名もなき物語
「ねぇ、ママ!あれ買って!」
浅くて長い微睡みからわたしを揺り起こしたのは、小さな男の子のそんな一言だった。
周りを見回すと、ただ真っ白な空間の中で仲間たちが眠っているのがわかる。
彼の声で目覚めたのはわたしだけのようだ。当然だろう。ここにはわたしたちが覚醒するための条件が何一つ揃っていないのだから。
それでもわたしが目覚めてしまったのは、彼の声に力を感じたから。
その瞬間に、わたしは悟ったのだと思う。彼はわたしの運命になる、と。
しょうがないわね、という低い女性の声と共に、わたしは少し高めの体温に抱かれた。
ゆらりゆらりと揺られる中で仲間たちの何人かが声を上げたが、それでもわたしのように起きてしまうことはなかった。
緩やかなテンポで交わされる男の子と女の人の声を聞いていると、忘れかけていた眠気が再びわたしの許を訪れる。
誘われるように少し意識が微睡みだした頃、唐突に視界が開けた。
よく晴れた春の空が目に眩しい。それから、少年の澄んだ瞳。
「まっててね。」
そう言って少年はわたしを漆黒のベッドに丁寧に寝かせ、恵みの雨をくれた。
条件を整えられ、近くに寝かされた仲間たちもどんどん目覚めてゆく。
(まっててね。)
きみのためにわたしは、体の中に蓄えていた力を放出するのだ。
「あ!ねぇママ、見て!」
温かい視線を感じながら、わたしは首をゆっくりと伸ばして顔を上げる。
春の柔らかな日差しが、少年とわたしたちを淡く照らしていた。
いくらわたしたちが丈夫だと言っても、容赦なく吹きつけてくる風の強さには負けそうになる時もある。
特にここ数日はひどくて、仲間たちの何人もが折られ飛ばされていってしまった。
「ちょっと怜!危ないわよ!」
「だって、ママッ……!」
わたしを攫おうと絡みついてくる風に耐えていると、その風にまぎれて少年とその母親の声がした。
意識の片隅で、2人の口論と会話を必死に拾う。
「ママがやるから、怜は中に入ってなさい!」
やがて、そう声がしたかと思うと、母親が杖を持って近づいてくるのが見えた。
彼女はわたしと生き残った仲間たちに杖を持たせて、微笑みながらそっと囁く。
「…負けないで。」
風のせいでうまくいかなかったけれど、わたしも精一杯の微笑みを浮かべて大きく頷いた。
真夏の日差しがじりじりとわたしたちを照らし出す。
汗をかきながら空を見上げると、太陽の輪郭が滲んで見えた。
「行ってきまーす!」
元気な声に視線を下ろすと、すっかり日に焼けた怜くんが外に飛び出してくる所だった。
ぱちり。視線がかち合う。
「……あ!」
怜くんは大きく叫ぶと、わたしの許に駆け寄ってきた。
「ねぇ、ママ!ママ!!ちょっと来て!!」
家の中で洗い物をしていた母親も、わたしの姿を見ると目を見開いて、エプロンで手を拭きながら庭へと下りてくる。
この日のために、親子のこの顔を見るために、わたしは今日まで頑張ってきたのだ。
「わあ。……綺麗ねぇ、怜。」
「うん!大きな花が咲いたね、ママ!」
「ええ。」
「パパにも見せられるかな?」
「今日は無理でも、休みの日に見られるわよ、きっと。」
「そっか!」
目の前で咲いた大輪の笑顔に、わたしも大輪の笑顔を返す。彼が望むなら、彼の父親のいる休日にも大きく花開いてみせよう。
わたしの運命となった少年の後ろ姿を、わたしは大きく手を振って見送った。
お題:向日葵