡はしつつも、結局頷いた。
差し向けられていた、ツキグモの手をおずおずと取った。
手のひらに血が溜まっていた。
見た目には人のそれと、ほとんど変わりがないものだった。
深い赤色だ。
ツキグモが頷いていた。
オレは促され、意を決してそれに口を付けた。
「ンッ……」
くすぐったそうにツキグモが微かな声を上げていた。
どこか淫靡だった。
口の中に広がったのは鉄の味だった。
それは少なくともオレが知る、自分の血のそれとほとんど変わりがないものだった。
「これで――いいのか?」
「あぁ」
ツキグモは十分だと言った。
だが、その割にはオレになにか変わったことがあったわけじゃなかった。
なんの意味があったのか。
不安を覚えて、本当にいいんだよな? とツキグモに再び確認しようとして――
その直後だった。
それは突然起きていた。
ドクリッ!
オレの身体の真ん中で何かが一際大きくうねっていた。
――!?
オレはその場で目を見開いていた。
な゛、なんだよこれ!?
身体が――燃える!?
「カハッ」
熱い!
異常な熱さだった。
まるで身体が燃えているかのようにオレは錯覚させられていた。
吐き出す息すら、焼き付くような熱を持っていた。
なにが……起きた?
心臓の鼓動がうるさいと思えるほど、激しく収縮を繰り返していた。
熱い。
熱い!!
顔が、手が、足が! 全身が!
汗が吹き出していた。
滝のような汗だ。
荒く、激しさを増す呼吸。
オレは痛みすら覚えていた。
胸が――
心臓が――
鷲づかみされて、火にでもくべられているかのようにすら感じた。
オレはあまりの痛みに、自分の胸を掻きむしり、そのままバランスを崩して床に転がっていた。
のたうち回っていた。
だが、冷たいはずの床にはなんの温感もなかった。
それどころか自分が床にぶつかっているという感触すらなくなっていた。
全身の感覚がおかしくなっていた。
平衡感覚すらすでにまともじゃなくなっていた。
どっちが上で、どっちが下で、左右の判別もつかない。
オレはいまどんな状態でいるのか。
気付けば、目の前も暗くかすみ始めていた。
意識が離れつつあるのがわかった。
狭まっていく視界の中で、ツキグモらしき影が、上からオレをのぞき込んでいるのがかろうじて認識できた。
「ツ……キ……?」
「……しろ。あとは……血の記憶が教え……目が覚め……時には……」
それ以上は聞き取れなかった。
オレは意識の手綱を手放していた。




