5
スバル 5
その日は朝からなんとなく浮き足だすような雰囲気に包まれてた。
スバルの祖母も僅かなもち米と小豆で赤飯を炊いて、神棚と仏壇にお供えをしている。
何よりも、遠くからお囃子や太鼓の音が一日中ずっと鳴り響いている。
スバルには何が何やらわからないが、どうやら今日は年に一度の村祭りらしい。
村中の人々は今日だけは仕事や農作業も休み、村の安泰と豊作を祈り、酒を酌み交わし、唄や踊りで村の神さまを祝うのだ。。
スバルは昼近くになり、祖母から持たされた小さな赤飯のおにぎりを持って、伸弥の待つ河原へ急いだ。
持ってきたおにぎりを「ばあちゃんから」と、差し出すと、伸弥は気持ちよく食べてくれた。
祖母なりの精一杯の伸弥へのお礼のつもりだったのだろう。
代わりに伸弥は、五目寿司をつめた折箱をスバルに差し出した。
「うちはお祭りの時はいつもこれなんだ。スバルの分を作ってもらったから、全部食べていいよ」
お礼を言い、折箱のふたを開けた途端、スバルの目に飛び込んできたのは、彩りよく飾られた錦糸卵と桜でんぶ、緑つややかなきぬやさと花弁を形どった人参だった。
「うわ…きれい…」
「気に入った?」
「食べるのがもったいないぐらい…」
「きっとスバルはそう言うと思ったよ。外国ではあまり見かけないと思って、スバルに見せたかったんだ」
伸弥の言葉にスバルは折箱から伸弥の顔に視線を移し、しばし見つめてしまった。その穏やかで優しい笑顔に胸がいっぱいになる。
『どうしてこの人はこんなに親切であたたかいのだろう。僕なんかの為に、どうしてこんなにしてくれるのだろう…』
戸惑うスバルに伸弥は「さあ、遠慮せずに食べなさい。僕も自分の分を持ってきたから一緒に食べよう」と、箸を薦めた。
「うん」
スバルは指でそっと花弁の人参をつまみ、そして陽にかざした。
透かした陽の黄金の輝きは、スバルを見守っている気がした。
「スバル、今夜のお祭りに一緒に行かないかい?」
祖母の為にと半分ほど残した五目寿司の折箱を麻の布にしまいこんでいたスバルは、伸弥の言葉に惹きつけられた。
「お祭り?…夜?」
「そうだよ。ほら、この河原を上がった先に神社が見えるだろ?今日は一日中その境内に人が集まって踊ったり歌ったりするんだけれど、夜ともなるともっと賑わうんだよ。それに屋台も出るんだ」
「や、たい?」
「食べ物やゲームの出店が沢山並ぶし、スバルにもきっと楽しめると思うよ。ね、行こうよ」
「でも、僕…夜は家から出られないよ。暗くなったらすぐ寝なきゃならないんだ。うち電気が使えないから…」
「そうか…じゃあ、こうしないか?寝たふりをして、おばあさんが寝てしまったら、スバルはこっそり家から抜け出して、僕と夏祭りを楽しむ。…どうだい?」
「…」
伸弥の魅力的な提案に、スバルはすっかり取りつかれた。
あのたいくつな長い夜を、伸弥と一緒に過ごせると、思うだけで胸が高鳴る…
隣で寝息を立てる祖母を後目に、こっそりと抜け出し、一心不乱に神社の境内を目指して走る。
石の鳥居の前にはスバルを待って佇む伸弥が見える。
スバルは思わず「伸弥さん!」と、叫ぶ。
伸弥はにっこりと笑い、「スバル、ちゃんと約束を守れたね。さあ、一緒に楽しもう」と、スバルの手を取ってくれるのだ…。
陽が沈む時をこんなに心躍る気持ちで待ったことはない。
辺りがすっかり暗くなると、太鼓や笛の音の音が響くも構わず、いつもと同じように祖母は古い麻の蚊帳に入り、枕だけを置いた畳に寝ころがり、そのまま寝入ってしまった。
スバルは祖母の寝息を確かめ、蚊帳の裾をそっと上げ、土間へ降り、草履を履き、静かに母屋の外へ出た。
いつもは真っ暗な夜の風景が、空を照らす祭りの灯りで、識別できる明るさを保っている。
スバルの足元も、カンテラもないのに、仄かに白く浮かんで見えるのだ。普段なら真っ暗闇の外が怖くてで出たいとも思ったこともないスバルだったが、背の低い木枠の戸を抜けると、神社へ向かって一目散に走りだした。
『一日に二度も伸弥さんに会えるなんて。なんて素晴らしいのだろう。ああ、こんなに幸せな気分になったことは、今まで一度もないくらい…』
スバルが描いたいた通りに、鳥居に近づくと佇むひとりの少年の影が見えた。
スバルは息が切れるもの構わずに、伸弥の胸に飛び込んでいくくらいの勢いで駆け寄った。
伸弥は息を切らすスバルの頭を撫で、「そんなに急がなくてもお祭りはまだ終わらないよ」と、言う。
