オレはこうして家を出ることになりました。
身に覚えのない懸賞に当たって、家に何かが送られてきてたら、まず間違いなく怪しんでかかるべきだが、これもこれで恐ろしいほどに怪むべきもんだよな。
夜、バイトから帰ったオレに母親が渡してきたそれは、真っ黒な封筒だった。
『伊垣 葉 様』
そう、オレ宛の差出人不明の封筒。
あまりの胡散くささに、まさか時代錯誤にもカミソリでも入ってんじゃないかと、封を開けないまま確かめてみたが、どうやらそれは無いようだった。
「はやく開けなさいよ、葉」
キッチンで水を一杯飲んだあと、それから二階の自分の部屋に行こうとしたオレに、リビングのソファでくつろいでいた姉貴の琴葉が意気なりそんなことを言って来る。
つか、相変わらずなんてラフな格好してやがんだ、コイツ。
黒のタンクトップにパンツ一枚だけって。
オレとは五つ違いの二二歳なんだが、そんなんだから彼氏の一人もいまだに出来ないんだよ。
って、話がそれたな。
なんだって姉貴がそんなことを言って来るのかと、さすがに不審に思ってたら、理由はすぐにわかった。
封筒の中身だ。
この場でオレに開けさせたいらしい。
「へいへい」
オレは渋々封筒を開ける。
中から出てきたのは数枚の書類だった。
寸分のずれもなく、きっちりと折られて入ってるあたり、これをしたためた人物の人柄がよくわかる。
「えーっと、なんだって?」
オレは目を通し、数秒後には相当愉快な顔をしていた。
「……ハ?」
そりゃそうだろ。目が点になったんだ。
オレは何度も何度もそれを読み返してたよ。
まず、それにはこう書かれていた。
『転入許可通知書』
いや、転入って? なんだよそれ?
これってつまりアレだろ? 転校ってことだろ?
つか、そもそもオレそんな申請出してないし。
それ以前に希望もしてないし。
さらにその下には『貴方は我が白羽川高校に正式に迎え入れることに……』なんてことが書かれた堅苦しい文章があって、最後に、やけに達筆というか、おどろおどろしい字でこう添えられていた。
『なお、拒否権は無い』
って、どんな通知だよ!
思わずオレはツッコんでたよ。
「よかったなぁ、葉」
なぜだかニヤニヤしてこっちを見るバカ姉貴。
「そうねぇ。これで家族も安泰ね」
とは、キッチンで家事を終えやってきたニコニコ顔の母親。
いや、これは一体どういう……?
「まったくだな」
と言ったのは風呂から上がって、リビングに戻ってきた強面の親父。
「って、な、なんなんだよ?」
ワケのわからないオレを差し置いて、なんだかすでにこれが予定調和なのだと言わんばかりの視線で、全員がオレを見てくる。
つか、なんだ?
そう寒気にも似た感覚を覚えたその時、オレはようやくそれに気付いた。
さっきリビングに入ったとき、何か違和感は感じていた。その正体がいま、ようやくわかったんだよ。
そもそも家にあんなバカでかい六〇インチのTVなんてあったか?
いや、それによく見りゃ、姉貴が座ってるソファもいつ革張りになった?
それになんだよ? いつから母親はそんな金銀パールのアクセを身につけるようになったんだ?
そこから推測される結論なんて一つしかない。
怒りにワナワナと肩が震えたよ。
「お、おまえらな……」
あぁ、どうやら間違いないらしい。
オレの知らないところでこいつらは、勝手に事を進めてやがったらしい。
オレが転校することを勝手に決めてやがったんだ。
金と引き替えに!!
どうりでさっきから、コイツらのオレを見る目が¥になってるワケだ!