『そうじゃない。お祭りなんて本当はどうでもいいんだ。僕は伸弥さんの傍にいられることが一番大切なんだから』
頭を撫でられながらスバルは言いたかった言葉を飲み込んだ。
なんだか少しだけ恥ずかしい気がしたのだ。
『男の子の僕が伸弥さんに好きって言うの、おかしいかなあ…』
良く眺めると薄い萌黄の地に瑠璃色の露芝模様の浴衣は伸弥にとても似合っており、スバルは寝間着のままの恰好が恥ずかしくなった。
「ぼ、く…寝間着のままの恰好で来ちゃった」
「いいじゃないか。紺地にツユクサ模様か…女物の浴衣模様だけど、とてもスバルに似合っているよ」
「ほんとう?これお母さんの小さい頃のお古だって…ばあちゃんが仕立てなおしてくれた」
「そう…さっき、スバルがこちらに駆け込んできた時ね、まるで鈴子が生き返ったんじゃないかって…一瞬だけど勘違いしてしまったよ。きっとその着物模様がスバルを女の子に見せたんだろうね」
「…僕、今日は伸弥さんの妹になりたい」
「バカだな。…スバルはスバルだ。鈴子じゃない。僕は君を鈴子の代わりにしたりしないからね」
「…」
伸弥の言葉にスバルは少なからずガッガリした。鈴子の代わりになれば、もっと伸弥に愛してもらえるかもしれないのに…と、思ったのだ。
「さあ、行こうか。人が多いから迷子にならないように手を繋いでいよう。絶対離しちゃだめだよ、スバル」
「う、うん」
妹になれなくても、伸弥の傍にいられるならそれでいい。そして握り合った掌を決して離すまい、とスバルは思わず指に力を入れ、伸弥に笑われるのだった。
石畳を歩き、社殿に参拝したあと、ふたりは並んだ屋台をひとつずつ眺めていった。そのどれもがスバルには目新しく、世の中にこんなにおもしろいものがあるのかと、驚きの連続であった。
なんのことはない。スバルは世界の色々な土地を旅しても、子供が楽しむような場所には行ったことがないだけの話だ。
たこ焼きも杏飴もわたがしも、ヨーヨー掬いも射的もどれもこれもが、夢のように見えるのに手の中にある現実に何度も驚いてしまう。戸惑うスバルに寄り添うように傍らの伸弥は、面倒臭がらずにひとつひとつを丁寧に手を取って教えてくれる。
身体が火照って仕方ないと、よろけるスバルを案じ、屋台からラムネを買い求めた伸弥はスバルの肩を支えて、境内の外へ出た。
「きっと人当りしたんだよ。しばらく涼んだら気分が良くなると思うよ」
「うん…伸弥さん」
「なに?」
「ありがとう。お祭りに誘ってくれて…こんなに優しくしてもらったことないから、僕、なんて言って良いのか…わからないけれど…すごく嬉しくて…嬉しずぎて……夢みたいだ…夢でもいいよ。明日これが夢だってわかったって…僕は幸せなんだもの」
「夢なんかじゃないよ。スバルはこれから色んなことを経験するんだよ。僕と一緒に」
「…伸弥さんと」
「できれば…だけれど。君を仁科家の養子にしたい」
「え?よう、し?」
「本当の僕の弟になって欲しいんだ」
「そ、そんなこと…できるの?」
「父に頼んでみるよ。無理だとしても…スバルがもし承諾してくれるのなら、スバルは今から僕の弟だ」
「ほ、本当?」
「僕が大きくなって経済的にも独り立ちできるようになったら、僕がスバルの家族になって養ってあげるから」
「伸弥さん」
「それまでは僕の傍に居てくれないか?…僕はスバルが好きだよ」
「…」
夢を見ているのではないかとスバルは何度も目を擦った。しかし、目を開けても目の前の伸弥は消えたりはしなかった。
スバルは伸弥の胸に飛び込み、声を上げてうれし泣きをする。伸弥はスバルを抱き寄せ、その背中を撫でた。
伸弥の肩ほどしかないスバルの頭を、伸弥の掌が優しく撫でる。
スバルは顔を上げ、伸弥の顔を覗き込んだ。
伸弥は「スバルは泣き虫だね。でも素直なスバルが大好きだ」と、言い、スバルの額に軽く口唇を当てるのだった。
「人を好きになるとね、その相手のすべてを欲しくなるんだって。それは夢のように心地良く、悪夢のように恐ろしいらしいよ」
「…こわいね…」
「うん、とってもね」
スバルを見つめる伸弥の瞳の輝きは、恐ろしい言葉には似つかわしくないほどに澄んでいる。
「あ、蛍だ」
顔を上げた伸弥は、指先を暗闇に指し示す。その先には揺らめく淡い光の帯。
「時期外れの迷い子なんてめずらしいね。追ってみようか?スバル」
「うん」
ふたりは手を取り合って、闇の中へ消えていった。