けど、オレが怒鳴り散らそうとするそのタイミングで、
「あ、お兄ちゃん。お帰りー」
と、妹の白葉がリビングに入ってくる。
我が家の良心、白葉。
オレの二つ下の妹で、超がつくほどの美少女だ。
邪心に汚れきった他の奴らとは違う、それこそこの伊垣家唯一の良識人と言ってもいい。
その白葉なら、きっとコイツらとは違う結論を出しているに違いない。
「し、白葉っ」
オレは助けを求めるように白葉を見る。
きっと妹なら、この我欲に染まりきった連中を何とかしてくれる。
その純白の心で邪な者たちを打ちのめしてくれる。
あぁ、そうだ。きっとそうに違いない!
オレはそう信じたよ。そして願ったよ。
で、そうしたら、だ……。
「うん。どうしたの、お兄ちゃん」
そう無垢な視線をオレに向ける白葉。
が、なんだ? その妙に不自然な位置にある手は――
胸に何かを抱くようにしている、その手は――
その手は――なんなんだっ!?
「し、白葉? そ、それだけどさ。な、なーにを持ってるのカナ?」
正直、スッと一瞬目の前が遠くなりかけたよ。
頬の筋肉はおかしくなったかと思ったくらい、ヒクヒクヒクヒク動き出してな。
「あ、これ?」
それはもう満面の笑顔で白葉が抱き上げて見せたのは、どう見てもン十万はする、血統書付きの小型犬。
ワフッ!
しっぽをゆらして、それは可愛らしげにクリクリの目玉を向けて来る。
「し、白葉まで……。お、お兄ちゃんを売った……のか?」
オレはヨロヨロと後ずさり、床に両手両膝をついてたよ。
ま、まさか犬に負けるとは思いもせなんだ……。
「え? 売った? うんん。もらったの」
それは嬉しそうに白葉は微笑み、オレはそれが放つ光で滅ぼされるんじゃないかと思った。
それこそ日の下に出たヴァンパイアみたく。
「え? あれ? お兄ちゃん、大丈夫? 疲れてるの?」
あ……あぁ、大丈夫だ。お兄ちゃんは大丈夫だよ、白葉。
ちょこっと辛いことがあって、もうこの世から消えて無くなりたくなってるだけだからね。アハハハハ……。
「って、ことだから、葉。こっちの準備は万端だからな。気兼ねなく行ってこいや!」
バチンと琴葉に思い切り背中を叩かれて、オレはいま、こんなど田舎に立つ羽目になっている。
白羽川町、下井駅。
一歩駅を出たらそこにはなんにもない。
目の前を細々とした道が通っているだけで、民家も店もほとんどない田舎風景がそこに広がっている。
人の気配すら希薄なだけに、本当にここでやっていけるのかっていう不安を激しく覚えている。
ただ、さらに不安なのはオレの暮らす生活の拠点があるのは、ここじゃあないってことだ。
さらに奥なんだよ。
つまり駅前でこれなんだから、さらに奥へと行けばどうなるか想像できるだろ?
どんだけ田舎に住まいが用意されているかってことが。
一軒家で、月の家賃は五千円だった。
なるほど、そりゃ今思えば納得だ。
家の傾き具合も相当なものそうだが、生活の利便性も激しく悪いってことだろう。
いまさらながら失敗したってオレは思ったよ。
けど、それでも――なんだよな。
それでもオレはここにこなければならなかった理由があったんだよ。
もちろんあんな適当な家族の強引な後押しがあったってのもあるんだが、それ以外にもっと強い理由――そうオレを脅迫するようなそんな強い理由があった。
あの黒い封筒に、だ。
あれに書類と一緒に入っていたものがあったんだよ。
おそらくそれがなければ、オレはここに来ることをいまだに渋ってたはずだ。
で、中に入っていたのは一通の手紙だった。
『魔を穿つ者、因果を解き明かす術を与える』
その言葉の意味自体はなんのこっちゃオレにはさっぱりわからんかったが、その手紙の左下に押された捺印にオレは目が釘付けになった。
二頭の羊の頭が、左右背中合わせになるように描かれた、いわゆる双頭の羊の紋章だったからだ。
それがオレの脳裏に忘れていたはずの記憶を鋭く呼び起こしていた。